牧眞司作成のS-F年表を興味深く見た。日本のSFの起源から書き起こされている。
といっても起源はごく最近で、50年代後半から60年代にかけてぐらい。スプートニク打ち上げ、NASA設立といった宇宙時代の幕開けとともに日本のSF時代は始まったのだ、とわかる。
同時に高度経済成長も始まっている。日本SFの黎明期は、東京タワーの完成、カラーテレビの開始、漫画誌創刊と、メディアのヴィジュアル化ともほぼシンクロしているようだ。
つまりは日本のSFは、SF的なるものの実社会でのリアリティと、それを伝えるヴィジュアル・メディアという裏書きを得て、初めて姿を現したと言えるように思える。
たとえばアメリカには、その前からSF文化が根付いていたわけで、リアリティもヴィジュアル・メディアもない状態でも、人々にはSF的なる「何か」が見えていたということになる。
それは、私たちがSFの定義のように思っている「未来」だったのか。SFを読みながら、人はどのくらい本気でそれが「未来」の姿だとイメージしてきたのか。
SFのもう一つの定義として、「宇宙」というのがある。宇宙人が舞い降りてくる話なら、「現在」でもいいのだ。つまりはアインシュタインの理論みたいに、果てしない宇宙空間というものは、それ自体で時間軸に転換するらしい。
「未来」も「宇宙」も実社会で確認できなくても、その有様が画像で示されなくても、人の頭の中に存在し得る。だけれども、それをずっと存在させ続けるにはエネルギーが要る。動機も必要だ。欧米人にとって、当然のようにあったその動機は、日本人が本来的に持ち合わせないもののようだ。だからこそ日本でSFというものが開闢するに当たっては、リアリティとヴィジュアル・メディアという条件を要した。
欧米人が持ち合わせていて、日本人が持ってないものと言えば、まずキリスト教だ。一神教の神の観念こそが、SFの本来的かつ根本的な理念なのだと言われれば、何となく腑に落ちる。一神教の神は宇宙を支配し、時間軸の果ての未来に君臨する。
SFは文明批判だという定義もある。だとすれば、描かれている「未来」は予言でなく、現在の状況を極端化したものということになる。それを神が肯定していれば、未来はそのように進むということだ。神がお怒りならば、そのような暗い時代に陥る、と。おみくじか占い、あるいは楽しい夢物語としての未来の予言、それがSFになり得るのは、八百万の神のある日本だけかもしれない。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■