〝出来事〟はどうしようもなく、取り返しようもなく起こる。しかし緻密に分析していけば、それは〝偶然〟ではなく〝必然〟だったと考えることができる。だが本当にそうだろうか。〝出来事〟は〝偶然〟も必然〟も超えた決定的衝撃なのではあるまいか――〝「必然」と「偶然」、「此岸」と「彼岸」とが交わるパラドキシカルな時空〟ではないのか。自らの内に原罪を抱え、文学と哲学に救済を求める作家の新評論連載!
by 金魚屋編集部
Ⅱ 「偶然性」の二つの本性について――〝原始偶然〟と〝邂逅(出逢い)〟
九鬼の考察が今日なお、そのかがやきを失わない理由は何だろうか。
それは「偶然性」をめぐる、九鬼の考察のなかでもコア中のコアであり、九鬼哲学全体を流れる通奏低音と言っていい二つの本性を明らかにしたことにある。
「本性」とは、あるものがじっさいに役どころを発揮したり、はたらきをなす上での力の源泉といった意味合いで本稿では用いる。
〝原始偶然〟と〝邂逅(出逢い)〟。この二つは、わたしたちの現実世界のすみずみにまで浸透し、いつ、どこにでも顔を出している。というより、現実世界のありかたを特徴的に示すのがこの二つであると言える。そのことを明らかにし、九鬼が読者に伝えたかった意図を最大限の深度で汲み取ること、ひいては九鬼の文業の意味を位置づけ直すこと。それが本稿の目的である。したがって本稿は「偶然性」の「百科全書」ではなく、あくまでも断面のスケッチにすぎない。樹木学者は、大小にかかわらずどんな種類の木でも、幹の年輪をみるだけでその成り立ちや特徴や性質までひと目でわかるという。およばずながら、そのような断面を切開して見せられたらというのが本稿の狙いである。
ではさっそく、それぞれの「本性」について分け入っていこう。
1.〝原始偶然〟
二つの違った因果系列が出逢うためには、何か共通の必然的原因が仮りにあったとしても、そういう原因を追って無限に遡るならば、遂には、他に原因を有たない自己原因(cAusA suii) というようなものに到達すると考えられるであろう。自己原因とは、他に原因を有たないのであるから、厳密に言えば自己偶然(dAs durch sich selbst ZufAllige)にほかならぬ。また、自己原因のことを絶対的必然性ということもあるが、絶対的必然性とは、自己の存在を規定する必然性を自己の外に有たないものであるから、それは絶対的偶然性にほかならない。すなわち自己偶然である。それが原始偶然である。形而上的偶然としての原始偶然である。いくら偶然を取り除いても、最後に、原始偶然だけは残る。偶然性はすべての必然性を包むものである。包越という言葉があるが、偶然性は必然性を包越するものである。[中略] そして原始偶然が展開したと見るべきものが、与えられたこの現実の世界である。
我々は最後に原始偶然にぶつかって大きく驚くのである。この大きい驚きは遂にどうしても消すことのできないものである。[中略]ともかくも我々は現実の世界が存在するという偶然の事実そのものに驚きを感じないではいられないのである。
(「驚き」一八九―一九一頁、強調原文)
哲学的表現に慣れていない人にはとっつきにくい文章かもしれない。だが、この一文に九鬼の「偶然性」に対する基本的な考え方が凝縮されている。読んで理解できない文章ではないので、少しく註解をこころみよう。
まず「二つの違った因果系列が出逢う」こと、これを九鬼は〝邂逅(出逢い)〟と呼び、そこに「偶然性」の本性をみて取っていたことを強調しておこう。
かれのいう「因果系列」とは、どんな事象も因果という鎖につながれた輪の一つであるという意味での「鎖」を意味するが、鎖は異なる鎖とたまさか交わり、つながっていく。そんなニュアンスが含まれている。サイコロの例をふたたび挙げれば、それを振って「1」の目が出る因果の鎖と「3」が出る因果の鎖とは、とうぜんながら別々の系列でなくてはならない。けれど指先に乗るほど小さな正六面体の各面に「1」から「6」までの六つの自然数が記され、「サイコロ」と呼ばれてゲームや賭けに用いられるそのとき、「二つの違った因果系列が出逢」っている。サイコロ自体は、人間によってたまたま取り決められ作られた人工物でしかない。がそこにも「偶然」が与っている。
勝義の偶然性は二つあるいは二つ以上の因果系列の交叉点に存するもので「ここといま(hic et nunc)」に成立するものである。
(「問題」一四九頁)
と言われる通りである。サイコロは、その機能や役割を知っているというだけでは用をなさない。じっさいに賽が振られ結果を生むことによってはじめて用をなす。ではじっさいに振られる場所と時とはどこか――ほかでもない、「ここといま」である。
しかし九鬼は、こうした複数の因果系列の間にも「何か共通の必然的原因」があると仮定する。サイコロを振って「1」と「3」が出る。それに至る各々の「因果系列」の間に共通の必然的原因があるとしよう。自然数とか基数とか奇数とか、共通する要素はいくつもあるだろう。そのような原因を追い求めてどこまでも遡っていく。するとそれ以上遡れない、もはや他に原因をもたない岩盤に行き着くだろう。それ(Ⅹ)が「自己原因」である。Xは「自己の存在を規定する必然性を自己の外に有たないもの」であるから、「絶対的必然性」と呼ばれる。
論点はここから先にある。一方でそれ(Ⅹ)は、Ⅹでなくてはならない根拠や理由を、それ自身の他にもっていない。他に比べるものがなく、比類がないから「絶対」なのだ。けれど根拠や理由が自らの他にないということは、とうぜんⅩそれ自身が存在理由でなくてはならないはずだから、それは因果の鎖の中にあろうはずがない。ゆえにⅩは「必然」というよりはむしろ「必然」からはみ出したり、それを生み出したりする側にあると言うべきだろう。となるとそれは、「必然」であってないもの、「必然」を包み込むものでもあろう。そのようなヌエ的なありかたをしている「偶然的」な存在を九鬼は〝原始偶然〟と呼んだ。それを「形而上的」というのは、それが実在するものでなく、思念によってしかとらえられない権利上の存在だからである(が、たんなる権利上の存在でないことはおいおい語る)。
こう考えていけば、どんな必然性をおびた存在でも、つきつめていくならその根底には「偶然性」があるということになる。九鬼が次にこう言うのは、そのことを意味している。
偶然性はすべての必然性を包むものである。包越という言葉があるが、偶然性は必然性を包越するものである。
(「驚き」一八九頁)
さらに続いて、
そして原始偶然が展開したと見るべきものが、与えられたこの現実の世界である。
(同)
と述べ、以下「現実の世界」について語りはじめる。思念によってしかとらえられないはずの〝原始偶然〟がなぜ「現実の世界」に「展開」するのか。一見矛盾するようなこの問題に分け入るためには、その前提作業として、〝原始偶然〟という概念をもうすこし掘り下げておく必要があるだろう。
1―⑴〝原始偶然〟としての「ある」と「ない」
偶然性にあって、存在は無に直面している。しかるに、存在を超えて無に行くことが、形を越えて形而上のものに行くことが、形而上学の核心的意味である。形而上学は「真の存在」を問題としているに相違ない。しかし「真の存在」は「非存在」との関係においてのみ原本的に問題を形成するのである。形而上学の問題とする存在は、非存在すなわち無に包まれた存在である。そうして形而上学すなわち勝義における哲学と他の学問との相違もまさにこの点に存している。他の学問は存在もしくは有の断片を、与えられた存在および有の断片として問題とするだけで、無については、また有と無との関係については、何ものをも知ろうとしない。
(「問題」一三—一四頁)
九鬼自身、主題として著作にすることはついになかったが、「偶然性」とともにかれによって書かれてもよかったもうひとつの形而上学、すなわち「無」の形而上学が、かれの中ではつねに念頭にあったと思われる。
偶然性の問題は、無に対する問と離すことができないという意味で、厳密に形而上学の問題である。
(「問題」一四頁)
「無」を論じることが哲学にとって――とりわけかれの哲学にとって――どれほど重要であるかを、九鬼は自覚していた。じっさいかれもその著作のいたるところで言及している。「偶然性にあって、存在は無に直面している」。偶然性と「無」とは切っても切れないかかわりがあるのだ。
ならば「無」とはなにか。
この問いに答えるには、「無」では「ない」ものについて問う必要がある。
「ある」とはなにかという、古くて新しい問いである。
この世界が「ある」。私やあなたが「ある」。二等辺三角形が「ある」。昨夜起きた出来事の記憶が「ある」。
森羅万象、ことごとく「ある」に包摂される。
「ある」というそのことと、森羅万象とは分けて考えなくてはならない。「ある」はそれ以上包摂される何ものも持たない。つまりその外部は「ない」。かたや森羅万象とは「ある」の内包そのものだからである。内包であるということは、森羅万象のいずれをとってみても、そうでないことができたということだ。である以上、それらはみな「偶然」のたまものである。この人間社会がM星人の社会にそっくりなり代わっても、たまさかそいつらの社会があるだけのことで、世界という枠組み自体には何ら変わりはないだろう。つまり「ある」ことに変わりはないだろう。
これに対して「ある」それ自体は、「そうでないこともできた」とは言えない。「そうでないこと」が何で「ある」かはもはや考えることさえできないからである。世界という枠組み自体が何か別の枠組みに変わったとしても、変わったことを知りうる者はいない。その変化が何であるかを理解し、語りうるような立場には誰も立てないからである。なぜならそのような立場とは、端的な「無」だからである。「無」の立場などは「ない」。「ない」ものが「ある」ことだけはできない。ひるがえして言えば「ある」は、そのような最終底を意味する。
ところがこの、最終底としての「ある」の立場から言えることがひとつだけある。「ない」こともできたということだ。「そうでないこともできた」ではない。「ない」こともできた、である。この違いは決定的である。

「ある」に可能性という概念をあてはめうるとしたら、それが「ない」という可能性、この一点にしか求めえない。
どんなものごとも、ひょっとして「それが起こらなかったら」という仮想(これを反実仮想という)が可能である。「ない」こともできた。にもかかわらず、「ない」可能性をさしおいて、げんにいま、こうして「ある」。これはおどろくべきことだ。
ただ、このおどろきには二つの種類がある。
一つは、もろもろの可能性(a、b、c……)の中からたまたまaがげんに「ある」ようになったというおどろきである。こちらのおどろきは、当のaひとりだけがおぼえることのできる「なぜかじぶんが選ばれた、現実になった(だからラッキーだ、運命の女神の微笑みだ)」という種類のおどろきである。
もう一つはそうではなく、「なぜまったくなにもないのではなくて、なにかがあるのか」という哲学者ライプニッツのよく知られた問いがもつのと同じおどろきである。この問いは、特定のものごとではなく、「ある」というそのことへのおどろきの表明である。「ない」の裏返しならぬ「表返し」で表現された「ある」は、「ある」以外の何ものでもありえないという意味での絶対性と、他に原因や根拠をもたないという自律性を同時に示している。おどろきの核心はここにある。
偶然性とは存在にあって非存在との不離の内的関係が目撃されているときに成立するものである。有と無との接触面に介在する極限的存在である。有が無に根ざしている状態、無が有を侵している形象である。
(「問題」一三頁)
九鬼が語っているのは、そのような意味である。また、こうも言っている。
何々……があるということ、それ自身が、驚きに値いする偶然である。「がある」ことのほかに「がない」ことも考え得るから、「がある」ことは必然性を有っていない。それは偶然である。形而上的偶然である。
(「驚き」一八七~一八八頁)
ここで九鬼が「がある」と言っていることは、さっき述べた「おどろき」の最初の例、つまり森羅万象のどれか(N)を意味するようにみえる。だとすると、Nにはそれ「がある」に至る何らかの原因や理由がなくてはならないだろう。その意味で、Nには必然性があるというべきではないのか。しかし一方、N「がない」ことも「考え得」るのだ。「有が無に根ざしている状態」からみれば、Nにどんな原因や理由があっても、それはより根源的には「偶然性」のたまものにほかならない。そう九鬼は考えるのである。「ある」というそのこと自体には、もとよりどんな原因も理由もありはしない。存在理由(レゾン・デートル)などというものは端からないのだ。
わたしたちは「ある」という大海の中を好き勝手に泳ぎ回っているように思うかもしれないが、お釈迦様の掌の上の孫悟空さながら、どこまで行こうと一歩もその外へ出ることなどできない。すべては「~がある」という掌に包まれる。そして「ある」というそのこと自体は、ただ「ある」。それだけだ。
ただ「ある」としか言いようがない具体的事例をひとつ挙げておこう。
九鬼は、とくにこれという目的もなく、何ら積極的に自らの存在を主張しない「偶然性」の一例として「眼が見えること」を挙げている。
眼が見えるのは偶然に現在のように組織され、現在のような場所に置かれているからである。そこには何等の目的というべきものは無い。
(「諸相」一四二頁)。
よくよく考えてみれば「眼が見える」などとは、まるでオカルトとしか思えない、信じがたい事実である。ひとはなぜ自らの眼の存在を知ることができるのだろう。なぜって、他人の眼や鏡や写真に映ったじぶん自身の姿から、げんに見えるこのものが眼によって見られていると結論することは、論理的に不可能ではないか。このことは先んじてすでに、L・ウィトゲンシュタインという天才哲学者が「視野における何ものとて、それが眼によって見られているとは推論されえない。(「論考 五・六三三」、強調原文)」* と言っているとおりだ。
いや、それどころか眼なんぞそもそも存在しないと言いたい。見出された眼は、世界の中に無数にある眼のひとつ、たとえば物理的に存在するあの眼やこの眼でしかない。たとえ世の中に天才的な人物があらわれて「じつは世界はこの眼によって、ひいてはわたしたちの眼によって見られているのだ」と、あたかもプラトンの語る洞窟の囚人の一人が「おお! おれたちが見ているものはじつはまぼろしにすぎなかったのだ」と気づくよりはるかにすぐれた洞察によって結論できたとしても、この主張は揺るがない。かれが発見したのは眼ではない、あくまでも「眼が見える」ということの意味と用法にすぎない。これがウィトゲンシュタインの洞察であった。
かたや眼とげんに「見える」こと、そして他人の誰しもがそれぞれの眼から「見える」(らしい)こと、これら三つの事象の間には何の論理的なかかわりもないということは、明白な事実だろう。眼や脳や神経ネットワークの構造がどれほど仔細に解明されようとも、それは「見える」ということの説明にはならない。第一どうやって説明するのか。どう説明しようと、それは生体のメカニズムだとか何だとかいう、この世界の中のさまざまな描写の一つにしかならないではないか。そうじゃなくて〈これ〉なんだよと言いたくても、当の〈これ〉を指し示すことはできない。じっさい〈これ〉って何なのだ? じぶんの眼をいくら指したって、それはただの「眼」ではないか!
この場合の眼、すなわち〈これ〉を、ウィトゲンシュタインは物理的な眼と区別して「幾何学的な眼(GeometricAl Eyes)」と呼んだ。わたしたちの常識にいかに反しようと、「幾何学的な眼」と「物理的な眼」との間にはどんな客観的な関係、たとえば物理的因果性をも見出しえない。なぜならある特定の「物理的な眼」を、「見える」ことと結び付ける権能は、げんに見える側にしかないからだ。
これに対して、
「瞼を閉じれば何も見えないし、開ければ見える。緑内障になれば、視野狭窄になる。これを客観的関係と言わずして、何を客観的というのかね」
と反論するひとがきっといるだろう。けれど「見える」ことが眼の延長線上にないのは明白ではないか。それが瞳の開閉や脳の特定の神経細胞の状態と紐付けられたとしよう。いつも瞳を開けば見える。その最中の脳を高精細なスキャンで見ると、視神経が作動している様子が観察できる。たかだかそれだけのことではないか。それと「見える」ことの間に因果性があるようにみえることこそが謎であって、そこには飛躍がある。
獲物となる食物を見つけ、狩るために進化した機能だって? もしそれが生物学的目的だとしても、「見える」ことがなくたってその目的を満たす手段は、自然界には他にいくらでもあるだろう。
百歩譲って「物理的な眼」が「見える」ことの必要条件だとしよう。しかし十分条件であるとは結論できない。両者にはそれによってそれぞれの本質が規定されるようなどんな関係もないのだ。さらに言えば、後者にはそれによって規定されるような本質がそもそもないのだ。げんに「見える」という、このこと自体にはどんな理由も根拠もありはしない。九鬼が〝原始偶然〟と呼んだのはこのことだ。
ことは「眼」に限らず「聴く」「嗅ぐ」「味わう」「触れる」等々、物理的基盤をもつと考えられる他の感覚についてもあてはまるだろう。物理的基盤が存在しないと思われる感覚、たとえば空想や幻覚のような感覚についても同様だろう。幻覚は物理的な基盤という裏付けがあってはじめて幻覚か「ほんとうの」視覚かが判断できるのではないか、という反論はとうぜんあろう。その区別を否定しているのではない。そうではなく、幻覚であれ「ほんとうの」視覚であれ、それが「見える」という厳然たる事実は否定できないと言っているだけだ。
そう、「事実」なのである。この事例で言いたかったことは、ただそれ自体によってしか示しようがないものがこの世界にはあるという、ひとつの形而上学的事実なのだ。そして、これこそが「ある」の本性に根ざしていると言いたいのである。すべてのものごとの関係性――日本人はこれを昔から「縁」と書いて「えん、えにし、ゆかり、よすが」等々と呼びならわしてきた――は、みなその上に生じる。だが肝心の「ある」それ自体はいっさいの縁の「外」に、つまりものごとの関係性の「外」にある。
この考えは一種のニヒリズムとも言えるだろう。しかし「偶然性」の根底に〝原始偶然〟としての「ある」を見出し、その裏に「無」を見て取ったのは九鬼の洞察というほかない。わたしたちにとってのあらゆる意味や根拠を骨抜きにし、無—化してしまう「偶然」の本性は「ない」こと、まったき「無」に根ざしている。これが九鬼の主張だった。次に、身近な事例をいくつか挙げよう。
* Ludwig Wittgenstein, TrActAtus Logico-Philosophicus (English Edition, including GermAn originAl), Independently published (2022)
1―⑵〈無—化〉作用
サッカーの練習をしていたら、井筒さんの蹴ったボールが鈴木さんの顔に当たってしまった。鈴木さんは鼻血を出してうずくまった。井筒さんは鈴木さんに駆け寄って言う。「孝ちゃんごめん。いまのはわざとやったんじゃないよ。たまたまなんだ」
「ごめん」という謝罪のことばはいいとして、「わざとやったんじゃない」「たまたま」という井筒さんの二つの釈明は、何を意味するのだろう。井筒さんの行為がもたらした現実の結果は、このごろ伸び盛りで生意気盛りの鈴木さんに一発喰らわせてやろうか、という井筒さんの故意によるものではないことを主張している。「わざとやったんじゃない」という一つ目の釈明はそういう主旨である。
二つ目の「たまたま」は、故意でないと主張するなら、では何が原因でこうなったのか、という疑問への釈明である。釈明としては意を尽くせていないだろう。井筒さんが言いたいのは、ボールを蹴ったのはじぶんだから、結果責任はじぶんにあると思って謝罪した、でも鈴木さんに当たったのは蹴ったボールが意図と異なる方向に逸れてしまったからだから、情状酌量してくれ、ということである。ではそう言わずに、「たまたま」とひと言で済ませたのはどうしてだろう。このことばには、どのような意味もしくは効果があるのだろうか。
ほかでもない。意味そのものを一語で打ち消してしまう効果である。「たまたまなんだ」と言われた方は、それ以上文句を付けてもしかたないか、という気になる。せいぜい「気ィつけろよ」と返すくらいしかない。たとえ「たまたま」では済まないような、たとえば人身事故になってしまったとしても、「過失」の範囲でその罪状と責任は軽減されるだろう。「たまたま」という副詞的用法には、井筒さんのふるまいのもつ意味それ自体を中和化し、骨抜きにし、〈無—化〉してしまう効果があるのだ。
「偶然」のもつこうしたはたらきを、わたしたちの社会システム、広く一般的に言えば「人為」の中へ積極的に取り込んだ好例が、〝くじ〟である。冒頭に挙げた宝くじの例に限らない。投機でも博打でもいい、一夜にして大金が転がり込むといった、金銭が絡む行為は人間の営みの中でもとりわけ生臭く、とかく妬みや恨みといった負の感情を招きやすい。だから、ひとの行為自体を中和化するようなクッションの役割、「マネーロンダリング」ならぬ「ヒトロンダリング」が必要不可欠になる。〝くじ〟に当たった者はとうぜん「いいなあ」と羨望の的になりはするが、当たったこと自体に対する不平は誰からも出ない。〝くじ〟の参加者にとって、一枚一回しか参加できない者と百枚買って百回参加できる者との購買力による確率の差はあるとしても、当たる当たらないという選ばれ方それ自体は、イカサマでない限り誰にも公平に与えられるとみなが承知しているからである。とどのつまり「運」と「ツキ」の問題つまり、「偶然性」の問題というわけだ。
未来の不確定性に対してわたしたちの抱く不安感や不透明感、それゆえに先行きを知りたくなる欲求を利用して、一種の占いゲームに仕立てた実例もある。〝おみくじ〟である。とりわけ日本人はこうした趣向を好む傾向にある。〝くじ〟とは、「運」や「ツキ」という、人間の欲望を煽り立て膨らませながら同時に解毒するはたらきを(どんな結果であれたまたま運が悪かっただけだ、というように)、自らのシステムへ巧みに組み入れた画期的な発明と言える。それはわたしたち「人為」による、どんな恣意的な意味付けをも超えているからだ。ちなみに人間の欲望を煽り立てたまま中毒にしてしまうシステムが〝ギャンブル〟である。わけてもパチンコという日本が世界に誇るシステムは特筆に値するが、筆者の品性に疑念がもたれる結果となる前に話を止めておいたほうがよさそうだ。
選挙制度の中に〝くじ〟を採り入れたケースもある。古代ギリシアを代表するポリスとして知られ、直接民主制を世界ではじめて確立した国家とされるアテネでは一時期、執政官以下の公職者は将軍職を除き抽籤で選出されたという。日本でも、投票同数の場合の当選者の決定や代表者指名といった局面で用いられた実例がある。
昨今は「くじ引き民主主義」ということが言われるようにもなった。卑近な話では、マンションの理事長やPTA会長やクラス委員といった、たいてい進んでやりたがる者がおらず、さりとて単純に持ち回りというわけにもいかない場合など、選出方法に〝くじ〟を採用するケースは枚挙にいとまない。
ヒト・モノ・カネといわれるが、金銭と同様、利害に絡むモメ事や諍いをとかく招きやすい人事においては、人為と恣意性の介入は避けられない。その偏りを排することで、成員全員を積極的には賛同させないまでも、最終的に首肯せざるをえない手段として〝くじ〟はうってつけである。なぜならそのしくみは、先に述べたように人間の現時点の能力では因果性を詳らかにできないため、この点バリアフリーの真逆で、誰にとってもブラックボックスであるという意味での公平性を期しうるからである。
げんみつに言えば、これを「疑似偶然性」と言うべきかもしれないが、疑似であれホンモノであれ、ここでわたしたちが「偶然性」を恃みにする理由と目的は、当該のすべての成員にすくなからぬ利害の対立が生じ、解決困難がともなうおそれのある事案において、結果をみちびくプロセスの公平性・平等性を担保しつつ「あと腐れ」を残さないことにある。もちろん選出方法に〝くじ〟を用いるための合意をあらかじめ得なくてはならないという問題と、イカサマを防止する方法といった前提条件にかかわる問題はあるにしても。
「偶然性」はこのように積極的に人間世界のシステムに取り込まれ、人びとにルールとして強制力を持たせることができる。しかも強いられた側はことほどさように「させられ感」を抱かない。そのわけは「偶然性」のもつ中和化作用、〈無—化〉作用に根ざしている。わたしたちが「偶然性」を自らの内部へ取り込まずにおれないのは、それが人間社会のあらゆる価値(判断)の「外」にひかえているからである。
サッカーボールを当ててしまった「ぼく」の話に戻るが、先ほどの釈明とは逆に、「きみとぼくがこんなきっかけで出逢えたのも何かの縁だ」などと友だちになる方向付けもありうるだろう。ケガの功名である。「これは運命の出逢いだ」「袖振り合うも他生の縁」等々、ものごとに意味を与え、ストーリー化する方向付けである。この場合は「偶然性」の濃度を適度に下げることによって相対的に決定論的な要素、つまり「必然性」の濃度を上げようというわけだ。ひとがそのように「偶然性」を薄めることによってものごとの意味を確保するときも、逆に「故意にやったんじゃないんだよ」と意図性を打ち消すことによって、行為から意味を引き剥がし、無—化するときも、折々に「偶然性」が与っていることに変わりはない。
このように「偶然」とは、次の二つの作用、
⒜ それ自身、いかなる意味も根拠ももたず、いっさいの価値の「縁の外」にあること。
⒝ このため、いかなる意味も根拠もリセットし、「無—化」すること。
を意識せずとも利用し、たしかに伝え継いで来た、古のことばのひとつなのである。それが可能なのは、「偶然」がもとよりわたしたちのありとあらゆる関係性の網をするりとすり抜けて、わたしたちにいつでもリセットをうながすからだ。
萩野篤人
(第03回)
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*『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』は24日にアップされます。
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