だいぶ早く着いてしまったので
羽田空港の展望デッキから
離発着する飛行機をぼんやり眺めて時間を潰した
冬で青空で
白い雲が少しだけ浮かんでいた
轟音を発して
信じられないほど巨大なジェット機が飛び立ってゆく
朝の光に煌めいて浮きあがり
またたくまに小さくなってゆく飛行機は美しい
これもひとつの旅の始まりなのだから
海の底のような青空から
旅の幕開けを告げるコロスの歌が聞こえてくる
「動物は次のごとく分けられる
皇帝に属するもの
香の匂いを発するもの
乳呑み豚
人魚
お話に出てくるもの
放し飼いの犬
この分類自体に含まれるもの」
ボルヘスの『シナのある百科事典』の一節が
心地よい旋律に乗って 風に乗って
僕の右耳に打ち寄せる
偽書の歌はなぜ心を浮き立たせるのだろう
いつまでも聞いていたいのだろう
「然り 人の死は幻影なり
されど我が息子の死は超幻影なり」
ロラン・バルトの『チベットの死者の書』
あれも素敵な偽書だった
「詩は短い表現なんだから
必要なこと
とっても大事なことを書かなきゃ
ダメじゃない」
耳元で君が囁く
ありがとう
膝をついてこれからも僕を導きたまえ
とは祈らないけど
じゃあ必要なこと とても大事なことって
いったいなんだろう
「遊びに来てよ」
「多分 行かないと思うけどね」
しばらく軽口を叩き合って
ニューヨークに帰ってしまう友人を見送った
でもまたアメリカに行くかもしれない
ヨーロッパの単調な街並みに飽き飽きしたら
アジアの街の混沌にうんざりしたら
道路も建物も東京より巨大で
東京よりも遙かに殺伐としたアメリカのメガシティへ
最後に海外に行ったのは二年前で
ロンドンのキングクロス駅から列車に乗ってヨークへ行った
昔は馬車が通っていた狭い路地
中世の街並みとお城
観光地らしい魔法の館
早朝からレンタカーでヨークシャー海岸に向かった
日本と同じ右ハンドルで左側通行だけど
初めての道は緊張する
だけど街を抜けるとどこまで行っても同じ景色
まだらに生えた樹木
水平線まで続く緑の平原
同じような形の低い建物
めったに車とすれ違わない
あまりにも単調なので道路がどんどん複雑になる
何度も迷子になりながら海岸線に辿り着いた
スカボローからロビン・フズ・ベイに回り
ウイットビーの海岸に降りて
暗くなるまでアンモナイトの化石を探した
それが旅の目的だった
「化石好きだったなんて知らなかったわよ」
いつの間にか助手席に身体を沈めた君が言う
そうじゃない
石に刻まれた始源を自分の手で探したかっただけ
自分で見つけて触れたかっただけ
混沌は形を生み出す
混沌の形に触れたい
さらに 深く
羽田空港から湾岸線を走って横浜に向かった
朝から快晴
ずっと青空
永田耕衣師は九十七歲の長寿で亡くなった
「梅花父母九句」を書き残して生を閉じた
父恋が 母恋なりき 梅白し
梅花咲き出したというて泣きにけり
或る日父母が 居ないと思う 梅花かな
九十七歲の老人が
半世紀前に亡くなった父母を偲んで泣いていた
「あなたの始源だって同じことよ」
窓から東京湾を見ながら君が言う
僕はずっと死について考えている
すべてが徒労で無駄に思えるから
透明のガラスの箱に閉じ込められ
爪でガラスを引っ掻いているから
どうしてもガラスが割れないから
だけど本当に死が迫ってきたとき
死は僕から遠ざかってゆくだろう
「恋人に右足だけのスニーカーをあげた
終わりのない話をして眠らせてあげたの
愛し合っているのにあなたが誰か知らない
黄金の麦畑の中で祈る美しい女の人を見た
生きた骨のないお魚とニワトリがいたら素敵ね
女たちはレシピと料理の話をしてキッチンで
ロウソクみたいに明るく燃えて立っている
だからみんなそこに帰ってゆくのよ」
そう歌って君は僕を慰めてくれる
横浜に着いたのは昼過ぎで
港北インターで降りて
仕事場のある羽沢から一番近いスーパーに行った
川和町のベルクフォルテのデリカテッセンは充実している
クロワッサンやグリーンサラダ
中華料理やローストビーフもある
照明のせいかもしれないがどれもおいしそうに見える
世の中にこんなに美しく豪勢な食べものがあることが
奇蹟のように思われてくる
幸せとは
溢れるほど食べるものがあることなんじゃなかろうか
表面が艶々に光るクロワッサンを見ていると
「ボクのママはどこ?」
突然見知らぬ五歲くらいの男の子に話しかけられた
真っ直ぐ僕の目を見上げて立っていた
うろたえながら「探しに行こうか」
そう答えてしまい
男の子の手を引いて広い店内を歩いた
通路が見渡せる店の端を歩いた
「あ、いた」
僕の手を離すと
いちもくさんに駆けていった
買い物カートを押すママの腰にしがみついた
若い母親は心配した様子もなく
商品が並ぶ棚を見ながら
無造作に男の子の頭を撫でた
僕の長く短い旅が終わった
ほんの少しだけ惣菜を買い
古ぼけた団地の五階にある
仕事部屋に一人で帰った
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