「筒井康隆自作を語る」の連載が開始。「日本SFの幼年期を語ろう」とサブタイトル。筒井康隆がSF作家だと考えている人は、今はあまりいないだろう。では何かと問われれば、「作家」。そしていわゆる純文学雑誌でしか見ない作家が「純文学作家」。これが現在の感覚だ。昔はこれが逆転していて、純文学雑誌に書くような作家こそが「作家」。それで筒井康隆氏などは 「SF作家」だったのだ。

 

 ただそれは「筒井康隆というあり方」が、すなわち「日本のSFの幼年期」を規定したということにもなって、興味深い。日本におけるSFとは、戦後文学の状況から切れている、もしくは相対化している、という意味において思考実験的であり、SF=サイエンス・フィクションであったということだ。そして筒井康隆が今、戦後文学以降の「作家」として読まれ得るのはもちろんその「相対化」の姿勢からだろう。

 

 あらゆるものが相対化される現在ではある、と思う。戦後文学をSF的な立場で相対化する、というのはむしろ純文学作家が試みようとした時期もあって、それはことごとく失敗したようだが、当然ではある。相対化は視点によって成されるのであり、書法だけを変えても結局、何も変わらない。

 

 そして相対化されるべきはSFそのものでもある、だからその根源 = 幼年期を問う必要も出てきて、少なくとも日本においてはその「根底は不在」であると確認される。そのことがSFというものを相対化するわけだ。SFは今、その発祥の地においても、「根底」としての存在理由が信じ込まれてはいるまい。

 

 すなわちSFとは文明批判である、との定義は、文明が進化するものというテーゼを相対化するものと言い換えることができて、つまりは近代=モダンの相対化である。そう考えるとSFというものは本質的にポストモダンを内包している、ということだ。モダンの夢に浸っているような、脳天気なスペースオペラでさえも。

 

 特集でもある、アジア系SFというのは、だからわりかし面白いのかもしれない。一見すると単なるご当地もののようだし、ローカルにおけるカスタマイズの奇妙さ、たとえばキリスト教が仏教化した、みたいなところを楽しむしかないようでもあるが。それもキリスト教を解体したら、なにやら仏教めいてきた、というのなら単なるローカライズとは言えず、何かの本質を示唆する。

 

 それが場末のキワ物で終わるか、ジャンルの本質を突く大どんでん返しを演じるかは、紙一重であり、またひとえに作家の力量にかかっている。力量とはこれまた単に生まれつきの才能ではなくて、そのジャンルの本質に対して作家がどれだけ意識的か、ということだ。どれだけ意識的になり得るか、ということがすなわち生まれつきの才能だ、と言ってしまえば、それもその通りだが。

 

 翻訳・掲載されている「折りたたみ北京」というのはタイトルからして魅惑的だが、読後にもなお我々が考えるべきことは、それが「折りたたみロンドン」や「折りたたみニューヨーク」ではなぜ成り立たないのか、ということだ。(「折りたたみサンフランシスコ」はちょっとイケる気がする。)「折りたたみ東京」もありそうだな、と東京にいても思うのである。

水野翼

 

 

 

 

■ 筒井康隆さんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■