カルチャー文芸誌の定義は、このカテゴリに分類した雑誌名を見ればなんとなくわかるだろう。Papyrus、GINGER L。、小説TRIPPER、yom yom、J-novel、en-taxi、Feel Love、ジャーロ、ファウスト、メフィスト、エソラ、Story Power、きらら、Meiである。そのほとんどがアルファベットかカタカナで、文学臭がする誌名を付けている雑誌は一つもない。既存の文芸誌との差別化を狙ったネーミングだと言っていい。

 ではカルチャー文芸誌は、既存文芸誌と何が違うのだろうか。日本の小説は純文学と大衆文学に大別されるが、カルチャー文芸誌は大局的に言えば大衆文学系である。しかし大衆文学誌は『オール讀物』や『小説現代』、『小説宝石』などすでに複数刊行されている。これら既存大衆文芸誌との違いは、カルチャー文芸誌が、重くて深刻な文学のイメージから自らを解き放とうとしたことにある。大衆文学ですら重いと感じる感性が背景にある。実際、カルチャー文芸誌ではラノベはもちろん、マンガやアニメなどのサブカルチャーを取り上げることが多い。小説やエセーに芸能人を起用することもしばしばである。

 さて、こういったカルチャー文芸誌の編集方針は成功しているのだろうか。答えはノーである。文学金魚では2012年から断続的にカルチャー文芸誌の時評を行ってきたが、続々と言っていいほど廃刊が相次いでいる。カルチャー文芸誌ブームは、どうやら2010から約10年ほどのプチブームで終わりそうである。理由はとても単純だ。従来の〝大文字の文学〟からの差別化が、結局はできなかったのである。

 下世話な話をすれば、カルチャー文芸誌は雑誌を売って儲けるために公案された新形態文芸誌である。〝軽さ〟をウリにしたのは雑誌編集部の目論みだが、それが上手く機能していない。これも下世話な話でしかも極端な例だが、単に雑誌を売りたいなら安定した売れっ子作家に書いてもらえばいい。オール村上春樹や月刊江國香織は売れるだろう。しかし売れっ子作家は既存文芸誌が抱えて離してくれない。だから〝編集方針〟が必要になるわけだが、それが中途半端なのだ。

 カルチャー文芸誌で最も独自性を発揮していたのは幻冬舎のpapyrus(パピルス)くらいだったが、この雑誌も2016年8月に休刊している。出版の世界では、銀行からの借り入れ審査が厳しくなることもあってか、廃刊を休刊と言う慣習があるようだ。毎月1,000万円の売上で赤字が300万円だったとしても、月々の売上自体が消えるので当然のことだ。雑誌は取次を通じて全国書店に撒くわけだが、返本率30パーセントを超えると完全な危険水域である。そうなるとまず刷り部数(書店に撒く冊数)を減らすわけだが、それは悪循環の始まりである。読者の目につかなくなるのでさらに売上が落ち、ついには廃刊となる。

 papyrusには文学を、音楽や芸能、写真と同等のエンタメ表現として捉えるという大きな特徴があった。それは潔いよいほどだった。しかしはっきり方針の定まっていたpapyrusですら廃刊となったことは、カルチャー文芸誌にとっては大きなショックだろう。ほかのほとんどのカルチャー文芸誌はpapyrusほどにも編集方針が定まっていなかったからである。いくら軽く装っても、昔ながらの文学臭がしてしまっていた。それは当然のことである。雑誌が新たな編集方針を掲げても、それに付いてきてくれる作家は少数だ。ほとんどの作家は自分は〝大文字の文学の作家〟だと思っている。

 また大多数のカルチャー文芸誌の誌面は当初はそれなりに斬新だったが、次第に既存の文壇を向くようになっていった。〝大文字の文学〟から解き放たれようという編集方針は、当初は読者を意識してのものだったはずである。もっと軽く楽しめる小説を読みたいという層が増えているという判断が、カルチャー文芸誌創刊の動機だったと言っていい。しかし現実の誌面は、じょじょに文壇序列に沿うものになっていった。ビッグネームかもしれないが、もはや読者の支持を得られていない純文学作家や、昔の大物作家が巻頭を占めるようになった。新たな作家の発掘もうまくいかなかった。

 ただ廃刊が相次いでいるとはいえ、カルチャー文芸誌の編集方針が間違っていたとは思えない。日本には戦前から戦後にかけて文士がいたようだが、古き良きサンボリズムのヴォワイヤンじゃあるまいし、今も文士を気取るような小説家は滑稽を通り越して愚劣だろう。詩人らしい雰囲気を漂わせ、詩人らしい物言いをして、詩らしい詩を書く詩人もまた現代ではエセ文学者である。常人離れした知性と感性を持つ文学者のイメージの神話時代は完全に終わり、今は既存の型を壊して新たな文学者像を生み出す時期だ。プロの文学者に必要とされる能力の質が変わり始めている。カルチャー文芸誌はそれを明らかにするための一つの試みだったと思う。

 この文学者に求められる新たな能力は、従来の文学と比較すれば〝軽さ〟として表れるはずである。現代では決定的な中心概念が存在しない。作家はある思想に固着すればするほど、現代から取り残されてゆく。必要なのは中心のない世界を俯瞰できる能力である。現代社会は網の目状に絡まり合った無限の布のような世界がズルリと動くように変化する。それを相対化できる能力とは高み、つまり軽さのイメージをまとう。

 なお廃刊したカルチャー文芸誌の中には、Webマガジンに移行しますと逃げを打つ雑誌もある。しかし難しいと思う。紙メディアとWebマガジンは質的に大きく異なる。Webで紙メディアと同じことをやろうとするのは絶対矛盾だ。またWebの特性を考えて作られているメディアに比肩できるはずもない。紙メディアには紙メディアの良さがある。ポストカルチャー文芸誌が創刊されるのを心待ちにしている。

 

 

■papyrus(パピルス 幻冬舎 隔月刊)とは■

 papyrusは果たして文芸誌なのだろうか。そういう疑問をよい意味であたえる。つまり、文芸誌とは何か、という意味で。

 その表紙に写っているのは、広義のアーチストである。ミュージシャンや映画監督が多い。いわば「見られること」や「見せること」に慣れた人たちである。

 そのインタビューのほか、エッセイなどを書いているのも、いわゆる芸能人が多い。そういったことについて、当然、批判も聞かれる。

 ここで不思議に思うのは、ではなぜこれが文芸誌なのだろうということだ。一見して総合誌であるかのようなたたずまいとラインナップである。文芸誌のコーナーに置かれ続ける理由は明確とは言えない。

 だがpapyrusに掲載されたまとまった小説群は、総合誌やファッション誌によくある連載小説とは違う様子をしている。「ちょっと文化の薫りを添えてみました」というレベルを超える数があり、確信犯的なのだ。

 そして確信犯が信じているものは、文芸を特権化せず、ほかのエンタテイメントとまったく同列に置く価値観であると思える。

 だから、いわゆる伝統ある文芸誌がサブカルチャー寄りになったときの悪ふざけ感や、はしゃいだ感じとは無縁である。ごく当然のこととしている顔つきだ。

 また芸能人などを利用して単に本を売っていこうとするきわもの、という一部の批判も、少しずれているように感じられる。そういった批判に該当する業者の、開き直りや罪悪感とも無縁だからだ。

 ただ明確な意志としてあるのは、誌面に並んだ小説は、きっちりとした「商品」なのだ、ということだ。

 文学的な権威とか、精神的なもやもやといったものは、たしかにそれよりも怪しげなものだろう。そのような「雰囲気」で人を煙に巻く方が、詐欺的ではないか。

 papyrusが文芸誌のコーナーに置かれているのは、ただpapyrusが活字媒体だからかもしれない。それはとても清潔なことだし、文芸誌とはいったい何なのか、と考えさせる。

 金魚屋プレスがpapyrusに期待することは、この姿勢をさらに徹底し、よりアグレッシブに文学の虚飾を引き剥がしてもらいたい、ということである。

 「文学のアトモスフィア」という言い方で、文学の脱構築を論じることが、それより高級ということもないだろう。

 

 

■GINGER L。とは(ジンジャーエール 幻冬舎 季刊)■

 papyrusと同じ、幻冬舎から刊行されている雑誌だからだろう。papyrus同様、文芸誌の定義を変えてしまうような視点を含んでいる。

 papyrusが総合誌のテリトリーを文芸に拡げ、文芸をエンタテイメントの一ジャンルとして扱っているとすれば、GINGER L.は文字通り、GINGERというファッション誌を文芸にまで拡張したものである。

 では、ここでは文学はファッションの一ジャンルとして扱われているのか。確かに、そうとも言える。だがGINGERという誌名に、L.(=文学)をわざわざ別に付加し、GINGER L.としているからには、それは「特別なファッション」に違いあるまい。

 その特別性はしかし、たとえわずかでも文学の特権性を認めているためではないようである。

 ファッション誌において文芸に特別枠を与え、あるいは文芸用に別のファッション誌を創刊するというのも、あくまで「消費者」のニーズを考慮してのことと感じられる。ファッションやグルメを楽しむ女性たちは、それらと同様に、そして男性たち以上に、小説=ストーリーを享受する。

 そして出版物にとって、ファッションやグルメはその情報を売るしかないものだが、小説=ストーリーは商品それ自体を売ることができる。

 したがってGINGER L.の刊行は、資本主義の基本に立ち返るものでもあるだろう。少なくともファッションの「情報」を集めた雑誌に「おまけ」を付加することで、半物販のかたちをとるというガラパゴス的な商態よりは健全なものとして映る。

 GINGER L.に陳列された文芸作品は、papyrusのもの以上に「商品」としての自覚を有している。ネットでサンプル販売されているものを消費すれば=読めばわかる。

 それら「商品」には、また多くの商品がちりばめられている。さまざまなマテリアルに囲まれた豊かなバックグラウンドを前提とした物語群。アメリカ文学に親しんだ者ならごく見なれた、典型的なモダニズムの匂いを放つ作品たちだ。

 では、GINGER L.は伝統的なアメリカン・モダニズム文芸誌の系譜に属するのか。そうは思わない。

 GINGER L.は、文芸作品を商品化すると同時に、資本主義の象徴であるファッション誌を、逆に文学の方向に脱構築するというポストモダン的な運動をしているようだ。

 金魚屋プレスが GINGER L.に期待することは、この運動の振れ幅をより大きく、ダイナミックにすることだ。

 それは危険をともなう可能性があるが。GINGER L.の姉妹誌で、生粋のファッション誌であるGINGERが基盤とするモダニズム的な夢も、またGINGER L.の著者や読者の一部も、いまだ基盤としているだろう文学的アトモスフィアも、壊すかもしれない。

 だが、時代はそれを試すようにと迫っている。

 

 

■小説TRIPPER(トリッパー 週刊朝日別冊 朝日新聞 季刊)とは■

 朝日新聞社は、明治時代の文豪、夏目漱石が東京帝国大学を退職して籍をおいた歴史ある新聞社だという。

 新聞というメディアが従来の役割を終え、多かれ少なかれ姿を変えようとしている今、そのことを思い出すのは感慨深い。夏目漱石と言えば、日本文学の基盤を作り直さなくてはならない現在、しばしば振り返りの対象となる存在だからだ。基盤を掘り起こせば、最初に工事をした偉人の苦労がしのばれるというものだ。

 新聞はしかし毎日、刊行はされている。そして、それを受け取る側の感じる重みが変化する以前から、朝日新聞は他の新聞と特に違っているわけではなかっただろう。朝日新聞の文化欄が他紙より少し権威的である、ということはあったとしても、紙面をめくるたびに文学の根源的なものが匂う、ということはなかったはずだ。

 トリッパーは一見、朝日新聞社の広報を兼ねた、文化的メセナのようにも見える。あるいは、やや落ち着いたエンタテイメント誌の版元を見たら、たまたま新聞社であったとか、新聞社がさまざまな単行本を発行してゆく窓口なり、口実なりとみる読者もあるかもしれない。

 つまりは朝日新聞の文化欄を補完しているという以外には、今ひとつ発行目的がつかみ辛い、あまり目立たない雑誌という印象がある。

 だが、よく目を凝らすと、トリッパーには何か底辺に流れる「思想」があると感じられる。それは「時代意識」とでも呼ぶべきものだ。作品点数としても時代物が多いのだが、いわゆる大衆時代小説誌とも違う。

 トリッパーは現代的なテーマに対しても、それが歴史の大きな流れの中に点在しているのだという意識を持っているように思われる。あるいは個々の事象を歴史の中で咀嚼し、消化しようとする意志というべきか。

 この歴史を、継承される我々全体の知性そのものと置き換えて考えれば、このような「時代意識」は「教育への意志」に近い。

 金魚屋プレスがトリッパーに期待することは、古い響きを持つ「温故知新」「啓蒙」といったことが、現代においてどう実現できるか見せてもらいたい、ということだ。押し付けがましくなく、さりげなく認識を深めさせるトリッパーの姿勢は好ましいもが、それが「思想」だと打ち出すことで、「教育」効果が劇的に高まる瞬間もあるかもしれない。

 教育的な言葉を吐く機会といえば、新人賞に関する場合だろう。トリッパーの新人賞は、その名も朝日時代小説大賞というが、それがなぜ時代小説として書かれなくてはならないのか、何が認識され、何を学ぶのかが問われることだろう。

 

 

■yom yomとは(ヨムヨム 新潮社 年五回発行)■

 文庫本の雑誌、という定義づけである。文庫本を完成形として、それに至るまでのジャーナルということだろう。では、なぜ文庫本なのか。

 新潮社は、社会性を意識した出版社だ。そのターゲットとして、いわゆる「女子供」を相手にしないといったカルチャーを持っていたという。

 しかし実用目的を離れて本を読むのは女性が多い。そして本を読まねばならない立場にあるのは、まず子供である。どのような硬派の出版社でも、女子供は相手にしない、と言っていられないはずだ。

 その状況で、ただ軟化して女性に近づく、という戦法をとらず、あえて文庫本に特化した販促ツールとしてyomyomはある。それはなかなかよい着眼点だと思える。

 女性はものの小ささ、軽さということに敏感だ。車でも食器でも、ひと回り小さいということは、女性にとっては意味を持つ。実際、男性にとっては無視してよいようなわずかな差異が、女性にはひどく堪えるのだ。雑誌yomyom自体も軽い紙を使い、持ち運びやすくしているという。硬派な新潮社が、女性にとっての「重さ」の切実さに気づいたのは素晴らしい。

 かわいらしいパンダのロゴを使い、内容も女性向けの読み切り中心である。ということは、中学入試などの頻出図書となり、子供向けにベストセラーになる可能性もある、ということになろう。

 そういったものをどんなに、文字通り「軽く」みようとも、日本の国風はそもそも女文字から発生し、その中心は女の文化にあるという特異なものだ。「軽くする」とは本質に迫る、ということでもある。軽くしてみれば、そのことは誰もがわかる。

 より現代的に言えば、モバイル化ということに他ならない。スマホは若い女性に、iPad は女性と子供、年寄りにアピールする。デスクで長い時間、パソコンに向き合えるだけの時間と立場を有している男たちには、最初は理解できない商品だったという。

 金魚屋プレスがyomyomに期待することは、「女子供向けの読み切りを主体とした、文庫本販促ツール」という新潮社の都合による存在であることから、日本の文化の根底を窺うような、同時に現在の情報文化の先端を規定するような存在に発展してもらいたい、ということである。

 中小出版社である新潮社が、かつて「大新潮」と呼ばれるカルチャーを確立したのは、大きな視点から時代や社会を捉えようとする気宇によってだろうと思う。その新潮社ならば、たとえ自社の都合で付き合いだした女子供の文化であったとしても、そういったかたちで養い、育てることができるのではあるまいか。

 

 

■J-novelとは(ジェイ・ノベル 実業之日本社 月刊)■

 雑誌にはそれぞれ、カルチャーがある。そのカルチャーに集う人々は、他とも重なり合っているが、ひとつの「国」を形作っている。カルチャーの色合いは、その「国」のトップの考え方によって決まる。それは編集部であったり、あるいは社主であったりする。文芸誌という雑誌カルチャーを中心に考えるとき、書き手はあくまで「駒」でしかない。

 J-novelについては、トップのカラーも、カルチャーも見えにくい。エンタテイメント文芸というものを、「実業」のひとつとして捉えている、ということだろうか。しかし小説の読者というものは、たとえエンタテイメントに対してであっても、何らかの「中心」を求めるものだ。読書する行為はやはり、どこか精神的であるからだ。

 どんなエンタテイメント商品を並べたところで、こういった路線、カルチャーの中心らしきものがまったく見えない雑誌は続かないはずだろう。出し続けていくことの意義を、出す側が見失うのは時間の問題、と通常は考えられる。

 J-novelはしかし、そのような中心を担うことの重さを、するりとかわしている。その身軽さで、かえって刊行もまた身軽に続いているように見える。カルチャーの中心を、本来は雑誌にとって「駒」に過ぎない書き手、作品に投げてしまっているようだ。

 そのことはだが、作家にとっても読者にとっても、存外によいことではないだろうか。文学作品の持つ力のポテンシャルに比べたら、編集部が固持しようとする自身のカルチャーのあり方など薄っぺらな戦略にすぎない。文芸誌であればなおのこと、力のある作品のないところに、所詮はどんな戦略も成り立たないのだ。

 たまたまヒット作であったことからだろうか、「鯉ヶ窪学園」という場を舞台としたライト・ノベル風のミステリが、ひとつのカルチャーを作っている。誌上で連載、シリーズ化され、映像化されるという過程を経て、作家と登場人物たち、ファンたちがサイト、フェイスブックに集い、実在の学園であるかのような細部までもが形成されている。

 このような作品カルチャーの形成は、もちろん雑誌にとっても好ましいには違いないが、J-novelはそれを自身の存在と並列のかたちで放置し、あまり積極的にプッシュしたり、乗ったりする様相を見せない。そしてそのことは、自然発生的な作品カルチャーにとって、自由なよい環境だと感じられる。

 そのようなJ-novelに対して、金魚屋プレスは何も期待しない方が、むしろよいのかもしれない。しかしながら、「鯉ヶ窪学園」カルチャーは、フェイスブックなどのツールによって、これまでのヒット作とファンクラブの関係をさらに現代的に推し進めている。

 このような形態に、むしろ雑誌の側が啓蒙され、教育されて接近してゆく、ということはあり得る。それは無論、雑誌形態の保存にとっては危機でもあるが、J-novelはそういった自己保存本能がよい意味で弱く、劇的変化への抵抗も少ないのではないか、と期待する。

 

 

■en-taxiとは(エンタクシー 扶桑社 3回刊)■

 en-taxiの目次で奇妙なのは、同じ人の名前が複数の見出しにあらわれることだ。一般には、それは「駒」のない同人誌のように見えるもので、雑誌編集ではまず避けるべきである。が、そのしばしば登場する福田和也、それと坪内祐三およびリリー・フランキーの三人が責任編集という地位にあるのだとわかり、どうやら納得した。

 「責任編集」という言葉も、あらためて考えると、やや不可思議なものではある。その立場の人物は、実質的な編集の実務はしていないと思しき場合がほとんどだ。つまり責任編集とは、編集の成果物に対して責任(感?)を表明するだけの立場ということになる。いっさい編集業務をしない編集長のようなもの、ととらえればよいだろうか。

 仕事をしないとしても、編集長は必要だ。その理念のもとに「編集」されたものだ、という意味での「責任」を前面に打ち出すなら、その編集長は名前の通った、理念の明確な人物、物書きなどが望ましい。そういった意味での「責任編集」ということか。

 それならば、理念を持った編集長=責任編集が複数人いる、ということはどういうことか。少なくとも彼らにおいて、編集理念は共通のものを掲げていなくてはなるまい。en-taxiの理念がどういうもので、責任編集に就いている各人がどのような経緯でそれを共有するに至ったか、それが現在、誌面にどう実現されているのか、といったことは残念ながら、あまりはっきりとは読みとれない。

 しかしその曖昧さのゆえに、現在、当たり前のようになっている記名記事の執筆と編集業務との切り分け、著者と編集者との棲み分けについて、考えさせるきっかけとなり得る。金魚屋プレスにとって、それは非常に興味深いことである。

 en-taxiについては、過去に二つの話題が取り沙汰された。ひとつは2年に渡って連載されていたリリー・フランキーの『東京タワー』という小説の単行本が、大ヒットしたことである。責任編集の一員が自らの雑誌で連載していたものが、というのはふと、明治期の夏目漱石『我が輩は猫である』のヒットを連想させる。懐かしい意味での同人誌的な、よい意味でのお手盛り、もしくはマッチポンプな感じ(?)が、文学は所詮そういうものだし、それでいいのだとも思わせる。文芸誌は雑誌編集者にとってはアイデンティティのよりどころかもしれないが、文学と文学者にとっては環境であり、それ以上のものではない。

 もうひとつの話題は、かつてen-taxiがある劇団を特集したのをきっかけに、四人目の責任編集であった柳美里がその座を降りた経緯である。演劇人である柳美里に対して、彼女が評価しない劇団の特集を組むことを報せていなかった、というのは解せない。が、それを「報せ」る立場の者とは、いったい誰だったのか。その特集を組むという企画については、誰が「責任」を取ったのか。その件について彼女とやりとりしたり、引き留めたりした「責任編集」はいたのか。

 外部から眺めるかぎりen-taxiは扶桑社編集部の刊行物であり、ただ「責任編集」と呼ばれる特別な立場の著者が数人いて、企画や人選に関与する場合がある、ということに過ぎないのかもしれない。ただ、創刊企画から関わっている福田和也の大学での教え子たちが執筆者としてやたら数多く名を連ねているという、古くて新しい大学同人雑誌的な風景は、やっぱりちょっと面白い。

 

 

■Feel Loveとは(フィール・ラブ 祥伝社 季刊刊)■

 恋愛小説誌であるという。が、ロマンチックな雰囲気は思ったより希薄である。祥伝社は一ツ橋グループと呼ばれる小学館系の出版社で、従来からノウハウ本や若向けファッション情報誌などで手堅く部数を上げる。手堅い刊行物のひとつとして、漫画雑誌がある。Feel Loveはその文字版といった位置づけのようである。

 恋愛小説の本質とはすなわち、理想化した相手に対する自我の葛藤である。つまり恋愛とは「鈍化された」=「なまくら」な宗教のようなもので、観念を突き詰める代わりに手頃な偶像を措定するものだ。日本において色恋は昔からあっても、いわゆる「恋愛」概念が入ってきたのは明治期、キリスト教をロマンチシズムとして捉える風潮で確立された。

 Feel Loveにロマンチックな雰囲気が欠けているのは、このような緩い観念性を、恋愛概念に対して認めていないことの現れだろう。もっとも祥伝社の漫画雑誌には当然のことながら、ロマンチシズムで少女たちを虜にしようとする戦略がある。観念性がなくとも、漫画にはロマンチシズムを醸す条件が整っているからだ。つまりは絵=ヴィジョンである。ヴィジュアルな偶像があるかぎり、「なまくら」な観念性は自動的に生まれる。その強度が試されるのは、それを文字化するときだけである。

 漫画によって十全に醸し出されているロマンチシズムな恋愛をなぜ、わざわざ文字化するのか。出版社にとっては、漫画の別バージョン展開という以上の意味はあるまい。文字表現された恋愛には必須であるところの、「なまくら」な観念性を欠いた恋愛小説にはロマンチシズムがなく、その結果「現実的な」恋愛小説専門誌ができている。

 漫画雑誌から専門文芸誌へと恋愛が「翻訳」される過程で、何かが欠落していったことはおそらく編集部でも把握しているだろう。Feel Loveでそれを埋めている「現実性」とは、ときに結婚後の風景であったり、人生全体に対する考察であったりする。文字文化は漫画よりも内省的なものであるから、恋愛の狂気じみた、非現実性を希求する状態とは反対方向にある、という解釈だろう。

 それはそれで非常に興味深い光景だ、と思える。確かに映像が満ちあふれている現在、読者の想像力に委ね、多少なりとも観念的な偶像をイメージしつつ活字を読み進めてもらう、ということに勝算はないかもしれない。

 もちろん一般には、わざわざ「文字化された恋愛」を出してゆく意味は、そこにむしろ映像の方がすり寄ってゆくような、最低限の観念性を備えたものを提示するためでもある。よい映画・ドラマの原作は、映像には備わっていない、文学にしかない観念・思想を有するものだからだ。

 しかし、金魚屋プレスがFeel Loveに期待することは、そういった観念性やロマンチシズムを欠落させた恋愛の光景をもっと露骨に、これでもかと見せつけてもらいたい、ということである。

 それによってむしろ、明治期以前の日本文化本来の「色恋」のあり様が、より現実的な姿で現れてくるかもしれない。そしてそのような「色恋」を捉えようとする映像もまたは、少女たちを騙すような大ヒット作にはならないにせよ、もっとも良質の日本映画に接近するかもしれないのだ。

 

 

■ジャーロとは(光文社 季刊)■

 本格ミステリ、という言葉が今ひとつ腑に落ちないでいた。それも自身の不徳の致すところで、欧米にそれに該当する語がないというのも理由だろうと思っていた。が、よくわからないのは皆同じ、と言う。

 本格ミステリの指す内容は、ようは謎とその解に集約されるような作品、ということだ。小説である以上は登場人物の魅力、異空間としての場面作りといった要素も含まれていようが、それが著者の内面の吐露のためではなく、あくまで謎とその解の設定のため、必要最小限にまで削ぎ落とされているのを理想型とする。

 問題なのは、そういったタイプの小説を日本においてなぜ「本格ミステリ」と呼ぶのか、ということだ。上記の定義からすれば、むしろ謎解きのエッセンスだけに集約されたという意味で、「本質」と呼ぶのが相応しいと思われる。「本格」とはどこか肩肘張った、ある種の権威を示すかのような言葉だ。

 さらに「ミステリ」という言葉が選ばれる理由もまた、不透明だ。日本でのいわゆる本格ミステリと呼ばれるものは、欧米で言うところのパズル(=パズル・ストーリー) である。「ミステリ」は、「パズル」という単純な謎なぞの概念に対し、神秘的な、つまりその謎に向かう人間の心理を前提として深い意味を匂わせる。このことから「本格」という語は謎なぞ(=パズル・ストーリー)と解だけを指すのではなく、それに神秘を感じる人間心理をも含んでいると考えられる。

 謎なぞとはいえ、たいていは人の生き死にに関わるストーリーについて、単純に「パズル」と呼ぶことを潔しとしないのは、日本人の美徳なのだろうか。そして日本語で書かれた作品には、日本において定義されるところの「本格ミステリ」は存在するかもしれないが、真底からシャープな「パズル」は見あたらない。それは日本語が膠着言語であるからというより、パズルという概念に精神的な価値を見出さないからだと思われる。

 欧米人はパズルそれ自体に、ある種の超越的なものを見る。数学であり、論理であり、ならばその行き着く先は「我思うゆえに」存在する強烈な自我であり、「神」の観念である。パズルはキリスト教に保証された真理への手続きだ。ミスチック(=神秘的)な何かを付け加えたり、さらにそれを「本格」化する必要を感じることはない。

 ミステリ専門誌であるジャーロは、中でも本格と呼ばれるカテゴリーを重視しているように見受けられる。もちろん読者には好みはあっても、カテゴリーによってその価値を決めることはないだろう。金魚屋プレスがジャーロに期待することは、キリスト教圏ではない日本において「カスタマイズされたパズル」=「本格ミステリ」が書かれる文化的な意義をも明らかにしてゆくことだ。一見、無益に思われるような地道な考察は、日本文学固有のジャンルである本格ミステリの厚みを増し、より質の高いものを産み出すに違いあるまい。

 

 

■ファウストとは(講談社 不定期刊)■

 文芸誌とは何か。その問いに答える雑誌の一つの極を占める。

 文学作品の佳作を、その書かれている現在を感じさせながら提示するというのが、文芸誌の最も原初的・基本的形態である。特集主義と呼ばれるものは、そこから一歩踏み出している。読者は特集の意図を通し、作品を集める裏方であるはずの編集部の問題認識を明示的に読まされるという意味で、文芸誌の進化型といえる。

 ファウストは大出版社である講談社の一雑誌であり、同社の記念事業の一環として社内公募された企画によって発行されたという。講談社の面白いところは、大出版社ゆえにすべての雑誌をマス化するのでなく、大出版社ゆえに雑誌形態のすべての可能性を網羅しようとするところだろう。ファウストという雑誌企画はある種、異常である。企画者である社員ただ一人の独断ですべてを推し進めるなら、すでに「編集部」ですらない。

 日本の文化は仏教的な調和のバランスによって成り立っているが、日本社会の特徴は、ある一つの方向に物事が傾くと極端なまでにそれが進み、バランスを崩していることに誰も気づかない、あるいは気づいても誰もそれを言い出せない、というところにあると思える。

 文学活動には「書くこと」「まとめること」「物理的な本にすること」「読者に届けること」の四局面がある。書き手と読者の間に介在していたのは印刷屋と本屋であって、彼らはこの四局面のうちの「本にすること」と「読者に届けること」の便宜をはかる業者であった。「書くこと」や「まとめる(編集)こと」は本来、書き手の仕事であり、本の内容の評価を決めるのは読者であった。

 「まとめる(編集)こと」という、一局面を専門に請け負いはじめた業者(出版編集者)は、数をこなしてその専門性を強調することで、書き手と読者の領域を少しずつ犯し、自己肥大化してきた。創作者は作品の発表決定権を、組織の一社員に過ぎない出版編集者に譲り渡し、自身はその組織の外注ライターとして記名を許されることだけがアイデンティティとなった。また読者は自らの判断能力を、出版編集者の組織が打ち出す広告文に委ねた。

 このような「編集部」にとって本当の意味では、作者も読者も不要のものだ。彼らの判断に添う外注ライターの志望者の群れからいくらでも「作家」を作り出すことができ、自分たちの創作物である「雑誌」の登場人物として採用できる。またやがて、そのような「編集部」に共感する者の群れだけを「読者」と見なすようになる。利権を拡げた者は増長し、歯止めが利かずバランスを失ってゆくのはごく日本的風景だ。書き手も読者も存在が薄れる中で、ただ「編集部」だけが「雑誌創作者」としてあろうとする。

 たった一人の編集部という特異な形態をとるファウストは、この異様な日本的風景を非常にわかりやすく示してくれる。金魚屋プレスがファウストに期待することは、出版不況と呼ばれる実態をよりラディカルに暴いてもらいたい、ということだ。それはすでに不況というものではなく、出版編集者と自称する者の周囲から知的な生物が絶滅しつつある。

 

 

■メフィストとは(講談社 3回刊)■

 日本の文芸誌とは何なのか、あらためて考える縁となる。欧米にもいわゆる文芸誌はあるが、日本の文芸誌カルチャーはかなり特異なものと言えよう。どのような点がそうなのか、少し整理してみたい。

 日本ではまず、あらゆるものにおいて手本となるものが一つできると、すべてが追随するのみならず、それを中心として上から下まで制度化される。文壇・文芸の世界では書き手は文芸誌の新人賞に応募し、何度かの落選を重ねて最終審査に残り、この時点で編集部が接触することも多いようだ。そういったことを経ての受賞の後、当該の文芸誌への作品掲載、しかし単行本化についてはさらに先の話でケース・バイ・ケースとなるという。

 欧米においては、日本で言うところの文芸誌とは第一に雑誌なのであり、その主体となる記事が小説作品であるという、ごく当たり前の形態のものに過ぎない。日本の文芸誌もそれには違いないが、どこか微妙に異なり、特殊な風景を見せている。何よりも特殊なのは、それが特殊だということが気づかれにくい、ということだ。

 日本で数多く出されている文芸誌は、読者の多さや文学・文芸の興隆を表しているのではなく、細かくシェアを分割し合い、何事かを隙間なく覆い尽くしていることを示している。そして覆い尽くしているからこそ、その特殊性が気づかれにくいのだ。

 構造的にはそれは、日本のビジネスにおける系列とか、官主導で民間の取引を指導してゆくという、世界に例を見ない民間活力吸い上げシステムにも似ている。一般には気づかれにくい仕組みを暴くには、長い時間をかけた啓蒙が必要だ。しかしさまざまな抵抗に会いながらも、それが少しずつ壊れかけている今、書き手の個性やエネルギーを吸い上げる制度もまた、機能不全が目立つようになるのは当然かもしれない。

 日本社会における民間活力吸い上げシステムの弊害は言うまでもなく、利権介入によるコスト高にある。日本文学における制度的な吸い上げシステムの弊害とは、その制度を担う文芸誌の要請に従わされることによって、書き手の個性やエネルギーがいつの間にか「減衰」させられることである。だがそのカルチャーの中で「上手くなった」という評価を受ければ、書き手も読者も、さらに編集者も気づきにくく、認めづらくもある。それでも当該の雑誌のフォーマットに嵌め込むことで、売れない小説が一本増えるだけという結果は誰にとっても空しすぎる。

 メフィストは、枚数制限なしノンジャンルで、従来の持ち込みを賞にアレンジしたようなメフィスト賞で知られ、なかなかエネルギッシュな作家を輩出しているという。しかしそもそも「賞」とは、書き手があり、最初の読み手がいて、その延長線上に読者がいるというプリミティブな形を制度化し、その頂点に「注目」という一種の利権を集約しようという仕組みだったはずだ。

 それを半ば否定しつつ、なお「賞」であろうとする、この日本的心性はそれ自体たいへん興味深い。金魚屋プレスはメフィストに、この複雑怪奇な日本の心をさらに不可思議きわまる形で提示してくれることを期待する。

 

 

■エソラとは(esora 講談社 不定期刊)■

 ムック形態の雑誌は珍しくはない。ムックの特徴が、内容の特徴とあいまっているものが多くないだけである。

 流通や販売上の利点や都合は置くとして、ムックはムック本という呼び方もあり、「本」を作っているという意識に近づけるものだろう。

 それは制作する側にとっては喜ばしいものなのか。編集者の中には、関わっている雑誌のことを「本」と呼びたがる人がいて、紛らわしいと聞いたことがあるが。

 雑誌は刊行する端から次々に流れてゆくもので、つまりはその「流れ」を作っているのだ、と考えるのが最も妥当なのだろう。最終的には書籍となるべき小説作品を分断することでしか「流れ」を作れないとしたら、文芸誌は確かに苦しいものとなる。小説作品自体、続きが待ち遠しいようなものが並んでいる、というならまた別だろうが。

 それに加えて文芸ジャーナリズムを盛り上げ、その中で読むべきものとして、特定の作品にスポットを当ててゆくやり方は有効だった。問題は、そのようなジャーナリズムを担ってくれる批評家の枯渇だ。状況に目配りし、全体を統括するパラダイムを打ち立て、その上に作品一つ一つを位置づけるという仕事をするだけの力量のある者が、出版業界界隈にいまやいないと言う。

 文学者は基本的には、自分のことで精一杯な存在なのだ。ただ余力がある時期、またそのような余力のある文学者を集められる状況が生じれば、文芸ジャーナリズムが成立する可能性はある。

 現在のように難しい時代には、猫も杓子も雑誌さえ出せばジャーナリズムが成立するということはない。余力のある文学者を見出す特段のルートを持つなり、雑誌の形態を考え直すなり、根本的なところから作り上げなくてはならない。

 エソラはほとんどが読み切り、また漫画雑誌でもあるという形態のムックである。ジャンルを横断しながら「書籍」に近づこうとするところに、この「雑誌」の試行はある。つまりは「絵空事」という夢が一冊の書物であれば理想だ、ということだろう。それ自体が「夢」なら、特定のタイトルを持った書籍である必要はない。書籍以前、という意味では、まだ雑誌でもある。ジャンルも混交した「雑」でもあるし、夢のように不定期に立ち現われてくるのだ。

 既成の作家たちを使い、そんな「夢」がどこまで達成されたかはともかく、その夢を理想として発行形態が選択されている、という意味において、エソラは得がたい文芸誌である。日々、更新されることでジャーナルを作り出し、コンテンツを蓄積することでひとつの夢そのものであろうとする文學金魚を有する金魚屋プレスは、エソラの絵空事を現実化し続ける、その発行形態そのものに期待する。

 

 

■Story Powerとは(新潮社 不定期刊)■

 不定期の文芸誌が増えている。

 そもそも印刷コストの低下で、文芸誌自体が増えている。およそ文学と縁のなさそうな出版社からも自称文芸誌が出版されている。それは一種の広告ツールに過ぎず、その出版社の特徴を表していることが多い。出版社の文学に対する考え方を示している、といった高邁なものでなく、その会社の体質そのものが現れてしまっているのだ。いわば「文芸誌」というタイトルで、法人格の「私小説」を自費出版しているようなものだ。

 それはそれで興味深い。そこに書かされている作家たちが、そんなこととは無関係に、自分自身だけの小さな世界を一生懸命に展開しようとしているのも興味深い。訊けば、それが自分の仕事だからと応えるだろう。編集者が作家たちを舐めるようにもなるはずだ。

 一方で文学の老舗と呼ばれるべき出版社からも、新しい文芸誌が不定期で刊行されることが増えている。従来からある文芸誌の別冊と称されていることが多い。どこがどう別冊なのかはわからず、単なる口実であることは明白なのだが。

 こういった新文芸誌が、大出版というべき会社から出される場合は、大会社に特有の社内事情から、というケースがほとんどだろう。最もよくあるのは、社内の人員のだぶつきである。

 人間の集団には一定の法則があり、どんなに選りすぐりを集めても下の10%~20%は、いわゆる「使えない」グループになるという。かといって、まだまだ保守的な日本の雇用制度の中で馘首にすることもできない以上、他の部署に影響を与えない形で、彼らの職能と勤務時間を適度に吸収する企画を作り出す必要がある。トータルでは最初から赤字とわかっている雑誌企画であっても、その赤字とは主に彼らの給与であり、どのみち圧縮できない。ならば自分たちの食いぶちをできるかぎり補填させるという意義はある。

 もっとも本当の大会社なら、内部留保金との兼ね合いで、社内公募などの新企画で社内を盛り上げよう、ということもある。こちらは利益のだぶつきを消費するための、社員向けの福利厚生に近い。

 だが新潮社という老舗ではあるが、会社規模としては中堅どころの出版社が、異なるタイトルの文芸誌を次々と出さざるを得ないのは、こういった優雅な事情からではないだろう。

 ようするに単行本が売れない。作家の名前一本で本を出しても、その作家のファンとして買ってくれる数がすでに見えている。そんな作家たちを一抱えして、どう売り上げを立てるか。それは出版そのものにおける真摯な問いではある。

 雑誌ならば、それも多少は目新しさのあるタイトルで新創刊に近い号ならば、不特定が手にする可能性という出版の「夢」がまだ見られる。金魚屋プレスがStory Powerに期待することは、このように泥縄かつ自転車操業的、リアルでパワフルな出版ストーリーを、もっと切実なかたちで目の当たりにさせてくれることである。

 

 

■きららとは(小学館 月刊)■

 きららは唯一、表紙絵に対するこだわりに特徴が見られる文芸誌である。ここしばらくは中村佑介のイラストであるが、面白いのはそれについての編集部のコメントである。

 「五月といえば、端午の節句。鯉のぼりを飾り、兜を被った子犬のドッグフードには、かしわ餅!?ピンクのスカートでポーズを決めるおさげ髪の女の子は、まるで咲き誇った牡丹の花のような可愛らしさです。早速、彼女宛てのラブレターをハチが届けにやってきました。」といったように、イラスト画の細部にわたり、こと細かに説明するのだ。

 この傾向はノスタルジックな雰囲気の少女が、季節に合わせた意匠(仮装?)をこらして登場する中村佑介のイラストを得て、特に強まったと言える。が、それまでも東ちなつの表紙絵について「夏真っ盛り!海水浴にキャンプにバーベキュー……と暑さに負けず夏を満喫したいですね」などという型通りの挨拶の後に、静物画にもかかわらず「8月号のカバーイラストには、夏といえば真っ先に思い浮かぶ果物、スイカの登場です。明るい黄色の果肉のなかに、これまた甘くてジューシーな白桃も隠されています。」とある。

 きらら編集部はなぜ、見ればわかるイラスト画を言語化して説明することに、これほど熱心なのか。掲載作品にはそれぞれ画が入るので、表紙絵ぐらいは言葉の方がすり寄るべきだというポリシーだろうか。

 確かにそれはかなり徹底していて、2004年から2006年にかけての表紙はなぜか「椅子」で、それについては「背もたれから脚までつづくカーブが特徴のチェア。ポップなレッドとしなったアルミフレームが目をひくスタイリッシュなデザインは、アート性豊かな家具を手がけるイスラエル生まれのデザイナー、ロン・アラッドによるもの。軽くて扱いやすい素材が実用性を高め、ホームユースの他、アウトドアなどの多目的活用も可能。 協力 / カルテルショップ青山」とある。

 いったい何の雑誌かと思うぐらいだが、「ゆったり座って小説を読もう」といったタイトル/キャプションがついている。つまるところ、きらら編集部は、座るべき椅子については意見はあっても、そこで読まれる小説の内容については特に意見はない、ということではないか。

 その潔さ、清々しさは金魚屋プレスにとっても、また編集者の勘違いが著しい“文壇”にとっても、今後を示唆するという意味でむしろ期待できるものだろう。

 表紙絵へのコメントにはもちろん「今月も、注目の作家による新連載がスタート。充実の内容でお贈りする『きらら』、お楽しみください!」とか、絵と読書とを絡めたようなものもある。だがそれは先の「暑さにまけず夏を満喫したいですね」といった季節の挨拶と同じである。雑誌に掲載された作品が傑作であれ、駄作であれ、編集者が言えるのはつまりは挨拶以上のものではないと、それは明言しているのだ。

 

 

■Meiとは(メディアファクトリー 2回刊)■

 幽の姉妹誌ということで、女性向けの怪談雑誌である。非常に狭くマーケティングされているわけだが、実際のターゲットはどのような存在だろうか。

 女性向けの小説誌や漫画雑誌などで、ちょっと怪談めいたものに人気が集まる、というのは考えられる。女性向けといえば恋愛ものが中心となるが、その中で恐怖ものは異彩を放つなどして、雑誌そのものを引き締めてもくれるだろう。

 また一般の恐怖もの、それもテレビのいわゆる「怖い話」ものなど、あまりハードでないものにかぎれば、女性が男性よりそれを好まないということもあるまい。

 そういったところからだろう、「ほんのり怖くて、ほんのり楽しい」「怖くて愉しいお話、いたしましょう」といったコピーとともに新雑誌が創刊される。とりあえず様子見ということなのか、年2回刊。わかる話だ。

 わかる話だが、この「女性向け怪談雑誌」を手にとってレジに持ってゆく女性の像というのが、まだなんとなく浮かんでこない。女性というのは、たまたま遭遇したスリルに耐え、それを存外に楽しみ、また記憶に残すという強かさを持ち合わせているが、そういった刺激を自ら求めることは少なく、またそれを求めていることを認める潔さは持たないのではないか。

 つまりは女性というのは、快楽に対して欲張りで、計算ができる存在なのだと思われる。まず求めるものは明らかな快楽、どう転んでも快楽となるに違いない、甘いお菓子だ。それに思わぬときに、ちょっとした塩味が含まれていたら、その意外性が楽しく、甘さはさらに増す。しかし最初からしょっぱいものに手を出すか、というと、それはない。

 「怖くて愉しいお話」といったキャッチフレーズからは、この欲張りな女性たちを何とか捉えようとする意欲が伝わってくる。けれどもそうすると今度は、「怖くて愉しいお話」という像がなかなか浮かんでこない。「怖い」話は書き手が意図して書くしかないものだし、それが「愉しい」かどうかは受け手にとっての、それも結果論だ。

 けれどもこの雑誌が刊行され続けることで、その「怖くて愉しいお話」というジャンルが確立され、誰もがイメージできるものとなるかもしれない。そうであれば、ぜひ読んでみたいと思う女性は数多くいるだろう。金魚屋プレスがMeiに期待することは、まさにそれである。

 この雑誌の「怪談スイーツ cafe de Mei」は、その具体的イメージを先取りし、彷彿とさせるかもしれないメニューが並んでいる。「累の故郷風ダックワーズ / 於岩様好みのロールケーキ いなり寿司風 / 恋色の焼き菓子 お露お嬢様のために / 御殿女中のプティジュレ お菊様を偲んで / 雪女のプティガトー」。なんとなく、わくわくしてきたことは認める。

斎藤都

 

 

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