%e5%ae%b6%e3%82%92%e7%9c%8b%e5%8f%96%e3%82%8b%e6%97%a5_no-020_cover_01その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。

by 山田隆道

 

 

 

 

  第二十話

 

 約四か月ぶりに実家の敷居をまたいだ。とりたてて変わった印象はない。

 掃除と片付けも意外に行き届いていた。典子のおかげだろう。生前、母が使っていた部屋もまだそのまま残されている。少しだけ母の匂いがした。

 父は自室に入り、典子はキッチンで洗い物を始めた。「お父さんも洗いもんくらい自分でやれるようになったらええのになー」と口を尖らせている。

 僕は特にやることもなく、ダイニングを無意味にうろうろするだけだった。ふと壁掛け時計に目をやる。まだ午前十時を回ったところだ。

%e5%ae%b6%e3%82%92%e7%9c%8b%e5%8f%96%e3%82%8b%e6%97%a5_no-020_01

 ほどなくして、洗い物を終えた典子が言った。

 「じゃあ、わたしは帰るから」

 「はあ?」思わず甲高い声が出た。「なんで?」

 「なんでって、用事があるからに決まってるやん」

 「お、俺はどうすればいいん?」

 「知らんよ。子供ちゃうんやから、適当にしいや」

 典子がさっさとキッチンを出た。勝手口へと続く廊下に足を踏み入れる。

 「ちょっと待って! それやったら俺も帰るわ」

 僕があわてて追いかけると、典子は廊下の途中で踵を返した。

 「お兄ちゃん、ええかげん逃げんのやめたら?」

 「え?」

 「せっかく実家に寄れたんやから、お父さんと話し合うチャンスやん」

 「まあ……そうやけど」

 「話し合うんやったら、わたしがおったらあかんと思うねん。父と息子の二人っきりで膝を突き合わせるなんて、今まで一度もなかったんやから」

 「け、けど、どうやって話すん? 声が出えへんねやろ」

 「筆談があるやん」

 「筆談って、そんなアホなこと言うなよ」

 「わたしだってそうしてるんやもん」

 僕は返す言葉が見つからなかった。典子は「じゃあ、そういうことで」と話を切り上げ、歩みを再開する。今度は追いかけるタイミングを逸してしまった。

 そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。服を着替えた父の姿が見える。

 「あ、お父さん、わたし帰るから」

 典子はそう言って、父とすれちがった。そのまま勝手口に辿り着くと、即座にドアを開け、なぜか急いだ様子で靴を履く。一方の父はなにやら小脇にノートを挟んでいた。僕は父を見るなり、いつものように硬直していた。

%e5%ae%b6%e3%82%92%e7%9c%8b%e5%8f%96%e3%82%8b%e6%97%a5_no-020_02

 すると、父がノートを開いた。あるページを僕に見せつけてくる。

 『新一、話がある』

 黒いマジックペンでそう書かれていた。昔から見慣れた、太く乱暴な字だ。

 筆談――。実感を伴わなかった典子の言葉が目の前に迫ってきた。父は本当に声が出なくなったようだ。今さらながら思い知った。

 「じゃあね、お二人さん」

 典子は微笑をたたえながら勝手口を出た。間髪入れず、ドアを閉める。

 くそっ、典子にはめられたな。僕は小さく舌打ちした。

 だけど、不思議と悪い気分はしなかった。父のほうから『話がある』と持ちかけられたことが、どういうわけか妙にうれしかったのだ。

 

 父と二人でダイニングに移動した。暗黙の了解でテーブルの対面に座る。

 しばらく沈黙が続いたあと、父は喉に手をあてながら首をひねった。

 「ああ、典子から聞いたよ。声が出えへんようになったんやってね」

 僕が察して言うと、父は珍しく苦笑した。続いてテーブルにノートを広げ、マジックペンを走らせる。僕は思わず身を乗り出した。

 『大丈夫や、声はそのうちなおる』

 『ちょっとメンドウやけどな』

 『なれたらモンダイない』

 父は立て続けに書いた。すっかり筆談に慣れた様子だった。漢字とひらがなとカタカナが適当に交じり合った、独特の文字列がノートに並ぶ。

 僕はなんだか新鮮な感覚だった。目の前の父は確かに声を失っていて、それは確かに深刻なことなんだけど、不思議と沈鬱した重苦しさは感じなかった。

 だから素直な気持ちで切り出すことができた。

 「あの・・・・・・ごめん」

 父の顔は見ないようにした。当然、声は聞こえない。

 「去年の暮れのことやけど、勝手に家を出て迷惑をかけたかもしれんから、それは謝るよ。お母さんのことも、なんか・・・・・・ほんまにごめん」

 そこでようやく父を見た。別に怒られているわけでもないのに、ついつい身をすくめてしまう。早くも心臓の音が高鳴ってきた。まったく、悪い癖だ。

%e5%ae%b6%e3%82%92%e7%9c%8b%e5%8f%96%e3%82%8b%e6%97%a5_no-020_03

 父はまたもノートにペンを走らせた。

 『別にええ。しゃあない』

 意外だった。てっきり怒鳴られると思っていたから、戸惑いすら感じる。

 僕は急いで次の言葉を探した。沈黙に耐えられそうにない。

 「あと、孝介のことやけど、受験あかんかったわ」

 『知っとる。典子から聞いた』

 「あいつ、がんばったんやけどね」

 『きびしいもんやな』

 「うん、厳しいわ」

 『孝介は落ちこんでないか?』

 「最初は大変やったけど、今はもう大丈夫。立ち直ったよ」

 僕が言うと、父は黙ってうなずいた。少し安心したような表情だった。

 根は悪い人じゃないんだよなあ――。そんな思いが、ふと頭をよぎった。僕にとっては鬼の父でも、孝介と秋穂にとっては優しい祖父だ。

 筆談のコツもだんだんつかめてきた。思ったより会話に支障がない。いや、むしろ筆談だからこそ、あの父と穏やかなやりとりができるのかもしれない。

 ところが、父が次に書いた文面には絶句した。

 『オレのなにが気に入らんねん?』

 核心を突く質問だった。頭が真っ白になる。

 『エンリョせんと思ってることを言え』

 『言わなオレにはわからん』

 父はまるでお膳立てするかのように書き続けると、ペンとノートを置いた。目をつむって下を向き、なにやら腕組みする。僕は思わず唾を飲み込んだ。

 そのとき、なぜか数日前の亜由美の言葉が脳裏によみがえってきた。

 「新ちゃんって、お義父さんを前にすると思ってもいないことを急に口にする悪い癖があるから、アドリブで話すのは危険だと思う」

 僕はズボンのポケットをあさって、この日のためにしたためたメモ紙を取り出した。学生時代のカンニングみたいに、テーブルの下でこっそりメモを追う。なるべく自分の言葉で話したいけど、内容はこれにしたがったほうがいい。

 「お父さん、とりあえず最後まで聞いてな」

 勇気を出して口火を切った。父は目をつむったままだった。

 「そもそも俺はこの家を継ぐつもりで大阪に帰ってきてん。昔は実家のことなんか考えたこともなかったし、東京で好きな仕事をやってることが当たり前やと思ってたけど、だんだん年を重ねるにつれ、このまま実家をほったらかしにしててええんかなっていう気持ちが芽生えてきて、それでさんざん悩んだ結果……自分の中では前向きな決断として……家を継ぐ道を選んだつもりやった」

 父の反応が怖かった。だから顔を見ないようにして続けた。

 「だけど、いざ帰ってきたら、なんかわからんけど生活が窮屈になった。同居が苦しくなった。……原因はたぶん、俺自身にあるんやと思う。亜由美に指摘されたんやけど、どうやら俺はお父さんを前にすると自分でもわからんうちに人格が変わるっていうか、とにかく思ったことを素直に言えなくなったり、無意識に嘘をついたり、まあ、そういうところがあるみたいで……。もちろん、俺も自分で情けないと思ってるよ。四十にもなって、二児の父でもあんのに、この家にいると俺はお父さんに支配されているような感覚になってまう。この家での俺は孝介と秋穂の父親じゃなくて、お父さんの子供になってまう」

 そこまで言うと、なんとなく違和感を覚えた。いや、これはただの愚痴や不満であって、本当に伝えるべきことではない気がする。だいたい今さら父に文句を言ったところで、なにが変わるというのだ。僕の心の弱さは、僕の問題だ。

 「ごめん、もっと簡潔にするわ」

 僕は方針を変えることにした。メモはもういい。静かにおりたたむ。

 「あの、結局なにが言いたいかというと……この家のことやねん」

 次の言葉にはさすがに少し躊躇した。心臓が暴れだしそうだ。

 「俺、この家は継がれへん」

 言った瞬間、胸が苦しくなった。沈黙が怖い。だから懸命に口を動かした。

 「この家っていうのは、その、つまり家業も含めた今の状態の栗山家っていう意味なんやけど、まずは……うちの会社のことね。俺、色々考えたんやけど……栗山エンディングサポートに関わるのは……やっぱりやめるわ」

 そこで少し息を吸った。吐き出しながら続ける。

 「お父さんにもおじいちゃんにも曾じいちゃんにも本当に申し訳ないって思ってる。親戚もそう、古い付き合いのお寺さんや病院もそう。ずっとうちを頼りにしてくれていた近所の人たちにも迷惑をかけるやろう。ほんまにごめん」

 僕は頭を下げた。曽祖父のころから代々続いてきた家業と地縁の重みが、全身にのしかかってきた気がして、ますます胸が痛くなった。

 「俺な、やっぱり映像の仕事を続けたいねん」視線を落としながら続けた。「東京で勤めてた会社を辞めたときは、自分にとってそこまで大きな意味をもつ仕事やと思ってなかったんやけど、大阪でフリー仕事をやってるうちに、だんだん本心に気づいてきたっていうか。……あのさ、大阪での映像仕事ってどうしても限界があるんよ。仕事量は東京に集中してるし、内容も条件も東京のほうがはるかにいい。それはもう構造の問題やからどうしようもない。だから……」

 おそるおそる父を見た。いつのまにか目は開けていたものの、その表情は穏やかだった。僕は意を決した。今日はすべて言うぞ。中途半端には終われない。

 「だから、もういっぺん東京に引っ越すことも考えてる」

 当たり前だけど、父は黙っていた。

 「東京で前より条件と環境のいい制作会社を探して、そこを拠点にあらためて人生を設計したい。だから、このまま大阪に住み続けることも、この実家を継ぐことも……俺にはできない。お父さんはずっとここで暮らしていくやろうから、俺は親不孝もんやと思うけど、それでも自分の人生を優先したいねん」

 言い終わると、父は鼻で息を吐いた。ゆっくりペンを握る。僕は黙って、父の反応を待った。伝えるべきことはすべて伝えたのだから。

 ほどなくして、ノートの文面に視線を送った。

 『好きにせえ』

 「え?」

 『新一がそうしたいんやったら、それでええ』

 意外すぎる返答だった。父にしては、あまりに物分りが良すぎる。

 僕は父の顔をまじまじと見つめた。怒っているでもなく、落胆しているでもなく、なんとも形容のしようがない、初めて見る表情だった。

 「ほんまにええん?」僕はかえって不安になった。「俺はこの家を継がないって言ってねんで? 大正十一年から続くこの家に、たとえリフォームしても、建て替えしても、俺は住まないって言ってんねんで? それでもええん?」

 父は首を縦に振った。またもペンを走らせる。

 『あかんって言うたら、おまえの考えが変わるんか?』

 「いや……」

 『だったら、しゃあないやろ』

 「まあ」

 『オレはこの家に住みつづける。一人ぐらしや』

 「一人暮らしできるん?」

 『しゃあないやろ。どうせ、オレはあと十年かそこらや。一人やったらリフォームもせんでええ。このままでええなら金もかからん。気楽なもんや』

%e5%ae%b6%e3%82%92%e7%9c%8b%e5%8f%96%e3%82%8b%e6%97%a5_no-020_04

 ペンの動きは素早く、書かれる文字は乱暴だが安定していた。だから、迷いやためらいは感じなかった。ある意味、父らしいと思う。いつどんなときでも強い人だった父の雰囲気が、父らしくない内容の文面からにじみ出ていた。

 「そのあとは?」僕は少し安心して、さらに質問を重ねた。「そのあとっていうのは……ちょっと言いにくいんやけど、二十年後とか三十年後とか……」

 『オレが死んだらってことか?』

 「あ、ああ、うん」

 『家をつぶして土地を売るなり、おまえの好きにせえ』

 「え?」

 『どこに住もうが、おまえはオレの息子や。相続人や。この家もじきに100年をこえる。もう寿命や。家はだれも住まんようになったときが寿命なんや』

 家の寿命――。これは重い言葉だった。父の口から、いや父の頭の中からそんな言葉が出てくるなんて夢にも思ってもいなかった。僕が知る父は、栗山家に関するあらゆる事柄について、それを終わらせるよりも存続させることを求める人だった。時代がどれだけ変わろうが、そこは揺るがないと決めつけていたからこそ、僕は父だけでなく、今の時代とも戦っているような感覚になっていた。

 だから、父の出した答えは理想的とも言えるもので、本来なら手放しで喜べそうなものなのだが、なぜか現実はちがった。理解ある父の反応に、僕は妙な戸惑いを感じてしまう。罪悪感も抑えられず、やけに気持ちが沈んでしまう。

 「あの……ごめん……」

 だから、僕はまたも謝ってしまった。

 「たぶん、俺は父親の望む大人にはなれんかったんやと思う。本当はお父さんがおじいちゃんから家を継いだみたいに、俺も継ぐべきなんやと思う。だけど、俺はまったく別の道に進んでしまった。だから、俺は父親に嫌われてるって、ずっと思ってた。嫌われてるから怒鳴られるんやろうって、そう思ってた」

 そこで父が左手のひらを差し出し、ストップのジェスチャーをした。僕が思わず口をつぐむと、一気にペンを動かし始める。

 これまでより一段と小さな文字がノートに連なった。一行目、二行目、三行目と続き、なおも終わらない。これはけっこうな長文だぞ。僕はそう察して、ノートから視線を外した。椅子に深く座り直し、適当に時間をやり過ごす。

 結局、父がペンを置くまで三十分以上もかかった。ノートには黒い字がぎっしり敷き詰められている。僕は思わず目を細めて、身を乗り出した。

 そのとき、父が僕に向かってノートを放り投げた。意表を突かれた僕はそれをキャッチしそこなって、床に落としてしまう。

 すると、父が素早く立ち上がった。そそくさとダイニングを出て行く。残された僕は、はやる気持ちでノートを拾い上げた。手が震えていたので、該当のページをなかなか開けない。何度も行ったり来たりして、ようやく手が止まった。

 

 ×           ×           ×

 

 新一、おまえがあやまんのはそれだけこの家のことを考えとる証コやから、それはありがたいと思う。おまえがそういう人間になったんも、うれしく思う。

 せやけど、ほんまはあやまることとちゃうんや。おまえが大阪を出て東京に行ったんも、自分の好きな仕事を自分で見つけたんも、それは全部オレがそうなってほしかったことなんや。おまえはそういう道でええと思っとったんや。

 オレは子供のころからなんにもない人間やった。勉強はきらいやったし、他にやりたいこともなかった。だからオレは親父(おまえのおじいちゃん)がしいたレールの上を歩いてきた。俺は自分っちゅうもんがなかったから、親父のあとを継いで、自分の代をおさめることしか考えられんかった。

 だけど、おまえには自分で好きなことを見つけれるような人間になってほしいと思っとった。それはお母さんもおんなじやった。せやから二人で考えて、新一っちゅう名前をつけた。新しいことを一から始めるっちゅう意味や。

 本来はそうやったはずやのに、おまえがほんまに東京に行って、孫もできたけどなかなか会えんようになって、オレも年とってきて、だんだん別のことを思うようにもなった。できたら大阪に帰ってきてほしいってな。

 大阪やったら大きい家もあるし、社長にもなれる。わるい話やないと思ったから、おまえにどうや?って持ちかけたつもりやった。お母さんが最初にたおれたときは、とくにそう思ったわ。あれはこたえてなあ。まあ、年やな。

 せやけど、それはオレのワガママやった。そら、できれば家も仕事もついでほしかったけど、キョウセイはせん。新一が東京でやりたい仕事を見つけて、一からやっとったわけやから、ほんまはそれをよろこばなあかんかった。

%e5%ae%b6%e3%82%92%e7%9c%8b%e5%8f%96%e3%82%8b%e6%97%a5_no-020_05

 だから、家のことはもうええ。会社のこともオレがこれから考える。おまえにとって、この家は保険みたいなもんやと思ったらええ。どうせ、この土地にこだわるような人間はどんどん年をとって、そのうちおらんようになるんや。

 あと、最後にこれは覚えとけ。

 おまえが生まれたとき、オレはどんだけよろこんだか。仕事先で陣痛がきたって電話があってな、それからえらい時間かかったんや。なんやヘソのオが首にまきついて呼吸が安定せんやらで、まあ、ごっつう難産でな。

 せやから、オレは仕事しながら神さんに祈っとった。お願いですから、元気に生まれてきてください。アホでもカスでもなんでもかまわせんから、とにかく元気に生まれてきてください。お願いします、お願いしますってな。

 そんで、おまえがようやっと生まれたって電話をもらったとき、オレは地面に頭をつけて、神さんに感しゃしたんや。ほんまありがとうございます、ほんまありがとうございますって、何度も言うたんや。

 

 ×           ×           ×

 

 読み終わると、呆然とした。なにも考えられなかった。

 とりあえずノートを閉じ、テーブルに置いた。なんとなく、まぶたが重い。僕は目を閉じて、全身の力を抜いた。壁掛け時計の針の音がやけに耳に響いた。

 しばらくすると、父が戻ってきた。缶ビールを二本持っていて、そのうちの一本を僕の前に置いた。父はもう一本をすでに飲み始めていた。

 「読んだよ」

%e5%ae%b6%e3%82%92%e7%9c%8b%e5%8f%96%e3%82%8b%e6%97%a5_no-020_06

 僕が切り出すと、父はノートを奪うように取って元の席に座った。

 「えっと……ありがとう」

 言った瞬間、顔が熱くなった。父は少し口角を上げただけだった。

 「こんなん、全然知らんかったわ。今まで言うたことなかったやん」

 僕は缶ビールのプルトップを開けた。父は再びペンを走らせる。

 『おまえが聞いてこんかったからや』

 今度は簡潔な文章だった。

 「自分から言えばええのに」

 『言えるか、アホ』

 「俺、家のことでずっと悩んでたんよ」

 『おまえの好きにしたらええ』

 「そんなん言うたことなかったやん」

 『おまえが聞いてこんかったからや』

 「じゃあ、ほんまに自由にすんで?」

 『けど、たまには顔を見せてくれ』

 「そんなん言うたことなかったやん」

 『おまえが聞いてこんかったからや』

 「いや、言わへんからやん」

 『聞いてこんからや』

 「言わへんからやん」

 『聞いてこんからや』

 その後も同じやりとりを何度か繰り返した。

 父は途中から少し笑っていた。僕もたぶん笑っていたんだと思う。

 

 それからしばらくして、実家をあとにした。

 門扉の外に出て、実家の外観をぼんやり眺めてみる。

 なんだか人生で初めて、それでいて一生ぶん、父と話したような気がする。

 いや、筆談だから正確には話していない。父の声も聞いていない。

 だけど、僕と父の場合、そもそも声は重要じゃなかったのかもしれない。むしろ声があるからこそ、時に感情が邪魔をして、本当に言いたいことが伝わらなかったり、あるいは余計なことまで伝わってしまったり……。

 少なくとも、僕は本音で話せたと思う。父もそうだったんじゃないかな。いつもの怒鳴り声や意味不明な指示語がなかったから、そこは父らしくなかったんだけど、あれだけの長文は本音じゃないと書けないと思いたい。

 無意識に頬がゆるんでいた。まるで憑き物が落ちたかのように、体もやけに軽くなっていた。ひどく疲れたけど、なんとも言えない充実感もあった。

 結局、僕は父と話したかったのだ。父に振り向いてほしかったのだ。父に対する嫌悪と苦悩は、きっと僕が父を求めていたからなのだろう。

 僕は実家に背を向け、歩き始めた。しばらく歩いたところで足を止め、再び実家のほうを振り返る。離れたところから眺めてみると、少し印象が変わった。

 あの家は、僕を縛る鎖ではなかった。

 あの家は、僕と父を隔てる障壁でもなかった。

 あの家は、僕と父をつなぐ、かすがいだった。

 今ごろ名残惜しい気持ちが芽生えてきた。僕は別にあの家が嫌いなわけじゃない。あの家に住む父のことだって、僕はたぶん嫌いなわけじゃない。

(第20回 了)

 

 

* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

■ 山田隆道さんの本 ■

虎がにじんだ夕暮れ 神童チェリー (メディアワークス文庫)

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■