家を看取る日_No.019_cover_01その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。

by 山田隆道

 

 

 

 

  第十九話

 

 実家と家業のことは、亜由美に言われなくても薄々気になっていた。

 父との確執で今の安アパートに引っ越して以来、一度たりともこれで良かったなんて思ったことはない。このまま現実から逃げ続けて、問題を先送りし続けたとしても、いずれは相続というかたちで僕の身に降りかかってくるのだ。

 だから、母の通夜と葬儀はちがう意味で億劫だった。ただ純粋に母に哀悼を捧げたい、母との別れを惜しみたいという気持ちはあるのだが、そこにはどうしたって父との再会もからんでくるから厄介だ。現実から逃れようがない。

 かくして、気が重いまま通夜の日を迎えた。

 夕方ごろ、僕が亜由美と子供たちを連れて葬儀会館を訪れると、いきなり父の背中が目に飛び込んできた。正面玄関の自動ドアをくぐったところで、喪服姿の父が数人の葬儀スタッフたちとなにやら話し込んでいる。

 「おじいちゃん!」秋穂が無邪気に呼ぶと、父がすぐに振り返った。

 僕は足が固まり、その場に立ち尽くしてしまう。久しぶりに見た父の顔。心音が一気に高鳴り、胸の中が騒然とする。言葉が出てこない。

 すると、父のほうから先に口を開いた。

 「おう」

 それだけだった。本当にそれだけだった。

 父はいつもより低く小さな声でそれだけ言うと、すぐにまた背中を向け、葬儀スタッフたちとの話を続けた。再び振り返ることはなかった。

 僕は直感的に空気の重さを察した。秋穂も異変に気づいたのか、そこからは父に近づこうとしない。孝介は僕の顔色をうかがってばかりいた。

 結局、父との再会はそのままなんとなく過ぎていった。以降は一度も父と会話を交わすことがなく、二人きりになることさえもなく、母との別れという大きな事柄に紛れることで、その後味の悪さをごまかし続けた。

 再会が再会らしくなかったことで、僕はかえって父との距離を感じた。父の性格を考えると、僕をいきなり怒鳴りつけてきそうなものだが、久しぶりに見た父からはそういう迫力が失せていた。なんというか、顔色も冴えない。覇気も感じられない。典子いわく、さすがの父もかなり傷心していたという。今は母のことで胸がいっぱいで、僕と向き合う余裕なんてないのかもしれない。

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 思えば一昨年、母がクモ膜下出血で倒れたときもそうだった。それまでの父は他人の死はもちろん、自分の父母の死に直面しても取り乱すようなことは一切なく、どこまでも冷静に弔いを進めるような強い人だったけど、母のことに関しては驚くほど脆かった。あの父が珍しく、いや僕が知る限りでは人生で初めて弱音を吐いたから、僕の心は激しく揺さぶられ、大阪への転居を決めたのだ。

 この日の父もそうだった。誰に対しても口数が少なく、終始うつむき加減で粛々と段取りをこなしているように見えた。いつもの大きな声と威圧的な目つき、傲慢な態度はすっかり鳴りを潜めていて、あきらかに気落ちした様子だった。

 翌日の葬儀も、むなしくなるくらい淡々と進んだ。父の会社にしっかりしたフォーマットがあるのだろうが、多くの葬儀スタッフが手厚くサポートしてくれるものだから、僕ら親族は機械的な流れに沿っていくだけだった。

 告別式が終わると、僕らは棺の中で眠る母に多くの花を添えた。母が好きだった山口百恵の『さよならの向こう側』を流すなんて、あざとい演出だと思ったけど、それでも悔しいほど感情が高ぶってきて、涙をこらえられなかった。

 一方の父は棺の前に立ち尽くしたまま、厳しい表情で黙り込んでいた。色鮮やかな花々の布団に包まれた母を静かに見つめながら、ときどき大きく息を吐いていた。屈強そうな筋肉質の体がいつもより小さく、そして弱々しく見えた。

 棺の蓋を閉める直前、葬儀スタッフの一人が言った。

 「最後に喪主様からお別れの言葉です」

 すると、父は聞いたこともないような穏やかな声で母に言葉をかけた。

 「ありがとう」

 ここでも、それだけだった。それ以上はなにも言わなかった。

 父は母に向かって深々と頭を下げた。棺の蓋がゆっくり閉められる。これで母の顔は見納めになるのだが、父はその間も頭を下げ続けた。

 だから、僕には父の顔が見えなかった。父がどんな表情をしているのか、まったく想像がつかなかった。だけど頭を下げている最中、父が目のあたりを指で拭う仕草をしたから驚いた。一回だけだけど、確かにそういう仕草をしたのだ。

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 その瞬間、僕の心は大きく波打った。呼吸も苦しくなった。父が顔を上げたとき、涙の痕跡は見つからなかったけど、それでも一向に落ち着かなかった。

 それ以降、僕は自分の意に反して、父のことばかり目で追うようになった。出棺のときも、火葬や採骨のときも、母への哀悼を捧げる一方で、父の心境や、父の今後が気になってしまう。父はこの傷心から立ち直れるのだろうか。妻に先立たれた六十八歳の男が、これから一人で生きていけるのだろうか。

 あの広いだけが取り柄の、バリアフリーもクソもないような、不便で古い一軒家。南海トラフ大地震でも起こったら簡単に全壊してしまいそうな、築九十年以上の一軒家。そもそも僕はあの家を継ぐつもりで、大阪に帰ってきたのだ。年老いた父母と同居しながら、家の建て替えやリフォームも含めて父と話し合い、たった一人の後継ぎとして今後の栗山家を担っていくつもりだったのだ。

 だったら、今こそ初心に戻るべきではないか。もう一度、あの家の未来と正面から向き合ってみるべきなのではないか。

 いや、けどな……。

 これまでのトラブルを思うと、どうしても二の足を踏んでしまう。傷心する父に心を揺さぶられて、人生を左右する大きな決断を繰り返すのは危険だ。

 結果的に、またも問題を先送りすることになった。父は実家で、僕は賃貸アパートという、近くとも遠い奇妙な距離感に戻っただけだった。

 

 葬儀から一週間が過ぎた。

 あれ以来、僕は父と会っておらず、連絡も取っていない。相変わらず実家近くの安アパートで亜由美と子供たちと一緒に慎ましく暮らしながら、フリーランスの映像制作稼業を細々と続ける日々を送っていた。

 実家には典子がちょくちょく立ち寄って、父の世話をしているようだ。とはいえ、典子は「できればお兄ちゃんとお父さんには、ちゃんと話し合ってもらいたいんよ。わたし一人では限界があんねんから」と言っていたから、この先もずっと妹に任せっきりというわけにはいかないだろう。

 亜由美には毎日のように相談している。たとえ僕が再び実家に戻る道を選んだとしても、それに亜由美が積極的でなければ同じ失敗を繰り返すだけだ。

 「私としては……やっぱり同居は嫌かな」

 亜由美の意見は、それはもう嫁としては当然の理屈だった。

 「前に一回ああいうことがあったのに、また同じ道を選ぶのって単純におかしいと思うの。そりゃあ、お義母さんが亡くなったことで状況が変わったのかもしれないけど、私にとってあの家はトラウマだらけだもん」

 そんな亜由美にとって、僕の迷いは不安材料でしかないのだろう。最近は二人の間で実家の話が持ち上がるたびに、亜由美は釘を刺すような厳しい口調で、僕に同居を思い止まらせるようなことを言ってくる。

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 「いい? わかってると思うけど、お義父さんと同居したら新ちゃんが新ちゃんじゃなくなっちゃうよ。また、無意識のうちにお義父さんの顔を立てるようなことばっか言って、気づいたら自分を見失うに決まってるんだから」

 父を前にしたときの僕の変化。亜由美はそれが怖いという。

 「いい? 家業のことだって、新ちゃんはすでに別の仕事を選んじゃった人なんだから、今さら無理に継がなくてもいいんだよ。親戚とか近所の人とかも、いざ栗山家が葬儀屋を辞めるってなったら他を探すだろうし、霊園とかの不動産だって売り払ったらいいじゃん。そうしたほうが相続税も払えるでしょ」

 確かに、うちの家業はただの老舗商売じゃないところが難点なのだ。曽祖父から代々受け継がれてきた自前の不動産を基盤として、地縁・血縁の強固な信頼関係によって長く支えられてきた。だから一筋縄ではいかないのだが、亜由美はそれすらも壊していいと言って、僕のモラルを揺さぶってくる。

 「いい? 前にも言ったけど、先祖に感謝することって、自分の人生を縛ることとイコールじゃないと思うよ。新ちゃんが本音では東京で映像の仕事をやりたいと思っていて、それだけの需要があるんだったら、その道を選ぶのが今の感覚では普通なんだよ。自分の人生なんだし、もっと自由になっていいんだよ」

 わかっている。本当はずっと考えていた。再び東京に戻って、前よりもっと条件と環境の良い映像制作会社を探すことだって選択肢に入っていた。

 「いい? 栗山家の長男として生まれたら、やりたいことが他の土地にあってもできないっておかしいでしょ。実家だって、住む人がいなくなったら壊して売ればいいんだから。その売ったお金で、東京で家を買ったっていいんだから」

 去年からさんざん話し合ってきたことの集大成を、亜由美からまとめて差し出されたような、そんな一週間だった。亜由美の気持ちはこれでよくわかった。東京に戻りたい、いや戻って自分たちらしく生きるべきだ、それが本音だろう。

 「とりあえず、お父さんと話し合うよ」

 僕はそうとしか答えられなかった。これだけ口酸っぱく言われても、まだ自分の考えがまとまらない。亜由美の理屈はもっともなのだが、それでも自然と湧き起ってくる得体の知れない感情にうしろ髪を引っ張られてしまう。

 「話し合うなら、前もって自分の意見をメモしておいたほうがいいよ」

 亜由美は、そもそも僕と父の話し合い自体に不安があるようだ。

 「新ちゃんって、お義父さんを前にすると思ってもいないことを急に口にする悪い癖があるから、アドリブで話すのは危険だと思う」

 なんだか馬鹿にされているみたいで少し腹が立ったけど、なにも言い返せなかった。亜由美にそういう弱腰な夫だと思われていることが情けない。自分を変えなければいけないことは、自分が一番よくわかっている。

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 果たして、僕の気持ちは父との話し合いに向かった。

 よく考えてみたら、これまで父子で腹を割って本音の意見交換をしたことは一度もない。四十年も生きてきて、そういう場を求めたことすら一度もない。父への萎縮から、いつも猫をかぶってきた。いつも迎合してきた。

 僕は亜由美の言う通り適当な紙にメモをしたためた。意見がまとまっているわけではないから、言いたいことをすべて箇条書きで並べてみる。夢中になって書いていると、いつのまにかメモ紙は十枚を超えていた。

 

 次の日曜日、僕は朝早くから母の墓参りに出かけた。なんとなく一人になりたい気分だったので、亜由美と子供たちは家に残してきた。

 父との話し合いに挑む前に、どうしても母に手を合わせておきたかった。たったそれだけのことで、父と落ち着いて話せるような気がする。

 実家から徒歩十分くらいのところに竹林の山があって、その麓に大きな霊園が広がっている。ここはもともと栗山家の畑だったのだが、戦後すぐに曽祖父が共同墓地にして以来、うちの家業として代々管理してきた。だから、古くからの地元民のほとんどはここに墓を建てている。当然、栗山家の墓もそうだ。

 いつのまにか三月も残りわずかとなった。竹という植物は不思議なもので、多くの草木が萌え立ち、新緑に彩られる春にこそ、その葉は黄ばみ、やがて白みを帯び、そしてハラハラと散っていく。だから春の竹林には、まるで秋のような寂寥感がある。ふわふわと浮き立つような春の気分の中で、竹林にだけはふとした静寂が漂っている。僕は子供のころから、そんな春の竹林が好きだった。

 静けさに包まれながら、霊園の一番奥を目指して歩いた。やがて、ゆるやかな斜面の頂に建つ栗山家の墓に辿り着く。僕が生まれるずっと前からある、古いけど立派な墓石だ。曽祖父母と祖父母に続いて、母が新たに入ったばかりだ。

 僕は墓前に線香を捧げると、ズボンのポケットから、折りたたまれたメモ紙の束を取り出した。実家と家業について僕なりに考えたことを、母の前であらためて確認してみる。大切なのは、自分を偽らないことだ。

 メモ紙をポケットにしまった。手を合わせて母に黙祷する。もし僕が下した決断が母の意に沿わないものであったとしても、それも時代の流れだと、それも僕の人生なのだと、どうか理解してほしい。どうか堪忍してほしい。

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 ほどなくして、背後から声が聞こえた。

 「お兄ちゃん、来てたんや」

 ああ、典子か。心の中でつぶやいて、首だけで振り返った。

 太陽の光がまぶしい。思わず目を細めてしまう。

 次の瞬間、僕は慌てて首を元に戻した。

 やばい、父だ。典子の背後に父の姿が見えたのだ。

 くそっ、墓参りがかぶったか。僕は再び目をつむり、墓前に手を合わせた。この状況をどう切り抜けるか考えてみる。さっさと帰ろうと思う自分と、せっかくだから父と向き合ってみようと思う自分が、頭の中で激しくぶつかっていた。

 「お花はわたしがやるから、お父さんは線香に火ぃつけてくれる?」

 またも典子の声が聞こえた。その後も「お父さん、着火マン持ってきたよ。これ使ったら?」「お父さん、ゴミ袋ちょうだい」と典子の声だけが続く。

 その一方で、父の声はまったく聞こえてこなかった。だけど、すぐ近くで父が動いていることはまちがいない。二人ぶんの足音が、耳の中でこだまする。

 「お兄ちゃん、お水も取り換えてないやん」

 典子に言われ、僕は思わず目を開けた。

 「ああ、ごめん。線香しかあげてないねん」

 見ると、典子は僕のすぐ横で墓前の花と水を取り替えていた。

 「まだ初七日が過ぎたばっかりやから、毎日新しくしてやらんと」

 「毎日来てるん?」

 「うん、今んとこはね」

 「マメやなあ」

 「お父さんなんか、一日二回来るときもあるみたいよ」

 典子はそう言って、なにやら目配せした。その視線の先に父の姿が見える。

 父は墓から少し離れた場所で体を屈めながら、線香に火をつけていた。母の葬儀のときより、また白髪が増えたような気がする。

 「お父さん、相変わらず元気なさそうやな」

 僕が小声で言うと、典子が意味ありげに溜息をついた。

 「元気ないどころの騒ぎちゃうよ。もう……大変なんやから」

 「うん、さっきから全然しゃべらんしな」

 「ああ」

 そこで典子の表情が少し強張った。なにやら口をまごつかせたものの、一向に言葉が出てこない。僕はしびれを切らして、先に切り出した。

 「ごめんな、典子にばっか任せて」

 しかし、それでも典子は黙っていた。下唇を噛んでいる。

 「俺、ちゃんとお父さんと話し合うからさ」

 僕が続けても、典子はなにも答えなかった。

 「このままずるずる逃げ続けても、なんにも前に進まんしな。去年の暮れのこともちゃんとケジメつけて、今後の身の振り方を決めるよ」

 依然として、典子は口を閉ざしたままだった。

 僕はようやく不穏な空気を感じて、典子の顔を覗き込む。

 「どうしたん?」

 そう訊ねてみたものの、典子はやはり答えなかった。

 すると、父の足音が聞こえた。僕は思わず視線を送る。

 父は線香を持って、僕らのもとに歩み寄ってきた。煙に巻かれた父の顔を見た瞬間、僕はつい視線をそらしてしまいそうになったけど、今回は気合を入れて思い止まった。ここで逃げてはいけない。堂々と声をかけるべきだ。

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 短時間で脳をフル回転させた結果、僕は言葉を絞り出した。

 「おはよう。毎日来てるんやってね」

 心音の高鳴りを感じながら、父の返事を待った。

 ところが、父は返事をしなかった。僕に向かって軽く顎を上下させると、すぐに視線を典子に向け、黙って線香の半分を手渡した。

 「ありがとう」典子が礼を言っても、父は返事をしなかった。不自然なほど沈黙を貫き、そのまま墓前に線香を捧げるだけだった。

 それ以降も、父はひとつも言葉を発しなかった。典子の問いかけにも、ジェスチャーでしか応じず、淡々と墓参りの手順をこなしていく。

 だから、僕もそれ以上は話しかけられなかった。それは父に委縮しているからだとか、父との間に距離を感じるからだとか、そういうこれまでの事情とは大きく異なる、なにか別種の気後れだった。いや、戸惑いと表現したほうが正しいのかもしれない。とにかく息子の直感として、父に触れられなかったのだ。

 

 典子から失声症のことを告げられたのは、墓参りが終わったあとだった。

 霊園事務所に戻ると、父がトイレに入ったので、その隙に打ち明けてくれた。

 「お父さん、声が出えへんようになったんよ」

 最初はそう言われただけだから、意味がよくわからなかった。

 「確か四日くらい前やったかな。夕方ごろに実家に寄ったとき、お父さんが珍しく会社を休んでて、ソファーでダラダラしとったから、どうしたんって訊いたんやけど、なんも答えへんくて……」典子は沈んだ表情で続けた。「そのあとも、わたしがなにを話しかけても、ジェスチャーしかせえへんから、おかしいなって思って問い詰めたら、なんか喉を手で抑えだして……」

 「なにそれ。声帯が悪いん?」

 僕が訊ねると、典子は首を左右に振った。

 「いや、次の日に病院に行って、声帯とか脳とかの検査をしたんやけど、どこにも異常がなかったから、心療内科に回されてん」

 「心療内科って……精神的なことなん?」

 「うん、心因性の失声症じゃないかって」

 「失声症……」

 「私も初めて知ったんやけど、正確には解離性障害ってやつの一種らしくて、なんらかの精神的ショックとかが原因で心と体の調和がとれなくなることがあんねんて。お父さんの場合は話したいと思っても、喉に力が入らなくなったり、声帯がうまく機能しなくなったりして、声が出えへんみたい」

 失声症とは僕も初耳だった。思えば晩年の母も言語障害があったけど、あれは脳の外傷による機能障害のため、一般的には失語症と呼ばれるらしい。

 「だから、今のお父さんはジェスチャーか筆談ばっかやねん」典子が少し寂しげな笑みを浮かべた。「心因性のもんやから、これといった薬もないし、とにかく今は心身を休めるしかないねんて。失声症って、ほとんどの場合は時間が経てば自然に回復するらしいから、あんまり深刻にならんでもええみたいやけど」

 「そうなんや……」

 「けど、おかげでお父さんの世話がますます大変になったんよ」

 「ああ」

 僕は曖昧な相槌を打つので精いっぱいだった。父が受けた精神的ショックの要因とは、それはもう母の死が中心だろうが、もしかしたら僕との確執によるストレスも少しは含まれているのかもしれない。それは不甲斐ない馬鹿息子への不満や怒りなのか、それとも息子と袂を分かったことに対する悲しみなのか。

 悶々としていると、父がトイレから戻ってきた。

 すると、典子が話を切り上げ、あからさまに明るい笑顔を繕う。

 「けっこう時間かかったやん。お腹でも痛かったん?」

 典子が冗談めかして声をかけても、父は表情を変えなかった。黙って手を左右に振ると、どこかに向かって大きく顎をしゃくる。

 「帰るぞ、だって」典子はそう言って、僕に目配せした。

 僕が戸惑っていると、父は返事を待たず、さっさと一人で歩き出した。典子がそれを追いかけたので、僕もとりあえず続いた。

 父と典子は霊園の駐車場に向かって歩を進めた。僕が「車で来たん?」と訊ねると、典子は「うん、わたしの車」と小声で答える。「お父さんを実家まで送っていくんやけど、お兄ちゃんはどうするん?」

 僕は返事に窮した。もともと墓参りが終わったらアパートに帰るつもりだったけど、なんとなくそれに躊躇してしまう。父の現状が心の中でまだ十分に消化できていない。消化不良の事柄がさらにひとつ増えた感じがする。

 「俺も一緒に行くわ」

 思いきって決断したわけではなく、場の流れにしたがっただけだった。そうやって流れに身を任せたほうが、久しぶりに実家の敷居をまたぎやすい。

 駐車場に着くと、典子は愛車に乗り込みながら父に声をかけた。

 「お兄ちゃんも、実家に寄るんやって」

 父が僕を一瞥した。なにか言いたそうな表情だったけど、本当に声が出ないのだろう。すぐに視線をそらし、そのまま助手席に乗り込む。

 僕も後部座席のドアを開けた。運転席の典子がやけに明るい声で言う。

 「この三人で車に乗るなんて、めっちゃ久しぶりやなあ」

(第19回 了)

 

 

* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

■ 山田隆道さんの本 ■

虎がにじんだ夕暮れ 神童チェリー (メディアワークス文庫)

 

 

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