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 まあ人間よ、よくお腹に手をあてて考えてみるがよいではないか。

 君たちの迷いこむすべての道には悪魔という揚羽蝶が陰謀について酒をのみながら協議をしている古池の蛙の音のようにきこえてくるのだ。そうした天変地異が彼の書であり画であると思う。

 私は永田耕衣の詩境について以上の賛美を献じたいのだ。

(『永田耕衣君のこと』西脇順三郎)

 

 

 僕は〝文学的悪魔〟とでも言いたくなるような作家を三人見たことがある。吉岡実、安井浩司、永田耕衣さんである。吉岡さんの詩に賭ける情熱は凄まじく、「傑作を書けるなら悪魔に魂を売るか?」と聞かれたら、据わった目つきで「売る」と答えかねないような人だった。吉岡さんとお付き合いしたのは僕が二十代から三十代の初め頃だが、ガキとはいえやはり生意気な創作者だから、いつか吉岡さんを追い抜いてやろうと思っていた。しかしどう頑張っても近づいたという気がしない。それもそのはずで、当時六十代後半だった吉岡さんは必死に前へ前へと進んでいたのである。吉岡さんの背中を見つめ続けたことは、今でも僕の決定的体験になっている。

 

 安井さんの俳句に賭ける情熱も凄まじい。安井さんは八十歳にならんとする今でも、一日十句以上の俳句を詠んでおられる。一年で最低でも三千句、四年に一度句集を出すとして一万句以上になるわけである。一日十句の作句は本当のことで、金魚屋で『安井浩司「俳句と書」展』を開催するときに、酒卷英一郎さんから唐門会所蔵の安井さんの資料をお借りした。最近の安井さんの句集には千句近くが収録されているが、三千句ほどの草稿から選択しておられることが確認できた。また草稿はそのまま入稿できるような簡易製本の浄書冊子であり、それ以前に大量の原稿があったことをうかがわせる。これだけ俳句を書いていれば、評論など書く時間がないのは道理である。

 

 ただ『安井浩司俳句評林全集』が刊行されているように、安井さんは必要十分な評論を書いておられる。僕は二十代の時に三巻本の高柳重信全集を読んで、なんて頭のいい人なんだろうと驚嘆したことがあるが、誤解を恐れずに言えば、安井さんの評論の書き方は秀才といったふうではない。安井さんの場合はまずヴィジョンがある。論理を超えたプラトン的イデアのようなものだ。そのヴィジョンに向けて、安井さんは強引なまでの力強さで論理を組み上げてゆかれる。その確信の深さは生来の俳人のものだ。またヴィジョンを掴んだ時点であっさりと評論を書きやめてしまう。後は創作の領域なのだ。なかなか真似できることではない。

 

 耕衣さんには数回お会いしただけだが、凄まじい俳句狂だった。俳句にしか、しかもこれから書こうとしている俳句だけにしか興味がないのだ。安井さんは「耕衣は、みずから「昨日の我に倦きやすい私」(『與奪鈔』後記)と言っているように、自らを創らんとして、即座に自らを捨ててゆくのである。(中略)しかも、自己を捨てることが、たぐいまれな自己暗示となっている」(『歳月の方法』)と書いている。耕衣さんもまた前に前に進もうとする作家であり、決して後ろを振り返らなかった。こういう方のお弟子になると、「耕衣の文学に思いを寄せた瞬間から、その人は捨てられるのである」(安井さん)ということになる。

 

 ただ見ていないようで見ているのが耕衣さんである。お弟子や同時代の俳人について書いた文章を読むと、ずばりとその核心を衝いている。快活だが我が儘で癇癪持ちの詩人だということはすぐに見て取れたが、耕衣さんの直感力は驚くべきものだった。また耕衣さんは禅的な「無の思想」を表現の中心に据えたが、それは学習したものではなく彼の肉体的思想だった。それは西脇順三郎さんなど、ある世代の文学者しか肉体に保有できなかったものである。耕衣さんは結社「琴座」を主宰する俳句宗匠だったが、ほかの俳人ならいざしらず、耕衣さんならそれがごく当たり前だと思えてしまうから不思議である。また耕衣さんは俳句の王道を行く詩人だったが、当然のように前衛俳句作家でもあった。

 

夢の世に葱を作りて寂しさよ

恋猫の恋する猫で押し通す

かたつむりつるめば肉の食い入るや

朝顔や百たび訪はば母死なむ

行けど行けど一頭の牛に他ならず

うつうつと最高を行く揚羽蝶

緑陰のわが入るときに動くなり

老梅の隈なく花を著け終る

店の柿減らず老母へ買ひたるに

藁塚が藁塚隠す父亡きなり

母死ねば今着給へる冬着欲し

(『驢鳴集』昭和二十二年-二十六年)

 

水を釣って帰る寒鮒釣一人

天心にして脇見せり春の雁

藤房の途中がピクと動きたり

枯蓮の折れ下がる葉の世界かな

母の忌や後ろ向いても梅の花

近海に鯛睦み居る涅槃像

後ろにも髪脱け落つる山河かな

春の暮飯始まれば飯こぼるる

(はらわた)の先づ古び行く揚雲雀

螢火を愛して口を開く人

新しき蛾を溺れしむ水の愛

(『吹毛集』昭和二十七年-三十年)

 

 耕衣さんが処女句集『加古』を出版したのは、昭和九年(一九三四年)三十五歳の時である。当時は日本が一直線に戦争へと向かう厳しい時局であり、戦前戦中の耕衣さんは細々と限定私家版の句集を出しておられた。耕衣さんが旺盛に句集を刊行し始めるのは戦後になってからである。耕衣さん自身の編集による全句集に従えば、第三句集『驢鳴集』は昭和二十六年(一九五一年)五十二歳の刊行で、第四句集『吹毛集』は三十一年(五六年)五十六歳の時の刊行である。当時は五十五歳が定年で、耕衣さんは長年勤めた三菱製紙株式会社を退職し、『源氏物語』で有名な須磨に転居された。耕衣さんは『吹毛集』の頃から「晩年」の意識を強くされるのだが、九十七歳まで続く長寿によって、それを「大晩年」、「最晩年」と言い換えてゆかれた。

 

 耕衣さんの俳句の評価は『驢鳴集』、『吹毛集』で不動のものとなった。名句揃いなのである。近・現代の俳人で、これほど多くの名句を書いた俳人は耕衣さんだけだろう。ただ耕衣さんの句はどこか従来の俳句伝統を外れている。たいていの俳人はいくら作品をセレクトしても、読者が特に作者の名前を意識することのない叙景的作品が入り交じるのが常である。しかし耕衣さんは何気なく詠んだ句でも作家性を感じ取ることができる。有季定型俳句であっても、単純な叙景や花鳥諷詠句ではないのである。作家の個人的観念や社会批判意識が反映された、頭でっかちの句かと言うとそうでもない。強い観念性は感じ取れるが、俳句を構成する一要素として無理なく作品に納まっている。

 

 伝統的でありながら、伝統を外れてゆくような耕衣さんの作品には早くから注目が集まっていた。山口誓子主宰の、伝統俳句系だが戦後の有力俳人たちが集結した「天狼」に、耕衣さんは西東三鬼の誘いで参加している。高柳重信は前衛俳句の牙城「俳句評論」の特別同人に耕衣さんを招き入れた。吉岡実を始めとする詩人たちが耕衣作品を高く評価したことは良く知られている。

 

 このような伝統派、前衛派俳人(詩人)の注目を集めていた耕衣さんの独自性は、第五句集『惡靈』(昭和三十九年[一九六四年]刊)にはっきり表れている。耕衣さんは自筆『耕衣年譜』で『惡靈』について、「内容の大半は、いわゆる前衛的な思考に傾きすぎた感がある。意欲的な我が過程としては止むを得なかった」と書いている。要は句集の評判があまり良くなかったのである。ただ晩年まで衰えることのなかった耕衣文学の豊穣は、文字通り〝惡靈〟のように言葉と観念が溢れ出てしまったこの句集から始まっている。

 

海の日向を諸島流るる礼拝せず

明鏡の端に梅挿して島伸びず

茶碗洗えと諸島に日向直立す

案外白い髭で伏す虎春雨立つ

水餅を塵訪ね行く虚空を吸う

俯向いて自利を豊かに鶉食む

老鼠今を囓る瞠目年輪落つ

老鼠砕かるる時を得ず箱染める菓子

大海を見るなと恋猫を捕り押さう

山中や服替えて来た今さッきの少女

新の鼠のような萬波を覚えるな

新しさの同じ鼠が次々死んだ新緑

教祖明りを抜け出た風船の肉屋入り

遠く溺れた蛾を訪ね行く僕のシャッポ

墓の巣の浜の妊婦の翳もつ美酒(うまざけ)

妊婦に触れんばかりの散歩夏の海

酒瓶半ば黄に満つ雨よ漏り給え

乞食居らぬ寂しい都市の鳳仙花

文庫負い()つ老いた鴉の砂場の(もり)

波が捧げる砂利につかまり亡父らは

虎がこすったぬくい鉄棒味噌汁の中

(『惡靈』昭和三十年-三十八年)

 

 句集『惡靈』から二十一句を掲載した。これらは句集に収録されたままの順番であり、僕は一切セレクトしていない。『惡靈』から選句するとなると、「死螢に照らしをかける螢かな」といった古典的顔つきの名句を選ばざるを得ないが、こうして見ると、耕衣さんが『惡靈』でいかに無茶な試みを行っているかがよくわかるだろう。

 

 これらの句が叙景的写生俳句ではないのは言うまでもない。ではシュルレアリスム的な想像世界の描写かというと、そうとも言えない。耕衣さんの思想基盤は禅的「無」に置かれている。耕衣さんの精神は現実世界から無の世界にまで下降し、そこから再び現実世界に舞い戻ってくる。確実なものとしてある現実世界の様々な物象は、精神を下降させると無へと溶解してゆく。しかし無から精神を上昇させると再び物の形を帯びる。耕衣さんの句でシュルレアリスム的な「遠いものの連結」が行われているのは、彼の精神が有と無の間を往還しているからである。「虎がこすったぬくい鉄棒味噌汁の中」といった句は意味的にはナンセンスである。もし読者があるリアリティを感じ取るとすれば、それは無を含む(脅かされている)現実がこの句で表現されているからである。

 

 耕衣さんの中で有と無を往還する禅的思想が暴れ出すと、俳句作品から有季も定型もなくなってしまう。前衛的に見えるわけだが、それは古典的な意味で俳句文学の思想基盤につながっている。また耕衣さんの禅の思想は恐ろしいほど即物的である。一休宗純や白隠禅師の事蹟を見ればわかるように、禅の思想は本来即物なのだ。「無」を中心にしている以上、禅は思想的ストラクチャを持たない。現実事象にぴったり寄り添って無に至り、無から現実世界へと精神を帰還させてゆく。だから耕衣文学に欧米的な文脈の思想を探ろうとしても見つからない。それはすべて現実として、つまり永田耕衣の俳句として表現されている。

 

源流の貧をば喫す心延びて

源流の寂しさに在り秋の暮

淵老いて源流恋いや天の川

少年の使命の老の銀河かな

老松の遠見(とおみ)踊りや源流(ぼん)

源流の淵を見分けき老の松

源流のだだッぴろさが頂上だ

哀れ虚空馴れの源流落下祭

源流を飛んで少年老いにけり

大川の源流恋いの昔かな

命宣(いのちの)る土着源流しぶきかな

源流の現実は(きょう)観念なり

源流の観念土着香を発す

観念の淵に少年佇むよ

源流の狂笑漏れも苔の花

(『自人』平成四年-七年)

 

 最晩年の句集『自人』の冒頭十五句で、「源流」を詠み込んだ連作句である。ただ「源流」連作はこの後も、全部で二十七句続いている。思想的に読めば、連作半ばの「源流の現実は(きょう)観念なり」で結論は出ているはずである。しかし耕衣さんの創造は終わらない。「(きょう)観念」を「源流の観念土着香を発す」と強引に現世に引き戻し、連作を続けてゆくのである。観念的結論(悟りの境地とも言える)を得ることはまったく問題ではなく、ひたすら有と無の間を往還するのが耕衣さんの俳句行為である。

 

 多くの詩人は晩年に近づくにつれ書けなくなる。作品を書いたとしても、その表現レベルが衰えてゆく。最も衰弱が目立つのは語彙(ボキャブラリ)の貧弱さだろう。もちろんそれは作家の思想的衰えの反映である。耕衣さんは西脇順三郎さんと同様、恐ろしいほど単純な思想を基盤に据えることで、晩年の衰弱を免れた数少ない詩人の一人である。

 

 耕衣さん的な禅の思想を規範にするかどうかは別として、耕衣さんには学ぶべき点が多い。現代作家は、良くも悪くも生が終わる瞬間までその文学的強度が試される。過去に傑作、秀作を書いたとしても、作品が常に現代に対応していなければ優れた作家だと認知されないのである。それには現代を表現しながら、現代風俗に流されないしっかりとした思想基盤を持つことである。正統な伝統俳人であり前衛俳人でもある耕衣さんは、その両方を兼ね備えた希有な詩人だったと言えるだろう。

鶴山裕司

 

 

 

 

 

国書 安井浩司「俳句と書」展