第二弾としてはさぁ、りょんさんもずっとご無沙汰してたけど、この間もみんなと一緒に生活してきたんだって感じを伝えなきゃいけないから、やっぱ新型コロナだよね。ただコロナって言っちゃうと、トヨタのかつての名車を同じ名前だし、やっぱり新型コロナって言わないといけないんだね。うん、言葉の問題ってやっぱりあるなぁ、つまんないことみたいだけどさ。コロナって言うと他の風邪のコロナヴィールスと同じだからってだけじゃなくて、太陽のコロナとか、コロナビールとかもある。もともとは良いイメージの響きがあるよね。
言葉の問題っていえば、ソーシャルディスタンスっていうのが引っかかっててさ。なんでソーシャルなんだろう。フィジカルディスタンスじゃないのかなあ。だって肉体を離せって話でしょ。社会における新しいマナーって意味でソーシャルなのかなぁ。だけど社会的な距離は詰めても、肉体的な距離をできるだけ離そうって、そういうことなんじゃないの。
社会的な距離はさぁ、SNS、Skype、最近はZoomとか、そういうものでずいぶん縮まってきてたよね。コロナの前から。長いこと会ってないで、Zoomとかでばっかり打ち合わせしてるなぁと思っても、画面共有とかしてたら、会って同じ画面を見つめないとダメだと思い込んでたのがバカみたいでさ。だってずっと効率いいんだもんね。それに出かけるとなると億劫で月一がやっとでも、Zoomで打ち合わせするんだったら別に週一でも、必要な時にホイホイできるよねって思える。化粧して、服着て、電車乗って出かけるって、今までドンダケ労力使ってたんだってほんと呆れるよ。まぁ半分はそれにエネルギー取られてたかもね。打ち合わせの時はヘロヘロになってたりして。
ただそんだけ労力かけてまで会ったんだっていうのは、記憶には残るかもね。そういうところが心理的な距離を詰めていくんだって言われると、そうかもしれない。これから新型コロナが収束したら、そうやって実際に会うってことと、リモートで打ち合わせするっていうことの使い分けができるようになって、これからコミュニケーションの網目はどんどん発達していくんじゃないかと楽観してる。
かつて電話というものが普及したら、人と人は会わなくなるって言われたけど、実際には電話をかける要件の多くは会う約束だった、ってホッコリ話があるけどさ。結局コミュニケーションの手段は増えれば増えるほど、人との関係は密になる方向にいくんじゃないかな。電子メールってものが流行りだしたときにも、手紙を書かなくなるとか、電話で声音を聞けば誤解はないのに、メールだと文面から摩擦が起きて喧嘩のモトになるとか言われたけどね。そしたら手軽にやりとりできるSNSができて、絵文字だとか話し言葉だとか、大勢で井戸端会議あるいは一対一のくだらないおしゃべりみたいな、そういう雰囲気が再現できるようになってきた。メールは今やほとんどビジネスユースで、必要なことを箇条書きにするようなもので、いちいち感情を逆なでされるとか誰も考えないんじゃないの、今。
たしかに電話ができてから、人は手紙を書かなくなったかもしれない。だけど手紙の大半は電話で済むようなもの、むしろ声を聞いて理解が進むものだったわけだよね。やっぱり電話じゃ済まないものは、手紙や葉書として残ったわけだし。そういう手紙や葉書って結構、大事にとってあったり、しっかり記憶に残ってたりするよね。
他の手段があるのにわざわざその手段を使うってことは、それ自体がメッセージになったりする。SNSでぽんと言えばいいのに、わざわざ電話をかけてくるときは、気が急いているんです、とか声を聞いて親密さを確認したいんです、とか何か誤解が生じそうだから心配なんだよね、とか。そういうニュアンスを与えるでしょ。電話をかけるということの意味が昔と違ってきてるんだよね。
だから新型コロナが収束しても、リモートの使い勝手を知ったわたしたちは、わざわざ会うということに、今までにはない意味を見いだすことになるんじゃないかな。まぁ会って、そこでしかできないことといったら会食だよね。一緒に飲む、おんなじものを食べるっていうのはリモートでは難しい。Zoom飲み会ってのは結構好きだけどね。でも積極的に好きって言うんじゃなくて、気を使わなくていいから。実は相手との距離感を利用してるだけかもね。本当は好きじゃない人たちと、かたちだけ飲み会したり、情報を得たりするのに、自分が好きなものを飲んだり食べたりしながら、相手の話をくだらないなぁと思いながら聞き流している。Zoom飲み会って正直、そんなイメージだよ。これはいずれ廃れちゃうかもね。
新型コロナはいずれは収束するという道筋が見えてきて、そんでもって株価とか爆上げしてるけど、これは後が怖いというか。ものすごいインフレが来るかもしれないね。どのみち激動の時代になるんだろうね。新型コロナ後もと言うべきか、新型コロナ後こそと言うべきか、わかんないけどさ。ただ一つ、新型コロナっていうのは特定の地域に起こった災害ではなかったし、そして世界の地域同士の対立でもなかった。だから世界中が同じ方向に向かって頑張って、ワクチンも開発した、その点は良かった気がする。こんなに早くワクチンができるなんて、しかもかなり成績もいいし、人類捨てたもんじゃないと思う。
もちろん各国のリーダーシップは様々で、トランプ大統領とバイデン氏の戦いは泥沼で、アメリカの大統領選は年々混迷の度合いを深めていくと思うんだけど。ただ言えるのは、今回の新型コロナに関して、その制圧に失敗したリーダーっていうのは、やっぱりどんなに良い政治家であっても失脚するんだろうね。勝者のいない戦いで、国民の生命を守るっていう基本中の基本を確認せざるを得ない。
この3月は東日本大震災から10年目で、その振り返りみたいなのがここしばらく続いてたけど、あのときの菅さんの対応の再評価が進んでいて喜ばしいな。ほんとにそうだったと思うよ。青筋立てて東電を怒鳴りつけたって、それがなかったらどうなってたかわからない。それに関しては、至極まっとうな感覚だったと思うのに、いろんな悪口を言われてたのが当時から不思議だったよ。
この金曜日だったかな、ゆうちょと楽天が資本提携するってニュースになってたけど。その記者会見で、楽天の三木谷さんが「5年たったら本当に世の中激変してるだろう」って言っててさ。なんかその言い方が、本当に本当にそうなるだろうって感じさせるものだったんだよね。実際、文学金魚でも2026年には大きな時代の節目が来るとか言ってるみたいだし、あっちでもこっちでも言ってるよね。2025年とか6年とか。新型コロナも変異したり、手を変え品を変えていろいろしたり、まぁ我々が完全にそれを消化してしまうまで5、6年なんだろうから、ちょうどその変化の5年を作り出すために新型コロナっていうのは発生したように見えるところもあるよね。なんだか時代の流れって、不思議なもんだよ。
人々が集まって、神に挑むような高い塔を立てていて、そしたら神様が、みんな別々の言葉をしゃべるようにって。そしたら人々が互いにコミュニケーションがとれなくなって、その塔が崩れたっていうのがバベルの塔の話だよね。そうやって外国語が生まれたわけだけど、こういうのソーシャルディスタンスっていうんじゃないかな。今、我々に課せられているのはやっぱりフィジカルディスタンスだと思うけど、いずれにしてもそのディスタンスによって今まで見えてこなかったものが見えたり、ソーシャルなディスタンスがむしろ失せたり、ソーシャルであれフィジカルであれ、不必要なものはどんどん削られていく方向だよね。
大きな変化が起きると、本質が露わになるんだよ。本質が露わになるっていうのは、新しい節目が発生するきっかけに必ずなるからね。これは2025年か26年で、っていうのが信憑性を帯びてきたよね。
りょん
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