りょんです。お久しぶりでーす。りょんはこのところ本業に精出してました。やっと一人前に仕事ができるようになったところで、石川からまたしてもオファーが。
「そろそろ社会事象に対して、えらっそーなこと口走りたくなる年頃じゃないですかぁあー。二流の物書きにはそういう人多いんですよねぇ、文学に関してのロジックが切れなくなるとさ。でも文学金魚にはそんな人いないんでねー、デザイナーのりょんさんとかだと、気分だけはそんなとこにシンクロしてないかなぁと思って」って、ほんっと相変わらずだよね。
ほんでまぁ言われてみると、ちょっとそういうこと言いたくなってる気もする。分別ざかりってのか。サカリのついた二流文筆家ってのがいっぱいいて、ワイドショーに尻尾振ったりしてるんだけど、なんだかやっぱ物書きはテレビに映るとちょっと貧相なんだよね。押し出しに欠けるっていうか。まぁそれはともかくだな、りょんも別に一流の文筆家ではなくて、だけどデザイナーとして二流ってことぢゃないからね。つまり物書きじゃない、それ以外の人、普通の人なのだよ。
ほんでしばらく文学金魚から離れていた間、いろいろ世の中変わったけどさぁ、まぁTwitterとかの役割は同じだよね。ただちょっと昔よりも洗練されてきたかな、不用意なこと言わなくなったかなぁと思う、みんな。昔はTwitterのタイムライン眺めるなんてバカみたいだと思ってたけど、最近はよく見ちゃう。ときどき爆笑したり、クスクス笑ったりしてる。センスのある人多くなったと思う。てかTwitterの表示選別がうまくなったのかな。
こんな世の中で、りょんさんが世相をワラうなんておこがましくてさ。だから「わらう」は「嗤う」とかじゃない。「微笑う」かな。りょんも丸くなったもんだ。そんでもって久しぶりなんだけど、りょんもみんなもやっぱ同世代に生きてるなぁ、って感じるようなこと、第一弾は東京オリンピック。
みんなっても日本語で書いてるから、まぁそんな世界的なイベントでなくともいいようなもんなんだけどさ、オリンピックはいまや日本というローカルな地域が抱え込んでる案件に近くなってないか。世界のみんなは、それどころじゃないんだわね。ローカルと言えば、デーブ・スペクターさんが「海外からの観客の受け入れを停止する方向で調整中。海外からの選手の受け入れも中止を検討」。とかってツイートしてて大笑いしたんだけどさぁ。国体かよ。
だけど、よくよく考えたら、そんなに悪くないかなって気もしてんだよね。それってオリンピックの原型に近いものになんないかな。そもそもオリンピックって、なんであんなに盛り上がるんだろ。もちろん世界中から集まるっていうのもあるんだけど、いろんな競技をいっぺんにやるってのも大きいよね。スケートの世界選手権、サッカーのワールドカップ、そういった特定の競技の頂点を決めるってやつ、あるよね。本当はそっちの方が実力がはっきりするのかもしれない。
だけど世界選手権でトップをとった荒川静香さんが、これで引退しようと思ったら「次はオリンピックですね」って言われてがっくりきたって言ってたけど、そんなとこあるよね。やっぱオリンピックじゃなきゃダメなんですか、みたいな。ほんでしかもオリンピックって、魔物が住んでる、とか言う。実力が発揮できないんだよね。別の舞台っていうか。なんか雑音が多いって感じなんじゃないかな。競技に集中したい選手としては。
その競技の実力世界一っていうんだったら、世界選手権のトップで間違いないわけだよね。なんでオリンピックじゃなきゃ、っていったらやっぱりそれは世界中からの注目度が違うってのもあると思うんだけど。いろんな競技が集まってる中の一つなんだから、ほんとのこと言うと相対化されるし、競技によっては世界選手権とかよりもウェイトが下がってもいいはずなんだけど。
要するにこれは運動能力の1番2番って問題じゃないんだよね、きっと。まぁそれこそオリンピックの最初の理念というか思想というか、そういうものがあるとされていて、だから各競技共通、なおかつ世界中のどの地域からでもその共通の理念でもって参加していいってことになるわけだ。大義名分があるってすごく大きなことだと思うな。
そのオリンピックがもちろん、なんだかおかしくなっている。新型コロナ以前から、こんなことでいいのか、やめちゃえ、もうこんなの一体何の冗談なんだ、おいアメリカのやっちゃばじゃねーか、金ばっかりかけやがって何がアマチュアスポーツだ、とかさんざん言われてるわけなんだけどさ。
そしたらもし今回、海外からの観客と外国人選手を締め出してだな、日本国内だけのオリンピックをやったら、これって昔ギリシャでオリンピックが発祥したときの雰囲気と似てくるんじゃないかな。当然、都市対抗っていうか、大阪と秋田が張り合うとか、そういう感じになるかもしれないんだけど。国内の他の大会と違って、いろんな競技をいっぺんにやるんだから、やっぱり結構オリンピックらしくなると思うんだよ。そしていろんな対立を乗り越えて、っていうのは別に国際紛争だけじゃないからね。日本の国内だっていろんなコマかいものを含めて争いはあるわけだけど、それを置いといてスポーツで競うってのは、スポーツしてるときはそれを忘れるってのは結構、観てる人にとって。普段のでっかいオリンピックよりもリアルにその意味が響くかもしれない。
新型コロナをきっかけに、いろんな国でそれぞれオリンピックやったらいいんじゃないかな。互いに世界中に放送して、意外とよその国のも見てたりしてさ。いずれにしても選手にとってはやっぱり、自分の頂点って時期が短いから、このまま何もなくてスルーしちゃうと、ある世代が陥没しちゃうんだよね。そういうことを防ぐために、あの派手ないつものオリンピックとは違うけど、だけど別の意味ですごく記憶に残るよねっていう、そういうイベントを企画したら、そこからまた別のかたちでスターがぼんぼん出るかもしれない。どっちみち通常のオリンピックで金メダル獲ったって、それで日本のスターになって国会議員とかになるわけであって。海外の人たちがそんなに覚えてるわけじゃないもんね。
ふんオリンピックなんか、とかブーたれてて、全然盛り上がってなくても、いざ始まると観ちゃうのは、やっぱり〈肉体〉の直接性というか、それが訴える力ってものだと思うんだよね。いろんな関係性や利害を超えて、そこに〈肉体〉があって、それが全力を発揮してるっていうことの持つパワーはたしかに、とりあえずすべてを説得してしまうところがある。だったらそれは同じ国内の〈肉体〉であってもいいしさ。新型コロナっていう、これまたみんなそれぞれが自分の〈肉体〉に関して、ものすごくいろいろ考える機会があった、そういう時期のオリンピックは、普段のオリンピックにやたら近づけなくてもいいんじゃないかな。
りょんがオリンピックで印象深く覚えているのは、やっぱデザイナーだからさぁ、美しかった場面なんだよね。そうなるとやっぱフィギュアスケートかなぁー。荒川静香さんはただきれいだったし。浅田真央ちゃんが全部のジャンプを決めたフリーのときは、もう金メダルなんかどうだっていいって叫んだよ。普段は絶対起きてない早朝にさ。そーゆー文字通りの名場面みたいなものもあるんだけど、実は一番記憶に残っているのは、カタリナ・ビットが復活してきたときなんだよね。ドイツのビットは本当に強くて美しい選手だったけど、ずいぶんな年月を経てカムバックしてきた。それで競技自体はもちろんボロボロというか、順位とかそういうのは見られないものだったんだけど。それで解説者が「あー、ダメですねー」とか言ってて、それ聞いて、わかってねえな、と思った。ビットがどういうつもりでカムバックしてきたのか、全然わかってない。
素晴らしい点数のつくパフォーマンスを見せるのもオリンピックなら、人間の肉体の限界というものを見せるのも、またオリンピックだし。ドラマっていうのは、むしろ後者にあるんだよね。そのときのビットは、りょんにはとっても美しく見えた。すごい難度の技を決めることができなくとも、年齢が刻んだドラマ、人間の肉体ってこういうものなんだって、まざまざと見せてくれて、ほんとにほんとに美しかった。まぁ競技一辺倒の人には点数で測れるものしかわかんないと思うんだけどさ。
だから要するにオリンピックだって、というかオリンピックこそ、いろんな文脈で測っていいってことだよ。そういう文脈があってのことでしょ、パラリンピックとかを続けてやるようになったのも。だから今回はコロナピックとかって、全然違うかたちで催してもいいと思うんだよね。それでオリンピックの理念に別の解釈が生まれたり、アプローチに深みが出たりってことがあると思う。何とか正常に近づけようとしてるだけでは、絶対に見出せないものがあるんだけどね。まぁ利権が組み替えられるのは、どうしても避けたいんだろうけどさ。
りょん
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