なんで世の中こんなに差別についてナーバスになり始めたんだろうか。やっぱりそれはSNSの影響かな。今まで個人的なものとして無視されてきた不満とか、傷ついた体験とかがSNSで共有されると、異常な拡散を見せたりするね。僕もわたしも、って。そういうところで、これは見過ごされているけど男女平等でないとか、妊婦の差別があるとか、さらには年齢の差別があるとか、海外にいる日本人からは国内では実感し得ない人種差別の報告が上がったりする。
まぁ気をつけなきゃいけないのは、Twitterとか見てるのって、日本人の中でそんなに多くはないよね。人っていうのは、自分の周りがとても一般的だ、自分の環境を広げたものが日本の世相だ、というふうに勘違いする。選挙活動のときなんか、それって顕著に現れるよね。自分の周りは自分と同じ人を支持してるから、絶対勝つと思い込んでてさ。蓋開けてみたら、なんと比較的少数派だったりする。それで不正選挙だ、とか言うんだよね。
そういうわけでTwitterでは、なんて非常識、人間じゃない、とまで言われるようなコメントを一般的な世間の人たちは平気で口走っているらしい。いまだにこんなことを、とか令和と思えない、とか言われるわけだけど。まぁ森さんの発言とかって、そこだけ切り取って公的な発言にしたら大騒ぎだけど、普通言うよね。おっちゃんたちがさぁ。だから言ってもいいのかって言うと、それはそのときに、その言葉がどんな影響を与えるかによると思うね。
つい昨日かな、「女性とは思えないほど年寄り」って森さんが言ったって、また批判されてるけど。もちろんそれは、勝手な男の目から見て、性的な対象として映らないほど年寄りって意味で、そもそも性的魅力を感じてもらいたいと、当該の女性が思ってるかどうかはわからない。それを言うなら、我々女性の目から見て、森さんだってねえ(失礼。か?)。ま、そういう矢がすぐ自分に向かうようなものは、笑って聞いてりゃいいんじゃないかな、って気もする。言われた人がすごく傷ついてるとかだったら、別だけど。同じようなことを綾小路きみまろが言うと、観客席に座っている年配の女性たちが手叩いて笑っているよね。そういうことなのか、それともそうじゃなかったのか、ってことで、ほんと状況によるよ。
それに対して「女性は会議での発言が多すぎる」とかっていうのは、いろんな会議に呼ばれている女性たちの発言を萎縮させてしまうし、すなわち公的な仕事のパフォーマンスに影響することだから、やっぱり失言だよね。森さんの意識だとか、どういうつもりで言ったとかは結局のところ藪の中だから、与えた影響ってことで評価するしかないんじゃないかな。
まぁ男女間のことはポピュラリティがあって、話題になりやすい。でも一方で民族だとか妊婦さんだとか、文字通り少数派になりやすい人たちを傷つけないようにするってのは結構、重い話になるよね。男女間の話はある程度お互いさまだけど、本当の少数派の人たちに対しては、かなり一方的な話になりやすい。ちなみに差別と偏見っていうのは、違うものなんだって。りょんさんも最近、どっかで読んでなるほどと思ったんだけど。
偏見っていうのはお互いに持っているのが当たり前というか、多かれ少なかれ、みんなあるもの。よくはないけど、これは避けられない。で、お互いに偏見を持ってるんだから、お互いさまとも言える。その人の感覚だとか、価値観だとかに手を突っ込んで直すことはできないんだからさ、それはお互いに。「男っていうのは、ほんとに」って女性がつぶやくときに、それは偏見だっていちいち目くじら立てることはないよね。
じゃぁ「女っていうのは、ほんとに」と男がつぶやくと、どうして問題になることが多いんだろうか。それは、それが単なる偏見じゃなくて、差別につながるからってことみたい。差別というのは、権力のある人がえこひいきをしたりする場合に言うんだって。たとえば家の中で、旦那さんが奥さんのヒステリーにぽろっと言うってのは別にいいかもしれないけど、会社の上司にあたる人が女性社員に対して偏見を持つと、そのことで女性たちの待遇が悪くなったりするわけだから、それは差別だと糾弾されやすいってことね。
つまり差別っていうのは社会的なもの。ある会社の中での人生がすべてだとしたら、その差別はその人のクオリティー・オブ・ライフを決定してしまうことになる。それで、日本人はどうしてこの差別感覚が欧米とかよりユルいんだろう。それは日本人の社会に対する感性が多少、欧米人と違うってことが影響してるんじゃないか。
日本人にとって、社会っていうのは昼間のオフィシャルなもので、その外側にそうじゃない世界が広がっているっていう感じ。だから昼間の世界で差別されていても、その外側の世界で、むしろそれゆえの幸せみたいなものを享受してる場合があるんじゃないか、っていうそんな価値観じゃないのかな。
女の人が、あくまで社会で男の人と張り合う。その勝利こそがその人の人生の価値であれば、差別は絶対的に許すべきではないけど、そうじゃない部分で、むしろ女性たちの方が自由に楽しんでいるとしたらどうなんだろう。トータルとしては平等は保たれてるんじゃないか。そんな感覚が日本人にはあるような気がするね。
ユダヤの人だったかなぁ。独身女性でお役所に勤めていて、女性であるがゆえに定年まで低賃金で、そして独り身のままなくなって、男社会の犠牲者っていえるような普通の女性なんだけれども、その方が亡くなった時の遺産が何十億もあったって。役所で軽くあしらわれているってことは定時に帰って、他にすることもないわけだよね。そんな勤め先に夢も希望もないし、生活も淡々としているその女性が、どうやら株式投資か何かですごく才能があったみたい。それって、もしその人が勤め先に張り合いを見出したり、昼間の仕事で誰かと競争して勝つことに夢中になったりしていたら、絶対に見い出せない才能だったよね。
結局、人が望むことを意識して、自ら得ようとすることって、そんなもんなんだって。得られなかったものの方に、むしろお宝が潜んでいたりする。人間の英知だとか、意識だとか理念だとか理想だとかって、限界があるんじゃないのって。そして稼いだお金がすべてではないとしたら、なおのことそうだよね。人生を閉じた時にトータルで、みんなトントンなんじゃないのって思えれば、それでいいっていうか。大事なのは平等そのものより〈平等感〉みたいなものかなぁ。今の社会の全部を肯定するわけじゃないけど、そんなとこかなぁ、って気がする。
平等っていえば、たとえば皇室に対して、男女平等なんだから女性天皇もしくは女系天皇もオッケーにしないとおかしいって議論があるけど。そもそも皇室は、国民と平等ではないからさ。皇室の方が上なのか、それとも我々の方が自由でいいのか、それはわかんないけど、とにかく「国民は平等」の国民の中に、皇族は最初から含まれてないんだから、そこで男女平等とか言っても意味ないよね。
社会の平等を求めて運動する人生も素晴らしいしさ、そういう人がいないと変革していかないし、その平等が達成されれば素晴らしい。達成されなくても、それに賭けて生きることに充実感を見出せるんだったら、いいと思う。だけど、もとから与えられないものに執着するんじゃなくて、その影に隠れている宝を見いだすって、そういう方がパフォーマンスがいいなって思う人も多いし、実際、才能とか容姿だって平等ってわけじゃないんだから、みんなその中で自分の利点を見出して、〈平等感〉を感じられればそれでいいんじゃないか。
りょん
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