社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第二十六回 オンラインカジノII――カフカの鳥居
前回の続き。「投資はギャンブルとは違う」と豪語する投資業界の名士たちが、結構な確率でシンガポールやラスベガスのカジノに通い、それを楽しそうに自慢なさっている。その自慢話は一体何なのか、投資とギャンブルはどこが違うのか、考察を進める予定ではあった。しかし事態は常に考察より先に進んでいく。
広島は宮島へと出かけることになった。宮島にはもちろんカジノはないけれど、海外をビジネスで飛び回るついでにハイローラーとして有名になっちゃったり、世界に名を轟かせるカジノ版の〝ミセス・ワタナベ〟だったりする方々のグループ旅行に、なぜか紛れ込んでしまったのだ。ちなみにミセス・ワタナベというのは、いっときFXの世界で、日本の個人投資家らの資金が多少の幅をきかせたとき、その正体を日本人主婦になぞらえてミセス・ワタナベと呼んだので、すなわち架空の人物である。しかしながらこの広島在住のミセス・ワタナベは実在しており、そのご利益を祈念しての〝お参り〟の旅でもあるらしい。
ホテルにチェックインするまでの時間に、宮島競艇に立ち寄った。カジノはないが、由緒正しい競艇場があり、しかもその二日間が準決勝と決勝戦であった。宮島競艇は平和島と比べると小さくて、そのぶん水面から、特にカーブするときに迫力が伝わってくるという。お天気のときの日差し、風、盛り上がるモーターの音。カジノとはまた違う、爽やかな雰囲気が何よりもよいのだ、とミセス・ワタナベはおっしゃる。ちなみに彼女は競艇にもものすごく強くて、その舎弟によると、マダムが一番得意なのは競艇ではないか、とのこと。ただカジノとは稼げる額が違うらしく、マダムの言を借りれば「今日はおとなしく競艇やってますー」というぐらいになる。
初めて舟券を買ってみて、残念ながら勝つことはできなかったけれど、とっても楽しかった(という小学生の作文のような感想である)。何が楽しいかと言えば、やはり風と音、そしてマダムの凛とした勇姿を見て、なんだか身が引き締まる思いがした。そうか、勝負をする人というのはこういうものなのだ、と身近で見て初めてわかることがやっぱりある。
それは絶対に投資にも、またあらゆる仕事にも通じると思うが、一口に言えば、すべてを我が身に引き受ける覚悟ではないか。「失って困るような資金を投じない」とはよく言われることだけれども、困るも困らないも自分で選ぶことができるのである。困ってみることが今の自分にとって必要だと思えば、それもまたよい。いずれにしても誰のせいにもしないことで、起きたことのすべてが自分のものになるのである。本当の貪欲さというのは、そういうものではないだろうか。
ギャンブルを規制したり、忌み嫌ったりするときに使う言葉に「射幸心」とか「お金をおもちゃにしている」とかいうものがある。しかし考えてみれば「射幸心」と「お金をおもちゃにする」のは正反対のことだ。お金が一瞬で手に入ればすごく幸せだなぁ、と期待する気持ちと、お金を軽く扱おうとする気持ちと、そのどちらもよくないらしい。すなわち労働をし、それに見合った金銭をコツコツと稼ぐ。それ以外のことを考えるのはよくないこと、というのが日本の社会である。社会の都合というか、士農工商の身分制度の中で農民を相対的に高い位置につけ、日々の労働に縛り付けようとした為政者の都合と同じだろう。
日常生活における普通の人間のお金に対する執着、というのは、すなわち労働に費やした自分の時間や心労に対する執着と同値なのではないか。自分の人生そのものに執着するのは当然だと思うが、それが姿を変えたお金への執着は醜い、みっともないともいう。日常の価値観を解き放ち、お金を相対化するようなギャンブラー的な振る舞いもまた規制されて、いったい我々はどうすればよいのであろうか。
一つの銘柄を何十億円分も売り買いするような大投資家も、あるいは世界のハイローラー勝負師も、いきなりそうなるわけはなくて、普通の生活をおくった若い頃がある。だからまともな勝負師なら、そのお金が自分にとっては小額でも、普通の人にとってどういうものかをちゃんとわかっている。たとえば五百万円は、勝負師にとってはたいして感情が動かない額だが、普通の人だと正気を失うぐらい騒ぎかねない。そしてその両方が正しい。大金ではあるが、大したことないといえばない。その両方の価値観、両方の感情を、騙し船がバタンバタンと閉じたり開いたりするように、変えることができなくてはならない。
ただ共通の、バランスのとれた価値観はあって、五百万円はたとえば損失を放っておいてよい金額ではない。すなわち大金である。しかし生きるの死ぬの、というほどのものではない。多少年月をかけて、落ち着いて対処すれば、誰であれそのうち穴埋めはできる。そのぐらいの額である。だとすれば大切なのは、そのかけた年月で本人が何を得るか、ということである。もちろんお金以外に、だ。他人のせいにして騒ぎ立てていては何の成長も見込めない。成長すらできなければ、利子を得ることもできなかった以上、かけた年月のぶん丸損なのである。
為政者たちが身分制度によって狙ったことは、民の大半を無知のまま置くことであった。「射幸心」だとか「お金をおもちゃに」だとか、そういった文言で我々は過剰に守られている。五百万円ぐらいなら死にゃしないのに。そのために我々はいつまでたっても成長が見込めない。一方で、その論理には常に綻びがあり、パチンコや競艇など公営ギャンブルは許されている。
そうするとカジノ、とりわけオンラインカジノとは、である。海外で認可を受けている以上、違法とは言えない。日本人を積極的に勧誘したり、日本人向けのサービスをアピールしたりすることも、日本国内の日本人向けであると証明されて初めて違法となる。胴元が違法でない以上、プレイヤーのみ捕まえることもできない。グレーゾーンと言われる所以だが、グレーなのはオンカジの運営よりむしろ法を適用する「日本国」の輪郭である。もちろん法に是も非もない。法はそこにあるから法なので、誰かにとって必要なくなれば取り払われる。理由もなく、ある日突然に。
カフカの「門」は、そこに入れないから門なのであった。門がなくなれば「入れない」という事態そのものがなくなる。主人公は門が取り払われた瞬間、門前でひたすら待ち続けた自分自身を浪費したことに気づく。それには門番も注意を払わず、彼の人生を守るものはなかった。
宮島の鳥居は生憎、工事中で白い布にぐるぐる巻きにされていた(まぁ、いつ行ってもどこか工事しているが)。門をくぐらなくても焼きガキを売る店は島に点在し、信じられない大きさと汁気であった。
世界に冠たる広島のマダムは、強い精神力と勝負勘では右に出る者がないが、その疲労からかときおり車椅子で移動されている。体調を整えて来春ぐらいに(おそらく大名行列で)東京に遊びにみえるという。だから最後の晩餐ではないけれど、総勢十三人。広島一の料亭旅館で夕飯をご馳走してくださった。隙のない見事な秋の料理で、地元の人でもなかなか訪れることが難しいという。別の祝い事もあって、ファミリーとして固めの杯を交わす。(ゴッドファーザーのテーマが流れる、か?)今までにスロットは一度だけ、地図上に存在しない広尾の米軍将校専用ホテルでまわしたきりの、わたしも。流し込まれたのは勝負師の血である、と思う。いざとなったら堅気のほうが肝が据わるのだから。
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小原眞紀子
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