社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第二十五回 オンラインカジノI――天使も恋する
その昔、中高一貫の女子校にいたのだけれど、中1の終わりに隣りのクラスにそれは可愛らしい人がいるのを見つけた。なんだかマシュマロみたいな、半透明のミルクゼリーみたいな。中1は虐げられて薄暗い地下教室だったし、その後しばらく見かけなかったので、そこに浮かぶ天使か、幻だったのかと思った。
高校になってから同じクラスになって、グループで課題か何かすることになったのだけれど、向かい合わせた机で彼女は課題など一顧だにせず、ずーっと西城秀樹のことを話していた。追っかけなのだそうで、出待ちしていたら秀樹さんに叱られたという。これが他の同級生だったら、バッカじゃないの、というところだが、ただ見とれて聞いていた。こんな可愛いコに出待ちされて、手も出さずに帰すなんて西城秀樹ってアタマおかしいんじゃないか、とか思いつつ(いや立派な方でした)。
彼女は上智大学に進み、ミス・ソフィアに選ばれたとのこと。当然だというより、上智大ありがたく思えよぐらいの勢いだ。卒業後は会うこともなく、それからの噂も聞かないけれど、それでいい。会うのも聞くのも、怖いのである。その代わりというわけではないが、TVで竹内結子というごく若い女優さんを見かけ、あまりに雰囲気が似ていて目を疑った。とりわけ〝“天使も恋する〟というフィラデルフィア クリームチーズのCMの彼女が、まるで重なり合うようにぴったりだった。
竹内結子さんが亡くなったのはショックだけれど、天使なのだから天に還ったのだ、と思うしかない。たしかに世に起こることには、理由も因果もないことがある。起きたことは起きたこと。それは天上で決まったと思うしかなく、ならば地上で騒いでも同じだ。そして地上のわたしたちは、天上に想いを馳せる瞬間を必要としている。登山とか、読経とか、あるいは詩を書くとか、もしくは出待ちもそうかもしれないが、他人にはよくわからない習慣や嗜好はその人にとって天上に繋がっている感覚の何か、ではあるだろう。たぶん普通の同級生に過ぎなかった彼女に、わたしが天使を見たのもそれに近い。
「運を天にまかせる」とはギャンブルそのもので、投資家は可能なかぎりギャンブル性を排除するところから始める。昔の日本では、株屋などと呼んでギャンブラーと同一視する風潮があったけれど、いまやトレーダーといえば技術職であり、外資系ヘッジファンドはエリート集団というイメージが確立している。これは米国を中心に、フェアな取引を前提として知的な者、そして資金力のある者が勝つという合理的な市場のあり方を、日本も少しずつ踏襲した結果だといえるだろう。
しかしそれでは、投資は完全にギャンブルと切り離されたのか。そもそもギャンブルと投資は、本質的にどこが違うのか。投資家はいつも胸を張って「これはギャンブルではない」といい、あるいは「ギャンブルは嫌いだ。勝つのが好きだ」と言う。けれども同時に、100%の保証を得たがる初心者を軽蔑する。ギャンブルと投資の微妙な差(があるとするなら、それ)を生み出すものは何なのか。
投資家がギャンブルとの差を主張するとき、定石として論じられるのが確率論だ。すなわち、この一回のトレードはマイナスかもしれないが、50%を少しでも上回る勝率を出せる手法に沿うならば、トレード回数が増えれば増えるほど、大数の法則によって必ず勝つであろう、という。
論理としてはその通りなので、あとはそれを揺るがす要素を出来るだけ排除するように、手法を確立するのだろう。メンタルによって手法が守られないことはよくあるし、資金も常に同じだけ投ずるわけではない。また論理的には永遠に玉を増やしたり、保持したりすれば勝てるとしても、証拠金不足や期限切れで強制決済させられることもある。一番単純なロジックに従い、あとは資金管理だけを綿密にする、という手法があるが、理にかなっていると思う。問題はその退屈さに耐えられるか、というところにあるが。すなわち上達したい、天にも届きたいという〝よきもの〟としての向上心が、必勝のロジックを崩壊させる。
その向上心は、天に近づこうとするあらぬ欲望と言い換えることもできて、投資に入り込んだギャンブルだ、と非難されるかもしれない。しかし人はそれなしに生きていけるだろうか。ようはその揺らぎを、破滅に結びつかないようにコントロールできるか、ということにかかっている。すなわちギャンブル性を完全に排除したり、否定したりするのでなく、その存在を前提として折り合っていくこと、それこそがトレード技術だといえるだろう。
そもそも投資家が嫌う、いわゆるギャンブラーだって確率の計算や資金管理などを厳密に行っている人はいくらもいる。そして勝ち続け、驚くべき資産を構築した人も実在する。そうなると、それはほとんど投資に近い。〝ギャンブル依存症〟などと呼び、ギャンブルの範疇に属するゲームを麻薬と同列に考える向きもあるけれど、ギャンブルがやめられないのは〝勝てる〟気がするからだ。すなわち勝算があると思えるから、やりたい。チャンスを逃した思いに身を焦がしたくない。「勝つのが好き」なのは投資家だけではない。負ける気がするなら、ギャンブラーだってやる気を失う。
自分の手法を試したい、それによって世界を手に入れたという確信を得たい。そこに投資家もギャンブラーも違いはない。前にしているものがチャートでも、バカラの罫線でも、その心は同じだろう。レベルの差はあれ、たとえばパチンコ好きのオバちゃんだって、勝率が高いと信じる好きな台があるはずだ。
横浜に来るはずだったラスベガスの大手カジノが、コロナ禍で撤退した。地元の反対運動もあったが、わたしは大変残念に思っている。そこで自分が打つ、という姿はあまり想像できないけれど、それはギャンブルが嫌いだからではない。どちらかといえば胴元になることが好きなので、カジノで遊ぶよりIR案件への投資に興味を惹かれていた。それとカジノは本来、お金持ちの優雅な遊びなので、敷居が高いと感じているからである。横浜にカジノはいらない、と言っていた人たちは、パチンコ屋ならいいのだろうか。カジノの周りに高級ホテルが立ち並び、超一流レストランや宝石商が潤い、といったラスベガスやシンガポールのような都市を目指す意識がなければ、横浜は永遠に東京に近い田舎町のまま、東京もまた世界の金融の中心から見放されたまま、と考えたことはあるのだろうか。
とはいえ、起こったことは起こったことだ。撤退したカジノの代表が述べていたように、彼らの、そして時代の軸足はオンラインに移行してゆくだろう。六畳の部屋の隅で、あるいは押入れの中ででも、とんでもないハイローラーがスロットを回し、世界征服を夢見る。それはチャーチストが何百枚ものチャートをチェックし、詩人が詩を書くのとあまり変わらない。バランスをとりながら勝算を見極め、天使が微笑む瞬間を待っている。
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小原眞紀子
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