社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第二十四回 相場を張るII―ヘッジの心
上がったものは必ず下がる。下がったものは必ず上がる。それを見越して、上げトレンドのときに売り玉(ギョク、と読む)を、下げトレンドのときに買い玉を仕込んでいくのが逆張りというプロの技だ。前回はその話だった。なぜなら玉とは利幅をとるためのもので、それ自体を所有する目的ではないから、そこそこ上がれば、あるいは下がれば、必ず人はそれを手放すと考える。
そして一人が(といっても大口のクジラだが)玉を手仕舞ったことをきっかけに、我も我もと後に続く。このようにして上げトレンドは下げに、また下げトレンドは上げに転ずる。しかし、もとの上げトレンド、もしくは下げトレンドの勢いが強いときには、転換に至らない。何人か(あるいは何千人か)に利確されて停滞したのち、また別の買いもしくは売りが入り、もとのトレンドが継続する。この停滞を押し目といって。新たに入りたいトレーダーにとってはチャンスである。
そういうわけなので、たとえば1万円の節目でトレンド転換すると読んでも、そうならずに押し目で終わってしまうか、あるいは勢いよく突破してしまうこともある。もちろんいつかはトレンドは終わるのだが、そうなると、それが9千5百円でなのか、8千円でなのかわからない。そこまでどんどん含み損が大きくなっていく、そんなリスクを回避する手法を「ヘッジを入れる」という。リスクヘッジ、のヘッジである。
たとえば1万円を底値として上げに転ずる、と踏んだとして、1万円めがけて下げていくところに逆張りでどんどん買いを入れていくとする。ところが下げの勢いが強く、1万円近辺になっても上げそうな気配がない。それでも日柄、大局的なファンダメンタル、いろんなテクニカル要素から「必ず上げる」という信念を捨てない場合、買い玉を手仕舞いしないまま、売り玉を入れていく。これを「両建て」という。
両建てとはすなわち1000株の買いに対し、たとえば5万円の含み損が出たところで1000株の売りを入れる。そうすると最初の1000株の買いを手仕舞いした(売った)のと同じことになり、5万円の損は固定され、それ以上は大きくも小さくもならない。この両建てのココロはやってみないとぴんとこないところがあって、「なんだプラスマイナス 0 で意味ないじゃないか。手数料の分だけ損だ」と、初心者は思いがちである。
たしかに1000株の買いに対して、1000株の売りを入れる、という程度の話ならば、元の1000株の買いを普通に売ってしまったところで、両建てと変わりはしない。しかし両方の玉を持つことで、取引が継続している、という感覚を保つことができる。いったん手仕舞ってノーポジ(ノーポジション、すなわち何の玉も持たない状態)にして、それから値動きをじーっと見ていて、また上がりそうならば買いを入れていく、というのでも構わない。けれど、やってみたことがある人ならわかるだろうが、ノーポジになると終わった感が半端なく、その後の値動きを追っていくのがおろそかになる。損したなら損したで、終わりになってしまうのである。
「相場はメンタル」というのは、こういうところにも如実に現れる。数字の上ではプラスマイナス0で同値であったとしても、そこに玉があり、互いに逆方向に上がったり下がったりの値動きがあると、メンタル的には決してノーポジと同じにはならないのである。「玉は少しずつ入れろ」とか「値動きのあるザラ場ではエントリーするな」とか、よく言われることはすなわちメンタルに関わることだ。それは馬鹿にできないし、そして人間、心の動きは誰もが同じ、普遍的なパターンがあるということが重要なのだ。
これは文学にもいえることで、創作や読解のクラスで、明らかに稚拙な、間違ったコメントに「これは僕の感想で」などと言い出す学生がいる。ムシの居所が悪ければ「てめぇの感想なんか聞かされるのは十年早いっ」とブチ切れるわけだが、何に怒っているのか、学生にはなかなか伝わらない。すなわち、自分がちっぽけな、取るに足りない存在である、という感覚を持ってないことを怒っている。甘やかされ、自我を主張するのがエラい、そうしなければ損だ、と思っているうちは絶対に見えてこない自然の摂理がある。その見えてこないことの方が、くだらない自我なんかよりもずっと大事だ。わかろうとしなければ永遠にわからない。そこを怒っている。
話がずれてしまった。たとえば10個×1万株=10万株の買い玉を持っているとして、相場がなかなか上げに転じないとしたら、気が気ではなかろう。そこで様子を見ながら売りヘッジを入れていき、5万株とか6万株とかの売り玉を両建てで持てば、ずいぶん安心するだろう。そしてしっかり上げに転じたと思えば、この売り玉を手仕舞って、元の買い玉で利益をとっていく。ヘッジである売り玉を手仕舞いするときには多少損が出るかもしれないが、そのぶん買いでは儲かっている、もしくはこれから儲かる予定だから、それでよい。このときのヘッジの損失は、安心を買った保険料ということになる。その保険的な要素をぎゅっと凝縮したものが、以前に説明したオプションである。
もっとも、このヘッジで積極的に利益を取っていくこともできる。まず両建てで持っていて陥りやすいこととして、自分が上げを取ろうとしているのか、下げを取ろうとしてるのか、つまり本気でどっちを取ろうとしているんだったか忘れてしまう、もしくはわからなくなってしまうことがある。先の例の逆張りマーチンで、買いを溜めていってるときには忘れようもないけれど、そこにヘッジを入れて、特にフィフティすなわち1:1に近い両建てにすると、底値圏や天井の特徴でしばらく横ばいになったり、上に行ったり下に行ったりしているのに付き合ううち、本当は自分は買い狙いだった、ということがわからなくなってしまうことがあり得る。
ヘッジで積極的に利益をとっていくときは、この自分にとっての「本玉」である買いよりも多く売りを入れる、ということをやるようだ。いずれ上がると思ってるからこそ、買い玉よりももっと多くの売り玉を入れるのである。すなわち下げは続かない、今だけの一時的なものだと思ってるからこそ、多くの売り玉を入れて一気に利益を取り、さっと手仕舞って、上げに転じたときに元の買い玉でゆっくり利益をとっていこうとする姿勢なのである。
なにか不思議だが、この手法は必ずしもお金に関わることでない、一般的な人の心に通じるものがある気もする。本気じゃないからこそ、今だけのものとわかっているからこそ熱くなる。高校野球でも恋愛でも、そんなものとも言えるではないか。本命の彼女と結婚する前に、いろんな女と付き合ってみたいというのも、一種の資本主義的な欲望の広がりとしては、わからないこともない、というような。
まぁ、つまらないとわかっている女と付き合うのは単なる時間の無駄かもしれないし、一時的な副業をするぐらいだったら本業に力を注いだほうがいい、というのも正しいだろう。結局はプラスマイナスでゼロで収入は変わらない、とも計算できるし。ただ、その副業で得たノウハウや人脈があとあと本業にも大きく生きる、ということもある。ビジネスも投資も、人間のやることである以上、数字だけでは測れない。そこは恋愛と変わらないのである。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
株は技術だ、一生モノ!
■ 小原眞紀子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■