男がいて女がいて、二人はふとしたきっかけで知り合った。運命的な出会いではなかった。純愛でもなかった。どこにでもいる中年男女のママゴトのような愛だった。しかし男は女のために横領という罪を犯し、社会から追いつめられてゆく。では女は男からなにを得てなにを失ったのか、なにを奪いなにを与えたのか・・・。詩人、批評家でもあるマルチジャンル作家による、奪い奪われる男と女の愛を巡る物語。
by 文学金魚編集部
名古屋駅に着いたのは夜中の十二時頃だった。男と女は名古屋駅独特の長い地下通路を歩いて東口に出た。雨はまだ降っていた。駅の二本のタワービルが霧雨でけぶっていた。男はこれも名古屋にしかないだろう広大なロータリーを見つめた。タクシーが長い列を作って客待ちしていた。
「涼子、今日はラブホでいい?」
「どこでもいいよ」
小声で女が答えた。付き合い始めの数回は別として、男は女との密会に品川駅近くのシティーホテルを利用していた。女がラブホテルの殺伐とした雰囲気を嫌ったからだった。
何度も会合や接待で利用したので、男は名古屋駅周辺にたくさんのシティーホテルがあることを知っていた。しかしこんな時間にチェックインするのは目立ちそうで気が引けた。タクシーに乗り込むと男は「新栄町まで」と運転手に言った。
駅から繁華街をまっすぐに貫く片側五車線の国道十九号を、タクシーは快調に飛ばしていった。男は三十代の中頃に、地獄のようなノルマ生活を生き抜けば、いずれ誰にでも与えられる課長代理の肩書きをもらって名古屋に単身赴任した。途中でタクシーが、かつて勤めていた会社がある丸の内を過ぎたが何も言わなかった。男と女はタクシーを降りると葵町のラブホテルに入った。
部屋に入ってみるとフロントで見た写真とは違い、壁や床がゴテゴテとした装飾で覆われていた。女は赤い目をしてソファに腰掛けた。男は背広を脱いでハンガーにかけると女の隣に座った。女の身体を引き寄せ顔を上向かせると舌を絡めてキスした。しかし男の手が胸に伸びると「嫌よ、そんな気になれない」と女は鋭い声であらがった。
「ねえ、健ちゃん、お願いだからこれからどうするつもりなのか言って」
女は男の両手をしっかりと握りしめながら言った。男は強引に振りほどくと女の身体をまさぐった。
「嫌だよ」
あらがい続ける女に「それを考えるためにここに来たんじゃないか」と男は言った。
「じゃあなにか考えてることあるの?」
男の目を見つめながら女は聞いた。
「うん、ある。俺はなにも人殺しをしたわけじゃない。確かに二千万は大金だけど絶対返せない額でもない。会社はクビになるだろうし女房とも別れるだろうが、お前さえよければやり直せると思う」
男の口から思ってもみなかった言葉がすらすらと出た。不安でけぶるような目で男を見ながら、「それなら・・・わたしは、だいじょうぶだよ」と女は囁いた。
明かりを暗くした部屋の中で女の白い身体がうごめいた。行為が始まってしまうと女は甘く大きな声を上げて男にしがみついた。最初に寝た時からそうだった。女は成熟した身体を持っていた。
男はそれを嫌だと思ったことは一度もなかった。むしろ敏感に反応する女が嬉しかった。女が自分を求めていることがひしひしと伝わってきた。男は生まれて初めて心と身体が一体になったセックスをしているのだと感じた。
「お前のセックス、すごくいい」
付き合い始めの頃、男は女にそう言った。
「愛してるんだから、当然でしょ」
女の返事は素っ気なかった。
「でもさ、いろんなセックス経験してるんだろ」
単なるピロートークではなかった。男はずっと、女が六年も付き合ったという男のことが気になっていた。女を精神的に束縛しようとした男は、セックスでも女をがんじがらめにしようとしたのではないかと思った。
「おぼえてない」
女はキッパリそう言った。
「別れた男とのセックスなんて、なにもおぼえてないよ。旦那さんとどんなセックスしたのかも、もう思い出せないくらいだよ」
男は黙った。
女の中には、自分との愛の世界しかないようだった。特にセックスの時はそうだった。それが男を駆り立てた。男には女がいつもどこか不可思議だった。そんな女の心と身体を自分のものにしたかった。
男はさらに激しく女を求めた。男の下で女の身体は熱く、ずしりと重く感じられた。女の熱い心を包む身体には、それだけで自足しているようなくっきりとした輪郭があった。宙に浮かんで消えそうなのは男の方だった。
男は絶頂をこらえた。いつまでも女とこうしていたいと思った。
疲れていたが男は眠れなかった。さっきまで胸に顔を寄せ、男の指をいじっていた女は隣りで静かな寝息を立てていた。窓がないので部屋から外の様子はうかがえないが、もう明け方近い時間のはずだった。
男は本当に名古屋まで来てしまったんだなと考えた。名古屋に土地勘があるのは確かだった。また名古屋時代は男のサラリーマン生活の中で、最も楽しい有頂天の時期でもあった。まだバブルの頃で潤沢にあった経費を使い、男は毎晩のように仲間たちと飲み歩いた。片っ端からホステスを口説いて情事を重ねた。短期間だが会社の女の子と不倫関係になったこともあった。
愛や恋は関係なかった。男はそれを遊びと割り切っていた。実際、男はその頃寝た女たちの顔を思い出せなかった。浮気は男の甲斐性という通俗な格言を、似たような生活を送る仲間と口にし合った。利益さえ上げれば女遊びなどなにも問題ないといった、無頼な雰囲気が社内に蔓延していた。
しかしバブルがはじけ、数々の証券不祥事が社会問題になる頃から状況が大きく変わり始めた。熱心な個人投資家が、自己判断で株を売買するネットトレーディングが本格化したこともそれに追い打ちをかけた。男は自分たちの世代の仕事ぶりが急速に時代遅れになってゆくのを感じた。ちょうどその頃また転勤の辞令があった。今度の肩書きは課長で、赴任先は山陰の地方都市だった。その支店で実績を上げれば本店とはいかなくても、首都圏の支社に栄転できることはわかっていた。だが男は気乗りがしなかった。
男は他人が大事に溜め込んだ金を、口八丁手八丁で株などに投資させる証券マンという仕事が、気力と密接に結び付いていることを知っていた。男は二十代の頃からバリバリのトップセールスマンが、ほんの数ヶ月でやる気を失って会社を去ってゆく姿をたくさん見ていた。新たな赴任先でかろうじてノルマは死守したが、男は激しい気力の衰えを感じた。それをかつての上司で本店の部長に昇進している男に相談すると、元上司は「そうか、田嶋ちゃんもそろそろ年貢の納め時かぁ」と皮肉とも憐れみともつなかい声で言った。それでも男がしつこく再就職先のあてを尋ね続けると、「前に儲けさせてやった官僚が役員をしてるんだが」と言ってある会社を紹介してくれた。男はそこに再就職した。東京の会社で、男はようやく単身赴任生活にピリオドを打つことができた。給与は全盛期の三分の二ほどに減ったが、よほどのことがなければ生涯年収を計算できるような安定した職場だった。
「どうしてそんなにしょっちゅう法事で帰らなくちゃならないの?」
ダイニングテーブルで、男は妻と向き合って座っていた。妻の化粧っ気のない顔が怒りで赤らみ、眉根に深い皺が刻まれていた。ちょうど転職したばかりの頃だった。「頼むよ、姉貴の七回忌なんだ」男は細い声を出した。
「お姉さんの七回忌って、去年、お父さんとお母さんの十三回忌で帰ったばかりじゃない」
「それとこれとは別なんだ」
「何が別なのよ! あなた、去年、帰った時に当分法事とかはないって言ってたわよ」
「そうだっけ」
男は言葉を濁した。一年違いで死んだ父と母の十三回忌を去年まとめて行った時も、妻との間でいさかいがあった。ほとんど香典と法事代だったが三十万円ほどの出費を妻は渋った。金は出してくれたが妻も娘も法事には出なかった。法要に出席した時、男は義兄から、今年は姉の七回忌をとり行うと聞いていたが言い出せずにいた。男がそれを口にしたのは法要のわずか一週間前だった。
「とにかく今回はダメです。お金は出しません」
「頼むよ・・・」
男は細い声で繰り返した。しかし妻の気持ちを変えられなかった。男はしかたなくテーブルから立ち上がり、ソファに座るとテレビをつけた。昔気質の男のように、俺が稼いだ金じゃないかとは言えなかった。
「パパ、集中できないよ」
リビングの隅に置いた机で勉強していた娘が男の背中に声をかけた。
転職で給与が減り、家計が苦しいことは男も知っていた。娘は水泳とピアノの習い事のほかに、来るべき中学受験に備えて学習塾や英語教室にも通っていた。成績が伸び悩むようなら家庭教師も付けたいと妻は言っていた。男はそんなに金をかけてこの子を将来なににするつもりだと妻に言いたかったが口には出さなかった。そんなことを言えば、「なにもわかってないくせに気紛れに口出さないで」と反論されるのは目に見えていた。単身赴任が長かったこともあり、男は学校での娘の様子や受験戦争にうとかった。積極的に知ろうともしなかった。確かに男には妻の教育方針に口を出す資格などなかった。
男は黙ってテレビを消して窓の外を見た。隣接するマンションやアパートの間から狭い空が見えた。泣きたい気分だった。男は法事に出席できない理由を義兄や親戚にどう説明しようかと考えた。いいアイディアは思いつかなかった。前日か当日の朝に、急な病気で行けないとでも言うしかあるまいと思った。それでも香典は送ってやる必要があった。男は思い悩んだ。
結局妻は、帰省の費用を渡してくれた。電車代にきっちり一万円が足してあった。「これでなんとかして。今後一切こういうお金は出しませんからね」と妻は言った。「ありがとう。恩に着るよ」と言って男は金をポケットにねじこんだ。ほんとうはそれではとても足りなかった。義兄や親戚への土産物代だけで一万円は消えるはずだった。男は役員に事情を話し不足分の金を借りた。それは妻には内緒の、年に数回ある出張の臨時手当で返した。
「ありがとう。恩に着るよ」
自分で発した他人行儀な言葉が男の身体の中で鉛のように沈殿し、次第に全身に毒を拡げていった。
男の実家は福井の海沿いの小さな町にあった。海岸は石ころだらけで海水浴にも漁業にも適さず町は貧しかった。地場の零細金物工場に勤めていた父は、男が二十四歳の時に四十九歳の若さで咽頭ガンで亡くなった。翌年、母が後を追うように胃ガンで死んだ。さらに男が三十一歳の時に姉が乳ガンで逝った。まだ三十四歳だった。男は一人ぼっちになった。次々に肉親を失ったこともショックだったが、自分もいつかガンで死ぬと思った。
父母の死後、実家には姉夫婦が暮らしていた。男は法的には実家の土地の半分の権利を相続していたが、そんなものは売ってもいくらにもならない。実家は義兄と姉の子供たちのものだった。故郷を離れる年月が長くなるにつれ、子供の頃は「健ちゃん」と呼んでいた親戚の人たちが、いつしか「健介さん」と呼ぶようになった。住んでいないので地縁が失われるのは当たり前だが、血縁も徐々に遠ざかってゆくような寂しさを男は感じた。
「俺にはもう帰るところがないんだ」
今よりも夫婦仲が良かった頃に、男は冗談めかして妻によくそう言った。そのついでに余裕もないくせに、お中元だお歳暮だ法事だ進学祝いだと互助会のように親戚同士で物や金をやりとりする田舎の形式ばった習慣をこきおろした。しかしそんなに簡単ではなかった。男は故郷が懐かしかった。自分のものでなくても実家に帰ると心が落ち着いた。だがそんな錯綜した思いを言葉にまとめることはできなかった。たとえ話しても、妻はもう耳を傾けてくれないと思った。
男と違い妻は東京寄りの千葉の裕福な家の娘だった。義父は勤め人だったがベッドタウン化で代々の土地を売り、残った土地に賃貸住宅を建てて経営していた。結婚を申し込みに行った時に「証券マンなんていうヤクザな商売をしてる男に娘はやれない」と言われた時から男は義父と折り合いが悪かった。妻は娘を連れて頻繁に実家に帰ったが、男は寄りつかなかった。それでもマンションを買うことになった時、義父は妻の名義で相当額を援助してくれた。残りは男の名義でローンを組んだ。男は自分の手でつかんだ居場所ができたことを喜んだ。しかしそれも今回の件で永遠に失われるのだった。
「あなたって、なに考えてるのかちっともわからないわ」
遅く帰った男に夕食の支度をしながら、妻はよくそう言うようになった。男にも妻の心がわからなかった。新婚時代など遠い昔だった。なぜ結婚したのかもわからなくなっていた。普段からの男の無口がさらにつのった。小さかった頃は帰るとすぐに甘えてきた娘もめったに男と話そうとしなくなっていた。男は家に寝に帰るだけになっていた。
男はローンを払い続けていたが、家はもう妻と娘のものだった。男はそれでもかまわなかった。男は娘が可愛かった。この子のためならなんでもできると思っていた。しかしときおりふと、娘もすでに妻のものであるような気がした。男はそんな気持ちを振り払うように闇の中できつく瞼を閉じた。娘の顔が浮かんだ。娘が自分を憎めば、本当にこの世での居場所がなくなると思った。
「寝ちゃった」
男の横で女がものうげに身体を動かした。男は目を開け、「おはよう」と囁いて女の柔らかい身体を抱きしめた。娘のことを頭から振り払った。今日と明日だけは娘や妻のことを忘れようと心に決めた。女が今にここにいっしょにいてくれる、自分を決して見捨てないこの女を大事にしようと思った。
(第04回 了)
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