「中田永一百科事典」という特集だ。中田永一は恋愛小説の書き手で、覆面作家だそうだ。覆面作家というものがいまだに存在可能なのか、ということに驚いた。すべての隠し事が不可能になっているような現在、それ自体がやたらロマンチックな感じ。
特集はだから、その覆面作家ということのあり得なさを面白がっているようでもある。文芸誌もウェブなどの影響からか、ヴィジュアルになってきてるし、特集となると写真が不可欠だ。まあ、顔写真をさらしたところで、よほど特徴でもないかぎりはスルーされる世の中でもあるが。
特集はその辺りをひょいひょいかわして、「証言集 中田永一の影」という記事で、面識のある人々 (ライターさん、書店員、TSUTAYAの店員、編集者) の声を収録する。記事のタイトルは何やら有吉佐和子ふうというか、戦後ミステリーっぽいけど、それぞれが語っていることは極めてフツーで、秘密も何もなさそうだ。つまり、それ自体が「文学的なるもの」とか「ロマンチックな韜晦」に対するパロディみたい。
書店でのサイン会などに気軽に応じるというのだから、「覆面」というより、本名と勤め先と出身校を明かしてない、というぐらいのことだろう。それも「証言」するような人たちはみな承知していて、この「覆面ごっこ」に参加しているだけともとれる。
そう思い始めると、「証言集」のうち小学館の石川さんという人が、「中田永一に似ているとよく言われる」などと言うのが怪しくて、だいたい他の証言者がライターだの書店員だの、出版社の身内っぽいのばっかりなのも変な気がする。
まあ、もし中田永一という作家が、その人を持ち上げる出版社の編集者とかだったら「覆面」にする理由もわかるというものだ。っていうか、そういうことでもないかぎり、絶対に人前に出ないわけでもない人に対して、「覆面」なんて大仰な言葉を使う理由もなさそうだが。だいたい全体、楽しい冗談だよね。
それで私たちには、中田永一という人の職業なんかどうでもよくて、つまりは中田永一さんが出版社の社員であろうとなかろうと、いまや作家というのは所詮は「業界」の身内の一人という以上のものではない。外部ライターか内製要員かって違いだけで。作家が「覆面」という路線をとるなら、それは業界の関係者たちが「演出」するものなのだ。
恋愛小説家、という枠組みは確かに、その演出がある程度は有効だと思える。現実にはどんな理由があるにせよ、そこには「内面」が存在しているかのように映るし、「恥ずかしがり屋」とか「傷つきやすさ」とか、ある種の「不可能性」とか、恋愛現象と相性のいいタームでくくれるというのは悪いことではない。
人嫌い、女嫌いの『恋愛小説家』という映画もあった。恋愛が幻影ならば身内の力を総動員し、それを補強していこうというのは、恋愛小説専門の文芸誌としても覚悟のあることでよいかも。
長岡しおり
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