今回は、表紙と、写真家・ホンマタカシの連載第6回「きわめてよいふうけい 写真の翻訳/暗室にて」を取り上げる。氏は98年に写真集「TOKYO SUBURBIA 東京郊外」で木村伊兵衛賞を受賞した気鋭の写真家であり、現在も巡回展「ホンマタカシ ニュー・ドキュメンタリー」が香川県丸亀市の猪熊弦一郎美術館で開催されている(7月15日—9月23日)。本連載は、この巡回展(2011年1月—3月・金沢21世紀美術館 4−6月・東京オペラシティ)と、東日本大震災を前後する2年間の、写真家の仕事と日々の想念を、数枚の写真と文章で記録している。
「きわめてよいふうけい」の連載開始が2010年夏号で、以来en-taxiの表紙はホンマタカシの写真を顔にしている。今号含めて6枚の写真が表紙を飾ったが、連載の内容に基づく写真でありながら、同じく表紙に記載されている他の特集タイトルなどともトーンが合っている。そのため、表紙写真のイメージは、連載の一部という枠をはみ出して、en-taxi各号の個性の一因ともなり得、ひいては読者の読み方へも影響を与え得るものだろう。
特に今号は、レトロスペクティブな二つの特集「ラストワルツ・スペシャル」「歌謡曲の残影、いや、永遠」そして最も眼を惹く「池澤夏樹『漂い、さまよう死者とともに』」という重松清の連載、それらの表題の文字情報と密にイメージを絡ませている。
写真は、ホンマタカシが一年ぶりに訪れた写真家・金村修の暗室の一角だ。一年ぶりというのは、東日本大震災の翌日に訪れて以来とのことである。この一年という時間の尺度は、重松清の連載でも共有されている。池澤夏樹と一緒に被災地を訪れた2012年の3月15日という一年後。さらに外部の光から遮断された暗室のイメージが重なる。ホンマタカシは、外部の光をとくべつ無機質に表現している――「唐突に視覚情報である包囲光配列が構成された(p.190)」。暗室を、金村の目と手で他人のネガから「写真の翻訳」が行われている有機的作業場であるとの認識があってこその表現だろう。ホンマ自身の言葉を引けば、ネガは「写真の一回性(2010年夏号 p.5)」の痕跡だ。その日のその瞬間と、そこに居合わせたその日の自分だけが出会った瞬間は、後日再現できないものだという。そのような一回性は、池澤夏樹が死者を想う手がかりともなる。震災の、大勢の不慮の死と、彼・彼女らの未練を本当に見つめるときには、記号化された3・11ではなく、故人の命日として、それぞれの3月11日に目を向けなければならないと。復興の希望の象徴として幾度も報じられた一本松だけでなく、被災の現場には一本だけ残された木々が多数あるという――「たくさんの人が亡くなった土地に一本の木がたたずむのを見て、これは墓標だ、慰霊塔だ、と感じる人がいてもいい(p.19)」。池澤は震災の三ヶ月後、6月11日の黙祷のサイレンの瞬間に、暗闇の中にあの日の死者たちを感じていた――「背を伸ばして目を閉じると、遠くで死者たちがざわざわと立ち上がった(p.15)」。「その一回性」を見つめるには、特別な光源がいる。暗室の赤い微光と、池澤の瞼の裏の仄赤い血流が、表紙の写真で交わっている。
「きわめてよいふうけい」――この連載タイトルは、ホンマタカシが写真家・中平卓馬を撮った同名のドキュメンタリー映画に由来するらしい。第一回の文中で、彼はそれを「映画でも写真でもない中途半端なもの」と評している。以後、連載は、新たに写真と文章によってドキュメンタリーを撮り直しているかのように、中平卓馬を軸に回を重ねてきた。今号で、金村修が焼いているネガも、中平から頼まれたものだ。ネガを自分で選んで焼いていると、自分の写真を焼いているような気分になると金村は言う。金村が選んだものの中には、中平と定期的に会っていて親交があるホンマでも初めて見るカットがあったりする。カットの選択、プリントの工程が、他者の視界で行われる。写真は他者が実現するものだ。たとえ全てを写真家本人が行っても、「写真の一回性」の原理で考えるなら、後日写真を現像しプリントする本人は、もう撮影時の本人ではない、他者ではないか。――「でもボクはそれが写真というメディアの本質だと思う。その他者性こそが写真の本質だと思う。(中略)だから写真家は自分にとっての作家としてのアイデンティティや物語で悩む必要など本来はないのではないか(p.196)」。
他者の視界は、「ラストワルツ・スペシャル」とも関連する。この特集は、吉本隆明をはじめとした故人12名の追悼文特集なのだが、巻末の編集後記ではこう述べている――「13名の執筆陣が3枚で腕を競う追悼」。つまりこの特集は、執筆者が限られた紙幅で腕を競って伝える故人の一姿、執筆者(他者)のアイデンティティが色濃い故人の翻訳といえる。自分だけが実現できるカットがある、と。
ラストワルツでは一故人を一執筆者が翻訳し、その人独自のワンカットを伝えたが(吉本隆明にはツーカットある)、「歌謡曲の残影、いや、永遠」では、歌謡曲という曖昧で巨大な一対象に、8名の執筆者がそれぞれのフレームを向ける。森進一や橋幸夫について書いてマクロに捉えるか、あるいは歌謡曲の何十年を収めた広角の風景を切り取るか、方法は八者八様だ。しかし、前7名がセピア写真を見せ合うなか、唯一人しんがりの菊池成孔が、残影でもなければ、永遠化の碑文を刻むのも尚早と、歌謡曲に対してあたかもビデオを回し続けている様は、一特集のみならず雑誌全体のイメージに自己批判的で痛快だ。
このような構成に、編集の意図はどの程度反映されているのか。企画段階で、ある程度はコンテンツに共有項目を期待することはできるだろうが、少なくともホンマタカシの暗室のエピソードと池澤夏樹の6月11日のエピソードの二重写しは、偶然生まれたものではないか。菊池成孔の例もある。編集部主導とは縁遠そうな「雑多さ」が特徴の本誌なら尚更のこと、ばらばらに集まった記事原稿に留め金を打つべき交点を見つける作業が、文字通り雑誌を編むことといえるのではないか。今号ではその出来映えがいい表紙を作ったように思う。レトロスペクティブな視界が、眼裏に、暗室に、追悼の灰色紙面に開けている。その入り口として。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■