Interview:第3回文学金魚新人賞受賞記念特別インタビュー
原里実:一九九一年生まれ、東京都出身。二〇〇九年東京大学文科三類入学、一三年教養学部生命・認知科学科卒業。卒業研究テーマは人を好きになることと感情の記憶との関連について。
青山YURI子:一九九〇年生。武蔵野美術大学中退後、二〇〇九年に渡西。Selectividad受験後バルセロナ大学文献学部、芸術学部に計四年通う。作家を志し休学後退学。ベルリンに十ヶ月滞在。
第三回文学金魚新人賞は、原里実さんと青山YURI子さんという、ほぼ同い年の女性作家になった。これも偶然だが、受賞時にお二人とも海外に滞在しておられた。青山さんは昨年(二〇一六年)開催の文学金魚大学校セミナーのリード小説公募で、大賞(山田隆道氏選)も受賞しておられる。作風は異なるが、今回は十分に新しい作家の息吹を感じさせるお二人にお話をおうかがいした。なお原さんの最初の小説単行本は、今秋、金魚屋プレスから刊行される予定である。
文学金魚編集部
■海外生活について■
金魚屋 原さんは最近までイギリスにいらしたわけですが、なぜイギリスに住もうと思ったんですか。
原 イギリスを選んだことに深い理由があったわけではないのですが、外国に住んでみたいという気持ちがありました。
金魚屋 イギリスって、ちょっと退屈な国ではないですか?。
原 観光だったら行かない国だったかもしれません。でも、住んだらおもしろかったです。島国だからでしょうか、日本と似たところがあるなあ、ということを行ってから思いました。
金魚屋 青山さんはずっとスペインですか。
青山 今、ビザとかでややこしくなってますが、トータルで六年くらい住んでいます。最初に行ったのが十九歳の時ですから。
金魚屋 バルセロナですよね。ということはスペイン語とカタルーニャ語ですか。
青山 大学の授業は全部カタルーニャ語です。
金魚屋 じゃあ読み書きの能力は十分ですね。
青山 それができないと、授業を受けられませんから。
金魚屋 第一回文学金魚新人賞を受賞した大野ロベルトさんは、お父さんがバルセロナからちょっと離れたエル・ポアルという小さな町の出身だそうです。彼は英語とフランス語はできるようですが、スペイン語は不得意らしい。
青山 記憶が曖昧なんですが、確かカタルーニャの記事をネットで検索していて、大野さんの小説『エル・ポアル』が引っかかって読んだのが、文学金魚を知ったきっかけなんです。あの作品はカタルーニャあるあるの面白さもあったんですが、普通の商業文芸誌では読めない作品だなぁと思いました。
金魚屋 原さんは二年連続で文学金魚新人賞に応募していただいて、一作目は記憶に残ったんですが、短すぎたので、ちょっと躊躇してしまったという経緯があります。二作目で今回文学金魚新人賞を受賞した『レプリカ』は、これも長い作品ではありませんが、一作目と共通したしっかりとしたテーマがありました。
青山 なぜわたしの『ショッキングピンクの時代の痰壺』が、文学金魚新人賞を受賞したのでしょうか。
金魚屋 選評で辻原登さんが書いておられたように、新しい文学の力を感じ取れたからでしょうね。もちろんどの作家も一作で力を判断することはできないですが、新人は〝新しい人〟であり〝新しい作品〟を求められます。それがあったということだと思います。お二人は大学時代とかに、文学仲間はいましたか?。
原 いないです。
青山 仲間どころか自分も学生時代は文学というものに触れていなかったです。元々アートが好きだったんです。小説というか文章を書き始めたのは、スペインに行ってからです。初めてスペインに行った時に、語学勉強のため村上春樹さんの本を買ったのを覚えているので、その時までは春樹さんしか知らなかったということです。それから二十歳の頃にナボコフに出会いユーモアに圧倒されました。三行に一回、これはヤバイ…という描写に出会って、文学の力を知りました(笑)それをきっかけに読み書きを始め、同じ理由で島田雅彦さんにもはまりましたね。一時帰国した際に「芥川賞落選全集 上・下」を揃えたりして。その後はイタロ・カルヴィーノなどの実験作家に夢中になっていきました。自分が美術に見ていたことを、小説でもやれそうだと気付き、それから文学にのめりこむようになりました。
金魚屋 元々は美術家志望だから、武蔵野美術大学に進学されたんですよね。
青山 高校生の時は理系だったのですが、進路を決める時になって現代美術が好きになり、アーチストを目指すようになりました。
金魚屋 どういうタイプの現代美術がお好きなんですか?。
青山 展示作品や方法、場所が限定されていないようなものが好きでした。クリスト&ジャンヌ=クロードとか、実在の都市にある建物を布でぐるぐる巻きにして、それを写真に撮って作品にしちゃうようなアートです。そういう大規模パブリック・アートが好きでした。クリストだけじゃなくて、その頃は実験的という意味でジョン・ケージ、ナムジュン・パイク、詩的センスではボルタンスキー、ソフィ・カル、視覚的にはエルネスト・ネトのストッキングにスパイスを入れた作品など、著名な作家たちに片端から感銘を受けました。
金魚屋 一昔前の大学生には知恵熱コースがありました。現代アートだとデュシャンから始まって、ポップ・アートやアンフォルメルを経由して、ヨーゼブ・ボイスとキーファあたりに行き着くようなコースです。そういう知恵熱コースと青山さんの現代美術への情熱は、ちょっと違いますね。青山さんの場合は、お書きになっている作品と現代アートとの相性がいいわけでしょう。
青山 現代アートへの情熱はもう十年は続いています。誰でもアイデアはたくさん湧くわけですが、それを本当に実現できてしまうのが現代アートの世界だと思います。次々にアイディアを形にしていく作家たちに夢中になったし、厳しいけれどそれが職業として成り立つ世界があると知った時は感動しました。当時も今も、不可能を可能にする、非現実的な現実を作り出す、今までに見たことのない光景を生むために試行錯誤することへの憧れに憑かれています。スペインの大学を受験しようと思ったのもその考えの影響で、本当に入れるのかイメージできなかったからこそ挑戦してみたかったし、非現実的な現実を手に入れたいという気概に満ちていました。自分の中で叶ってしまったと思った時に、今度は別の考えに取り憑かれるようになりました。
■文学とアートについて■
金魚屋 美術は美術で限界があるし、文字は文字でやれることが限られています。そのあたりは意識したりしますか?。
青山 わたしは文字もアートと一緒で、一つのマテリアルとして捉えています。視覚アートの世界には、絵画とか彫刻とかいろいろありますが、言葉というマテリアルも絵の具や大理石と同じものとして捉えています。もちろん、それぞれの素材の特性は違い、個人的な向き不向きがあると思います。例えば私は立体センスがない方なので、言葉という選択肢を増やしました。
原 文字をマテリアルとして捉えるというのは、とても面白いと思います。それはスペインに行って、外国語に囲まれているということと関係があるんですか?。
青山 あると思います。始めはスペイン語とかの勉強をしていたんですが、外国語ってまだ習得していない時期に、文字が視覚的に、マテリアルとして現れるようなところがあるでしょう。ヒントは与えられるけれど読み解せない文字群、象形文字みたいなものです。なにか塊としていじれる気がしてきたのはそれからです。言葉をマテリアルとして捉えるという意識は、外国語を勉強し始めてから目覚めたと思います。
金魚屋 青山さんは、自分で変わった小説を書いてるなぁという意識はありますか?。
青山 ないです。
金魚屋 そうだよねぇ(笑)。
青山 どうしようって思ってます。しっかりとした小説も書きたいです(笑)。
金魚屋 ちょっと前に文学金魚に発表なさった『即席短編』という作品は、「寝てポテトチップスを頬張る人は牛になる」で始まります。日本の俚諺なんですが、舞台はスペインですよね。あれはどういうコンバインですか。
青山 スペインの感覚で日本を再現したり、今度は反対にスペイン社会を日本の感覚で描いたりして、その交換をしてみたかったんです。
金魚屋 ああいう作品が、日本文学の世界では、前衛的に、とんがった作品に見えるという感覚は、ないですよね。
青山 ないです。日本的な前衛的文学という定義が、そもそもわからない(笑)。
金魚屋 『ショッキングピンク』のような作品が、青山さんにとって快感なんだろうなということは伝わってきますよ。
青山 人の心とかがあまりわからないんです(笑)。人の心を、いつも外側から書いてしまうという感覚はあります。枠をいじるのが好きなんだと思います。
金魚屋 高校まで理系だったことも影響してるのかな。文学金魚に書いている著者では、三浦俊彦さんが数理論理学でベースは理系ですし、遠藤徹さんも、東大農学部から大学院は英文学ですから、基本は理系です。ベースが理系の人から見ると、日本文学のジャンル分け的な制度が、息苦しく感じられるようなところがあるかもしれません。青山さんは『ショッキングピンク』で音楽とか現代アートをコンバインしていますが、現実に本にするとなると、いろいろ制約が出てきます。理想の本といったイメージはあるんですか?。
青山 小説は小説らしく仕上げたいという欲望もあるんです。でも同時に、アートブック的な本を作ってみたいという願望もあります。文字がずーっと続いていて、次のページをめくるとコラージュになっているとか。美術家の作る本にはおもしろい物が多いんです。身体の部位に即して五つに分かれた本とかあって、五つのピースを合わせて一つの作品(=身体)になるんです。形も普通の四角じゃなくて、上部だけ波打っていたりします。本の形一つにしても、物語世界の延長として工夫の余地があると思うんです。アートブック界の本の作り方を、小説の枠でもしてみたら面白いんじゃないのかと思っています。中に小説を入れるだけです。
金魚屋 小説家志望の人は、普通は小説を書こうと思って書き始めて、ありきたりの小説じゃイヤだから、ちょっと頑張って、中途半端な前衛的小説になることが多いです。でも青山さんは前衛といった意識がなくて、結果として前衛的な作風になっていますね(笑)。
青山 でも『ショッキングピンク』という作品は、本当はオチを見つけようと思っていたんです。
金魚屋 『ショッキングピンク』くらい圧が高いと、一篇まとめるのも大変だと思いますが。
青山 若い時は、小説的な普通のオチがイヤだという感覚はありました。だからそれから逃げ、後で考えようと放置しているうちにそのままになってしまったものも多いですね。
金魚屋 今もまだ若いですよ(笑)。
青山 だいぶ大人になりました(笑)。『ショッキングピンク』を書いていたころは、まったく違うモチーフを並べて、繋がるポイントを見つける作業をしたいと思っていた時期でした。でもそれはとっても大変で、結果としてはそのまま放置してしまったようなところがあります。
原 最初は全部一つの作品としてまとめようとしたということですか。
青山 一編一編を、もっと完成させて出したかった。結局はまとめられなくて、文学金魚新人賞に応募するときは、どれもオチのない、同じ時代に書いた短編らしきものを出すという形になりました。最初は画家の話から始まって、最後にモーニング娘。が出てくる話を考えていても、そこまで気力がなくて、現状のような形になりました。
金魚屋 青山さんは本気だから面白いんだな。小説のテクニックとかそういったものを超えている。小説は文字だから、前衛は、頭でっかちになって抽象的に見えてしまう。でも青山さんの小説は抽象じゃなくて、具体的な手触りがあります。どこまで続けられるのかはわかりませんが。
青山 けっこう根気が必要ですね。途中で投げ出してしまうことも多いですから。普通の物語のオチがイヤっていう時期は、それを避けるだけで終わってしまった作品も多いです。
■外国で小説を書くということ■
金魚屋 スペイン語に囲まれて日本語で書くのは、書きにくいとか思いませんか?。
青山 むしろその方がいいです。スペインで日本語で書くのは最高です。自分の都合のいい時だけ人とつながって、自分の都合でここは外国で知らない異文化の人たちに囲まれているんだって捉えられますから。人に囲まれているんですが、自分の部屋にいるような感覚があります。自分をいつも見つめていられます。
原 わたしもその感覚はなんとなくわかります。日本語に囲まれていると、逆に注意力が散漫になるようなところがありますね。
金魚屋 青山さんは、今どういうルーティーンで動いているんですか?。
青山 近年はホントに無茶苦茶なんです。学校の籍は去年まであって、行きつ戻りつしていたんです。でもヨーロッパの大学は出入りが簡単ですから、八年間のうちに、どれだけ抜けてもいいんです。授業料も国立だと年十万円くらいと安いですし。今はドイツに行きたいとか、やりたいことを今やるという感じにしていたら、無茶苦茶になってしまいました(笑)。母親が若い頃に海外にいて、今は日本で仕事していますが、海外に残ったままならどうなっていただろうか、と言っていたのを聞いて育ちましたから、自分はそちらを生きてみたい気持ちがあります。
金魚屋 文学金魚新人賞には『ショッキングピンク』と『コラージュの国』という短編連作二作を応募されましたけど、後はどのくらい作品があるんですか?。
青山 けっこうたくさんありますが、洗練されてないです。
金魚屋 完成してないってことですか?。
青山 書きっぱなしなので、そうとう整えないとダメです。数年前に四百枚くらいの小説を書いたんですが、それは自分の生活なんかが反映されていて、あまり人に見せるような作品ではないです。それはストーリーがある小説なんですが。
金魚屋 ストーリーがある(笑)。でも四百枚の作品だと、プロットがないと続かないですね。自分の生活が出ているのは、自伝的小説ってことですか。
青山 いや、違います。自分の生活を、ちょっとデフォルメして書いた小説なんです。外国暮らしの生活の部分とか、実生活そのままなんです。
金魚屋 自分の生活が反映されている小説は、イヤなんですか。現実の人間関係を書いたってことですか?。
青山 そうではないんですが。『ショッキングピンク』第六回に『『変形』第一章』を出したんですが、それがその小説の一部です。高校時代に好きな人がいて、ずっと会わないでいると、自分の中でその人のイメージが変わっていきますよね。環境にも作用されながら。そういったことを延々書いたんですが、よく書けている部分とすごくダメな部分が混在していて、もっと整理しないとものにならないです。
原 その小説は完結しているんですか。
青山 最後まで書いてあります。
金魚屋 普通の小説は、基本物語だから、読者はストーリーを追って読んでいきます。だからこういう結末になったというところで読者は納得する。でも青山さんの小説は、作家が「飽きた」と言って途中で投げ出しても成立するでしょうね。そのくらい圧が高い。作家が本気だからでしょうね。
青山 それってダメですよね(笑)。
金魚屋 いや、そこが面白い(笑)。
青山 今スペイン語で書いているんですが、ほんの一週間くらい前に、本を数冊出しているセミプロの作家に自分の作品を見せて、文学賞に応募してもいいかって聞いたんです。そしたらぜんぜんダメだって言われました(笑)。
■恋愛小説について■
金魚屋 小説のレベルの問題もあるけど、文学新人賞というものの性格もあるでしょうね。文学新人賞はあらゆるタイプの作品を受け付けているような顔つきをしていますが、実際は出版社やメディアごとに好みというか、癖があります。日本の商業文芸誌を例にすると、ある文芸誌を一年くらい読んでその雑誌の好みを把握しないと、なかなか新人賞という敷居を超えられない面はあります。原さんは以前、三田文學の佳作に選ばれていますが、なぜ三田文學だったんですか。三田文學は慶応大学が出している文芸誌で、ちょっと言いにくいですが、慶応出身者か卒業生でなくてはなかなか受賞できないですが(笑)。
原 じつはどこの文芸誌に応募しようとかをあまり考えていませんでした。
金魚屋 原さんは文学金魚で『レプリカ』と『海辺くん』、それに『水出先生』の三篇を発表しておられますが、どの作品を読んでも男の影が薄い。観念としての恋愛という印象が非常に強いんですが、それは意識しておられますか?。
原 うーん、あまり意識していないですね(笑)。
金魚屋 高校生くらいから小説をお書きになっているんですか?。
原 最初に書き始めたのは中学生くらいだと思うんですが、原稿用紙にすると二、三枚くらいしかない、ちょっとストーリーがある短い詩のような書き物だったんです。それがちょっとずつ長くなっていって、だんだん小説らしくなっていきました。
金魚屋 本格的に書き始めたのは大学に入ってからですか。
原 いつから本格的に書き始めたのかはあやふやですね。中学生の頃からはじめましたが、集中的に書く時期もあれば、まったく書かない時期もあり、ただ書きたくなるときが定期的におとずれ、そのたびに少しずつ短いものを書いていました。本当に、書きたい物を、好きな時に書いていたという感じです。三田文學さんで佳作をいただいた作品は、あれも三十枚くらいの短い作品なんですが、ある程度の長さがあって、最初から終わりまで一つの物語として書き上げることができた最初の作品だったように思います。できたと思って、誰かに見せたくなっていろいろ調べていたら、ちょうど三田文學さんの新人賞が締め切り間近だったので、これは何かの縁かもと思い応募してみたんです。
金魚屋 大学では何を勉強なさったんですか?。
原 心理学です。
金魚屋 心理学は幅広い学問ですが、どのあたりのジャンルですか?。
原 わたしは文系で大学に入ったんですが、卒業した教養学部は文理の中間のような学部です。東大には心理学科が三つ、文学部、教育学部、教養学部にありまして、わたしは教養学部の心理学科に行きました。多分、三つの中で一番理系に近い学科だと思います。わたしは個人の心理を研究する心理学より、どちらかというと、生物種としての人間がどう世界を認知しているかを扱う心理学に興味がありました。心はあやふやだと言われますが、実際はそうとも言えず、科学的と呼べる実験で測ることもできるということが、すごくおもしろいと思ったんです。
金魚屋 統計学でもありますね。そうすると一般教養とかで、フロイトからユング、アドラーまでの心理学をおさらいするといったことはしてないんですね。
原 やっていないですね。そのかわりといってはなんですが、哲学とか社会学とか、量子力学入門とか、気になる授業は「心理学」の範疇外でもわりとなんでも受けられました。「脳は見たままに世界を認知していない」とか、「人間に自由意志はない」とか、「この世で起こることはビッグバンのときから(ほとんど)すべて決定されている」とか、「人間が一定の数以上集まると集団としての傾向を持ちはじめる」とか、SFの世界みたいな信じられないことを先生がまじめにしゃべっていて、なんとなく、「わたしたちが世界のことで理解できていることなんてあまりにも少ないし、たしかなものなんて何もないんだなあ」と思いました。その感覚はいまでも少しあります。
金魚屋 乱暴な言い方をすれば、文学的比喩としての心理学を排除して、実験心理学で人間の行動を読むという学問をなさったわけですね。大学時代に小説とか文学の仲間はいましたか?。
原 いないです。大学生のときは文学少女ではありませんでした。
青山 わたしもいないです。そういう知り合いができたのは最近ですね。
金魚屋 ネットがあるから、狭い友達関係の中でそういう仲間を探さなくてもいいのかな。
青山 あ、でもわたし、教会でナンパしてきた人が、たまたま書いている人だったんですよ。それまでホントに書いている人に会ったことがなかったんです。教会はオレンジ色の光に包まれていたんですが、オレンジ色の光の中だと恋に落ちやすいのかも(笑)。
金魚屋 文学金魚で書いている若い作家に聞いても、文学仲間がいた人はいない。ネットは別なんでしょうが、みんな孤立して一人で書いている。それだけ文学が不況産業になったってことなんでしょうね。アニメやゲームなら、すぐに何人も仲間が見つかりますから。アーチストはお金が儲かって、つまり経済的裏付けを得られて、ある程度好きなことができて、社会に向けて作品を発表していけるのが理想なわけですが、今それができるのはマンガやアニメやゲームの世界になり始めている。そういうジャンルに優秀な人材が流れている傾向があります。逆に言うと、サブカルと呼ばれていますが、実際にはメインカルチャーになっている業界で活躍できない人が、大量に文学の世界に流入してきている気配はあります(笑)。ただ不況産業だとわかっていて参入してくる優秀な人もいるわけで、そういう作家は有望でしょうね。青山さんや原さんは、純文学の世界は厳しい、そうそうバラ色の夢を見ることはできないとわかって参入してきておられるわけだから、優秀かもしれません。
青山 文学は、アートと違って画材代がかからないだけでも助かります(笑)。
金魚屋 青山さんは、アーチストの知り合いはいるんですか?。
青山 います。作家よりアーチストの友達の方が多いです。
金魚屋 今はビジュアル時代でもありますから、本を作るときは自分の写真を素材にすることも含めて、アートを強く意識された方がいいかもしれませんね。深刻な大文学者っぽい写真とかはNGだなぁ(笑)。作家の人となりが読者に伝わるような、なんらかのビジュアルを考えた方がいいと思います。もちろんあなたがたは若い女性ですから、ビジュアルを公開するとわけのわからない男がまとわりついてくる可能性もあるわけですが、そのあたりは大人ですから、ご自分でなんとかしていただくとして(笑)。原さんは、書くと自動的に恋愛小説になるんですか?。
原 今まで書いた作品には、確かにどれも男と女が出てきて、恋愛小説のようになっていますね。でも最近は、どうしても恋愛小説が書きたくて書いているというわけではないんです。本当はほかにもたくさん書きたいことがあります。特に最近はそういう気がしています。
金魚屋 ザックリとしたところで、どういうタイプの作品が書きたいんですか?。殺人が起こるとか、時代小説とかいろいろありますが。
原 殺人とか、派手なことではまったくなく。わたしはそもそも、すごく人間に興味があるのではないかと思うんです。漠然としますが、命とはなにか、愛とはなにか、恋とはなにか、人間とそれ以外を分けているものはなにかとか、それこそ、さっき大学の話のときにお話ししたようなことも。その中の一つとして、恋愛があるだけというか。だから純粋に恋愛をテーマにした、たとえば男女が幾多の波乱を乗り越えて結ばれるというような小説は、あまり書かないのではないかと思います。
金魚屋 じゃあご自分では、特に恋愛モノを書こうという意識は持っていないわけですね。
原 そうですね。
金魚屋 『レプリカ』はどういう感覚でお書きになったんですか?。ちょっとSFっぽくて、人によってはラノベ的だとも言うかもしれませんが。
原 ラノベのつもりで書いたというわけではないですね。主人公が元恋人と偶然街で再会したら、彼は主人公のレプリカを連れていて、それをきっかけに主人公はなんとも思っていなかった元恋人のことが再び気になりはじめる、という話ですが、これって変なことだと思うんです。ふつう、元恋人が自分のレプリカなんかつくっていたら気持ち悪いですよね。でも、女の人ってなんとなくそういうところがあるんじゃないかなあと思って。本当は「あたし」は奥沢くんのことなんかどうでもよくて、ただ、レプリカが強烈に気に入らない。相手が自分のレプリカじゃなくても、そういうことってある気がして、でもそれを自分のレプリカにすることで、自分とレプリカの境界線がどんどんあやふやになっていくところを書いてみたくて、書きました。
■同時代の作家について■
金魚屋 今までどういう作家を読んできたんですか?。
原 じつはあまり、文学少女だったというわけではないんです。小さい頃にお母さんがよく絵本を読んでくれたり、家にもそこそこ本がありましたけど、人よりは少しだけ読んでいたというくらいで。
金魚屋 好きな作家はいますか?。
原 川上弘美さんが好きです。あと、伊坂幸太郎さんも。
金魚屋 川上さんはだいぶ読みましたか?。
原 たしか高校生くらいのときに、そのときまでに出ていた全部の作品を読みました。最近の作品も少し。
金魚屋 古典は読みますか?。古典をどこに設定するかは人によって違いますが、感覚的に言うと、三島由紀夫以前は、まあ現代人にとっては古典だと思います。今は古典文学と現代人の感性に、どうやら溝ができていて、古典を読んでも若い作家はあんまり役に立たないという感覚があるんじゃないかと思うんですが。
原 恥ずかしながら、古典はあまり読んでいなくて。それについて語れるほどの知識はありません。
金魚屋 じゃあ川上弘美さんとかを読んであれだけ書いたのか。その方がすごいかもしれません(笑)。恋愛モノのテーマはどっから出てきたんでしょう。
原 すぐ男と女を出してきてしまうのは、人間と人間の特別な関係を書こうと思ったとき、そうするとわかりやすいからかもしれません。あと、恋愛をしているときの人間が、日常生活のなかで一番「異常と正常の境目があいまいになっている状態」に近いので、おもしろいと思います。
金魚屋 それは正しい。青山さんは不満そうだけど(笑)。
青山 そんなことないですよ(笑)。
金魚屋 もちろん青山さんの小説にも男と女は出てくるけど、恋愛がテーマになっているわけではないですよね。原さんの小説を読んでいると、江國香織さんを思い出すようなところがありますが、お読みになりましたか?。
原 江國さんも中学生か高校生くらいの時に、そのとき出ている本を全部読みました。「きらきらひかる」と「デューク」がとても好きで。どちらも、「男の恋人がいる自分の夫に対する複雑な愛情」とか、「飼い犬に対する恋心のような感情」とか、ふつう、という言葉はあまり好きではないのですが、ふつうではない、自分が経験したことなどとうていない感情が、しかしとても純粋に心に染み入ってくるところに惹かれました。感情移入というものは、自分と似た境遇の人やものにするものではないかと思うのに、これはまったく違って、ふつうではないからこそ、余計にその美しさが際立っているというか。
金魚屋 江國さんの場合は、男女の恋愛を書いていて、本当は女同士の関係を描いている小説の方に傑作があるような気がします。お二人とも海外で暮らしていて、青山さんはこれからも海外暮らしかもしれませんけど、これは海外で暮らした人の作品だなと思うようなところはありますか?。
青山 原さんの小説で、「そうね」「したわね」など女性らしい表現がありますが、そういうのは海外で暮らしている感覚を、そのまま日本語にしたようなところがあるんじゃないかと思います。現代日本では分かりやすい女言葉が使われなくなってきていると思うのですが、原さんが使われるような少し古風できれいな女性言葉を、海外にいる時に自分の中で話していることがあります。日本の友人へのメールでも、「ね」を付けた方がしっくりくるというか。ヨーロッパにいると多少なりともクラシックな気分になるし、街で大胆に女でいられるので気分がそうさせます。個人的な意見ですが、そんな影響も少しはあるかな、と思いました。
金魚屋 青山さんはもちろん女性ですが、本質的に女をウリにしようって意識はぜんぜんないですよね。ご自分で女性性を意識することってありますか?。
青山 ないです。スペインは楽に行こうぜっていうお国柄ですから、わたしも基本的には性差を意識せずにいて、女の自分が出てくる時だけそれを楽しみます。でもわたしは十代の頃からなぜか、美術でも小説でもあえて女性作家を避けるほど、女性であるから女性を見る、ということに違和感を覚えるタイプでした。原さんはその点では素直に女性らしい感情に焦点を当てているし、表現されているので、どこが分岐点であったのだろうか素朴に気になります。
金魚屋 タイプはぜんぜん違いますが、原さんと青山さんは似たところもあるかもしれませんね。原さんの恋愛小説は、恋愛小説としての体裁を持っていますが、本質的には男はいらないのかもしれない(笑)。
青山 原さんの作品は、どの作品も雰囲気は可愛らしいんですが、すごく強さを感じます。
金魚屋 可愛い感じの女性の方が、数々のハードルをヒョイヒョイと抜けて行くしたたかさと強さを持っているのが、日本女性の特徴かもしれません。そういう人の方が、結局は回りの人を唖然とさせるようなことをしたりする(笑)。原さんの作品は、青山さんほど海外の影響を感じさせないですが、イギリスで暮らして帰ってきて、書くものになにか影響は出ましたか?。
原 イギリスに行ってホストファミリーの所で暮らし始めた時は、日本人があまり周りにいなかったんです。そういう中で何か書こうとした時に、日本で日本語に囲まれていたときと比べて、客観的に日本語を見ることができるような気がしました。うまく言えないんですが、それまで自分の中から「こういう表現がいいんじゃないか」とか「こういう感じの言葉を使いたい」とか、いろいろ考えて出てきたものをすごく近くからしか見られていなかったのが、一歩引いて遠くから眺められるような気がしたというか。だれにでもわかりやすい日本語というものを、より意識して書くようになりました。
金魚屋 当たり前のように使っている日本語に対して、ちょっと距離感が出たわけですね。距離感が出るのはいいことで、普通は年齢がいかないとなかなか習得できないものだけど、イギリスに行ったことで、それが早まったのかもしれません。物語自体もシンプルになったりもするわけでしょう。
原 わたしは日本のことを書くのが好きなんですが、日本にいないで日本のことを書こうとするとやはり想像に頼る部分が大きく、すると、日本だけどちょっと日本じゃない場所が生まれてくる気がしておもしろかったです。わたしの心の中にしかない日本が、より純粋な形で表出してくるといいますか。
金魚屋 抽象化された日本っていうのは、言語の日本でもあるわけだから、作家にとっては大変いいことです。日本の商業文芸誌はお読みになりますか?。
青山 ここ二年くらいですが、どういう作品が新人賞を受賞したんだろうという興味本位で、パラパラ読んだことはあります。
金魚屋 面白いですか?。
青山 うーん、わたしは同じような枠組みってあまり好きじゃないんです。面白い作品もあると思いますが、あまり多様性がないように感じています。もちろんすごく上手な作品だと思うんです。でも頑張ってそういう作品を書きたいかと言うと、違うなぁと思います。
■Work in Progress■
金魚屋 新人賞に限りませんが、日本の紙の商業文芸誌に載っている作品をベースに、いい作品だ、そうじゃないというジャッジを下せる時代ではなくなりつつあります。奇妙なことですが、日本の文芸誌は芸能人とかにはある程度好きに書かせて、プロパーを目指す文学青年・少女には、従来通りの作品を求めているようなところがあるでしょう(笑)。まともな神経の持ち主の作家なら、息苦しいなぁと感じて、もっと自由な表現を求めていく時代だと思います。青山さんは、これからも海外でお暮らしになるんですか?。
青山 そういうつもりではいます。カタルーニャも好きなんですが、まだ見てない街もたくさんありますから、ほかの国もいろいろ見てみたいです。
金魚屋 一番自分に合った国とか街に腰を落ち着けようという感じですか。でもビザは大変でしょう。
青山 大変です。
金魚屋 ワーキング・ビザはすごく取りにくいでしょう。
青山 そうですね、難しいです。
金魚屋 どこが良さそうですか?。
青山 小説以外ではアートが大好きなので、ギャラリーが身近にある所がいいです。ベルリンとかロンドンとか、現在進行形のアートがある場所がいいですね。バルセロナは暮らすのは最高なんですが、アートという面では少し物足りなさを感じます。
金魚屋 青山さんは何カ国語話せるんですか?。
青山 スペイン語、カタルーニャ語、英語はだいじょうぶです。ラテン系の言葉は、文字だったらなんとなくわかるっていうくらいです。張り紙に何が書いてあるのかわかる程度です。日本人が中国語の看板の意味を、なんとなく理解できるという感じですね。
金魚屋 今はネットで世界中繋がってるから、どこにいてもあんまり変わらないかもしれないですね。それは小説の世界も同じで、文学金魚で三浦俊彦さんと遠藤徹さんに対談していただいたんですが、お二人はなぜ小説は人間が主人公なんだろうという議論をなさっていた。そういう発想があってもいいわけで、主人公が帽子だろうと椅子だろうと、言葉をしゃべる限り、つまり小説が言葉で書かれる限り、主人公は人間でなくてもいい。ステレオタイプな深刻そうな主人公でなくてもいいと思います。
青山 ぜんぜん関係ないですが、文学金魚に連載しておられるラモーナ・ツァラヌさんの日本語は、添削とか入っているんですか?。
金魚屋 最低限、入れていますよ。ただラモーナさんは能楽の研究者で、江戸時代以前の古い謡曲本の書き込みなんかを解読するのも仕事ですから、古文書が読めて、普通の日本人より古い日本語に詳しいかもしれません。ただ創作系の日本語になると話しはまた別で、多少は修正した方がいいというケースも出てきます。
青山 わたしは一年半くらい前からスペイン語でも書き始めたんですが、やってみると、思っていたより書けなかったんです。単語量のなさとか、初めて痛感しました。
金魚屋 スペインの大学で創作を発表したりもするわけでしょう。評価はどうですか?。
青山 悪いですよ(笑)。日本でもスペインでも言われることはいっしょです。テクニックをほめられることはなくて、発想とかアイディアが面白いって言われることが多いです。
金魚屋 青山さんがその気になればの話しですが、テクニックは学習しようとすれば誰でもある程度まで習得できる。だけどアイディアの発想法は生来のものかもしれない。日本文学のメインストリームからズレているんじゃないかっていう悩みはあるかもしれませんが、それは仕方がない(笑)。身も蓋もない言い方をすると、新人作家はもちろんいい作品を書こうと努力して、いい作品を書いたつもりになっていますが、どこかで出版社の組織力を頼って本を売って欲しいと願っているところがあります。そうすると当たり前ですが、版元の望む作品を書く方向に進んでゆく。それがメインストリームを形作るわけで、実際はメインストリームを半歩くらい逸脱した作品が喜ばれるわけです。でも完全に逸脱していると無視される(笑)。どうやってもメインストリームに乗らない、乗りたくないなら意地を通すしかないですね。またこれだけ本が売れなくなっているわけだから、従来的なメインストリームを疑ってみる必要もある。意地を通すと言っても意固地という意味ではなくて、中間のメインストリーム、つまり各版元が漠然とだけど、やっぱり確実に設定している規範なんかを無視して、世の中の流れを捉えること、メインストリームとしての読者の新しいニーズをつかむことです。青山さんは今後、どういった作品をお書きになるんですか?。
青山 今、商業的な作品を書いています。
金魚屋 それは驚きだな(笑)。どういう作品ですか。
青山 たとえば実在の現代アート作品の中で出来事が起こるものです。ジェイムズ・タレルの作品を舞台に、そこで物語が展開してゆく短編とかです。
金魚屋 それは商業的なのかな(笑)。
青山 現代アートの入門という面も取り込んで、有名な作品を9つほど舞台として選び、人間関係も書いたつもりですし、物語の流れもある作品です。それ以外にも、バルセロナでの現実生活を描いた、アイデンティティを扱った作品も平行して書いています。
金魚屋 日本人としてのアイデンティティということですか。
青山 ヨーロッパでは、わたしは自分のことをアジア人だと思っているんです。どこから来たのって聞かれるのですが、慣れてくると面倒でもありますし、しっかり答えないんです。聞いてきた人のいいように解釈してもらっています。そういう体験を元にして、一週間でアイデンティティを演じ分けている人の作品を書いています。今日は韓国人、明日はベトナム、明後日は上海出身ですというような作品です。アイデンティティが変わると、とりわけ街の見え方が違ってくると思います。都市を描くという観点からも、7つの視点から愛着のある街に執拗にアプローチしてみたいと思っています。
金魚屋 何枚の作品ですか?。
青山 三百五十から四百枚を目指して、今、百枚は超えています。それは一般的な小説として書きたい作品です。テーマも普遍的ですし。いろんな国の人に間違えられるのって、海外で暮らしているとあるあるですよね。
原 そうですね。人にどう見られるかでアイデンティティが揺れるというのは、わたしもすごく興味があるテーマです。
金魚屋 概要を聞いた限りでは、とても普通の小説とは思えませんけど面白い(笑)。金魚屋では今、原さんの単行本の編集が始まっていて、今年の秋口には出版になると思います。青山さんの作品も大変魅力的です。一作ずつ完成させて世間を驚かせてください。今日はありがとうございました。
(2017/06/17)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■