偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 近親相姦的湿式欲望は慎次の心身に断じて生じていないことが慎次には明白なのだった。だからこそ無実の罪を惹起しかねない勃起反応はよけい始末が悪かった。貴美子の方も当然、兄の股間が最近にわかにテントを張りはじめたのを察しており、兄妹の間にぎくしゃくした流れが漂ったのである。貴美子も兄がまさか通常の意味での勃起を生じているとは思っておらず、デブ女からの急激な転換ゆえに男の短絡的生理を刺激したに過ぎないことはよくわかっていた。ただ問題は、兄の勃起を自分が見ていることを兄に気取られているということだった。ここで起こっているダブルバインド的悪循環は、R.D.レイン風に記述すると次のようになるだろう。
「慎次:オレは欲情していない。でも勃起は事実だ。貴美子は勃起を見ている。欲情していると思っているに違いない。いや、貴美子はそんな風には思わないだろう。貴美子はオレを信じてくれるだろう。というふうにオレは貴美子を信じる。しかしオレが貴美子をそこまで信じていると貴美子は信じてくれるだろうか。貴美子がオレを疑っていると貴美子は疑っていはしまいか。というふうに貴美子を疑ってしまってることは事実であるオレが、このまま「隙アリ」しつづけたとしたらどうだろう。貴美子はオレが貴美子に欲情を疑わせたままでよいと思っている、と貴美子はとるだろう。ということはオレがそういう関係になることを是認していることになる。するとストレートに欲情しているのとほとんど変わりなくなってしまう。というふうに貴美子は思うのではなかろうか。うっ。くくっ、ぷ、ははーっ、お、お、お、ぷは、おお……。貴美子:お兄ちゃんは欲情なんかしていない。でもこのオッキオッキは事実だ。私がそれを見ていることをお兄ちゃんは知っている。私がスケベを疑っているとお兄ちゃんは思っているに違いない。いや、お兄ちゃんはそんな風には思わないだろう。お兄ちゃんは私を信じてくれるだろう。というふうに私はお兄ちゃんを信じる。でも私がお兄ちゃんをそこまで信じているとお兄ちゃんは信じてくれるだろうか。私がお兄ちゃんを疑っているとお兄ちゃんは疑っていはしまいか。というふうにお兄ちゃんを疑ってしまってることは事実である私が、このまま「隙アリ」させつづけたとしたらどうだろう。お兄ちゃんは私がお兄ちゃんにスケベを疑わせたままでよいと思っている、とお兄ちゃんはとるだろう。ということは私がそういう関係になることを認めてることになる。するとストレートにエッチしたがってると思ってるのとほとんど同じになってしまう。ていうか、エッチさせたいと思ってるのとほとんど同じに。というふうにお兄ちゃんは思うのではなかろうか。あ、あ、でる、きょうのはすごい、濃そう、長そう、重そう、奥の方、深い、おへその方からくる、くるくる、くるーっ(ぷっしゅしゅーぅぅぅうぅぅぅ)」
(演習問題:印南哲治がおろち系少女養成現場で語ったアンチセックス論における男女の虚構セックス欲を同様の手法で図式化せよ。)
■ 印南哲治は深筋忠征と並ぶ金妙塾理事として塾生の上に立つポジションを引き受ける成行となったが、深筋がすでに隠棲の構えにしてせいぜい月一度定例会に顔を出せば多い方であったのに対し、初講演会以後印南は週に二三回は例会に出席した。
印南のもとで、金妙塾は思惑通り新種の活性化を経験することとなった。
屁合わせ会、寝小便合宿、虹合宿などもともと奇を衒いすぎていた各種パフォーマンスは自然中断され、より正統的な
A「食糞イメージトレーニング」(印南が驚いたことには金妙塾生の中に食糞経験者は一人もいなかった)および
B「おろち系養成術研修」(街でのおろち系予備軍ゲットのための方法論。MS哲学のファッショナブル即興アレンジ中心。相手に応じて確実におろちプレイを引き出すためのカウンセリング的話術が必要とされた)そして
C「スカトロ文化細密分類批評――モノ派、生体派(息み声派)、状況派、覗き派、遊戯派、偶像破壊派、スプラッター派(こわいものみたさ派)、SM派、アナル派、純愛派、アート派、シュール派、アクロバティック派、不定形派、(来るべき印南・川延路線の「革命派」(後述)も現在では付け加えるべきだろう)……」
の三本柱に例会内容は集中し始めた。言うまでもなくBはAをマスターし食糞実践による歓喜が可能となることが前提であるため、しかもAそのものが女性塾生にはなかなかフィットしない実践であるため、今や印南傘下の金妙塾の中心課題は純理論的なCに収斂しつつある傾向にあった。
ただ女性陣からのB系統アプローチとして、注目すべき試みだが
「逆おろち系養成の行」
なるものがほんの短期間実践されたことは忘れられてはならない。
高塚雅代と小熊誠子が組んで二人で渋谷と吉祥寺の街頭で、真面目かつ芯のありそうな男子高校生に声をかけるという実践である。
彼らを「逆おろち化」するためそこで二人が発する科白というのは身も蓋もないもので、
「ねえぼく。三人でほらあそこのホテル入ってさ、おばさんふたりのオロチ食べない? 一万円あげるよ」
というものだった。
ちなみに二日で二十六人に声をかけたところ全員が逃げるように去っていき三十秒も興味を示した者すら一人もいなかったといい、二人から異口同音に「見上げたガタイしてからにみんな意気地ない。日本の将来は……」という嘆きが聞かれた。
この「逆おろち系養成の行」(「逆おろち」なる名称は、第32回にて記したS.W.の特殊排便法にも冠せられていたことを想起せよ。あちらはおろちの出方に関する名称であり、こちらはおろち系の入れ方・導入法、厳密にはおろち系の対語として一群の人物タイプもしくは役割を指すので混同無用のこと)はきわめて実験的な芸術パフォーマンスと言ってよく、印南政権初期にそのようなことが実現したことは当然でありながらやはり驚くべきことである。
当然――というのは、印南哲治の金妙塾顧問就任(特別顧問という語も使われた)直後の一時期に、塾生間に異様な熱が伝播したことは複数の筋から語り伝えられておりそれこそ印南「達人体質」の証しであろうから。
そう、達人体質の。
いっぽう驚くべき――というのは、後に高塚雅代・小熊誠子両人がそれまでの多種多彩な金妙塾演習の中で「逆おろち系養成の行」についてのみ異常に悔い、とくに例の科白「ホテル入ってさ、おばさんふたりのオロチ食べない? 一万円あげるよ」のような、冷静になってみれば俗とも拙ともいいようのない言葉を口にしたことを思い出すたび悶々悶え苦しんだというほどの違和感を秘めながら実行日には心底自発的熱狂的に乗り出していたことで、それだけ印南達人体質が濃厚なオーラを発し一種集団催眠状態を醸し出していたことが察せられる。達人体質の作用は当然でありながら、その絶対値自体はやはり驚倒すべきものだったのである。
ちなみに「おろち」という発声が金妙塾的慣用語となった時期については諸説あることに鑑みると、「逆おろち系養成の行」での声がけの身も蓋もなさはさらに徹底していた可能性が高い。すなわち、先ほど二度引用した「あげるよ」で終わるセリフの中の「オロチ」の部分を「ウンコ」に変えて読んでいただきたい。
つまりはそのレベルの身も蓋もなさだった可能性が高いということである。
時代である。
つくづく時代である。
当時の金妙塾的アート傾斜傾向との矛盾なのか逆説的親和なのか、ともあれ当該セリフの末尾「あげるよ」を「でいいよ」に変えて声がけしていたら、九割の男子高校生が、いや高校生の経済状況からしてせいぜい二割程度か、ともあれ応じたであろうという説には説得力がある。
なにしろ有料でホテルというのだから、性差ステレオタイプ的正常な事態と感じられ、入ってしまえば何をしようがこっちの権利だこっちのものだという思惑が働くはずだ。しかもギャルでもお姉さんでもなく分別盛り的おばさん二人とくれば、怖いお兄さんがバックに居そうな予感とも無縁のメリットがある。
つまり高塚雅代・小熊誠子コンビは金妙塾黄金期を代表する歴史的人物として名を残すに値するセンスを発揮してはいたのだ。
「あげるよ」と「でいいよ」の音声的微差が意味論的大差を呼び起こしてさえいなければ。
というわけで、男子高校生らの尻込みの原因は「オロチないし同義語の身も蓋もなさ」にあったのではなく、端的に「1万円の出費ではなく1万円の収入」というそんなうまい話はない的メカニズム感であったとする説が有力である。
少なくとも二十六分のゼロという事態だけは避けられ、数名の有望株をリクルートできていたはずである。
いずれにせよ前記3項目、AもBもそして間接にはCも人間肥溜実現のための周到なる長期的布石であることは間違いなく――達人体質の面目としてスカトロ道の正道たるCに自然収斂せざるをえず「逆おろち系養成の行」的異形芸術の珍味が萌芽のうちに早々失なわれてしまったのは惜しまれる――、印南政権が実際よりもあと半年長く続いたならば人間肥溜パフォーマンスの華麗なる舞台が新宿か渋谷の公共建造物内で公開されたこと必定である。というのが定説である。
人間肥溜に至る途上の印南的に短期的な課題は、Cの分類に則ればなかんずく純愛スカトロの実現だった。これは印南のここに至るおろち個人史からして当然のことだろう。塾生の誰もが食糞未体験という状況を逆用すれば、塾生間の可能的純愛をおろち物質によって試練に晒すという実践が可能となるのである。この目論見は、印南自身の鮎子以来、いやED体験以来の純愛・擬似純愛経験もしくは純愛挫折経験の抑圧的蓄積の流動化を抽象的に企てたものであるが、そのような難解かつリトビアルな一種自己解放をあえて企図しなければ立ち行けないところまで追い詰められていたことこそ、印南哲治という達人体質者の崩壊はすでにこのとき始まっていた、いや酣に至っていたと見るべきであろう(未練がましく幾度も申し訳ないが「逆おろち系養成の行」的お惚け実践の奇臭の重層産出へと印南が奨励鞭を向けていたならばおろち文化は現実よりもかなり明色のものとなったはずであり何より印南自身の寿命も倍していたはずである……)。
純愛おろち。
ただし当初は、塾生の間に恋人同士はいなかった。しかし印南達人体質の吸引力ゆえか、純愛試練のセッティングは印南着任のわずか三週間後に相次いで整うことになるのである。これも「達人体質」の求心力による不可逆現象だったことは言うまでもない。
(第67回 了)
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