偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ ●問 ( )に適語を入れてMS哲学基礎論を完成させましょう。(一問各3点・1、6、14、17、19、23、25、28は各5点。第七段落は応用部分ゆえさしあたりスキップしてOKです。)
構造的にみれば無論、いかなるMもSであり、いかなるSもMである。そもそもSがスレイブのSでもあり、MがマスターのMでもあることを忘れるわけにはいかないのであるから。
これはどの人間関係においても当てはまる真実ではありましょう。しかし「あらゆる事柄は神の思し召しだ」と言えた瞬間「神」なる概念が意味を失うのと同様、あらゆる関係に当てはまってしまう真実というものは真実とは言えない。空虚な背景である。
その点、豊富な象徴と生身の現場心理において男女が同時にMとS両方を生きることができる( 1 )PLAYこそは、真の意味で――俗な・素朴な意味で、他には当てはまらないM=S機構を内蔵しておるわけです。そう。男が女の( 2 )を( 3 )る。( 4 )が( 5 )の代理行為だとすれば、女性が産む性である以上、理想的なSM・MS関係の男女役割分担はここからでしょう。して因襲的に呟いてよいなら確かになるほど、女性は( 6 )し( 3 )させる性でもなかったか。生理感覚が醸す体内( 7 )、極上の( 8 )!
即ちここで、( 3 )る男性は相手の( 9 )いものを( 10 )むのですから確かにMですが、( 11 )せる女性も自分の秘密の( 12 )を無防備に( 13 )すのですから( 14 )Mと言えます。と同時に彼女は相手を( 15 )に( 16 )くので根本的にSでもあるのですが、男性は彼女の( 2 )を( 3 )ながら彼女の( 17 )を( 18 )ってしまう行為をイメージ経験していますから、極限的Sの瞬間を生きているとも言えるのです――合法的( 19 )!
だから真の平等主義的恋人はこれを実践せねばならぬのだ。人生と愛における闘いのアレゴリーになっているばかりではない。男が女の( 20 )に( 21 )を( 22 )する、この機械的な性の定めの( 23 )がほらここに難無く実現されてもいるではありませんか。女の下の( 24 )に男が前の( 21 )を( 22 )するのと反対に、男の上の( 24 )に女が後ろの( 21 )を( 22 )すること。見事な( 23 )ではないか。( 1 )色の物体を媒介として融合したふたりの心身が同時にSでもあり、Mでもあり、男でもあり、女でもある究極の桃源郷へとトリップできているのですから。
なお、( 1 )PLAYがSMのみならず正統的な恋愛の理想モデルとなるためには、女性の( 2 )はぜひとも( 25 )状であることが望ましい。というのも、( 25 )状の( 2 )こそは心身がリラックスしている証拠だからです。緊張したり警戒したりしていると( 26 )が小刻みにすぼまってしまい、決して( 25 )状の( 2 )は( 27 )ないことは日常経験するところでしょう。
同様に( )は、( )の( 2 )を( 3 )る( )、( )勃起( )ん。( )の( )に( )る勃起( )はこれまた( )の( )を( )す( )であり、( )が( )ないようならば( )は、( )に対する( )を( )する( )など( )に( )いと( )でしょう( )。
というわけで、結論、( 25 )型( 1 )PLAYこそ男女お互いが信頼しあいくつろぎあった、しかも( 18 )うか( 11 )れるかの、理想愛のバトルと結合を見事に表わしているのです。
……道徳にも法律にも決して触れたことのない不思議な( 28 )はこうして、永く不問にされしMとS、男と女、融合と闘いの硬皮を裏返し解放する類い稀れな亀裂の原点になるのでした……。
SはMの被虐要求に奉仕するのであるからその限りで隷属的であり、Mが主導的であって、S極とM極とは絶えず互いに転化している。そういうことがよく言われてきた。SMが一つの同意のもとに成立する演劇行為である以上、S極は本当のS極ではありえず、M極も本当のM極ではありえないというのは当然だろう。SMクラブはその典型である。数万円を払って女王様の責めのテクニックを買う客は、客である以上、満足のゆくサービスを受ける権利がある。山田詠美の小説に描かれているように、ペニスを何本もの待針で刺し貫いてゆくなどという流血プレイも、女王様は吐き気をこらえて実行しなければならない。S役が生活を賭けてM客に買われるのである。逆にさらに高い金を払ってM女をいたぶりにくる客は、メニューに応じて欲求を制限される。いくら高額の投資をしようが、従業員に怪我を負わせるほどの無茶なプレイは禁じられるのである。おそらくノンフィクショナルな意味でのSMは、蛮俗なレイプでしか生じえないというつまらない実状が見えてくるだろう。
だが逆に考えれば、S極とM極とが純粋に分離している関係よりも、双方がS極性、M極性を分有している関係の方がより豊饒にSM的だと言える。一方的ないじめや侵害行為ならぬ快楽追求の文化であるかぎりは、当事者双方の共感が何よりも大切であろう。どのSMクラブでも、女王様として勤めるためにはまず始めの数ヵ月間はM女として働き、苛められるお客の気持ちを理解できるよう調教されねばならないとされているのはそのためだ。この観点からみると、通常のSMプレイ――縄、鞭、蝋燭、浣腸といった小道具を用いたプレイ――しかしあんなこまごま面倒臭いお芝居を常習的にやっている人、ましてや本当にそれで快楽を得ている人なんて実在するのだろうか、同じお芝居でもイメクラ、コスプレの方がずっと理解しやすいが――巷のステロタイプに則った標準SMプレイは、確かにS極とM極とが流動化しあっているにせよ、まだまだ根本的に不徹底であるように思われてくる。
というのも、SMプレイの場合、緊縛にしても鞭打ちにしてもそうした行為そのものは、かりに日常通常の文脈でなされた場合、行為を与える側が攻撃的であり、行為を受ける側が被虐的であるという分担ははっきりしている。そこでS極とM極とが融合反転するのは、行為そのものの性質によるのではなく、SMの同意性という条件に支えられているからにすぎない。物理的行為そのものが双方にとって直ちにSでもありMでもある、両極的である、攻撃的でもあり被虐的でもある、能動的でもあり受動的でもあるというプレイは果してないものだろうか。
一部のSMクラブのメニューに用意されている「格闘技コース」などというものがそれにあたるかもしれない。もしもお互いに思う存分顔を殴りあうというプレイを行なうとしたら、双方たしかに、嗜虐的かつ被虐的なる衝動を同時に満足させることができるだろう。しかし単純な責め合いのような場合、双方の役割は全く対称的で、よって日常の惰性を剥ぎ取る圧力には乏しいと言わざるをえない。例えば男と女がふたりでプレイするときにその意味内容を問い質しつつ豊かにするような、一種相補的な役割分担を保ったままで、しかも双方がS極でもありM極でもあるという双傾斜的の状況を実現できないものだろうか。格闘プレイのように始めから対称性が確保されている静的なバトルではなく、当事者間の非対称性を強力に打ち出しながら、しかも日常の非対称性を反転させたネガとして機能しうる、真に動的な、男女、SM双方の融合を達成せしめる種類のプレイはないものだろうか。
それはある。イメージ的な究極に出口を求めるべしというとりあえず自前の方法論に頼らせていただこう。イメージ的な究極という意味は、真の究極ではなく、実行可能な疑似究極ということである。極限性愛の例としてはたとえばラストマーダー(殺人淫楽)、ネクロフィリア(死体淫楽)などが思い浮かぶが、相互能動性の実現が不可能であることはもとより、道徳・法律との衝突がその価値を性愛以外の雑事に紛らわせてしまう。道徳・法律に抵触しない、誰でも生きながら心置きなく実行できる究極とは、そう、あれである。あれしかない。SM性を最も理想的な形で拡大したプレイはあれなのである。しかもあれは一見して、フェティシズムの王様とも言うべき性欲形態である。フェティシズムこそ性倒錯の中枢を占めるのであり、その中の究極であるあれこそがSM性のみならぬ性愛一般の素性を最も尖鋭に具体化していることは不思議ではない(フェティシズムが性倒錯の中心にあるとはどういう意味かは後述する)。まさにこのプレイについて、現在ほぼ完成をみているSM哲学の骨子を要約したのが冒頭に掲げた穴埋め問題文なのである。
試みに私は、三年ほど前から何人かのインフォーマント(十八歳から四十歳までの男女)に答えを書き込んでもらってきた。そもそもここで何が話題になっているのかを知らされないインフォーマントはみなほぼ零点だったが、何プレイがここで論じられているのか――つまり回答1――をヒントとして与えた場合には、全体、ほぼ70点から80点の平均点が得られた。この得点の高さ、そして不正解の問題についてもその正解を公表するやほとんどについて各層の同意を得られたという事実からしても、私の制作したSM哲学の真実味が検証されつつあるといってよいだろうと思う。
性倒錯の疑似究極としてのあれ、スカトロジーとひとことで言っても、十数年前に北見書房のスカトロビニ本『THE・ウンコ』が出、ついでビデオインターやシネマジックのスカトロAVが登場して以来市場に溢れている下位ジャンルの多様さからもわかるように、その種類はさまざまである。ざっと挙げるだけでも、①浣腸によるSM強制排泄系、②物質の質感のみに焦点を絞った室内連続無言排便系、③「こんな可愛い娘が」の偶像破壊カタルシス効果を狙った、明朗なインタビュー交えての「私のウンコ見てください」「ベィビィ・フェイス」系、④シュールな映像実験を憬れ衒ったかのような路上や駅などにおける野外排泄系、⑤ウンゲロぬりたくり泥遊び系、⑥トイレ盗撮系、⑦コプロラグニアすなわち食糞系、等々。つまり排泄行為とは、暴・美・闇・芸・執、かくも多方向の効能を持つオブセッションなのである。SMの場でもその深遠な効果を発揮するであろうことは考えてみれば自明の理であった。
ただしもちろんスカトロジーが相互SMの真価を輝かせるのは、そして究極の名に堪えうるのは、①のような単なる強制SMプレイのバリエーションとしてのスカトロジーではなく、②③のようなそれぞれ物質、精神に偏ったバージョンでもなく、ましてや④⑥のような一方向的なイメージプレイでもなくて、⑦の食糞系に限られるだろう。こうして括弧1には「黄金」という言葉を入れてほしい。他の27個の解答を以下の文中で明らかにしていくわけだが、その前に読者諸氏は、はたして独力で残りの括弧をしかるべく埋めることができるだろうか(制限時間30分)。
2 真正SMとしてのスカトロジー
昔のKUKIビニ本『糞楽園』路線に始まる⑤いわゆる泥んこ遊び系統の発展形として、最近は三和出版や東京三世社の雑誌のスカトログラビアに、素人投稿者に扮したレギュラー女性が一人で自分のウンコを体に塗りつけるのみならず頬張ったり、二人以上で互いのウンコを塗りつけ合ったり口移しししたりしている図がよく現われているが、この系統はたとえ食糞行為が含まれているにしても、ある条件が満たされないと究極のSMとしてのスカトロジーを名乗ることはできない。すなわち、当事者が男と女であることである。スカトロSMが既成のスタンダードへのアンチテーゼとなりうるためには、スタンダードの本質部分を保存した状況下で演じられなければならないということだ。確かに同性愛もスタンダードへの異議申し立てではあるが、まず第一に、同性愛は獣姦や幼児愛やナルシズムと並ぶ「性対象の倒錯」であり、SMや露出症やアナルセックスやかつて異常性欲に分類されていたフェラチオ、クンニリンクトゥスなどの「性目標の倒錯」とは次元を異にする。おとなの異性を性対象としている大半の市民が容易に往来できる後者とは違うのである。そして第二に、性対象倒錯と性目標倒錯が重なることによってアンチテーゼすなわちマイナスが二乗されて却ってプラステーゼに戻ってしまう。ホモSMバーが普通のオカマバーよりも日常の風景に親しく感じられるのもこのため、つまり却って性の気配が薄らいでしまうからだ。アンチテーゼを際立たせるためには、基本においてリアリティが遵守されていなければならないのである。
ところでフェティシズムという重要な倒錯もある。フェティシズムは、「性対象倒錯」と「性目標倒錯」の両方の要素を備えている中間的形態、換言すれば性倒錯の中枢に位置している。相手の心身そのものに性欲が向かわず生命なき衣服やハンカチや靴に執着する点で紛れもなく性対象が倒錯しており、また同時に、セックスを目指さない点で目標が倒錯している。現代フェティシズムの代表格はいわゆるブルセラであるが、これは半ばロリータコンプレクスという純然たるもう一つの性対象倒錯が混じり合うことによって、マイナス×マイナス=プラスの法則に従い異議申し立ての宛先が微妙にぶれてぼやけ、逆に日常の市民社会に回収されてしまった例だろう。フェティシズムの本道は、よって、おとなの異性を対象にしたフェティシズムにある。そしてその究極例が、相手の大便を食べてのみ満足を得られる、コプロラグニアなのである。
最近は女が男のウンコを食うビデオも数種類出回っているが、肛門から口へと直接送り込むいわゆる「ジカ食い」の伝統の長い、女トップ・男ボトムの場合にまずは限って考察してみたい。先ほどの穴埋め文が研究対象としているのが、この状況である。ところであの問いが前提している要素がいくつかある。列挙すると、
A:自然排便であること。つまり浣腸など不自然な手段を使わない。
B:トップの女性もボトムの男性も、通常のSMプレイにおけるように縛られるなど身体を束縛されることが一切ない。
C:大便は肛門から口へと直接送りこまれること。
D:大便は確実に全部飲みくだされること(ちなみにほとんどの食糞ビデオは含んで吐き出すだけ。ここをクリアしていない)。
E:当事者の男と女が互いに恋愛感情を持っていること、もしくはこれから恋愛関係に入りうるとの自覚があること。
これらの条件は重要である。AとBは、双方が完全に自由であることを要求している。そしてEと合わせて、互いに自分が相手の自由判断、評価に晒される覚悟を決めかつその評価を尊重・懸念していることを含意する(ただしEは、いかなる性関係においてもそれを有意義ならしめる共通条件ではある)。またCとDは、双方がSとMとを同時に徹底的に味わい尽くすことを確保する条項だ。トップの羞恥、無防備感と、ボトムの苦痛、便器化意識とが相互に釣り合う深みに窮まらなければならない。
ふつう食糞プレイというと、女王様の黄金というイメージ(「残さず全部お食べなさい、残したらお仕置よ」)に安易に流されてボトムが一方的なM極であるかのような印象を抱きがちだが、そうではない。黄金プレイは俗流SM小説の描くような単なるSMの極限ではない。人の顔にまたがって脱糞するという行為は、トップにとっても、もし彼女が正常な文化意識を持つ女性であるならば、自我の一時棄却を要する一種の苦行なのである。現にほとんどのSMクラブに「人間便器コース」が設けられているが、他のプレイに比べて料金が五割ほど高いばかりか、たいていこのコースを担当できる女王様というのが限定されている。大半の在籍女王様がこのプレイを忌避しているというこの事実が、この行為の心理的難しさを物語っている。無防備に粘膜を露出することに加え、自己の臭いや健康状態を人になまで知られることが羞恥という甘美な苦痛を掻き立てることは、強制排泄プレイがしばしばM役に強要されることからも明らかだろう。ましてや縛られてもいない自由な人間相手だと、食べさせる方は自意識の不安に襲われることになる。「まずい!」と吐き出されてしまうかもしれない――容貌やスタイルをけなされるにもまさる臓腑からの怖れ。現に、大切な男性との大一番に際して、準備万端、悪食を避け野菜類でおなかを整えプレイに臨んだ挙句、一旦大喜びで飲み込んだかにみえた相手の一転激しい嘔吐を目のあたりにして、ショックをうけて一週間泣いた女性を私は知っている。プレイが無事快楽的に終了するかどうかは、トップ嬢の消化器のコンディションと、ボトム君の勇気に掛かっている。トップがボトムにもまして不安をもってプレイの顛末を案じなければならない、つまりM極の場に置かれることは当然なのである。
ボトムの方からしても状況の両極性は劣らない。大便を食うという苦行(ビデオで見るウンコがどれも輝かしく大変きれいなのでスカトロAV食い役に志願したある演劇人は、至近距離に接した実物の予想を超えた強烈な色と組織と臭いと味と粘着に打ちのめされ、もう二度とやりたくないと唸ったという。知能の高い動物たとえばニホンザルなども、大好物の木の実が仲間の糞に触れていたりすると拾うのを諦めるという)を暗黙強要(食えずに吐き出すことは彼女の自意識を冒涜することになるのだから恋人として男の方も必死にならざるをえまい)されるM極性はむろんのこととして、相手の内臓の一部にも等しいさしずめ肉の塊を頬張り飲みくだすことは、考えてみよ、究極のサディズムたるカニバリズムの象徴的実行に他ならないではないか。しかも相手の肉の味・臭いをその気になれば生きた相手の前で声高に品評してみせることだってできるのだから、なみのカニバリズムよりも精神的に徹底したSプレイだと言えるだろう。
このように、互いに羞恥と苦痛が大きければ大きいほどSM性が増すのだとすれば、トップ女性の生み出す大便は、できるかぎり不健康で汚い下痢か便秘便であるのが望ましいことになる。健康なバナナ便がすんなり排出されるとなると出す方の羞恥も軽くかつ短時間ですんでしまい、食べる方の苦痛もさほどではない。これが腸内悪玉菌によってめいっぱい腐敗した下痢であるとか、消化不良の斑点混りに真っ黒いウサギ便だったりすると、美容面の欠陥をまざまざと知られる羞恥に加えて噴出も不規則に長時間持続することとなってトップ嬢の苦痛は倍増するだろう。ボトム君の視覚味覚嗅覚を襲うグロテスクさの増幅は言うまでもない。ただ、確かにその通りなのだが、単なる表層のSM性を追求するのみならず、男女の性愛のアンチテーゼという面からSMを捉えるならば、必ずしも不健康ウンコが望ましいわけではない。むしろ健康バナナ便の方が総合的にみてまさっているとも言えるのである。というのもこの場合、ウンコがペニスの代理となりうるからである。単純に外形的に考えるだけでいい。女の後ろの穴から伸びてくる茶色いペニスが、男の上の穴に挿入されその体内に取り込まれるわけだ。ここにノーマルセックスのいかんともしがたい挿入射精原理に対する華麗な反転図が成立しているわけである。
3 愛とアンチテーゼ
またバナナ便のもうひとつのメリットといえば……、いや、ここらあたりであの問いに対する回答を一括呈示しておくのがよいだろう。答え合せをしてから先に進んでいただきたい。(括弧内は別解。△は正解から一点減点。)
解答
1・黄金 2・ウンコ 3・食べ 4・排便 5・出産 6・料理(△授乳) 7・醗酵食品(料理) 8・御馳走 9・汚い 10・飲み込(△望)(△含) 11・食わ 12・内臓(△行為) 13・さらけ出 14・羞恥(△かくれ) 15・尻 16・敷 17・肉(△赤ちゃん)18・食 19・カニバリズム 20・体内 21・肉棒(ペニス) 22・挿入 23・反転図 24・口(穴) 25・バナナ(△ペニス) 26・肛門(括約筋) 27・出 28・勃起 29・タブー
ちなみにあなたが、和式便器にしゃがんだ姿勢で脱糞するところをつぶさに人に見られている状況を想像していただきたい。しかもその人の顔が自分の肛門の真下にあり、さらには手で双尻を触られなどしている状態を、内臓の芯からイメージしてみてほしい。この状態のもとで肛門をじっと開きっぱなしに、長く連なったバナナ便をなめらかに放出することは至難の技だろう。スカトロAVに何度も出演している女優ですら、視線にさらされて自然排便する瞬間は全身に鳥肌が立つと証言している。便意と羞恥と無防備感とが混ざり合ったこの悪寒に抗って括約筋を全開に保ち続けるには、よほどの精神力か、強靱な腸か、破滅志向か、相手への信頼か、自意識を没却する恍惚が必要だ。SM愛の神髄としてのスカトロジーにとってさしあたり重要なのは、後二者である。精神不安定な状態にあると肛門も微妙に痙攣し、ブツ切れのウンコを、ちょぼ、チョボと垂らしつづけるのみになってしまう。これではトップ女性がボトム男性の愛を信頼できていない不安で情けない現況を暴露しているようなものだ。自分の糞肉の聖なる美味を信じて、一気に大量の黄土色を相手の口に直立させてやれる恍惚こそ、女の愛の証しとなるだろう。
しかし女の方だけなのか。男の方にも何か外見的にはっきり表われる恍惚力の証しが要求されるべきではないのか。もちろんその通りである。そこで、後回しにしておいた第七段落を充填するべき潮時となるわけだ。
同様に(男)は、(彼女)の(ウンコ)を(食べ)る(最中)、(一貫して)勃起(していなければなりません。(副交感神経)の(励起)に(発す)る勃起(状態)はこれまた(心身)の(安定)を(示)す(徴候)であり、(これ)が(起こってい)ないようならば(男)は、(女)に対する(愛)を(公言)する(資格)など(永遠)に(持てな)いと(言うべき)でしょう(から)。
相手の体内から最も臭気激烈なる内臓を飲み込むに際して、それが自分にとって最高の美味であることをアピールできるのはペニスの勃起をおいて他にない。しかもただ勃起するだけではだめだ。手を使わずに勃起するのでなければならない。男は自然勃起しながら女の自然大便を食べ尽くさなければならない。上向き下向き双方のペニスが、愛と信頼と恍惚に包まれて、体の内発的な熱力だけによって同時に怒張するというわけだ。
ひところ新宿歌舞伎町のあるホストクラブに、お金持ちの五十台の未亡人がよく来店し、二十台前半のハンサムなホストを指名しては、彼女のひり出す黄金を食べきることができたら一回二百万円のチップをはずんでいたと聞く。もしこの女性が自分の魅力と男の誠意を本当に試したいと思ったならば、咀嚼嚥下の最中に手を使わずに勃起していたら百万上乗せ、さらに自然射精できたらまた百万追加といった工夫も思いついたことだろう。(手など物理的刺激を直接加えることなく恍惚だけで射精することは不可能ではない。スカトロマニアの北伸一は、シネマジックのデビューAV『素人OL・マニア訪問 柔肌に教えて!』において主演女優志方まみのウンコを顔面に受けた瞬間に自然射精し、真正スカトロジストとしての評価を勝ち取っている。肝腎のウンコの方は鑑賞に耐えぬショボショボの浣腸便であったが。)フェティシズムと並んでSMが最もメンタルな性倒錯でありそのメンタリズムの極限に純愛が潜んでいるのだとすれば、こうして、勃起バナナ状黄金プレイこそが恋愛の究極形態を具体化するということができる。一見この上なく即物的にも思える糞便崇拝が、こうして最高度に純粋な精神主義・理想主義を輝かせるのである。
ここまでトップ=女、ボトム=男の場合にしぼって考察してきたが、もちろん、男が出して女が食べるというパターンも少なくとも映像商品の形では流通していないわけではない。しかし、性交役割の逆転や勃起ペニスの交錯など、象徴的な含みに関してずっと内包が貧弱であるように思われもする。象徴というものはとかく外形的図式に流れ、現場意識の内発衝動と無縁であるとも考えられがちだが、しかしやはり本稿で追跡してきたような大雑把な象徴ですら決して侮れるものではない。分明な構造はいまだ未文節の無意識にこそ深い刻印をきざむ。M←→S、男←→女、後←→前、上←→下、闘←→和、図式構造の反転対応が現に一目瞭然に成立しているということは、必ずや当事者内部の無意識に響いてきているはずだろう。正しいスカトロプレイは間違いなく、ノーマルな性愛にたいするアンチテーゼおよび補遺的テーゼを突き当てがってくるものなのである。対してトップ=男、ボトム=女のスカトロプレイには、いまだ明瞭な象徴的意義を見い出しがたいようだ。むろん部分的には、たとえば男には永遠に不可能な出産なる経験の代理としての大モノ排泄、女の方に優勢な食欲という衝動の究極的飽和など、こちらのバージョンにも熟考に値する側面が散見されはするだろうけれども。
プライベートなプレイから商品化されたスカトロ表現メディアに目を向けてみても、まだまだ考察に値する論点がたくさんあるだろう。ヘアやラビアの規制に相当する基準相場がアヌスや排泄物のビジュアルについては存在しなかったがゆえに文字通りの自主規制が求められている複雑な現状、そしてそうした公的基準の不在のもととなっているスカトロ趣味のマイナー性と今日氾濫するスカトロ雑誌・ビデオの多様さとの矛盾、等々。いったいスカトロジーとは現場や市場でどのように理解されているのか、この論考で粗描したような真正SMとしての愛のメカニズムがどれほど認識されているのだろうか。
実際には、スカトロジーはいまだマイナーな文化であると思われる。「スカトロ」の呼称で名のみ流布しながら、そのじつ誰一人としてその真価を把握していない。肛門から口へ間を切れずに極太円筒ウンコが繋いでいく正統黄金プレイにこだわったビジュアルの創り手は、かつてのアブランド、のちのキューブ(現在は廃業)など稀な例外を除いて存在しない。ほとんどが標準SMの気付薬としてか、単なる猟奇趣味・マニア趣味・露悪スラップスティック趣味の大道具として、なさけない下痢便や便秘便を安易に利用しているにすぎない。どれもこれも尻の穴が窄まりきって、男女双方の不信、不安をもろに垂れ流す映像ばかりだ。現行のスカトロビデオ・グラビアの類は、われわれ人間の愛の将来にとってはっきり有害である。愛を感じさせない。ただでさえスカトロジーを取り巻く偏見を無自覚に拡大再生産している。文化のにせのメジャー化ほど見るに耐えないものはない。重ねて言うが、スカトロの神髄はあくまで、バナナ状黄金勃起プレイにこそあるのだから。
人の顔に太長大便を盛り上げることのできぬ者、大便を食いながら勃起することのできぬ者は、一切スカトロプレイを慎むべきである(本音としては、愛も慎むべきだと言いたい)。黄金愛とは、入れれば愛が成立するノーマルセックスよりも、数段困難で高尚な関係なのである。愛の修行なのである。もとよりわれわれ大部分の凡人には、バナナ状黄金勃起プレイを実行することはできない。だからこそ、専門家による理想愛の実演が正しく商品化されるべきなのだ。ちょうど、一流のボクサーになれない一般人のために、屈強なプロが究極の打撃技術をリングでテレビでビデオで披露してやるのと同じことである。鍛えてない体で殴りあうのは大怪我のもとである。だからといって拳の価値を忘れていてよいわけではない。スポーツによって肉体に対する信頼を耐えず呼び醒まされることが人間にとって必要であるのと同様に、愛の可能性に対する希望をあらゆる方面から諭し続けられることが個人と社会にとってきわめて有益な糧となろう。スカトロジーは、正攻法の愛の描写では限りのある心身両性両極のMS哲学を、最も尖鋭な形で露出させてくれる。それゆえにこそ、この文化の価値を隠蔽するのみならず矮小化するような凡百の卑猥な映像類に、私は深い危惧の念を覚えずにはいられないのである。
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これがまさに「黄金に魂覚めた朝」の、オブセッションパート推敲版に相当していることは容易に見てとれるだろう。吉丸八彦は早口のわりにつっかえつっかえもたつきながら、つっかえ一瘤一瘤をそのつど思索めいた口ごもりへと滲み伸ばす首捻りジェスチュアで読み進め、反町駅に着く直前で読み終え、あ~あと溜息をついた。
印南はこぶしを握る。
(おっのれええぃ……、なんと投げやりな読みぶりよ……なぁにが「すかろとのしんずいはあくまでばななじょうおうごんぼっきぷれいにこそあるのだから」だ。なぁにが「おうごんあいとはいれればあいがせいりつするのーまるせっくすよりもすうだんこんなんでこうしょうなかんけいなのである」だ。もっともらしくぅ……。その認識レベルに到達するまでにこの俺がどれだけの血の滲むような努力、込み上げるような修業と修行と宿業を積み重ねなければならなかったか、わかってやがるのか。それをこの福助野郎、へらへら知ったかぶりの上滑りぶりときたら、食糞の尊い意義を口先だけこねくり回し、己れらの軽薄な遊びにただ味をつけようと……こういう輩を黙って見守っているわけにはいかんな……鮎子の命の証しへの冒涜以外の何ものでもない……」印南は、横浜駅でそそくさと降りてゆく吉丸の背を見送りながら駅内のコンビニでカッターナイフを購入し、以来常時内ポケットに持ち歩くようになったのである。
達人にしか実感できない痛み……
――己れの築いた道を俗人に踏み荒らされる痛み――
がどれほどの自暴自棄的破壊衝動を点すものか、これも達人にしか理解できぬ孤独な煩悶であるに違いない(この時点でこの印南型煩悶と共鳴できるのは、ニセ怪尻ゾロに己れの芸術的業績を継承的に蹂躙された怪尻ゾロ=川延雅志ただひとりであったろう。怪尻ゾロの偶像失墜にいきり立った士農田勝也らの心境もこれに一応近似していたものと思われる)。
ちなみに、印南がネオおろち少女らに説き聞かせていたおろち哲学の口調が、少女らのノートから再構成されて残っている。彼女らのブログその他から再構成して掲げたのが、第26回、27回であった(口調違いの同一内容なので、内容のみに関心のある読者はそれらの回をお読みになる必要はなかった)。
(第43回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『偏態パズル』は毎月16日と29日に更新されます。
■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■