偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 虚のメジャー化は真の黄金色の文化的魅力を削ぐ。スカトロはマイノリティーであるべしというこの心理は、深筋忠征の『コミック96』冬号における次のコラムがよく伝えている。
黄金現代史(ビデオ篇)
深筋忠征
黄金雑誌の場合、版元によってかなり各々の個性というか、専門分野が出ていた。ソフトフォーカスで撮ったロリータ的モデルのうぶ毛輝くお尻から茶色がぶら下がる『ベィビィ・フェイス』シリーズに代表されるKUKIの「綺麗シュールリアリズム路線」、大量の浣腸を複数のブスに施し全員の尻を密着緊縛・同時噴射させる真っ茶っ茶の大共社「ひたすらキタナイ路線」、そして北見書房『THE・ウンコ』シリーズの「とにかく大物を拡大接写路線」などなど。それに比べると黄金ビデオの方は、映像表現の自由度が却って制作方法を平均化したのか、どのレーベルのもほぼ似たり寄ったりで推移してきたような気がする。
スカトロはバリエーションは多い。自然排便モノ、SM強制浣腸モノ、笑いと会話の中で進行する「私のウンコを見て下さい」モノ、野外排便モノ、トイレ盗撮モノなど、多彩さは普通の絡みポルノの比ではない。が、シネマジック、キューブ、V&R、ビデオインターナショナルなど数あるどのレーベルも、オールラウンドに全ジャンルを浅くこなしてしまっており、マニアのこだわりは薄い。ビデオ時代に入って、ビニ本時代スカトロ黎明期の息吹を失ったかのようだ。
本物はあった。レーベル化してないプライベートビデオ。ダビングが裏ビデオとして流出している類だ。中でもキューブの前身「アブランド」というのが凄かった。Kさんがひとりで撮っていた。何グラムあたり何万円というギャラで女を後ろからじっと撮影、無言排便、入れ代わり次の女がまた排便、それだけが延々と続く。浣腸なしの質量と極太度はピカ一で、室内自然排便ものは今日珍しくないが、原点・アブランドビデオの映像には、終始じっと息を殺しているような、開拓者の執念がこもっていた。
田町のマンションの一室でKさんがビデオ販売とスカトロクラブを行なっていた。ビデオの馴染み客がひとりふたり常時Kさんとダベっており、待機している素人黄金嬢(ピアノの先生とかだった)がお茶なんか出してくれて、実にくつろげる雰囲気だった。そこへ時々プレイの客が訪問してくる。対照的だった。ビデオ客は話好きで、Kさんと仲よくなって、下手な宣伝しない方がいいよ、興味本意で取り上げられると格が下がるから、などとKさんに忠告したりしている。一方プレイ客は訪れるや黙って三万円払って、女の子を選んでそそくさとホテルに去ってゆく。そんな感じだった。
あのアブランドも、浜松町に移転してオフィスを構え、ビデオの客たちが社員となってKさんを社長と呼ぶようになり、「キューブ」というレーベル名でパッケージをビデ倫通して量産するようになってから、マニア臭はぐっと薄れてしまった。そしてそのキューブも今はAV業界から撤退して、真っ当なコンピューター会社になっているらしい。マニアの執念を振り撒き続けたKさんは、表の社会においても、社長の器だったのだ。
いま、プライベートスカトロビデオは乱立している。しかし草分けであるアブランドの迫力に迫るものは残念ながら今後、出そうにない。
ビデオ購入客とSMクラブ客とのコントラストは、歴史的記録として貴重である。すべてが一様化しつつある今日おろち文化熟成期比して、おろち文化黎明期にはかくもエントロピーが小さく、傾向的領分の色合いが自然区分されていたことが察せられよう。Kさん(むろん片岡章氏に違いない)に「格が下がるから手広く宣伝するな」と忠告していた客のような人(現在具体的に四人が確認されている)こそ選民だったのだが、ウンコになど興味の一片も抱いてないくせに、ただ女の尻を見たいから、女の肛門をよく見たいから、ひどいのになると陰部を見たいから、背後からの臀部注視は陰毛チラリズムがたまらないからというような安易な理由で眼前排便OK女の待機するこの時期まだ稀少といえたこの種クラブを訪れる心なき輩がまことに多かったということである。そのような有象無象無縁人の流入に従って業界のマニア密度が減り、寒冷化が進み、結局初期のアブランド的地下の熱気を失ってしまったその推移をじかに目撃していた深筋忠征はこの悲劇を第二期黄金期には繰り返させるまいと固く誓っていた。
■ 塾生はおよそ三十人、十代から八十代まで幅広く、ただし生粋のスカトロ愛好家とか、研究者とか、業界人とかいうわけではないところが肝要なのだった。中にはスカトロ専門誌編集経験のある者や、地方私大の経営学部を卒業後商社サラリーマンになって三年間勤めたがアヌスの雌型と雄型を間近に比較してみたいがため医大に再入学し、肛門科の医師になったという人物や、ロリスカコミック同人誌の同人や、尻形オブジェ制作専門の美術家なども含まれていたが、大半の塾生は、「下後半身関係の特殊経験によって人生に若干の〈ねじれ〉を生じその形状記憶ポテンシャルをいまだ回復しきっていないゆえに、下後半身関係の思索および実験および試練によって人生パワーの革新を図ることができると信ずるもの」というあえて抽象的な条件に合致するという観念的属性を唯一の資格として入塾してきた者たちばかりだった。きちんと入塾試験があり、それは「あなたの後半身関係の特殊経験を、塾生相手に、白昼の電車の中で他の乗客に聞こえる声で三十分以上にわたって懺悔しなさい」というものだった。懺悔という用語からして、金妙塾は自己開発セミナーの一種であったと考えてもよかろう。
■ 桑田康介よりちょうど一年早く入塾した画像編集専門学校生吉岡明之の懺悔。試験官(聞き手)は当時四十七歳の鍼灸師磯替妃子。
「デートのときおれは彼女にいつも、自転車で来てくれって要求しました。おれは歩きです。高校時代に一緒に帰ってたときこのパターンだったんで。家近い彼女が自転車でオレが駅まで歩きで。彼女は高校時代のノスタルジーでオレがそんな要求するのかと思ってたようで、セーラー服着てくれって言われるよりマシってことで毎回自転車に乗って来てくれました。でも自転車押して並んで歩くってのは街中なんかじゃたるいでしょ。で彼女には自転車に乗ってもらうことにね。オレが歩いてる傍らを彼女が自転車で並走ってのはきついんで、どんどん走ってもらいます。で、ブロックをぐるりと回ってオレに追いついて、追い越して、また後ろから追いついて追い越して、また……ってパターン。追い越すときに会話するわけだけど、オレは『自然な追い越され方がいい』ってことで、無言でシカトしあいながら追い越される、ってことにしてもらったんです。彼女はひたすらオレを追い越しつづける。何度も何度も。どうしてオレが「自然」にこだわったかっていうと、追い越すとき振り向いたりしてほしくなかったわけ。ていうのは自然に通りすがりみたいにして追い越してってほしかったわけ。それでどこに目が向くか。サドルに接した彼女のヒップが天然震動っていうかね、あ、そうそう、彼女にはスカートじゃなくていつもズボンはいてきてもらってたんです。しかもジーパンとかじゃなくてなるべく薄地の。でくっきり輪郭のプルんと丸いお尻サドルにかぶさるというか谷間にサドルがぴっちり挟まって、ペダルを漕ぐにつれて右左、交互にサドルがお尻に揉まれるというか逆にお尻がサドルに食い込まれるというか、じんわり体温というか摩擦というかいかにも密着熱が、ああ、それ見てオレは天にも昇る幸福感を味わっていたんでした。で、それをじっくり味わうためにはゆっくりと追い越してもらう必要があるわけなんですけど、いやぁ、オレ自身は彼女のお尻に顔でも体でも乗っかられたことはなかったんで、自転車尻を見て疑似体験して喜んでるってのも倒錯っちゃ倒錯もいいとこですが、従順な彼女は理由も質さずに自転車に乗りつづけ追い越しつづけてくれましたっけ。ま、うすうすオレの尻フェチぶりには気づいてたんでしょうけどね。だけどこういうデート重ねているうち曲がり角とか入り組んでる路地で彼女が一周してきたときオレの進路とずれちゃってはぐれちゃったことが三四回あって、まあそれも原因だったんですが、なんやかんや追い抜かれっこしてるうちにたまたま理想的な坂道を見つけましてね。西武線の東久留米とひばりヶ丘の中間ぐらいんとこの小さな商店街に、ただの坂道ならぬ曲がり坂道、ぐーっとこう九十度近く曲がってるのがありましてね、自転車にとっちゃ適度の難所で、そこを自転車漕いで登る人はまあ、立ち漕ぎをせざるをえないんですね。で、坂がゆるくなるところまで立ち漕ぎして、おもむろにサドルに座る。これが、これがたまらない! 空中を泳いでいた女性のズボン尻がゆっくりサドルに降りて密着する瞬間、その直後に立ち会えたときの勃起度といったら! 立位後向きにすぼまっていた緊張尻がゆっくり下向きに割れ広がって一挙くつろいでサドルを挟み潰す瞬間ってばもうサイコーッすよ。てわけで彼女にはもう何度その曲がり坂道を自転車で立ち漕ぎそして腰降ろしを繰り返してもらったことか。ちょうど坂がゆるくなる境目でオレを追い越さなきゃならないんでタイミングが微妙で、もうあの坂道挟んだサーキットを何周も何周も、もうぐるぐるぐるぐるやってたことがありました。さすがに彼女も疲れたらしくですね、いや歩いてるオレの方が足痛くなってましたがね、もーうこんなデートたくさん! って彼女、こんなにまでしてオレと付き合いつづける必要はないんだって突如気づいたみたいで唐突に振られちゃいました。あ~あ、貴重な彼女失いましたよ。しかしなんで合わせてくれなかったですかね、いかがわしいタイの痩せ薬とかに手を出したりしてた彼女ですから、デートしながら坂道ダイエット出来りゃ本望だったと思うんだが。ともかくそれ以後はこんなかったるいデートしてくれる女にはめぐり合わなかったですし。
ま、それでも今、街を歩いててそこそこ満足ですよ。目覚めるって素晴らしいことですよね。理想の坂道にはそうは行き当たらないけど、自転車の女に追い抜かれることってけっこうあるんで、むこうから自転車女がやってきてすれ違いそうなときはそりゃもう、何か思い出したふりして手前で方向転換して歩き出して、追い抜かれる按配にもってくわけです。ときにはわざわざ道の反対側に渡って間近に尻景色をね。彼女失ったおかげで街の色とりどりのお尻に意識が目覚めるようになりましたってば。ズボンや坂道にもこだわらなくなりました。もちろんスカートってのはインターフェイスがあいまいなぶんサドルとの相性悪いんで興奮いまいちというか基本的には残念なわけで、ときどき女子高生なんかスカートの裾を全周サドルの外へ垂らしてやがったりしてね、あれ困りますよね、密着面が隠れちまって輪郭まるっきしなんでほんっと頭きてましたけど、むしろそのパターンって、パンツ尻が直接サドルにぴったり接してるってことでしょ、ぐいぐい熱くくわえ込んで揺れてるってことでしょ、そのこすり色が香りほのかにずくずくしみ拡がってゆくさまをじっと頭ン中で透視してですね、勃起できるほどになりました。好みは変わるもんで全周垂れ下がりスカートに大恍惚のこの頃ってわけです。あぁ彼女今頃どうしてるかなぁ、まだあの自転車使ってるかなぁ……」(ただしこの直後、アロマ企画のヤラセ・盗撮混合マニアックビデオ『自転車のお姉さんのお尻』がDVD版(ARMD21)として一般普及し、同類の自転車フェチが全国ひしめいていることを知った吉岡明之は即座にサドル尻マニアを辞めてしまった。マニアの自負であるが、まさざま名マイナー倒錯者がカミングアウトし直ちに市場を形成していく現在、種類的に孤高のマニアであることは難しくなっていることは確かだ……)。
最後に、入塾試験得点歴代一位の栄誉に当時輝いていた延々三時間山の手線三周にわたった伝説の懺悔を短く紹介する(内容よりは語り口でハイスコアを得たものなので要約では真価が伝わりにくいのではあるが)。懺悔者は当時三十五歳のフリーライター棚橋健一。試験官(聞き手)はこれも当時四十七歳鍼灸師磯替妃子。
「高一のとき吹奏楽部の合宿で、夜の11:00頃だったかなトイレについてきてって言われましてね、サチエって子に。その時すでに霊とかひとだまとか首なし猫とか相場どおりみんなで恐い話をしていて、薄暗い廊下を抜けた半ば離れみたいなトイレに一人ってのが怖すぎるって成行で、もちろん女子が指名されてたんだけど今度は一人で待ってるのも怖いとかって、じゃあ棚橋君行ってやりなとお鉢が回ってきて。怪談話こわがってるやつらをせせら笑っていたツケでね。でまあ仕方なくついてってやったんですけど、女子トイレの入口んとこのもう半分中に入っちゃうくらいのところで絶対にここで待っていてねと言われて、ちなみにサチエってのは愉快なお笑い系で今まで会った中では未だに1位か2位ぐらいのブス(古典的お多福系と言ったらわかるかな)。サチエが個室に入ると付き添いの女がやっぱ怖い棚橋君あとはよろしくねとかって引き返しやがって(廊下戻っていく方が怖かったんじゃないかと後で言ったら俺のことが怖かったんだってさ。二人連れのうち一人が変身するってよくあるパターンばっかみんな語り合ってたからさ)、何で一人でこんなドブスの護衛しなきゃなんねえのョと渋々待ちモードに入ると、サチエが個室に入ってすぐに、ブスはブスなりに羞恥心発揮して水流して音消ししたその水音に負けないぐらいの、というか完全に勝ってる勢いでオナラの大連発とウンコが出る音が聞こえたわけで。怖さが恥かしさを凌駕したというか怖いからとか言って一番入口寄りの個室に入ってたから超マル聞こえというか、くり返し水流す水音は脱糞放屁音のすさまじさを却って強調する役にしか立ってない感じで、完全に水音をかき消す乾湿両様パワーの爆音が響き続けたんですよ。三分くらいの間に五十連発くらい立て続けにブッこいてたんじゃないかな。超おかしくて笑っちゃってね、だって、あ、今のは空砲だな、今のは下痢が出たな、今のは固まりだな、って一々全部目に見えるような音なんだもん。出てきた時はサチエは結構真剣で、笑い事じゃなくて「私さぁ、昔から胃腸が弱くて、いっつも旅行とかいくとこうでさぁ……」ってしきりに言い訳して。ちなみにサチエはその後吹奏楽部の部長になったりして、専門学校卒業して楽器会社に勤めて飲み会の幹事とかも多い人生系頑張り屋なんですけど、この連発事件を境になんかこう、「誰にも言わないでね……」って何度も真剣に念を押す切ない愛嬌がなんかこうね、まあ結構クラスの男に喋っちゃったりしたんだけどまぁこのレベルの超ブスじゃ話題性もなくウケもしなかったわけで、実際そんなであるにもかかわらず「誰にも言わないでね」はないだろう、身のほど忘れた無駄な恥じらいがちょっと俺しみじみっていうか、グラッと心動かされたのは事実でしたけどね。で三年前にクラス会があってサチエに会いまして、まああのことは実はすっかり忘れてたんだけど、座敷の脇の奥のトイレで待ってたら女子の方からものすごい下痢とオナラの音が響いていて、なんかどこかで聞いたような音だなあと笑いをこらえていると、出てきたのがサチエ。男女一つずつしか入れない狭いトイレだから今の音はサチエに間違いない。すぐに今までお話してきた高一のときの合宿の爆発音を思い出しましてね。なんかこう、寄ってっちゃって、サチエとは即付き合い始めて、今じゃ結ばれてます。え? いえいえ、俺そのときもう子どもいましたから。連れ合いは俺の男前相応の美人です。元モデルなんで。そ、サチエは愛人ですよ。ええしっかり三年間、関係続いてます。あの二回以外にはサチエのオナラもトイレ音も聞く機会はまだありませんけどね……」
こうした入塾試験を通過した塾生たちなので、まず例外なく、この種このレベルのお尻系私的エピソード気分の懺悔延長上で金妙塾の例会に臨むことになった。しかし現場で新入生は、まずは面食らうことになる。さぞかし平易なお尻系滑稽体験、失敗談、猥談の数々で盛り上がるのだろうと期待し高もくくって臨むのであるが、予想は百八十度外れる。ロの字形テーブルを囲んで新入生の紹介が終わると、塾生一同唐突に黙り込む。黙ったまま十分でも二十分でも顔を見合わせている。新入生が、このままではどうなってしまうのだろうと耐えられなくなった時、テーブルのむこうで誰かが不意にたとえば「悔やんでみてもどうにもならない。だからこそ悔やまれるんだなあ……」と呟く。一呼吸置いてこちら側から「そう。逃げることが一番悪いことですものね。中でも……」「……逃げることから逃げるのが最も悪いわけだ」むこうがわの第三の塾生の応答に対してまたこちら側から、「そ。逃げるのは必ずもって一つもいいことはない。逃げ切れる場合を除いてね」「逃げ切れてしまったらはじめから逃げる必要がなかったってことなんだよ」「そう。逃げの一手とはよく言ったもので。逃げなくてもいいと確認するために逃げる続けるのが最善の人生なんですよ」「だからこそ逃げてしまったことが悔やまれるんだなあ……」「だからとことん悔いるためにはまず逃げなければならないんです」「逃げることから逃げていては……」「一つも悔やめないのを悔やむことになりかねないんですよね……」一言五秒程度の発言が延々三時間ほど、禅問答というのとも違う、溜息や呻吟や沈黙を交え微差誤差を伴いながらたらい回しされる。微差が微差を重ねて五十巡目くらいには「羞恥ってのは、全裸になりゃ疑心暗鬼と厚顔無恥がおんなじだったって意味なので」「杞憂がいくら重ね着してもせいぜい虚勢にしかなれない以上」「自分への警告がほんの一瞥で自分への脅迫へズレてしまうんです」くらいに変化している。そしてときおり思い出したような長沈黙を挟みながら「自分で自分に絶えず通訳しつづけてやることが」「自分といっしょに生きるってことだから」……ぽつりと誰かが、
「……うんち。」
と呟く。
五秒ほどの沈黙のあと、全員が一斉に
「ぶ、ぷ、ひ、ぶっはべぼがはじはぴゃはひひぎゃはもはふぁーーっ!」
吹き出すのである。のけぞり仰向いて椅子をがたつかせながら大笑いするのである。
新入生は、何が可笑しいのかわからなくてきょとんとしかけるが、みんなが身よじらせて隣どうし肩を叩きあい抱きあって笑いねじれているときに一人だけ真顔を保つのは至難のわざ、たちまち引き込まれて一緒に腹を抱えて笑っている。そして笑っているうちにたしかに、「……うんち」という呟きが絶妙のタイミングで挟み込まれた呼吸の合致ぶりに腹の底から感動が湧いてくるのだった。
むろんこのキーワード発声は微妙なタイミングの隙間を狙って発せられなればならず、しかも誰がそれを言うかということも事前に決められているわけではなかった。
子どもではないのだから、ウンコ系の言葉が聞こえさえすれば笑うといった単純なものではない。大人笑いが出来るタイミングをつかむことが大切なのである。今の例では「自分で自分に絶えず通訳しつづけてやることが、自分といっしょに生きるってことだから」の直後に「うんち」であるかのように示したが、読点の隙間を確認して挟むような介入法では笑えないのが通例だ。糞とはそんな端正なスパイスではない。「だから」ではなく「生きるって」の直後「ことだから」を掻き消すように「うんち」が放たれるといった脱臼タイミングが定石である。「生きるってことだからうんち」と、「生きるってうんち」とを比べて、後者の方が関節的神経的臓腑的に優れていることを確認納得していただきたい。即興音声を時間の中で体験すると、この質的格差が一桁以上広がることも了解されよう。
確実に勝負をかけたい場合は、読点の隙間ではなく句点のあとに、沈黙が破られると予想されるタイミングの1秒前に勝負語を発するのが低難度ゆえ有利ともされていた。発語中の脱臼を狙う正統関節技よりも、出足のつまずきを狙う奇襲が笑いと相性がよかったりしたのだろう。
統計的揺らぎの中でふと持続する沈黙の池に、後半身語の礫を投げ込んで微細なさざ波を起こし、各人の心の笑い大波へと増幅させる発声技は、おろち芸道の一ジャンルとして確立こそしなかったものの、個々稀有なアクロバットの域に達していたことは間違いない。
沈黙後の単語を予想して、類似発音をおっかぶせるというワザは、初期には喝采をとる確率が高かったらしいが、皮相なコツが発見されて地の発言者と語の発声者との呼吸で傑作を自作自演できるようになるや、金妙塾成熟とともに堕落技の典型と見なされ唾棄されるに至ったという。「自分といっしょに生きるってことだから」の「生きる」に先回りして「いきむ」または「りきむ」と被せるような手法のことであるが。
いずれにせよ「いきむ」系より一貫して即物語が好まれ、たいていは「うんち。」とか「うんこ。」とか「おしり。」「おなら。」のような後下半身語であったが、ときには「おしっこ。」「おちんちん。」「きんたま。」のような前下半身語や、「ふんどし。」のような前後共通半身語のこともあった。一方「おめこ。」「おまんこ。」は一度も発せられなかったようだ。「げり。」「べんぴ。」「いぼぢ。」のような派生的後下半身語も稀であったという。これらの理由はおろち言語語学の一大分野を形成するほどの研究課題となっている。そうした適格キーワードは塾内で〈ソレ系ノ語〉または略して〈ソレ系〉と呼ばれ、例会の絶好タイミングに〈ソレ系ノ語〉を口走るテクニックが塾内暗黙の地位を決定するほど重要視され、〈ソレ系ノ語〉の出かたによってその日あるいはその週あるいはその月の塾活動の盛り上がり方が左右されるのだった。
約定事項が少ないだけに連歌や連句よりもさらに難しい句会であったと、歌のたしなみのあった塾生二人が一致して証言している。人生の結節点・クリティカルポイントに後下半身要因が偶然かつ不意に介入することにより、人生ステージの二段三段跳びアップが期待できるという「金妙人生観」のメタファーこそこの句会だったのだろうと桑田康介は後に複数の著書で述懐している。
しかし実は康介入塾時にはすでに、この句会(金妙塾解散後「プレ句会」と称されるようになった)はほんの稀にしか行なわれず、主に盗撮テクニック講習、盗撮ビデオ合評会、覗き日誌、屁合わせ会、寝小便合宿、虹合宿、大蛇問答、路上脱糞パフォーマンス、糞山ゲリラ、電車内クソゲリラといった(塾内では「シミュレーション」と総称された)難解でないストレートな実習や討論が主となっていた。これを金妙塾の堕落という見方と、世の必然的流れの反映という見方とがある。
盗撮ビデオ合評会については後述しよう。覗き日誌とは、日替わり当番制でトイレ覗きを実行し共有日誌に記してゆくもの。はじめは塾生全員でEメールのメーリングリストで送りあっていたのだが、現場の興奮を伝える筆跡や興奮極まった手ぶれの痕などが味わいであるということで、古き良き、中学校的日誌帳への手書きに切り替えて二冊目に入っていたものである。屁合わせ会というのは、男女混合で輪になって円卓を囲み、屁意を催した者は挙手をして、円卓に上がって尻を出してしゃがみ、他の全員はみんなで一斉に当の尻に顔近づけて屁を嗅ぐ、これを繰り返すものである。投票で臭いの最も濃かった者が選ばれ、賭け金を回収することができる。寝小便合宿というのは、塾所有の軽井沢の別荘に1~2月に何度か男女混合五~六人で宿泊し一つ布団で就寝、全員で寝小便をしようというものである。このパフォーマンスのイデオロギー的背景には、絶版久しい名著『スカトロピア』の一節がある。「大人になると、しようと思っても、仲々寝小便が出来ないのは残念なことだ。おしっこがたまって来ると、寝小便なんかすることができずに眼がさめてしまう。冬の寒い夜中に、おしっこしたくて眼がさめるなんて実に不幸せだ。あたたかいふとんから出て、寒い便所へ行くなんて、実に情ないことだ。ちゃんと、甘美な夢を見て、ちゃんと寝小便をたれることができれば、そんな辛さを味合わずにすむのだ。大人になると、寝小便をたれる能力もなくなるのだ。ああ、もっと寝小便をたれてみたい。あの甘美な夢にひたりたい。腰から、脚から、へその上まで、寝小便でずっくり濡れてみたい。ああ、あの心やさしい、あたたかな、寝小便の快楽よ。」(雁屋F著、ブロンズ社、昭和47年、p.120)もちろん意識的に寝小便をするのは反則で、あくまで天然寝小便。そのために24時間不眠の末水分をたっぷりとって就寝熟睡、意識せずに寝小便を実現させようという試みだが、雁屋Fの述べるとおり、みな尿意で目覚めてしまい、天然寝小便はまだ1人も実現していないのだった(もちろん目覚めてしまったら布団内放尿は禁止される。昏睡を装って意識的に布団内放尿することは簡単だが、暗黙の紳士協定というかそういう違反をしてまで仲間から不当な賞賛を得ようという不心得者など塾生の中には存在しない……)。
(第28回 了)
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