「モーツァルトとは〈声〉の音楽である」――その声をどう人間の耳は聞き取ってきたのか。その本来的には言語化不能な響きを、人間はどのように言語で、批評で表現して来たのか。日本の現代批評の祖でありモーツアルト批評の嚆矢でもある小林秀雄とモーツアルトを巡る、金魚屋新人賞受賞作家の魂の批評第四弾!
by 金魚屋編集部
五.
「石」ばかり論って「玉」の方を軽んじては公正とは言えまい。また、小林の存命中には得られなかったあらたな史料や研究成果を用いて、後代の立場の優位性を誇示するほど安易で空疎なふるまいはない。もっと大きなスパンでみれば、そのていどの時代的距離感などはるかに跳び越して届けられる射程や洞察があるはずで、それを見出すことが後代の役割だろう。
文芸評論家・小林秀雄というもはや論じ尽くされた感がないでもないひとりの日本人の裡に沈んだまま蓋をされた、〝耳〟の記憶をすくい上げること。音楽という得がたい経験の蓄積の中からかれはいったい何を聴きとっていたのか。そこに、二つのまったく異質な魂の交差が、誰も知ることのなかった共鳴りが見出せるように思うのだ。それはモーツァルトという、いくら論じても論じ尽くせない比類なき音楽のさらなる可能性に――誰も聴いたためしのない、けれどいつかどこかで親しく経験したように思えてならない音――〝世界音〟に立ち会うことでもある。
*
モーツァルトは真の遊び人だと言ったが、本人の手紙や近親者による伝記・伝聞にもとづくモーツァルトの軽佻浮薄な人間像と、そこからは想像だにできない、人間離れしたモーツァルトの美しい音楽とのギャップに躓くひとはいまなおすくなくない。しかし、
手紙から音楽に行き着く道はないとしても音楽の方から手紙に下りて来る小径は見付かるだろう。
(章番号9)
と小林が語るのは正しい。ただし一方通行ではあっても小径ではなく、大通りと言ってもいい。事実、モーツァルトが残した手紙から一貫してうかがえるのは機知とユーモア、気まぐれ、遊び心、よき教養、うがった人間観察とそれに裏打ちされた皮肉と諧謔、愛する者たちへのこまやかな気づかい、そして、あたかも天気がしばしば気象予報を裏切って変転していくように、転調をくり返しながら微細に変幻する喜怒哀楽のゆれ動く表現であって、どこに音楽と矛盾があろうか。小林は言う。
そこにモオツァルトの音楽に独特な、あの唐突に見えていかにも自然な転調を聞く想いがするであろう。音楽家の魂が紙背から現れてくるのを感ずるだろう。
(同)
「音楽家の魂」があらわになっている当人の言葉を引こう。
いま、ぼくのコンチェルトの予約出版のために、二つの協奏曲がまだ足りません。(※引用者注・ピアノ・コンチェルト K四一三、四一四、四一五の三作のこと。うち、足りない二作と書いているのはK四一三と四一五)。――これらの協奏曲は、むずかしすぎず、易しすぎず、ちょうどその中間です。――とても輝いていて――耳に快く――自然で、空虚なところがありません。――あちこちに――音楽通だけが満足を得られるようなパッサージュがありますが――それでも――音楽に通じていない人でも、なぜかしらうれしくならずにはいられないように書かれています。
(一七八二年一二月二八日 ウィーンからザルツブルクの父レオポルド宛、強調原文、モーツァルト書簡全集Ⅴ、海老沢敏、高橋英夫編訳、白水社)
モーツァルトに一貫した曲作りのコンセプトと言うべきものがあるとしたら、まさしくこのとおりだろう。じぶんの芸術の本質をこれほど正確に、みごとに言い当てたことばを他に知らない。おのれのことは、おのれが誰よりもわかっているということか。あらゆる種類の、とりわけプロの表現者がいつどんなときにも、第一に目指すべき玉条ではないだろうか。さらりと語ってはいるが、このとおり実行するのは当時もいまも誰であろうと、とうてい容易なことではあるまい。
従妹のマリア・アンナ・テークラに宛てたかの有名な「ベーズレ書簡」もまた時代の嗜好であるというより、スカトロジーや猥談のさなかからでさえ、かろやかなアレグロのひびきが聴こえてこないだろうか。坂口昌明はかれの糞尿趣味について「ラブレーを手本に修行を積んだかと思うほど達者なもの」と評している(『《魔笛》の神話学』、ぷねうま舎)。いったいこの小男の素顔は奈辺にあるのか。音楽が本人に代わって答えてくれるだろう。素顔なんてありはしない、しいていうならどれも素顔であると。
手紙から「音楽家の魂」を読み取った小林はそれに続けて、「スタンダアルは、モオツァルトの音楽の根抵はtristesse(かなしさ)というものだ、と言った」と引いて、ト短調クインテットの「tristesse allante」に接木するのだが、これが「モーツァルトの短調」「かなしみのモーツァルト」などという過剰なイメージが世に膾炙する契機となったのは返す返すも残念というほかない。モーツァルトの身のこなしは、はるかに変幻自在なのだから。小林はせっかく大事なことをじぶんで書いておいて、「短調」=「かなし」に「転調」してしまう。がここは一歩前で立ち止まって強調しておかなくてはならない。モーツァルトはいわれるような「短調」の天才ではない。どこまでも「転調」の天才なのだ、と。
*
モオツァルトは、ピアニストの試金石だとはよく言われる事だ。彼のピアノ曲のような単純で純粋な音の持続においては、演奏者の腕の不正確はすぐ露顕せざるを得ない。曖昧なタッチが身を隠す場所がないからであろう。
(章番号10)
小林のいう「単純で真実な音楽」に対比されるのは十九世紀ロマン派以後の「誇張された昂奮や緊張、過度な複雑、無用な装飾」を供する音楽である。
モオツァルトの美しさなどわかりきっている、という人は、自分の精神を、冷たい石にこすり付けてみて驚くであろう。
(同)
外れてはいないが、すでに十九世紀の音楽家たちにも憧憬をこめてそう思われていた類型的な図式と言える。なるほどモーツァルトにとって、五線紙というカンバスに描くために必要なパレットには、限られた色があればじゅうぶん足りただろう。すぐれた画家と同様、かれは基本色を薄めたり混ぜあわせたり、つまり「中間色」を巧みに使い分けることで、ロマン派以降の作曲家のように極端に複雑でトリッキーで凝った和音や半音階や主調から大きく外れた転調に頼らなくても、最小限の工夫から最大限の効果を生み出したのだった。西洋音楽史上屈指のモーツァルト聴きであり研究者であるアルフレート・アインシュタインがかれのことを「保守的な革命家、あるいは革命的な保守主義者」と評したのは、そのような意味にほかなるまい。(『モーツァルト――その人間と作品』、浅井真男訳、白水社)
それでも十八世紀末当時、モーツァルトの音楽はときに奇矯かつトリッキーとも受け止められたらしい。ウィーン時代のパトロンだったヨーゼフ二世に、「モーツァルトくん、きみの曲はちと音が多くないかね?」と問われ「いいえ陛下、ちょうどいい塩梅です」と応じたという逸話が事実だとすれば、「陛下」の感想はある意味正しい。聴衆へのサービスや「遊び」としてのアルペジオはともかく、モーツァルトは必要最小限のさりげないフレーズや音のあわいに、過剰なまでの陰翳を表現しえたからである。シンプルゆえに過剰、それがモーツァルトの音である。
*
ハイドンと比べ、モーツァルトのシンフォニーはどこがちがうかという話で「器楽主題の異常に感情の豊かな歌うような性質にある」というワーグナーの見解を踏襲する小林は、その歌うような主題がハイドンやベートーヴェンよりも短いのだと言う。
モオツァルトは、主題として、一と息の吐息、一と息の笑いしか必要としなかった。彼は、大自然の広大な雑音のなかから、なんとも言えぬ嫋やかな素速い手付きで、最小の楽音を拾う。彼は何もわざわざ主題を短くしたわけではない。自然は長い主題を提供する事が稀れだからに過ぎない。長い主題は工夫された観念の産物であるのが普通である、彼に必要だったのは主題というような曖昧なものではなく、むしろ最初の実際の楽音だ。或る女の肉声でもいいし、偶然鳴らされたクラヴサンの音でもいい。これらの声帯や金属の振動を内容とする或る美しい形式が鳴り響くと、モオツァルトの異常な耳は、そのあらゆる共鳴を聞き分ける。凡庸な耳には沈黙しかない空間は、彼にはあらゆる自由な和音で満たされるだろう。ほんの僅かな美しい主題が鳴れば足りるのだ。その共鳴は全世界を満たすから。言い代えれば、彼は、或る主題が鳴るところに、それを主題とする全作品を予感するのではなかろうか。想像のなかでは、音楽は次々に順を追うて演奏されるのではない。一幅の絵を見るように完成した姿で現れると、彼が手紙のなかで言っている事は、そういう事なのではなかろうか。
(章番号10)
モーツァルトの音楽創造の秘奥にまで分け入ろうとする小林の念頭にはおそらく、かれ自身『モオツァルト』(章番号3)で引用した、かの有名な手紙の存在があった。
……最良のアイデアがつぎからつぎへとわきあがってくるんです……どんなにながいものでも、曲はほとんど頭のなかでできあがって、だからぼくはそのあと、ほんの一瞥で、心のなかで、まるで美しい絵画かすばらしい彫刻のようにそれを見ることができるのです……ぼくは、すべてを同時に耳に入れているのです。
(『神秘のモーツァルト』、フィリップ・ソレルス、堀江敏幸訳、集英社)
今日では贋作として知られるこの一文を、近代ロマン主義の世界観が落としていった遺棄物としてうっちゃってしまうのはまことに惜しい。小林を擁護するわけではないが、モーツァルトの中で起きていたことは、じっさい手紙にあるとおりだったとしても何ら不自然ではないと感じるのは、私だけではない。
私には本夕の主人公モーツァルトの寿命が常人の常識的な判断基準をはるかに超える性質のものだと思われてならない。そうでなくて、三十五年、否、三十年という創作活動期間のあいだに無慮八〇〇曲もの作品が、しかも他のあらゆる人間的な営み、日常生活(中略)の只中で、幾千ページにもおよぶ手書きの楽譜(いわゆる自筆譜)の形で書き残されるはずがない。しかもそうした自筆譜の数々はほとんどすべてまことに美麗な書きぶりを示している。どうして、そんな奇蹟的なことが可能なのであろうか。
(『モーツァルトの回廊』海老沢敏、春秋社)
この偽手紙にかんする小林の反応のなかで鮮烈な印象をおぼえるのは、評論『モオツァルト』ではなく、後年になされたある対談での発言なのだが、その話は後述する。いまは、さきに引用した小林の文章へ立ち戻らなくてはならない。かれはここで注目すべきことを書いている。これはかれなりの音楽原理論である。道頓堀でのト短調シンフォニー体験とともに私が共振したのはこの箇所である。小林が強調するのは、モーツァルトの主題の短さ、主題にもならないほどの短さということだった。しかし、問題は長い短いという話ではないのだ。モーツァルトの中で、まったく異なるふたつの力が交わったり反発し合ったりしながら音作りがなされているということなのである。そうでなければ「一と息の吐息」「最小の楽音」と小林が言っていることと、「器楽主題の異常に感情の豊かな歌うような性質」という先のワーグナーの評とが並び立たない。感情を豊かに表現するには、たっぷりと息をのばしてうたい継がなくてはならないことがふつうで、じっさいモーツァルトの楽譜では、声楽曲に限らずあらゆるジャンルの楽曲にフェルマータと休符が効果的に用いられている。これに対して小林のいう「主題」は、「一と息の吐息、一と息の笑い」による「最小の楽音」でなくてはならない。それはうたうこと、うたをかなでることとは出処がちがうと考えるべきだ。〈歌〉にたいする〈声〉。この二つは、音楽を構成するまったく異なる原理から生まれているのだ。そして結論からさきに言えば、小林秀雄というひとは〈声〉のひとである。くり返すが、かれはモーツァルトの〈歌〉にではなく、〈声〉にのみ正しく感応したとみなすことができる。
では〈歌〉とは、〈声〉とは、何か。
六.
およそ音楽というものは、〈歌〉と〈声〉から成っている。
これと並行して、世の中には〈歌〉のわかるひとと、〈声〉のわかるひと、両方ともわかるひと、あれもこれもわからないひとがいる。「わかる」とは、それを発した者が伝えたかったことや、聴きどころやよしあしのニュアンスが直接的に、一「聴」瞭然に聴き分けられるということである。
〈歌〉とはひと口に言えば、曲の物語性ということである。十八世紀から十九世紀にかけての西洋音楽、平均律にもとづく調性音楽といわれるものが、そもそも物語性を前提にしていると思われる。メロディ中心の音の組成と言ってもいい。そこではまずなんらかの楽想(モチーフ)があって、それが主題(テーマ)や第二主題または副主題(サブテーマ)といった曲全体を支配する基本的なメロディとなる(モチーフとテーマが同一ということもある)。ソナタ形式ならイントロに続いて主題が提示され、主題は転調しながら展開され、ひとしきり展開されるとふたたびもとの主題に復帰(再現)する。余談だが、私は主題の展開よりもむしろどのようにして復帰するか、展開部から再現部へどのようにして戻るかが作曲家の試金石だと思っている。もちろん、誰よりもずば抜けて上手いのがモーツァルトである。
主題は大小の楽節(センテンス)の一部として、楽曲の形式を決める構成要素となる(主題も楽節もない楽曲もある)。ことばにたとえれば、句や節(フレーズ)が複数の句や節へとまとまって一連の文(パッセージ)を形成していくのと類比的である。
主題や楽節はことばと結ばれ(歌詞)、くり返し口ずさむことのできる独立したメロディーラインを形作る。独立性が高くなるほど、もとあった楽曲の文脈(式典だったり葬送だったり)を離れて転用され、替え歌にされるなどさまざまなアレンジが可能になる一方、その唯一性は希薄になる。しかしメロディーラインばかりでなく、テンポやリズム、こぶしやビブラートもその欠かせない一部であるとみなせば、楽曲の唯一性は濃厚になる。日本の歌唱でよく「節回し」といわれるのも、そのひとつである。そのような濃淡を生むのが〈歌〉である。
〈歌〉の何よりも重要な役割は〝乗りもの〟ということだ。〈歌〉は感情のうつろいの表現であるとともに、時のうつろいの表現である。それはことばと結びついて物語となる。人びとは〈歌〉にじぶん自身の、あるいは親しきひとや亡きひとや祖先や信仰や……あらゆる思いを乗せて遠いかなたの人びとへ、未来の人びとへと運んでいく。〈歌〉が人びとにとっての架け橋とよくいわれるのは、そのような意味である。「長い主題は工夫された観念の産物であるのが普通である」と小林は批判的にいうが、ひとがじつに長きにわたってその思いをつむいできたのが〈歌〉であるのだから、「自然」と対立させて主題の長短や観念うんぬんを主張するのは、とんだお門ちがいである。
*
〈歌〉は曲の身体そのものである。モーツァルトにあって〈歌〉は声楽曲は言うまでもなく、コンチェルト・交響曲・室内楽・独奏曲とあらゆるジャンルへ浸透し、ジャンルを超えて相互に浸透し合っている。
対話し合っているといった方がより適切な表現かもしれない。
モーツァルトの〈歌〉とは対話である。それはあらゆるものと対話している。旋律どうしが対話し、ピアノはオーケストラと対話し、ヴァイオリンはヴィオラと対話し、ヴィオラはチェロと、フルートはハープと、クラリネットはソプラノと対話し、それらと聴衆とが対話し、コンサートホールと、空や海と、自らと対話している。対話はゆったりと時を惜しまず交わされるかと思ったら、いきなり加速する。加速は加速を生み、旋律は旋律をみちびき、めくるめくような雪崩を起こす。イ長調のピアノ・コンチェルト(K四八八)の蕩けるような陰影に包まれたアダージョの余韻が冷めやらぬうちにフィナーレに入ると、曲はいきなり駆ける。おかしな言い方だが、この曲に内在する桁外れの速さは「アレグロ・アッサイ」と譜面に指示されているテンポ、あるいはロンドという定型の中にはとうていおさまらない。曲は神速で駆けている。曲が曲に追いついていないのである。しらべはその極で潰えてしまう。「いきなり」つまり〝不意打ち〟と旋律の雪崩、これがモーツァルトという音の宇宙の真骨頂なのである。
劇音楽のアリアを例にとるとさらにわかりやすいだろう。『魔笛』(K六二〇)の第一幕第六場、夜の女王が最初に登場する場面で歌われるアリア(変ロ長調)はどうだろう。まず歌われる節にじっと耳を傾けてほしい。次にそれを、ピアノやストリングスに置きかえて想像の中で鳴らしてみてほしい。まるでコンチェルトのメロディ展開とみまごうばかりに感じられないだろうか。器楽と声楽、弦と管、打と管弦……異質なものどうしがおなじ発想の下に、おなじ息を吹きこまれて生成している。のみならず、それらは必ず互いの対話によって進行する。対話を音楽にするのではない(それも可能ではあろう)、音楽が対話するのである。かれのホモフォニーやアンサンブルが絶美であるのは、そのためである。対話こそが曲に息吹を入れ、曲の推進力となる。これをモーツァルトの〈歌〉と呼びたいのである。
イタリアの貴族、ルキノ・ヴィスコンティが撮った『家族の肖像』(1974)という映画がある。ストーリーはよく憶えていない。ただひとつ記憶に残った場面がある。バート・ランカスター扮する老教授の結構な邸宅に、何やら怪しい男女の若者たちが居候している。かれらの奔放なふるまいに教授は頭を抱えている。乱れたこころを鎮めようとして、かれはレコードに針を降ろす。そこへいかにもゲイ好みの色男、ヘルムート・バーガーが入ってきて豪奢なソファーにふんぞり返ると、ひと言呟く。「……モーツァルトはいい」野蛮なヤンキーとしか思っていなかった若者のことばに老人はおどろく。
おどろいたのは観ていた私の方だ。『家族の肖像』は、このシーンのためだけに撮られたような映画だと言いたくなる。流れていたモーツァルトの曲はコンサート・アリア『神よ、私の心を』(K四一八)である。そのソプラノが画面から流れ出てきたとたん、時は凍りつき、映像は止まり、場の空気全体を、世界を一変させた。しかしそれだけではない。ヘルムート・バーガーの賛辞に応え、その旋律はスクリーンとまで対話していた。すくなくとも私にはそう聴こえた。
最晩年のピアノ協奏曲(K五九五)やクラリネット協奏曲(K六二二)になると、独奏楽器とオーケストラとはお互いおなじ呼吸の中に溶け合い、もはやひとつと言っていいほどになる。「器楽主題の異常に感情の豊かな歌うような性質」というワーグナーのことばは、このような事情までをも含めた意でなくてはなるまい。そう、〈歌〉なのである。その特性はなにか。誰もが口ずさめるということだ。これが後で説明する〈声〉との大きな相違点である。〈歌〉は人びとの万感の思いを乗せ、口から耳へ、耳から口へ、いつの世までも伝え合う渡し舟である。舟の中でも、とびきり大きな箱舟がモーツァルトの〈歌〉なのである。
渡し舟と箱舟のちがいを、ふたたび『魔笛』から挙げてみよう。
フランツ・シューベルトの有名な歌曲に『菩提樹』がある。その出だしを聴いてみてほしい。ネットで容易に視聴できる。「~ぼだいじゅ」まで聴けば十分である。
続いて『魔笛』第一幕第七曲の出だしを聴いてほしい。パパゲーノとパミーナのデュエットである。これもパミーナが最初のフレーズを歌い終わるところまでで十分だ。ともに出だしの七音が、ほぼおなじ音型であることがおわかりになるだろう。
ところがこの七音に続く展開の何と次元が異なることか。それぞれ続きを聴き比べてみてほしい。シューベルトのこの歌曲は、疑いもなく名曲である。最初のフレーズだけでも音楽として完結していて、愛されるべき国民的唱歌と言うにふさわしい。しかしモーツァルトはメロディの最初の展開からして、普遍性の次元がまるでちがうと感じる。音の出処がシューベルトとおなじとはとうてい思えないのだ。高音から低音までの上下動が聴く者のこころをくすぐり、次いで鷲掴みにする。その音づかいは幾度聴いても完璧という以外ことばが出てこない。男女が交互に口寄せた旋律がゆっくりと対話しながらエンディングに向かって高鳴り続けるあいだ、耳は釘付けとなったままである。気づいたら頬を涙が伝っている……。
これがモーツァルトの〈歌〉であり、箱舟なのだ。
それにしても奇妙な話である。弦楽四重奏曲ハ長調(K四六五)のアンダンテ・カンタービレを評して「これはほとんど祈りであるが、もし明らかな良心を持って、千万無量の想いを託するとするなら、恐らくこんな音楽しかあるまい」(章番号10)とまで言った小林だ。これほど的確かつ簡潔に楽曲の本質を語れるひとに、〈歌〉が馬耳東風だったとはとうてい信じがたい。たいていのひとにとって音楽を聴くとは、〈歌〉を聴くことであって〈声〉まで聴き分けるのは尋常なことではない。けれども、かれがひとえに〈声〉に注目し、〈歌〉に耳を塞いででも傾斜していたのは疑いようがない。
萩野篤人
(第03回 了)
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*『モーツァルトの〈声〉、裏声で応えた小林秀雄』は24日にアップされます。
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