私は「ニラスミレ」のハンドルネームで、文学愛好者が集うXのスペース「文学の叢」で小説を公開している。小説家になるのが夢で小説新人賞にも応募しているが、「文学の叢」の仲間だけがわたしの小説を話題にして批評してくれる。金魚屋新人賞受賞作家によるサイバー空間で紡がれてゆく小説内小説の意欲作!
by 金魚屋編集部
いきなりだった。なんの予兆もなく起こったものだから、わたしは何をどうしていいのか見当がつかず、普段気丈な母も何も知らない少女のように当惑しきっていた。二人とももちろん初めての経験だったから、じゃ、祖母、つまり母の義母に段取りを訊いてみようというのが筋だろうけど、母はそうすることで義母に対して敗北感を味わうようで、きっと嫌だったのだろう。祖母は祖母で狼狽していたのだ。祖母にとっても初めての経験だったから。
父が急に亡くなった。そしてわたしは白鳥航太と結婚しなければならなくなった。
普段はそれほど身体が丈夫だったとは言えないけれど、それでも持病があったわけでもなく、病院通いをしていたわけでもなかった。母より十歳上だったので、わたしの年齢にしては歳いった父親だったけれど、それでもこんな急に逝くとは思ってもみなかった。皆で朝食を食べた後わたしは出勤した。たいていその後は母がお茶を淹れて、父の書斎へ持って行くことになっている。それで父が書斎で倒れているのを母が見つけた。急いでかかりつけの医者を呼んだが手遅れで、心筋梗塞だろうと言われたらしい。わたしは連絡を受けて仕事を早退し、家に戻った。父はすでに布団の中で横たわり、顔には白い布が掛かっていた。死んだ人の顔に布が被されているのを初めて見た。母が父の傍に座り、少し離れて祖母が座っていた。遥香おかえり、そう、朝食の後だったのよ、私がいつものようにお茶を持って行った時にはすでに……。母はそこで言葉を切って俯いた。祖母は自分の夫を見送ったことはあったけれど、自分の息子が自分より先に死ぬことには到底慣れておらず、今朝より白髪が増え、さらに身体が縮まったように見えた。私はまだ立ったままで、背丈ほどの頑丈なつっかい棒を背中に固定されたように、身体が強張り膝が曲がらなかった。もしここで跪いて父の死に顔を見ようものなら、もう二度と立ち上がれないような気がした。
それでもわたしたちは人並みに葬式をして、納骨を済ませて、日常生活に戻る努力をした。ところが信じられないことに、父の行政書士という人が現れて遺言書の公開をしたいと言う。この事態を信じられなかったのはわたしだけのようで、どうやら母は父が遺言書を遺していたことを知っていた。祖母に至っては、代々お世話になっている行政書士事務所(昔は代書人といった、と祖母の説明)だと説明してくれる。事務的な事柄を受け入れる二人が平常に戻ってくれているようで、それならよかったと、行政書士が読み上げる遺言書を聞いた。
資産を相続できるのは母とわたしなので、預金、株、有価証券は二人で等分することになった。土地家屋は分けられないけれども、まずは母が相続し、母がひとり娘のわたしに遺してくれる形になるので、異議は申し立てなかった。ところが、その後の文面に理解ができず、父が急死したと聞かされた時以上に動揺と怒りと不条理感が込み上げた。
「─なお、娘の小村瀬遥香がもし未婚の場合は、同級生の白鳥航太氏と結婚すること(当遺言書作成時点で白鳥氏の未婚を確認済み)。新居として以下住所に所在するマンションの一室を譲渡する。以上」
白鳥航太というのはわたしが人生で一番嫌っている、おそらく向こうも心底わたしのことを嫌っている男のことだった。
「こんばんはぁ」
「ども、こんばんはー、お疲れ様でーす」
「そっちはもう寒いですかぁ?」
「いえ、今日は結構暖かかったですよ。そちらは?」
「……こんばんは、はー、遅れてすみません!」
「全然遅れてませんよ、大丈夫」
「全然大丈夫」
「あ、そうですか。あれ、拓郎さんまだですか?」
「まだですねぇ。クリスマス近いから忙しいんじゃないかなぁ?」
「ライブで?」
「でも、君は来ないですから、忙しくないじゃないですか、へへへ」
「あ、それ達郎の方ですよ」
「そっかー、名前似てるからいつもどっちだっけって。でも拓郎さんって、あ、そっか名前が漢字だからやっぱり古い方の人ってことですよね?」
「古い方って……そう、GLAYの方じゃないと思います」
「今の人ってどっちの『たくろう』を思い浮かべるんでしょうねぇ?」
「そりゃGLAYじゃないですか? 僕らの年代だったら、こっち」
「えー、でも拓郎の方は、今でも歌われ続ける昭和の名作ですよー?」
「……すみませーん、遅れましたぁー」
「あー、来た来た。拓郎さん、たった一分遅れただけですよ」
「あー、じゃあよかった。ライブが長引いちゃって」
「ライブって、こんな時間に終わるんですか?」
「あぁ、今日は夕方のライブだったから……ニラスミレさんところ、もう寒いでしょう?」
「さっきその話してたんですよ。今日は結構暖かくって。F・牛森さんところは? って訊こうとしたら、ふぇるまーさんが入って来られて……」
「うわぁ、すみません!」
「いえいえ」
「あ、ちょっとBGM消しますね……」
「私この部分、結構好きだけど」
「じゃ、流したままにします?」
「いえ、消してください」
私はソファの上で脚を組み替え、そのまま横になった。ローテーブルに置いた缶ビールが横向きに見え、銘柄がちゃんと読めた。消費者がソファに横向きになって飲むことを前提に考えられたデザインなのだろうか?
今晩のホストはF・牛森さんで、彼がホストになるといつもこのBGMが流れだす。いつの頃からかオープニングに流れるようになり、別に構わないんだけど、要らないよなーと思う時もある。アプリの設定でバックグラウンドミュージックの「自動再生をオフ」に設定しておけるのに、毎回してないんだなぁ、と画面のアイコンを眺めた。F・牛森さんのアイコンには短髪丸顔の三十代前半の男性が映し出されている。赤いジャージ(本人はスポーツジャケットと呼んでいた)が少し見える。ふぇるまーさんは丸の中に円周率を表すπの字があるだけ。拓郎さんのは、あまり小さくてよく見えないのだけれど、黒いサングラスをかけてギターを弾いているように見える。私は十五年前に友だちの結婚式で撮った写真を一度スキャンして使っている。巻き毛にして行ったので、写真もヘドが出るくらいかわいく見える。
「拓郎って、あの吉田さんの方ですよね? 今その話してたんです。GLAYのギターもTAKUROだなって」
「えーっとね、それちょっと複雑で」
「え? そうなんですか?」
「うん、オレはもちろんGLAY世代なんだけど、うちの親とかはもう一人の、漢字の方の、拓郎世代でしてね。それから、よく出させてもらってるライブハウスのオーナーとか、たまにお客さんなんかも吉田拓郎好きな人多くって。それでって訳じゃなかったんですけど、Twitter始めた時に、あ、今Xか、そのアカウント名決めようと思ったら、勝手に漢字で変換されて、ま、いっか、と」
「なるほど」
そうだったのか。吉田拓郎が未だ若い世代に知られていることに、私は少しほっとする。
「でも、バンドでやるときの名前は本名と全然違うんですけどね」
「えー、知りたいなぁ、なんていうんですか?」
「ははは、それはまた追々」
「謎、深まるなー。ところでニラスミレさん、小説のシェア、ありがとうございます」
ふぇるまーさんだった。「スピーカー」の横のボリュームマークみたいなのが点滅している。ふぇるまーさんの声はとてもディープだ。初め、ライブをやると言っていた拓郎さんの声なのかと勘違いしていた時があって、その印象を拭うのにしばらくかかった。特にふぇるまーさんはアイコンに自分の顔を使っていないので、声と名前を一致させるのが難しかった。逆に拓郎さんの声は覚えにくいどこにでもある声で、ギターを弾いて歌を歌っているらしいからもっと特徴的な声の方がいいんじゃないかと、私は一生本人に言えるはずもないことを毎週思っている。F・牛森さんの声はダウンタウンの浜ちゃんにそっくりだ。興奮してキンキン声になるところまで似ている。
私は今日二番目に入ったので、F・牛森さんが私を共同ホストにしている。スピーカーのままのふぇるまーさんが続ける。
「設定をどうしようって言ってましたけど、今回送ってもらった部分って、本当に冒頭だけですよね?」
私は自分が小説をみんなとシェアしたことをすっかり忘れていた。何かの事情で先週集まりがキャンセルになり、シェアしたのは確か二週間も前のことだ。ソファで座り直し、缶ビールに手を伸ばした。汗をかいている缶の表面で指が滑った。スマホを持ったままキッチンへ向かって、何かおつまみはないかと冷蔵庫を開ける。食べかけのチーズがあったので、それを片手で取り出す。ふぇるまーさんの返事に答える前に拓郎さんが何か喋り出したので、私は小説の話を忘れてしまっていることを言いそびれたというか、言わなくて済んだ。水道の蛇口を開けたかったので、ミュートにする。気にしない人もいるだろうけど、私は以前、別の音声アプリで大失敗してから、水を出す時とくしゃみが出そうな時はミュートにするようにしている。音声アプリで知り合った人に落語をする人がいて、その人が定期的に開いていた落語ルームに入っていて、私もスピーカーとして上がっていたんだけど、落語の間はミュートにして聴いている、というスタンスだった。その時は作業机でパソコンをいじりながら聴いていて、急にトイレに行きたくなって、でも落語も聞き逃したくなくて、スマホをトイレに持って入った。用を済ませ、水を流すと、落語が
「……おじさん、この節穴なら心配することはありません。場所が台所ですから、秋葉さんのお札をお貼りなさい。どうなるかと訊かれたら、穴が隠れて火の用心になりますから……水量多いなぁ……」
という流れになっていた。落語の台詞にしては珍しいなぁ、と思っていたら、しばらくして他のスピーカーの人のメッセージで「ニラスミレさん、ミュートにしてください」と来て血の気が引いた。多分何かのバグだったんだろうと思うけど、ミュートにしたと思っていたのに、どうやらちゃんとミュートできてなかったようなのだ。私側から見るとミュートになっていたのに。水量多い、と言われたのは私のトイレを流す音だったのだ。その前の別の水流音が聞こえはしなかっただろうかと、血の気が引いた後、冷や汗が止まらなかった。
「あ、ミュートだ」
F・牛森さんの声。私はチーズを皿に乗せるとすぐにミュートを解除した。
「あ、すみません。生活音消してました」
「で、小説は?」
「あ」
おつまみの準備中、所々聞こえてきたのは、私の小説の設定が結局どうなったのか、ということだった。
「送ってもらったところは遺言書ってなってますけど、なんでまたお父さんはそんな遺言書、書いたんですか? その設定の話でしたよね、先々週?」
と、ふぇるまーさん。私は、そうでしたねぇ、と言ってから前回の話題を思い出していた。
始まりはもう一つの音声アプリのルームで今のこの三人のメンバーと話すようになったことだった。コロナのせいで仕事が自宅勤務になったのがきっかけで、年甲斐もなく始めてしまった音声アプリ。時々覗きに行っていた「なってみたいよね? 小説家」というルームでモデレーターをしていたKankichi 55さんという人のアイコンが見えたので、お邪魔したのだった。ルーム名は「文学の叢」。私が入ったちょうどその時、どうやらKankichi55さんは何を基準に本を買いますか、と訊かれていた。Kankichi 55さんは「なってみたいよね? 小説家」のルームでは随分饒舌なのに、この質問には答えられないでいた。
「あ、今晩はぁー、初めまして。えっと、ニラスミレ、さん? ニラとスミレかなぁ。それともニラス・ミレさん?」
その時モデレーターをしていたF・牛森さんが私にスピーカーになるお誘いを送ってきた。なんだかおもしろそうなルームだと思って、私は誘いを受けた。
「今晩はぁ、初めまして、えーと、ニラスミレです。はい、ニラとスミレです。Kankichi55さん、こんばんはぁー。お名前見えたので、入っちゃいましたぁ」
その後本や文学の話をしたと思う。会社に行かなくなって、顧客からの注文もちょっと減っていた時期で、多分人と話すことに飢えていたんだと思う。結構私は初対面(というのか?)の時からベラベラ喋っていたと記憶する。そしていつの間にかKankichi55のアイコンは消えていた。
それから毎週土曜日の夜八時に同じルームで一時間ほど話すのが習慣となった。数ヶ月後に現在の呟くSNSに付随する音声機能に移動して、ホストは毎週交代制でやることになった。基本、一、二週間に一冊課題図書を決めて、感想を話し合ったり、たまに自分たちで創作したり、朗読なんかもやる場所だ。私はいつの間にか「なってみたいよね? 小説家」には行かなくなって、もっぱら「文学の叢」に通い続けて早四年が経つ。コロナの巣篭もり期間など遠に明けてしまって随分経過するのに、私たちはこの四年間、一度も実際に会ったことがない、音声アプリ上だけの知り合いなのだ。
「父親の意志はまだ決めてないんですよねー。意志っていうよりなんか変な風習とか祟りとか言い伝えとか、そういうのにしようかと」
全員が、何それ? 面白そう? どういう結末になるんだろう? と口々に言い出した。私自身も、どういう話になるんだろう? と言いたい。今のところ父親の遺言書によって自分が嫌いな男と結婚しなければいけないという設定しか決まっていない。絶対面白いですよ、と言ってくれたのは拓郎さん。ライブの後だからなのか、いつもの覚えられない声に少ししわがれた雑音が混じっている。拓郎さんはプロのバンドマンで、自分で作詞作曲もするらしく、文学には大いに興味を持っている、とのこと。この続き、もうできてるんですか? と訊いてきたのはF・牛森さん。彼は都内の公立高校で現代国語の教諭をしているらしい。国語のプロだから、私は自分の小説の話をする時はいつも緊張する。続きが楽しみだなぁ、と言ったのはふぇるまーさん。ふぇるまーさんは現役の大学生で、数学が専攻らしい。言われなくてもアイコンとアカウントネームで判断できたのだけれど、数学専攻の大学生が文学に興味があることに、ちょっと意外性を感じた。それを言うと、
「それは偏見です。数学やる奴には案外文学好きは多いんです」
と反論され、私は素直に謝った。
私は、というと、北海道に住んでいることをいいことに、ここのメンバーとは一生顔を合わさないだろうと高を括って、年齢を十五歳ごまかし、というよりみんながそう思い込んでいるだけなのだけれど、プロの小説家になろうとしているおばさんだった。
シェアしてもらった続き、書けてるんですか? と誰かが言うので、まー、一応、と返事した。多分あれからそれほど書いていないので、まー、一応、と言う返事でいいだろう。
「前のも面白かった。石鹸が家政婦としてやって来るやつ」
「ありがとうございます。でも、あれも落ちちゃいましたし」
「好きだったけどなぁ」
F・牛森さんがずいぶん悔しがる。
「じゃ、今回の続きあるんだったらここで少し朗読してもらっていいですか。で、そのまた続きが書けたら、ま、来週までに書けたらってことですけど、シェアしてもらって、来週みんなで意見交換っていうのは?」
「いいねー、それ」
「そうしましょう」
私抜きで話が勝手に進んだ。
「そうですか、じゃ、書けたところまで、読みますね、ちょっとお待ちください」
私は仕事部屋に移動した。コロナが明けてからでも、週に二日ほどしか出勤しなくなって、パソコンの前に座る時間が増えた。椅子に座るといつも思うのは、腹の贅肉が増えたことだ。少し摘んで揉んでみてから、パソコンの「小説」というフォルダを開いた。
アカウント名で使っているニラスミレというのは、私の筆名でもある。漢字で「韮菫」。韮が苗字で菫が名前、ということにしている。単純に韮と菫の漢字が似ているからおもしろいなぁ、と思っただけだった。でもニラスミレだと、みんな「ラス」にアクセントをつけて呼び、「韮菫」だと、「に」と「れ」が高くなる。小説を書いている時と音声アプリで喋っている時、そして現実では、私は違う世界の違う住人になった気がする。
「じゃ、読みますね」
私はこの時だけは違った世界の融合を感じながら、自分の小説の朗読を始めた。
白鳥航太とは小学校の同級生で、その頃からものすごく仲が悪かった。航太は何か喋った後に内容に関係なく必ず引きつり笑いをする。何かにつけてドヤ顔をして、いつも自分が優位に立とうとする。今で言うマウントを取る、と言うやつ。話にオチがなく、おもしろくない。それにわたしが大嫌いなデブだ。学校ではお互いの悪口を言い合うのが常だった。ある日の二十分休みの時、わたしが航太の体操着を教室で飼っていた金魚の水槽に浸けてやった。あんな臭い体操着、水槽の中に浸けたって何にも変わらないだろうと、もちろん嫌がらせのつもりでやった。むしろ、臭いで水槽の金魚が死にはしないかと心配だったけど、真っ白な体操着は水槽の中の金魚を蹴散らしながら沈んでいった。底に敷きつめられた砂利に到達すると、数匹の金魚は新しく入れられた水草とでも思ったのか、体操着の周りを楽しそうに泳ぎ、腹部に付着していた糞を体操着に落した。その後あいつのペンケースに体操着を巻き付けて、水槽の内側を掃除した。おかげで緑色の苔がすっかりとれ、水槽はきれいになった。わたしがクラスメートと爆笑していると航太がやって来て、顔を真っ赤にして水槽に駆け寄ったのを覚えている。そして、仕返しのつもりだったのだろう、航太はわたしの体育館シューズを学校前のドブ川に捨てた。つま先がゴムでブルーになっている買ってもらったばかりの体育館シューズを、航太は教室に備え付けてあったゴミばさみでつまむと、ドブ川までどたどた走って行き、泥臭い川に向かって投げたのだ。何か仕返しをされる予感がしていたわたしは、反射的に後を追って走って行くと、生き物が一匹も生息していないドブ川に無機質の上履きが情けなく浮いていた。その日は二人とも、授業が終わるまで教室中に異臭を撒き散らしていた。
中学になって、わたしがカンニングの常習者だという噂を学校中に触れ回ったのが航太だった。わたしはすぐに先生から目をつけられ、釈明のために職員室に呼ばれたことがあったけど、何を言っても言い訳にしか聞こえなかっただろう。肩身の狭い思いで中学三年間を過ごした。高校へ進学する際に必要な内申書も、あいつのせいで多少悪くなったはずだ。それが原因なのか今となってはわからないけれど、わたしは第一志望の高校に落ちた。当時少女雑誌に載っていた「嫌いなヤツをこらしめるおまじない」というのを私は毎晩試して、航太を呪った。あいつも志望校へは進めなかったらしいので、呪いは効いたのだと思う。
高校は別々の学校に通ったが、たまにゲームセンターなどで顔を合わせると、不良グループ顔負けの喧嘩を繰り広げた。わたしは特に非行に走っていたわけでもないし、いわゆるまじめが高校生だったけれど、航太を前にすると嫌悪感と闘争心が身体中の細胞に行き渡るような気持ちになり、人が変わったようになる。一緒にいる周りの友達は、初め加勢をしているのだけれど、そのうち手に負えないことになってくるため、最終的には二人だけの罵倒と格闘になる。一度航太がわたしを殴って警察沙汰になって、そんなことで自分の人生を棒に振るのは馬鹿げていると悟ったのか、あいつはそれ以来、口喧嘩だけで終わるように心がけるようになったみたいだ。そうなるとこちらも拍子抜けして、わたしも口だけの喧嘩をするようになった。そのうちあいつが行きそうな場所を極力避けるようにした。おかげで大学に進学してからは、一度も会うことがなかった。
「ここまでです。やっぱりあんまり書けてないですね、すみません」
私の朗読が終わるとやや間があって、F・牛森さんが「ふむ」と言った。実際に「ふむ」と言う人に初めて出会った、いや、「聞いた」。
「なんだかすごいキャラの二人ですね」
「ほんと、すごい」
「こんな二人が結婚して、で、一緒に暮らすんですよね? 大丈夫なのかなー」
「確かに」
「でもキャラは立ってますねぇ」
「え? そうですか? ありがとうございます」
「こんなに嫌ってるのに、祟りとか風習で結婚させられるって……」
「気の毒ですよねー」
「って、それ書いてるの、ニラスミレさん!」
皆一斉に笑う。笑いながら私は「すみません」を連発する。ニラスミマセンに改名するか?
私は年齢を隠している手前、基本ここのみんなには敬語を使う。この四年間一度も実際に会ったことがない人にタメ口で話せるほど、私は若くはなかった。私にとっての「たくろう」はドンピシャで「拓郎」の方だ。普通に大学を卒業して、普通に就職して、一回だけ結婚して、一回だけ離婚して、一回だけ転職して、小さい会社で役職に就いて、コロナが始まってこの歳でリモート会議を覚えなくてはいけなくて、父を見送って、時々母の入所する老人ホームを訪れて、そしてその間ずっと小説を書き続けて一度も新人賞を獲ったことがないこの私が、音声アプリなどという得体の知れない世界でさえ礼儀正しくすることは、何十年も生きながら自然と身につけたことだ。
アイコン上の拓郎さんのサングラスが光った気がした。動かないアイコンは、その向こう側にいるまだ見ぬミュージシャンの息遣いを必死に隠そうとしていた。
「ただ、オレには分からないんだなぁ、その、人を嫌いになるっていうのが」
「え?」
「オレ、基本的に人を嫌いになったり憎んだりしたことないんで」
サングラスのアイコンの人にありがちな、見かけとは結構違った感じの意見だった。バンドマンなんて世間や人を嫌って生きていると思っていた。それが創作活動の必須条件だと、勝手に決め込んでいた。世間や人に対して嫌悪感があるからこそ、それを音楽に反映する、みたいな。完全な私の偏見だけど。
ふぇるまーさんのアイコンの下の青いボリュームマークが呼吸するように動いた。
「僕はわかります」
「あ、そうなんですか?」
「はい。それにニラスミレさんも、嫌悪する気持ちをむっちゃ理解してこの小説書いてる訳やないですよね?」ふぇるまーさんは長く話すと関西の言葉が出る。「だからどうして二人が結婚しなければならないかの縛りが浮かばないんとちゃいますか?」
「うーん、どうだろう?」
この話を書き始めた時、とにかくぶっ飛んだ設定にしようと思った。独身の友達と話していて、人ってどうして結婚したがるんだろうねぇ、といくらでも答えが返ってきそうな疑問を投げかけるものだから、裏かいて嫌いな者同士が結婚する話にしちゃえ、と思っただけのことだった。しかし、SFじゃないんだし、説得力のある背景がないと単なる人権無視の物語になってしまう。じゃ、いっそのこと純文学の賞やめてSFの新人賞に送る?
「私もね、実生活で人をすっごく嫌いになったりってことはしないように努力してるんです。だって、人を嫌うことって、その人のことしょっちゅう考えるってことだし、嫌う感情の熱量って誰かを愛することに匹敵するぐらい大きいものでしょう? それってもう愛情ですよねぇ? だから私も、もし『あー、あの人のこと嫌いだな』って思ったとしても、その感情は消さなきゃ、って思う方です」
スペース内に沈黙が走った。みんなミュートにしているか、電波が途切れたのかと思うほどの静けさで、生活音も息遣いも何も聞こえなかった。
「皆さんは、そういうことってないですかぁ」
沈黙に堪えられなくなって、私は自分の青いボリュームマークを震わせた。うーん、という呻き声のようなものが漏れてきたのはF・牛森さんのアイコンからだった。牛森さんって、本名なんだろうか? 今まで尋ねたことがないし、私が知る限り話題になったことがない。
「父親が死んで、遺言書公開したら、自分が嫌いな人と結婚することになっていた。理由はこれから考えるとして、それでいいのでは? だめかなぁ。人権無視にならない程度で不条理なことって、世の中にはあるもん。僕は好きですけど」
あ、好きだったんだ。
「僕もいいと思います。別に純文学がSFみたく謎めいててもいいんでしょう?」
「そうよね」
ふぇるまーさんが大学生だと知っているから、思わず五十歳のおばさんはタメ口で答えてしまった。
「それからもう一つ。私、いつも人称決めるのに悩むんですけど、今回のどうですか?」
続きも結末もどうなるのか全く見当がついていない。おそらく主人公はいやーな人生を強いられるのだろうから、ここは一人称で感情剥き出しの物語にしていくか、それとも各登場人物の考えや主人公への想いなどを書こうと思ったら、やっぱり三人称だし。父親の独白みたいなのも入れてもいいし。
「僕は今のままでいいんちゃうかと思いますよ。続きどうなるかわからないですけど、感情移入はしやすい。嫌いな人がそばにおるの分かってて生活するの、どんな感じなんやろう、って」
ふぇるまーさんはこういうところが素直でかわいい。
「じゃ、これでいいじゃないでしょうか。続きが楽しみです」
F・牛森さんが言うと、続いて拓郎さんも、このままで、と言った後で、父親の遺言書の理由が何か納得できるもので、と続けた。嫌いな者同士で結婚する時点で納得できる理由なんてないと思うんだけど、と私は皿の上のチーズの最後の一切れを口に放り込んだ。咀嚼音が聞こえないようにスマホから身体を離した。
「あ、そろそろいい時間ですねぇ。じゃ、来週はまたおすすめ図書の持ち寄りってことにして、ニラスミレさんも続きが書けたらGoogleでシェア、お願いします。で、来週のホストはふぇるまーさんでしたっけ?」
「そうです」
「じゃ、今日もこの辺にしますか」
「はい」
「楽しかったです」
「じゃ、また来週」
もう一つの音声アプリもそうだけど、ホストまたはモデレーターがそのルームを閉めるのを待つか、自分から退去するのかは、自分のそのルームに対する熱心さをモニターする機会だと考えている。Zoomなんかを使うリモート会議も同じだなと思う。会議が終わって、「それでは失礼しまーす」「失礼しまーす」「お疲れ様でしたー」などの別れの言葉を全て聞いてしまってから「ミーティングを退出」をクリックした方がいいのか、このミーティングすごく充実してました、お名残惜しいです、という気持ちの表れを、ホストが会議を終了することで仕方なく退去しました、という体を取った方がいいのか、さっさと「ミーティングから退出する」をクリックして、ビジネスライクなキャラを纏った方がいいのか。でも、案外ホストがさっさとルームを閉めてしまうと、なーんだと思う一方、気が楽になるのは確かだ。
窓の外を見ると、雪がちらついていた。今日は暖かかったですよ、と発言したのがちょっと恥ずかしかった。今降ってきました! と報告するような仲じゃない。この三人とはLINEもしていない。メッセージ機能使ってかわいい女を演じてみるか? お互いの姿はアイコンだけが全て。今日は暖かかったですよ、がたとえ古い情報になってしまったとしても、オフラインで連絡し合う義務はない。
(第01回 了)
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*『四角い海』は5日にアップされます。
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