谷川俊太郎: 昭和6年(1931年)生、令和6年没。哲学者で文芸評論家の徹三と母多喜子の間に生まれる。昭和27年(1952年)に処女詩集『二十億光年の孤独』で詩壇デビューする。抒情詩人として知られるが、現代詩や童謡、ノンセンス詩など幅広い詩風の作品をてがける。翻訳家、作詞家、童話作家としても知られ、その執筆範囲は小説以外のほぼ全文学ジャンルに及ぶ。
谷川賢作:昭和35年(1960年)、俊太郎と大久保知子の間に生まれる。玉川学園高等部卒業後、音楽家として活動し始める。映画『鹿鳴館』(昭和61年[1986年])で作曲家デビュー。平成8年(1996年)には詩を歌うグループDiVaを結成し、童謡やポップスとも異なる日本語と音が融合した独自の楽曲を発表し始める。『詩は歌に恋をする~DiVa BEST』(平成21年[2009年])などのCDがあり、今年7月にDiVaの新譜が発売される。
谷川俊太郎氏は処女詩集『二十億光年の孤独』(昭和二十七年[一九五二年])でデビューして以来、一貫して自由詩の最前線を走り続けている詩人である。戦後最も人々に読まれ、愛され続けている詩人でもある。賢作氏は俊太郎氏のご長男で、作曲家、ピアニストとして旺盛に活動されている。平成八年(一九九六年)に大坪寛彦(ベース、リコーダー)、高瀬麻里子(ボーカル)氏と現代詩を歌うバンドDiVa(ディーバ)を結成されてから、父の俊太郎氏と共演することも多い。親子であり作品制作のパートナーでもあるお二人に、創作に対するお考えや姿勢をじっくりお聞きした。
文学金魚編集部
■デビュー当時について■
――――今日は『詩と音楽への旅』というテーマで谷川俊太郎、賢作さんにお話をお聞きします。ただ今までにもインタビューをたくさんお受けになっておられますから、今回は少し突っ込んだ質問をさせていただこうと思います。多少、不躾な質問をするかもしれませんが、どうぞご容赦ください。まず俊太郎さんに質問させていただきます。僕らは一九八〇年代くらいから詩に興味を持った世代です。僕は明治大学出身なんですが、当時明治には入沢康夫、渋沢孝輔、飯島耕一、窪田般彌、嶋岡晨、それにボードレールの翻訳で有名な齋藤磯雄さんなど、第一線級の詩人や詩の学究が多く勤務しておられました。そういった環境もあって詩に興味を持ち始めたわけです。ただ正直に言いますと、当時の僕らにとって、俊太郎さんの詩はあまりにも当たり前にそこにあるという印象でした。学生たちはもっと難しい戦後詩や現代詩に惹かれていたわけです。そういう時期が長く続いたんですが、九〇年代くらいから世の中が大きく変わってきた。僕らは長い間、逃れようもなく同時代の戦後詩と現代詩の大きな流れに巻き込まれていたわけですが、九〇年くらいから恐らく戦後詩や現代詩は自由詩とイコールではなく、将来的にはある時代特有の書き方として相対化されるだろうという流れが見えてきたわけです。それは二〇〇〇年紀に入って動かしがたい流れになったと思います。戦後詩や現代詩の技法などは受け継ぐことができますが、もはやその思想(世界認識方法)で現代社会を表現することはできない。実際、詩の世界はかつてないほど低調になっています。現代は、二〇世紀後半の詩の技法や思想の、長い長い崩壊・解体期にあるのではないかと思うことさえあります。
つまり詩は、状況的に言えば、戦後詩や現代詩というある〝書き方〟の限界に直面しているわけです。〝自由詩〟という原点をもう一度考え直さなければならない地点に差しかかっていると言ってもいいかもしれません。そういう状況の中で、今さら失礼な話ですが、俊太郎さんの仕事の意義が大きくクローズアップされて来るのを感じます。俊太郎さんは最初から自由詩の原点とでも言うべき作品を書き、現在も高いレベルを維持しながら作品を量産しておられる。俊太郎さんは八十一歳(十二月十五日がお誕生日)ですが、その年まで自由かつ新鮮な詩を書き続けた詩人はほとんどいません。先輩詩人では西脇順三郎さんくらいかな。西脇さんは八十五歳の時に最後の詩集『人類』をお出しになりましたが、単に書き続けたからではなく、作品の質が高かったから詩人たちの尊敬を集めたわけです。俊太郎さんが現在まで書き続けておられることにも、やはり理由があると思います。それはご自身ではどうお考えですか。
俊太郎 とりあえず大きな病気をせずに、健康でいられたからじゃないかな。大岡(信)はちょっと病気になっちゃったしね。
――――飯島(耕一)さんも少し体調がすぐれないとか。
俊太郎 そうみたいですね。
――――でも身体が元気でも、書けない時は書けないというのが物書きでしょう。
俊太郎 僕は生活がかかってるからね(笑)。そこがほかの詩人との大きな違いでしょうね。
賢作 今はかかってないでしょう(笑)。
俊太郎 うん、今は違うよ。でも基本的に生活をかけて仕事をしてきたから、ずっと書き続けてきたってことはあると思います。もちろん詩を書く仕事だけじゃありませんけどね。僕の同世代の詩人たちは、大学の先生とか定職を持っていた人も多かった。僕は書いて稼ぐしかなかったんです。
――――大学で教えないかっていうお話はあったんじゃないですか。
俊太郎 某大学から学長になれっていう声がかかったことはありますよ。でも僕は夜間部の高校卒業ですよ(笑)。それに根っからの学校嫌いなんだから。
――――俊太郎さんくらいの文学の実績があれば、学歴はもう誰も気にしないと思いますよ(笑)。デビュー当時のお話をさせていただきたいんですが、最初の詩集『二十億光年の孤独』は昭和二十七年(一九五二年)の出版です。今読んでも純粋な孤独感が表現されている素晴らしい詩集だと思います。でもこの詩集、終戦からわずか七年後の出版ですよね。ある惑星に青年がポツンと落ちて来たという感じがします。戦後の社会はザワザワ動揺していたと思いますが、そういった状況から見事に切れている。なにか星の王子様的でさえあります。俊太郎さんは、当時、相当なお坊ちゃんだったんですか(笑)。
谷川俊太郎処女詩集『二十億光年の孤独』
函入り・上製・角背・カバー
縦15.5×横12.5センチ 166ページ
創元社 昭和27年(1952年)刊
俊太郎 なんの苦労もなかったのは確かですね。父親(哲学者の谷川徹三氏)もけっこう有名だったしね。父はあぶく銭って言ってましたけど、戦後、哲学書がブームになって売れた時期があるんです。父が骨董を買い始めたのもそのおかげなんです。そんなわけで、当時、お金がそれなりに入っていて、僕は親がかりだったけど、高校を出てもすぐに働けって言われなくてすんでいた。
――――谷川家はどういう家系なんでしょう。
俊太郎 愛知県の常滑の商人です。よくは知らないんですが、ずっと常滑で暮らしていたようです。父だけが京都大学に進学して、それから東京に移ってきたんです。
――――それは谷川家に、これからの時代は学問が必要だというような教育方針があったからでしょうか。
俊太郎 いや、父はどうも常滑の風土があまり好きじゃなかったようなんです。父は留学はしませんでしたが、頭が良かったものだから、一高から京大に進学して学者になった。でもそれは、常滑を出たかったっていう理由が大きいんじゃないかな。というのは僕が子どもの頃、父はめったに常滑に帰っていませんでしたから。
――――その頃、徹三さんのご両親はご健在だったんですか。
俊太郎 父の父、つまり僕の祖父はもう亡くなっていました。僕は祖母には会っていますから、健在でしたけど。
――――『二十億光年の孤独』に戻りますが、あの純粋な人間の孤独を描くようなミニマルな書き方は、意識的なものなんでしょうか。
俊太郎 ぜんぜんなにもわからずに書いていましたね。僕はもともと詩には興味がなかったんです。高校の同級生で友達の、後に児童文学者になる北川幸比古という男がすごく詩が好きでね。父親は文芸評論もやっていたものですから、僕の家の本棚に詩集なんかがいっぱいあった。北川はそれを目当てに家に遊びに来ていて、そのうち僕にも詩を書いてみないかって言い出した。いっしょにガリ版刷りの雑誌を出そうよってね。それで詩を書き始めたんです。
――――誰かに影響を受けたということもないんですか。
俊太郎 詩を書き始めた頃は、いわゆるライトヴァース系の詩をよく読んでいました。岩佐東一郎とか近藤東とか、あのへんの詩が一番好きでしたね。
――――モダニズム系の詩人ですか。
俊太郎 いや、あれはモダニズムとも違うんですよ。城左門なんか、まったくモダニズムではないです。現代詩からは無視されていた、ライトヴァース系の詩人たちの作品が好きだったって言ったほうがいいのかな。それから父が宮沢賢治の研究家だったので、賢治は読んでいましたが、詩よりも童話が多かったですね。それと、僕を『文學界』に紹介してくださった、三好達治さんの詩は読んでいました。戦後詩、『荒地』の詩人たちの作品なんかは、当時はぜんぜん理解できませんでしたね。
――――詩集の刊行年度から言えば、鮎川信夫の処女詩集『鮎川信夫詩集 1945-1955』は昭和三十年(一九五五年)出版で、田村隆一の『四千の日と夜』は三十一年(五六年)ですから、俊太郎さんの『二十億光年の孤独』の方が早いですよ。
俊太郎 詩集刊行は僕の方が早いかもしれませんが、『荒地』の詩人たちは、僕が詩集を出した頃には雑誌の第一線で活躍していましたよ。
――――『荒地』の詩人たちは俊太郎さんの世代より一回りほど年上ですが、詩集刊行年度は俊太郎さんたちとほぼ同時ですね。昭和二十年代末から三十年代の初めにかけて、入沢康夫さんや渋沢孝輔、飯島耕一さんなどの、いわゆる現代詩派の詩人たちもいっせいに詩集を刊行されていますから。
俊太郎 大岡も僕と同じくらいの時期に詩集を出していると思います。
――――大岡さんの処女詩集『記憶と現在』は昭和三十一年(一九五六年)出版ですね。同人詩誌『櫂』は大岡さんに誘われて参加されたんですか。
俊太郎 『櫂』は川崎洋と茨木のり子が始めて、僕も誘われて参加したんです。大岡は僕よりちょっと後の参加です。
――――僕らは詩の実作者なので、どうしても他人の詩を技術的に分析してしまう傾向があるんですが、俊太郎さんはリフレインをよくお使いになります。『悲しみは』と一行書いて、その次にそれに関連する意味的、またはイメージ的な詩行を書き継いでいく。もちろん意味やイメージの流れをあえてはぐらかす場合もあるわけですが、一つの言葉に次々に意味やイメージを重ねていく方法を取られている場合がけっこうあるように思います。
俊太郎 それは詩型としてのリフレインという意味ではなくて、広い意味での内容的なリフレインってことですよね。それは自分では意識していませんねぇ。
――――一つの言葉を発端に、その可能性をどんどん追いつめていくような詩の書き方をされていると思うんです。ただその最初の言葉の選び方や発想が、俊太郎さんの場合は抽象的なものが多いように感じます。例えば黒田三郎や中桐雅夫などの抒情詩は、実生活を題材にしていることが多い。俊太郎さんの場合は発想が抽象的なものが多いので、作品を量産できるという面があるように思うんですが、そのあたりはどうでしょう。
俊太郎 うーん、そんなに突き詰めて考えてなかったな。僕は最初、完全な趣味として詩を書いていましたからね。模型飛行機や真空管ラジオを作るのが好きだったので、それと同じような感じで詩も作っていました。で、原稿料をもらうようになってから、これはちゃんとした仕事にしなきゃならないっていうふうになっていったわけです。自分の詩法とかを意識するようになったのは、ある程度、詩をたくさん書くようになってからです。それでもできるだけ方法は意識しないようにしようと思っていました。基本的に僕は勘で書いているわけです(笑)。勘が一番大事だっていう感覚は今でもありますね。
――――『二十億光年の孤独』に序詩を書いておられる三好達治さんは、お父様の紹介ですよね。三好さんは、詩集巻頭に『はるかな国から─序にかえて』という序詩を書いておられますが、力の入った素晴らしい作品です。あれは俊太郎さんも、少し感動されたんじゃないんですか。
俊太郎 ぜんぜん三好さんの序詩の値打ちがわかっていませんでしたね。もちろん三好さんの原稿は今でも大事に取ってありますが、ああいう序詩をいただくことが、どんなに大変なことなのかは、当時はわかっていなかったです。
――――でもあれはなかなか書いてもらえない詩だと思いますよ(笑)。
俊太郎 うん、そうですよね。
■現代詩とのかかわりについて■
――――また少し個人的な思い出話になりますが、僕らが俊太郎さんを本当の意味で同時代詩人として意識したのは、詩集『夜中に台所で僕はきみに話しかけたかった』(昭和五〇年[一九七五年])あたりからなんです。あの詩集を読んだときに、『あれっ』と思いました。今まで読んでいた俊太郎さんの詩とは、だいぶ違うぞっていう感覚ですね。
谷川俊太郎詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』
並製・カバー
装幀・著者
縦22×横14.1センチ 88ページ
青土社 昭和50年(1975年)刊
俊太郎 僕は現代詩の世界からは外れていましたからね。『二十億光年の孤独』だって、今から見ると現代詩に見えるかもしれませんが、そういった意識はなかった。それに『二十億光年の孤独』刊行当時、あの詩集に対する反響はほとんどなかったです。
――――嘘ですよ。小中学生向けの文学史の本に、谷川俊太郎は三好達治に認められ、『二十億年の孤独』で彗星のように詩壇にデビューしたって書いてありました(笑)。
俊太郎 いやホントなんだ(笑)。新聞なんかで、哲学者の谷川徹三の息子が変な詩集を書いたらしいぜ、って紹介されたくらいでした。だから現代詩とは認めてもらえなかった。ただ思潮社社主の小田久郎さんが、当時『文章倶楽部』という雑誌を刊行されていて、わりと早い時期に僕と鮎川信夫さんに時評の連載を依頼してくださったんです。だからそのへんでちょっとだけ現代詩人との接点はあった。でも僕は現代詩の世界はよくわからなくて、敬して遠ざけていました。
――――詩集『定義』と『夜中に台所で僕はきみに話しかけたかった』は同じ年の刊行で、それぞれ違う詩法で書かれています。あれは衝撃的でした。余談になりますが、この二冊には高見順賞が授与されましたがお断りになっていますね。どうしてなんでしょう。
俊太郎 前年まで審査員だったからですよ。
――――ああ、そういう単純な理由ですか。僕はてっきり、現代詩壇が俊太郎さんの詩を認めないんで、それへの一種のプロテスタントかと思っていました(笑)。
俊太郎 賞欲しさに審査員を辞めたと思われるのがイヤだったんです。そういうことを言う人もいますからね。大岡は俺だったらもらっちゃうけどな、って言ってましたが(笑)。でも僕は、そういうところは妙に潔癖で。
――――じゃあ少し後の詩集に授与すればよかったんですね。
俊太郎 そうですね。それならもらっていたかもしれません(笑)。
――――先ほど現代詩とは距離を置いていたとおっしゃいましたが、現代詩人たちとまったくお付き合いがなかったわけではないでしょう。『櫂』にも当然、バリバリの現代詩人がいたわけですから。
俊太郎 『櫂』の詩人たちも・・・まあ、現代詩人ってことになるのかな。だけど僕はお酒を飲んで盛り上がるってことが苦手な人間でね。現代詩人たちはよく酒を飲んで騒いでいたけど、僕は参加しなかった。だから仕事上の付き合いが多くて、あんまり友人付き合いはしてなかった。『櫂』の同人たちを除いてですが。
――――今回、改めて俊太郎さんの詩をダーッと読ませていただいたんですが、初期の方は本当にいい意味で生活感がない。純粋培養的な感受性の鋭さがあります。もちろんそれは徐々に変わってくるんですが、『夜中に台所で』あたりで、ポッと生活感が表れるようになる。また昭和五〇年(一九七五年)の『定義』、五十三年(七八年)の『タラマイカ偽書残闕』、五十五年(八〇年)の『コカコーラ・レッスン』あたりで、明らかに現代詩の詩法を自家薬籠中のものにされていますね。
谷川俊太郎詩集『コカコーラ・レッスン』
函入り・並製・カバー
装幀・菊池信義
縦21×横12.8センチ 154ページ
思潮社 昭和55年(1980年)刊
俊太郎 『21』(昭和三十七年[一九六二年])っていう薄っぺらい詩集があるんですが、あそこで自分は現代詩を書いているんだっていう意識が芽生えました。それまでは現代詩を書いているという意識はなくて、ただ詩を書いているという感覚でした。『21』の頃から『現代詩手帖』などの現代詩メディアと接近しまして、『定義』と『夜中に台所で』の頃には、はっきり現代詩を書いているという方法的な意識がありました。
――――同時刊行の『定義』と『夜中に台所で』は名詩集です。それだけでなく根本的に物を考えさせられる詩集でした。なぜかと言うと、俊太郎さんの詩は僕らの高校の教科書に載っていた。変な言い方ですが、詩人が生きてご飯を食べているなんて想像したことのない田舎の高校生にとっては、中原中也と俊太郎さんは同じ歴史上の人物だったんです(笑)。一種の古典として俊太郎さんの詩を読んでいたわけで、同時代の詩人という意識はなかった。でも『定義』と『夜中に台所で』を読んだ時に、初めて俊太郎さんの現代的肉体性を感じました。あともう一つ、俊太郎さんの詩の基盤は抒情詩です。その抒情詩人が軽々と――そう見えたわけです――ハードコアな現代詩をお書きになった。しかし現代詩人で俊太郎さんのような抒情詩を書ける詩人はいなかったし、今もいません。それはなぜなんだろうと考えさせられました。俊太郎さんは自由なのに、現代詩人はもしかするとものすごく不自由な書き方をしているのではないかと。あれだけ自由な書き方ができるのは、なぜなんでしょう。
俊太郎 現代詩壇と距離を置いて、その影響を受けなかったからでしょうね。というか、興味がなかったんです。基本的に他人の詩には興味がないんです(笑)。
――――俊太郎さんの詩は、最初期は社会と断絶されたような小さな自我の世界、その孤独がベースになっていると思います。さきほど詩集『21』で初めて現代詩を書いていると意識されたとおっしゃいましたが、外部世界の影響は詩集『旅』(昭和四十八年[一九六八年])あたりから誰の目にも顕著になってきます。そこには何か理由があったのでしょうか。
俊太郎 それは基本的には、人間としての成熟ってことじゃないでしょうかね。それから現代詩の世界がすごく狭くて閉鎖的だと、詩を書き始めた頃からずっと思っていたんです。それをどうやって拡げていくかってことが、いつも頭にあった。その頃は、なにか現代詩の新しいものを書きたいって気持ちがすごく強かったんです。それで『定義』と『夜中に台所で』っていう、ぜんぜん方法の違う詩集を二冊同時に出版することもやったわけです。同じ書き方で成熟していくのが詩人本来の道なのかもしれないけれど、あのあたりから、自分はもっと、とっ散らかして、いろんなことを試みてやろうっていう意識が出てきました。それをやるベースとしては、とにかく詩だけ書いていちゃ食えないから、来る仕事は全部やることにしていた。だから自分の書くものが、意識しなくても拡がっていったってことはあると思います。
■寺山修司について■
――――そのあたりで寺山修司さんとの接点ができたわけですか。
俊太郎 寺山とはプライベートな接点という面の方が大きいですね。ちょうど僕が、最初の結婚に破れて一人で西大久保のアパートに住んでいた頃に、彼はすぐ近くの社会保険中央病院に入院してた。歩いてすぐだから見舞いに行くと、彼も甘えん坊だから、レコードプレーヤーが欲しいとか言うわけです。僕は電気少年でしたから、そういう物を買うのが好きでね。買ってきてラジオにつなげてやったとかいうのが付き合いの始まりです。それから後になって、金がないって言うんで、ラジオ局に行って連続物のバラエティの台本の仕事なんかをもらってきて、彼のアパートで二人で夜書いていた。仕事は一緒にしましたが、そもそもの始まりからして、仕事上の付き合いとはちょっと言えませんね。
――――俊太郎さんは他者に対して優しい方だと思いますが、仲良くなると、時々ズケッと厳しいことをおっしゃいますよね(笑)。
俊太郎 ぜんぜん自分では意識してないんですけどね(笑)。
――――確か寺山さんとのビデオレターで、寺山さんが『俺は俳句も短歌もうまく書いてきたけど、詩だけはダメだったなぁ』っていう意味のことをおっしゃって、その返信のビデオで、俊太郎さんが『詩だからダメなんだよ』ってズバッとおっしゃっていたのを覚えています。
谷川俊太郎&寺山修司
『ビデオレター』パッケージ
昭和58年(1983年)
俊太郎 寺山はほんと、現代詩の世界で評価されなかった、迎え入れられなかったんです。長篇叙事詩とか、けっこう面白いことをやってたんですが。
――――でも詩集と呼べるのは、『地獄篇』一冊くらいでしょう。あれも詩集としてまとまっているかというと、微妙だと思います。で、俊太郎さんは、身内にはけっこう厳しいんですか(笑)。
俊太郎 僕は自分では気がついていないけど、どうもずいぶんひどいことを言っているらしいですね(笑)。でも真剣に付き合っていたら、ちゃんと悪口が言えるんですよ。
――――悪口ではなくて、本音ですよね。相手に届くかどうかは別ですが。俊太郎さんはどこかで〝詩はセルフのものだ〟と発言しておられました。詩の形は自分自身で作り上げるものだという意味で受け取ったのですが、寺山さんは俳句や短歌のような型がないとまとまらない方だったと思います。拡散していくばかりですね。彼は中心があるような、ないような人で、そのつど中心を作るでしょう。
俊太郎 高橋康也さんが、寺山作品について、確か〝アイデンティティの戯れ〟ということをおっしゃっていました。僕が見ていても、こいつ、ほんとはどこにアイデンティティがあるんだろうという感じはありましたね。すべて言葉の上で作っちゃってる人だから。なにか人格がわからないみたいなところはありました。
――――でも今の時代には非常に合っている詩人だと思います。
俊太郎 そうなんです。だから今でもあれだけ芝居が上演されて、本なんかも読まれているんだと思います。
――――寺山さんは、アイデンティティを設定しなかったら、もっとすごい人になったかもしれませんよ(笑)。
俊太郎 いや、どうなんでしょうね(笑)。僕は寺山の作品は、もう一つピンとこないんです。特に詩はピンとこない。芝居を見ても、仕掛けはすごく面白いんだけど、台詞としてはそんなに深くないってずっと思っていました。でも付き合っていると、とにかく憎めなくてすごく面白い男なんです。同世代で世に出ているヤツは、全部殺してやりたいとか言う人でした(笑)。俗物的な名誉欲がすごくあって、有名になって勲章をもらいたい人なんだけど、お金には興味がない(笑)。それに、とうとうお母さんをちゃんとコントロールできなかったとか、そういうところはすごく面白い人です。僕の従兄弟の庭瀬康二が晩年の寺山の主治医でしたから、寺山が芝居で忙しくてヨーロッパなんかにしょっちゅう行っていた頃は付き合いがなかったんだけど、病気がひどくなった映画『さらば方舟』(昭和五十九年[一九八四年])の頃から、またグッと親しくなったんです。うちの近所の河北総合病院で亡くなったわけですが、その時も僕はいました。ホント、付き合いとしては面白かったです。
――――金魚屋では去年、秋田在住の前衛俳句作家、安井浩司さんの墨書展を開催したのですが、彼は高校時代から寺山さんと交流がありました。安井さんは寺山主宰の俳句同人誌『牧羊神』を、無能を理由に馘首されたという神話的俳人です(笑)。調べてみると馘首には少し安井さんの脚色が入っていて、どうも寺山さんが周囲をシンパで固めようとしたために同人の整理が行われたようです。今はそんなことはないようですが、人から聞いた話では、少し前の安井さんは、寺山さんの悪口を言い出すと一晩中、止まらないような勢いだったそうです(笑)。でも悪口を言うにしても、相手に力がないと甲斐がないですよね。良くも悪くも寺山さんにはそれだけの力があったということだと思います。
俊太郎 寺山の、言葉を操る才能はすごかったと思います。芝居は彼の処女戯曲『忘れた領分』(昭和三十年[一九五五年])を見たのが最初なんですが、その時にびっくりしましたもの。いい芝居とかそういうのではなくて、とにかく言葉を操る才能がすごいと感じました。
――――寺山さんの戯曲は、俳句的なオムニバスになっているでしょう。パッと観客の心を掴んで、また次のツカミがあってという感じです。でも、どうまとめるかっていう時に、彼はいつも苦労していたように思います。時々中心を母とか恐山とかに据えるわけですが、端から見ていても、どうも嘘くさいところがあった(笑)。
俊太郎 彼は自分の履歴なんかも書いていますが、ほとんどフィクションですからね。
■言葉について■
――――で、ホントか嘘かってところに話をつなげていきたいんですが(笑)、俊太郎さんはエッセイなどで、詩では本当のことを書いているんだけど、なんか嘘くさいなっていう意味のことを、しょっちゅう書いておられます。それはどういう感覚なんでしょう。
俊太郎 僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。
――――『ことばあそびうた』(昭和四十八年[一九七三年])とか『わらべうた』(五十六年[八一年])などの、平仮名表記で音韻を多用した詩集があるでしょう。ああいった試みは、俊太郎さんにとっては非常に心安らぐ作品ではないんですか。
谷川俊太郎詩集『ことばあそびうた』
上製・角背
絵・瀬川康男
縦22.2×横14.1センチ 36ページ
福音館書店 昭和56年(1981年)刊
俊太郎 そうです。あれは現代詩が日本語の声の文化をあまりにも無視しているのに対抗して書いたわけです。このままでは詩の表現が平板になって先細りになるから、詩が本来持っている韻文性のようなものをどうにか回復しようとして、ああいった作品を書いた。脚韻、頭韻なんかで遊び始めたわけですね。あれをやっていると、ホントに自分が職人になれちゃう。言葉が完全に、石とか木と同じになる。そういう意味ではすごく心地よかったですね。
――――『ゆうがた うちへかえると/とぐちで おやじがしんでいた/めずらしいこともあるものだ とおもって/おやじをまたいで なかへはいると/だいどころで おふくろがしんでいた』(『ゆうぐれ』 『よしなしうた』昭和六十年[一九八五年])で始まるノンセンス詩なども素晴らしいと思います。
俊太郎 あれは本当のフィクションです。どこかの時点から、詩はフィクションだっていう意識がはっきり出てきた。だからなんでも書けちゃうし、なんにでもなれちゃうようになった。
――――ノンセンス詩とかはある意味とても正直ですよね。最初からフィクションだってわかっているから、表記方法や音感なんかが表現の中心になります。
俊太郎 音楽に近くなるんです。だからいつも息子の仕事をうらやましく思っています(笑)。
――――抒情詩人には基本的に〝私〟という表現主体があります。俊太郎さんの場合、まず純粋な孤独感を抱えた〝私〟があって、そこに外部社会を取り込んでいかれた。ただ最初の純粋自我のようなものを今でも保持されていて、そういう意味では〝星の王子様〟から〝星のおじい様〟になられたわけです(笑)。しかし詩で一九五〇年代から二〇一〇年代の社会を表現されてきたことはとても重要で、それは自我意識に社会を取り込むという一方通行的なものだけでは実現できないと思います。抒情詩人は自己愛が強くてナイーブだと思われがちですが、俊太郎さんは意外とご自分が他者(社会)から相対化されるのがお好きですよね。
俊太郎 うん、大好き。悪口言ってほしくてしょうがないですね(笑)。
――――賢作さんが俊太郎さんの詩に音楽を付けられるとき、文句を言われたりすることはないんですか。
賢作 それはないですね。好き嫌いはあるようですけど、この曲はロックっぽくてうるさいとか(笑)。
俊太郎 僕は元々音楽人間なんですよ。父は視覚型で骨董や美術が好きでしたが、母は上野の音楽大学を中退していて、すごく歌を歌うのがうまかった。僕にピアノを習わせたのも、伴奏させて、僕と二重唱でハモって歌いたかったかららしいんです。僕はそれがすごくイヤで逃げ回っていた(笑)。でも僕は父よりも母の遺伝子を多く受け継いでいるみたいで、聴覚型なんです。前にエッセイなんかで書いたことがありますが、戦時中は戦いに勝つと『軍艦マーチ』が流れて、負けると『海ゆかば』って曲がラジオから流れていた。その『海ゆかば』のハーモニーに痺れたのが僕の音楽体験の最初で、その後にベートーベンなんかのクラッシックに夢中になった。だから詩を書き始めた頃も、友達とレコードコンサートなんかは夢中になってやっていましたが、詩はほとんど読んでいなかったですね。
■詩と絵について■
――――でも俊太郎さんは、音楽だけじゃなくて美術も目利きだと思いますよ。『旅』(昭和四十三年[一九六八年])という洋画家・香月泰男さんとの詩画集があります。これは本心から言っているんですが、僕が読んだ戦後の詩画集の中でトップの仕上がりです。詩画集は難しい。詩がよくても絵がいまひとつだったり、その逆もあります。絶妙なバランスが取れていないといい詩画集にならない。『旅』は詩も絵も素晴らしい。これは是非お聞きしたかったんですが、詩と絵のどちらが先にできあがっていたんですか。
俊太郎 詩が先です。うちの父が香月さんの絵を持っていたんです。父は梅原龍三郎さんと親しかったでしょう。香月さんは梅原さんの弟子だから、その関係で一枚買っていたんですね。それがずっと家に飾ってあって、絵には親しみを持っていたんだけど、実際に香月さんにお会いして人柄に触れたのはニューヨークなんです。僕は昭和四十一年(一九六六年)から四十二年(六七年)にかけて、ジャパンソサエティフェローの奨学金をもらって、ヨーロッパとアメリカを旅行したんです。香月さんも、ちょうどその時、奨学金的なものをもらってニューヨークに滞在されていた。そこでお話をさせていただくようになったんですが、大先輩で偉い画家だから、詩画集ができるとは思っていなかった。ところが求龍堂という美術出版社の編集者から、香月さんと詩画集を作らないかというお話が来ましてね。僕はびっくりして、やってくださるんなら是非ということで実現したんです。それで詩をお見せしたら、香月さんの方は初めからプランができていたような感じでした。
谷川俊太郎詩画集『旅』 絵・香月泰男
函入り・帙入り・二つ折り用紙28葉
縦25.5×横25.9センチ 108ページ
求龍堂 昭和43年(1968年)刊
――――最初の方はクレヨンと水彩、それからデカルコマニー的な絵を描いておられますね。強烈な自己主張のある絵ではないんですが、だからこそ素晴らしい感性と読解能力をお持ちの画家の作品だとわかります。こんな単純で魅了的な絵はあまりないです。
俊太郎 すごいでしょ。絵の描き方の方法が全部違うんですからね。この詩集ができてきた時には、本当にびっくりして感激しました。
――――学生の頃、香月泰男はシベリアシリーズのイメージで、あの暗い絵を描く画家かと思っていたんです。でも『旅』を見て、始めて香月という画家にとって、シベリアシリーズの方がむしろ異質だったんだと気づきました。
俊太郎 香月さんが、シベリア抑留中に、日本の家族に向けて出した葉書なんかに書かれている画は『旅』の系統ですね。本当に家族思いの人でした。
――――香月さんはシベリア抑留がなかったら、普通の画家だったかもしれませんね。
俊太郎 うん、そうかも。
――――でも香月さんは、ご本人にとっては不幸なことですが、芸術家としては、シベリアに抑留されてよかったと思います。
俊太郎 絶対そうだと思います。
――――香月さんは、人間は極限状態に置かれると現実が歪むということを、まざまざと体験され目に焼き付けた感じですね。
賢作 香月さんのアトリエが再現されて、美術館になってから、俊太郎と一緒に一度おうかがいしたことがあります。
俊太郎 香月さんは一時すごいアメ車を乗り回しててね。画家はお金があったからさ。僕はびっくりしちゃってね。香月さんがアメ車かぁって(笑)。
――――ちょっとイメージできませんね(笑)。
俊太郎 面白いでしょ。それでアトリエに行くと、ワインの一升瓶が林立してるんです(笑)。
――――だから若くして健康を害されたのかな。俊太郎さんは、南桂子さんの絵も詩集の表紙に使っておられますね。南さんは浜口陽三さんの奥さんで、俊太郎さんが表紙に使われた頃は、南さんより浜口さんの方がずっと有名な画家だったと思います。なぜ南さんの絵だったんですか。
俊太郎 『愛のパンセ』(昭和三十二年[一九五七年])という、照れくさい題名の最初のエッセイ集があって、その時すでに浜口さんの絵も南さんの絵も知っていましたから、お二人の作品を口絵に入れさせていただいたのがご縁の始まりなんです。それで前にお話したジャパンソサエティフェローでパリに行った時に、お二人とお話ししたりしてね。南さんの版画は、確か二点か三点、買って持っていました。それで南さんからある時に、詩を書いてくれないかという依頼がありましてね。編集部からの依頼で南さんから直接ではなかったですが、そういう感じでお付き合いがあったんです。
南桂子装画の谷川俊太郎詩集
上『うつむく青年』 上製・角背・カバー 楽譜イラスト・和田誠 縦17.9×横15センチ 130ページ 山梨シルクセンター出版部 昭和46年(1971年)刊
下『空に小鳥がいなくなった日』 上製・角背・カバー 縦17.8×横15.1センチ 144ページ サンリオ出版 昭和49年(1974年)刊
――――俊太郎さんは、ご自分は聴覚の人間だとおっしゃいますが、絵を選ぶ時にも本能的な勘のようなものが働くようです。聴覚と視覚はどこかでつながっているんじゃないでしょうか。俊太郎さんのお仕事を拝見していても、聴覚と視覚の違いが際立つというよりも、融合されていると思います。装丁なんかで絵を選ばれる時も、本能に近い選択眼が働くんじゃないでしょうか。
俊太郎 見て言葉が浮かんでくるような画家としか仕事をしてないのは確かです。
――――言葉が浮かんでくるというのが、原初的な勘なんでしょうね。
俊太郎 まったくそうですね。意識下に訴えかける絵でないと、言葉は浮かんでこないですから。
■『ピーナッツ』の翻訳について■
――――俊太郎さんのお話では、画家たちとのコラボレーションは、偶然が積み重なって生まれたように聞こえてしまうのですが、それにしても仕上がった作品の出来がいい。画家ではないですが、俊太郎さんはアメリカの漫画家、チャールズ・M・シュルツの『ピーナッツ』を翻訳されています。あれは依頼で始められた仕事でしょうけど、よく俊太郎さんを翻訳者に選んだなぁと思うわけです。主人公のチャーリー・ブラウンを始めとする登場人物たちは、一種独特な生活感のない町に住んでいます。それぞれ孤独な雰囲気を漂わせながら交流している。俊太郎さんの詩の読者であれば、シュルツの世界はどこかなじみがある。『ピーナッツ』の翻訳者として俊太郎さんはうってつけだと思いますが、仕事を依頼された経緯はどういうものだったのでしょう。
俊太郎 シュルツの描く世界に、僕はすごく親しみを感じていました。翻訳の仕事を始める前のことですが、アメリカにいた時に新聞を買うとまずマンガ欄を読んでいましたからよく知っていたわけです。スヌーピーっていうおもしろい犬がいるとかね。だから僕は英語があんまりできないのに、翻訳を引き受けちゃったわけです。
『A peanuts book featuring Snoopy (1)』
チャールズ・シュルツ著 谷川俊太郎訳
角川書店刊
――――仕事を依頼する人も、よく考えていますね。
俊太郎 依頼してきた人は、当時はぜんぜん有名ではなかった鶴書房の社長さんで、仕事にアメリカに行ったついでに『ピーナッツ』の翻訳権を取ってきたんです。今じゃ考えられない話ですよね(笑)。彼は勘で、なんとなくシュルツの『ピーナッツ』と僕の詩の世界が似てると思ってくれたんでしょうね。僕は英語に自信がないから、日系二世の徳重あけみさんという方に下訳と監修をお願いして仕事を始めたんです。
――――僕が一番親しんできた俊太郎さんの作品は、実は『ピーナッツ』なんです。翻訳で面白いなぁと思うのは、アクビをするときに、『アクビ』って書いてある。英語では当然アクビに該当する言葉が書いてあるんだけど、日本語にするときに『あ~あ』とかにしないで『アクビ』にしてある。そういうところが面白いですね。
俊太郎 溜め息もそうなんです。
――――日本語の音声的な特徴を大切にしながら、あえてオノマトペを無化した訳語を当てておられるところがすごく斬新です。あれは意識的な訳し方なんですか。
俊太郎 方法があるわけじゃないけど、その場面その場面に合うものを日本語として使ってきたという感じです。『ピーナッツ』の中によく出てくる、〝GOOD GRIFE〟という有名な台詞があるんですが、あれなんかは場面によって訳し方を変えたりしています。
――――翻訳から逆の方向の話になってしまいますが、俊太郎さんは日本の古典文学にご興味はおありですか。
俊太郎 それが不勉強でね。最近、青空文庫などで著作権が切れた本なんかが読めるようになったでしょう。今、その中から少しだけ昔の古典を読んでいる感じです。だからホントに教養がないですよ(笑)。
――――でも俊太郎さんの詩の世界は、どこかで日本の古典文学の世界に通じていると思います。僕は大学院で紀貫之を研究しているんですが、国文学は外の世界から見ると四角張った研究世界です。でも古典の根源には言葉遊びがあります。駄洒落の世界という面が確実にある。俊太郎さんの詩を読んでいると朗読しても意味がわかりますし、『ことばあそびうた』など楽譜はないですが、限りなく音楽に近付いています。そのあたりが賢作さんとのコラボレーションがうまくいっている理由じゃないですかね。
■詩と音楽について■
賢作 ちょっと音楽の話をする前にお聞きしたいんですが、皆さんのお話もそうですが、他の方のお話を聞いていても、詩の世界では谷川俊太郎が一人勝ちしているんじゃないかという気すらしてくることがあります(笑)。詩をたくさん読んでいない僕が言うのもなんですが、詩の世界で俊太郎以外にバリバリ魅力的な詩を書いている詩人はいないんでしょうか。
俊太郎 吉増剛造がいるよ。
――――でも吉増さんたちの世代と比較しても俊太郎さんの評価は微妙だったと思います。僕は一時期詩の雑誌の編集にたずさわったことがあるんですが、俊太郎さんを詩のメディアの中心に据えるという発想も風潮もまったくなかった。詩のメディアは鮎川信夫を頂点として、その下に田村隆一、吉本隆明といった『荒地』派の詩人・批評家たちがいて、そのさらに下に、現実問題として原稿を量産してくれる実働部隊の〝戦後詩人〟たちがいるという構造だった。戦後詩人たちが詩のメディアの中核だったわけです。そこにときおり入沢康夫、岩成達也、飯島耕一、渋沢孝輔、天沢退二郎、吉岡実らの〝現代詩人〟たちが加わって、戦後詩とは違う詩や原稿を書いてアクセントを加えてくれるという構図がありました。俊太郎さんは、怒らないでくださいね、稼いでいるんだから評価しなくていいじゃないかという風潮だったです。あからさまに無視していたわけではないですが、俊太郎さんの仕事はなんら気にすることはない、多くの読者に詩が読まれているだけで十分だ、といった妙な隔絶感が、少なくとも一九八〇年代頃の詩壇にはありました。
賢作 現代詩は、そんな残念な世界なんですかね(笑)。
――――今では『残念な世界だった』と言わざるを得ないでしょうね。メディアは否応なくある規範・指標を若い作家に与えてしまうものです。戦後詩、現代詩風の作品しかメディアに掲載されないとなれば、若い詩人はどうしてもそういった詩を書くようになります。一九五〇年代から八〇年代初頭くらいまではそれでも良かった。でも九〇年代に入ると戦後詩、現代詩の力が衰えてしまった。可能性が尽きてしまったわけです。しかしそれに代わる新しい詩の形態を見つけ出すこと、あるいはきちんとした戦後詩、現代詩の総括を怠って来た。それが今の詩の世界の衰退に結びついていると思います。またそういう状態になって、ようやく俊太郎さんの詩の真価が見えてきたわけです。詩の原点であり、極めて多様な試みが為された作品世界ですね。それに気付くのが遅れた僕らも反省しなければならない。
賢作 そうかぁ。
――――音楽の世界の方が、ミュージシャン(創作者)の交流は盛んなんじゃないでしょうか。詩の世界は基本的に一人一派だから、詩人たちは個々に孤立している感じです。俊太郎さんはエッセイで、同人詩誌『櫂』で連詩をやったときに、部屋にこもって書く詩人が多かったと書いておられる。それは詩というものをよく象徴していると思います。座の文学である俳句や短歌ではあり得ないことです。
俊太郎 そうですね。慣れてきたらその場で書く詩人もいましたけどね。でも初めは慣れないから、どうしてもこもって書きがちだったです。
――――詩は本来的には〝自由詩〟で、何を書いても、どういう書き方をしてもいいジャンルですが、実際には〝不自由詩〟だと思います。多くの詩人は自分独自の書き方を見つけるだけで力尽きてしまっている。処女詩集で見出した書き方以外はできなくなってしまう詩人がほとんどです。僕らは谷川俊太郎だから当たり前と思っていますが、実に様々な書き方をしておられる。実際やってみればわかることですが、『二十億光年の孤独』的なピュアな抒情をベースにしながら、実生活を織り交ぜた『旅』や『夜中に台所で』を書き、その一方で平仮名表記で音韻を活かした『ことばあそびうた』などを書くのは、方法的に大変なばかりでなく、精神的にも大きな勇気がいると思います。最近の詩の世界では批判は〝悪口〟として受け取られてしまう傾向があって、ストレートな批評すらできない雰囲気なのであえて言いますが、平出隆さんがお父様がお亡くなりになったときに『弔父百首』という歌集をお出しになったでしょう。なぜ詩で書かなかったのか、長年詩を書いてきた意味はあるのかと考えてしまったのですが、俊太郎さんはどうお考えですか。
俊太郎 僕はもうそういう考え方はしなくなってるな。ある時期までは、現代詩人なのに俳句を書くとは何事だといった風潮がありましたよね。僕もせっかく詩は七五調から抜け出したのに、また七五調に戻るのはなんなんだよっていう気持ちを持っていた。でも今はなんでもありです。辻征夫さんが俳句と自分の詩を混ぜるような試みを行って、それがすごく面白かった。あのあたりから、僕は俳句も短歌も詩もいっしょくたでかまわないという気持ちになっています。自分では俳句や短歌は書けないですが。
――――俳句・短歌を日本語のリズムの一種として捉えればいいということですか。
俊太郎 でも俳句・短歌と詩は世界が違うからね。俳句・短歌は結社の世界でしょう。そこに取り込まれてしまうと抜け出せなくなる。まあほとんどの詩人はそこまで深入りしませんけれどもね。でも自由詩の詩人としては、定型というか、器があるのはうらやましいですね。
■DiVaについて■
――――俊太郎さんと賢作さんのコラボレーションはもう長いですから、僕らはそれを当たり前のように感じ始めています。ただそもそも俊太郎さんの詩がリズムを内在しているから、音楽にしやすいという面があるんじゃないでしょうか。
賢作 事実を言うと、僕らはなんの文学的議論もなく、ただ単にコラボレーションを始めたんです(笑)。後のDiVaの活動のベースになる、俊太郎の詩に曲を付けるという試みは、当時池袋西武にあったスタジオ二〇〇の企画が最初でした。一九八三年か八四年頃で、詩人の八木忠栄さんなどの企画です。それはそれでいったん終わって、十年くらいしてから、あんなことやってたねって感じで思い出して、仲間のベーシストの大坪寛彦君にまず声をかけて、誰か歌える人を知らないかって感じでボーカルの高瀬麻里子さんを紹介してもらったんです。そんな感じでDiVaの三人が集まったんです。で、なぜ俊太郎とのコラボを本格的に始めることになったかっていうと、地方の要所要所に友達がいるわけです。コンサート・イベンター、いわゆる企画屋さんですね。彼らが『お前のグループが来ると、二十人くらいのライブハウスはいっぱいになるけど、お父さんを連れてくれば、三百、四百人のキャパの小屋に行けるし、俺もお前も儲かる。だからちょっと客寄せパンダとして、お父さんを連れてきてくれないか』って言うわけです(笑)。それもそうだなって感じでやることにして、俊太郎との曲作りだけでなく、コンサートでのコラボも本格化したんです。
――――賢作さんは元々はジャズプレイヤーですよね。
賢作 小学校時代にクラッシックピアノを習って、自ら勉強しようという時にジャズを選択したわけです。でもそんなにカッコイイものでもないし、スッキリとした道筋でもないですよ(笑)。今なら系統立って勉強する方法はいくらでもあるんですが、当時はジャズの基本はバークリーで、僕の師匠の佐藤允彦が持って帰ったバークリー・メソッドっていうやつでジャズを勉強しました。
――――DiVaの結成はいつ頃ですか。
賢作 一九九六年ということにしています。メディアのみなさんはすごく年代・年齢を気にされて、生年月日から始まって、いつ何をしたのかにすごくうるさいですよね(笑)。だからDiVaは九六年結成、僕自身は八六年に映画『鹿鳴館』で作曲家デビューしたということにしています。でも実際はグチャグチャですよ。依頼された仕事をしているうちにデビューしていたという感じです。ある曲をジャズ風に弾いてくれとかね。作曲か演奏かの仕事を問わず、いつのまにか仕事を始めていたんです。
俊太郎 われわれ二人が一緒に仕事したのは、もしかすると校歌が最初かもしれないね。
賢作 そうですね。
俊太郎 校歌の歌詞を作る時に、クライアントに作曲家は決まっていますかと聞くと、まだ決まってないことがあるんです。それじゃあうちの息子が作曲をやるんでってことで、一緒に仕事をしたんです(笑)。
――――今、『日本の現代詩の六人 Masters of Modern Japanese Poetry』というCDブックを拝見しているんですが、DiVaのクレジットはないですが、賢作さんと大坪さん、高瀬さんのDiVaのメンバーがレコーディングに参加されていますね。
CDブック『日本現代詩の六人 Masters of Modern Japanee Poetry』 1999年 The Morris-Lee Publishing Group刊
辻征夫、永瀬清子、谷川俊太郎、石垣りん、まどみちお、伊藤比呂美の日本を代表する6人の現代詩人の朗読(日本語と英語)を収録している。演奏はDiVa(谷川賢作、大坪寛彦、高瀬麻里子)
賢作 それは一九九九年の発売です。アメリカでもレコーディングしました。
――――DiVaはかなりテクニックがあるバンドだと思いますが、賢作さん以外の方たちはどういったミュージシャンなんでしょう。
賢作 ベースの大坪君は、ジャズバーのラウンジで演奏していた仲間の一人です。日本はジャズミュージシャンのユニオンがないんで、フリーランスのミュージシャンがいろんなところに散らばって演奏しているんです。ただ僕はそういう現場を離れちゃったんで、今の現状はわかりません。ボーカルの高瀬さんは、いわゆるジャズの〝夜店〟出身じゃないんです。劇団四季出身です。
――――ああなるほど。それであんなに表現力があるんだ。
賢作 彼女のボーカルは、すごくよくなってきていると思います。
――――全部聞かせていただいているわけではないんですが、俊太郎さんの詩を曲にしたもので、アップテンポはあるんですか。
賢作 アップテンポはあまりないです。バラードが多い。
――――紀伊国屋書店から刊行された『詩人谷川俊太郎』というDVDに、俊太郎さんとDiVaの皆さんが出演されています。あれを拝見すると、俊太郎さんはうれしそうですね。ご自分の詩が音楽化されるのが心地よさそうです(笑)。
DVD『詩人谷川俊太郎』
紀伊國屋書店 2012年7月刊
俊太郎 僕は元々、詩より音楽の方が大事な人間ですから。自分が書いた詩が歌になるのは基本的に嬉しいです。
賢作 でも作曲する方としては、途方に暮れちゃうこともあります。曲を付けるのが難しいという意味ではなく、僕以外の作曲家の方も、おおぜい俊太郎の詩に曲を付けておられる。俊太郎詩に曲を付けたジャスラックのプリントアウトをまとめると、膨大な量になりますもの。同じ詩に、五人も六人も作曲家が曲を書いておられることもある。
俊太郎 合唱曲が多いよね。合唱曲は譜面が売れるんです。だから作曲家は金がないと合唱曲を盛んに書いたりする(笑)。それで増えちゃうんです。
賢作 今は譜面が売れない時代だから、一概にそうとも言えないけどね。これは最近音楽の友社から出版された、僕の譜面集なんです。『歌に恋して』という、俊太郎の詩に曲を付けたものです。合唱曲ではないですよ(笑)。
――――賢作さんも玉川学園高校をお出になられて、そのまま音楽家になられたんですよね。谷川家には学校は高校で十分という家風があるんでしょうか(笑)。
俊太郎 賢作の娘もそうなんです。
賢作 うちの娘は高校三年の二学期に学校をやめましたね(笑)。私淑したい師匠がいるので、今からすぐそこに弟子入りするって言ってね。
――――それはもう遺伝だなぁ。おじい様が高校卒だから、もうそれでいいんだと。じゃあ学歴が一番高いのは、夜間ではなく昼間の高校を卒業された賢作さんですか(笑)。
俊太郎 いや、賢作の妹が一番高いです。大学を出ていますから。でも彼女の娘が今、おじいちゃんは学校嫌いだったから、自分も行かないってごねてるらしいです(笑)。
――――曲が先にあって後から詩を付けるって方法を取られたことはないんでしょうか。
賢作 二回ほどやってみましたが、うまくいきませんでしたね。
――――先に詩があった方が楽ですか。
賢作 はい。ちょっと冒頭の話に戻りますが、俊太郎は八十歳を超えてまだ詩を量産していて、それはすごいというお話でしたが、やっぱり注文がないと作品って書かないものでしょう。僕の仕事もそうですが、仕事には需給のバランスってものがあるんじゃないかな。
俊太郎 ところが最近、僕は詩がおもしろくてね。注文がないのに二十篇くらい書いています。詩を書くのが一番おもしろい。年を取ってくると、ほかにおもしろいことがなくなっちゃったんですね。
――――それはすごいなぁ。創作者にとっての理想です。若い頃、作品を量産できるのもいいですが、作家にとって一番幸せなのは、年を取って体力も気力も衰えがちになってきた時に、作品がどんどん書けることです。
賢作 書いた詩はやっぱり、誰かに読んでほしいものなのかな。
俊太郎 それもあるけど、ナナロク社をもりたてたいわけ。村井光男さんがやっておられる小さい出版社だけどね。詩はナナロクのために書いているところがあります。山田馨さんがインタビュアーになって、『ぼくはこうやって詩を書いてきた─谷川俊太郎、詩と人生を語る─』という部厚い本を出してくれた出版社です。
――――賢作さんの譜面集『歌に恋して』ですが、これはピアノ伴奏がきちんと音符になっていますよね。
『谷川俊太郎&谷川賢作ソングブック』(谷川俊太郎詩・谷川賢作作曲)
A4版・83ページ
音楽の友社 2013年2月刊
賢作 ええそうです。手書きの楽譜を出版用にキレイにして印刷したものです。ただ僕の場合、ピアノ譜にする必要は本当はないんです。でもコードネームだけでは弾けない人が大半なんで、音楽之友社の要望でピアノ伴奏をしっかり書きました。もし僕の音楽を正確に表現したい方がいらしたら、僕の弾いたものを耳でコピーしていただいた方がいいかもしれません。『歌に恋して』は、こういう形もありだという形のピアノ譜ですね。
――――賢作さんのバンドはDiVaだけですか。
賢作 DiVaとパリャーソですね。その二つが大きな柱としてあります。
――――賢作さんの演奏を聞いていると、ピアノがしゃべっているように感じることがあります。ピアノは複雑な楽器ですが、その音は非常にプリミティブです。言葉とピアノは非常に相性がいいと思うんですが。
賢作 僕は俊太郎との朗読と音楽のコラボライブの時、七対三、八対二くらいの割合で、言葉と音楽のバランスを取っているつもりなんです。音楽は決して出しゃばらない。気がついたらうすく鳴っていたというような。そうやると、無音の状態よりも、言葉がスッと入ってくるように感じることがありますね。
俊太郎 小澤征爾さんがオーケストラを指揮しておられる現場にいたことがあるんだけど、ある場面にくると、『ここ、言葉がほしいんだ、言葉がほしいんだよ』っておっしゃっていました。音楽の中には、確かに言葉をほしがるような要素があるんです。完全に文章になっていなくても、なにか意味があるような言葉がほしくなるんですね。
――――言葉と音の関係は微妙ですよね。単純な話ですが、同じ歌を歌っても、この人は説得力がある、なにか他の人とは違うということがよく起きるわけですから。
賢作 僕にとって歌とインストルメンタルは、まったく別のものです。英語でもフランス語の歌でも、いいなって思うことはありますけど、意味がリアルタイムで届かない時は、歌詞カードを読まなきゃならない。でも日本語の歌は、やはり音と言葉が同時に聴衆に届くことを考えます。
――――そのあたりは、親子だからやりやすい面はあるでしょう。
俊太郎 賢作との仕事は気楽ではありますね。
賢作 そうですね。感覚が合うとは思います。
■死について■
――――金魚屋では少し前に俳優の寺田農さんにインタビューさせていただきました。彼は洋画家の政明画伯の息子で、『画家の息子ってどうですか』という質問をさせていただいたら、『いつも家にオヤジがいるのでイヤだった』という意味のことをおっしゃっていました。賢作さんは、俊太郎さんの息子であることをどうお感じですか(笑)。
賢作 それはイヤになっちゃうことだってありますよ(笑)。世間は当然、俊太郎の息子という目で見るわけですから。でも年を取るとともに、だんだんどうでもよくなっている感じです(笑)。得をすることだってあるわけですから。
――――子供の頃とは変わってきますものね。では今の俊太郎さんをどうごらんになっていますか。
賢作 そうですねぇ。死に方を心配してます(笑)。やっぱり病院でっていうのは、さみしいじゃないですか。この間、大岡信さんの通信で画家の宇佐美圭司さんがお亡くなりになる様子を読んだんですが、能登半島の素晴らしい施設で、死ぬ姿勢を取って、奥様に見守られながら逝かれたそうです。(俊太郎さんに向かって)誰にどう看取られたいですか。
俊太郎 誰も看取る暇がなく死ねるのが一番いいよ。
賢作 (祖父の)徹三さんがそういう感じでしたね。気がついたら亡くなっていた。
俊太郎 そうそう。死ぬ前日にパーティに出てたんだよね。それで帰ってきてお風呂に入って、ちょっとお腹こわしたって言って下痢して、それで『寝るよ』って言って寝て、朝になったら死んでた。自分で身体もキレイにして亡くなったわけです。
賢作 苦しそうじゃなかったよね。
俊太郎 うん、ぜんぜんそんな感じはなかった。一瞬で逝っちゃったんじゃないかな。すごい子供孝行ですよね。だから父親のような死に方が理想です。誰にも迷惑をかけず、誰も気がつかないうちに死んでいるっていうのが。
■マルチメディア化について■
――――DiVaの最新アルバムは『詩は歌に恋する─DiVa Best』ですか。
『詩は歌に恋をする-DiVa BEST』
2009 COLUMBIA MUSIC ENTERTAINMENT,INC
全14曲(朗読を含む)を収録
歌に恋して/スーラの点描画のなかでのように/ひとり/かわらからきた おさかな/セミ/ほほえみ/夢の中にだけ/夜はやさしい/ラブレター/土曜日の朝/どうしていつも/さようなら/歌われて
賢作 そうです。ベスト盤で、二〇〇九年に出たものです。今年の七月には新しいアルバムが出るので、今その準備をしています。
――――DiVaの音作りは非常にクオリティが高いと思います。それはアルバムを聞けば誰にでもわかると思います。俊太郎さんはかなり早い時期からマルチメディアへの関心がおありだったから、DiVaとの共演はなかば必然的だったのではないですか。
俊太郎 マルチメディア化っていうより、とにかく現代詩の読者が少ないから、あの手この手で読んでもらおうと考えていました。
賢作 現代詩って言葉を使うのはちょっとずるいんじゃないかな。谷川俊太郎の詩を読んで欲しかったとか(笑)。
俊太郎 いや、僕はそんな意識はなかったんだよ(笑)。昔、左翼系の雑誌で『列島』ってのがあったでしょう。あそこにいた関根弘さんとかがけっこうなアイデアマンで、あの頃からコップに詩を書いたりしていたんです。自分をどう売り出したいかではなくて、もうちょっと読者を広げたいって気持ちが詩を書き始めた頃からありました。でも、一般読者に理解できる詩が少ないんで、どうしても僕の詩が少し目立っちゃったってことだと思いますよ。
――――詩画集『旅』の前にも、詩集に写真を入れたりしておられますよね。
俊太郎 昭和三十一年(一九五六年)に出版した『絵本』という私家版の詩集ね。僕は現代詩が孤立するのがイヤで、いろんなジャンルの作家とコラボレーションしたいという気持ちが最初からあった。それは実験工房なんかの影響ですね。実験工房は同時代ですから。
――――ああ、実験工房ですか。武満徹さんなんかと。
俊太郎 ええ。家族ぐるみの付き合いは少ないんですが、武満はそういった数少ない友達の一人でした。これは去年、二〇一二年に出た『Sprechendes Wasser 話す水』という詩集です。スイスのユルク・ハルターという詩人と、メールの往復で対詩をやったものをまとめた本です。凝った造本でしょう。二つ折りにしたページの表と裏に詩が印刷してあって、中に写真が印刷してある。ページを切っちゃいけないらしいので、中を覗き込むようにしないと写真は見えないんですけどね(笑)。こんな本を作ってくれるとは思ってなかったから、本当にびっくりしました。
連詩『Sprechendes Wasser 話す水』
ユルク・ハルター×谷川俊太郎
2012年刊
連詩『Sprechendes Wasser 話す水』の造本
――――おもしろいですね。俊太郎さんは活字に対しては冷たいんですが、美術とか音楽に対しては非常に暖かい(笑)。
俊太郎 それじゃあなんか裏切り者みたいじゃないか(笑)。
■ポピュラリティについて■
賢作 ちょっと話を戻しますが、現代でなくてもいいんですが、わかりやすくポップで一般受けする詩を書きたいと思っている詩人は、すぐに十人くらいリストアップできないものなんでしょうか(笑)。
――――できないですね(笑)。銀色夏生さんなんかはよく読まれていますが、いわゆる現代詩人で彼女の作品を評価する方は少ないでしょうね。じゃあ現代詩人に認知されていて、かつある程度一般読者を獲得できる詩人がいるかというと、少ないなぁ。辻征夫さん、天野忠さんなどは一定の読者を抱えておられると思います。他にも黒田三郎や中桐雅夫、吉野弘さんなどの抒情詩人の名前をあげることもできるんですが、いかんせん作品数が少ない。
賢作 なんでこんな話をしたかというと、ポピュラリティってヤツはけっこう手強いと思うからなんです。演奏旅行の中には、いわゆる慰問もあって、オリジナル曲なんかもやるんです。お年寄りの皆さんは基本的に喜んでくださる。あまり好きな言葉ではないですが、『すごく癒されました』とか言ってくださってね。でも本当に聞きたいのは演歌だったりするわけです(笑)。だから演歌の伴奏をしてあげると、無用な気づかいをかなぐり捨てて、心から喜んでくださる。で、何が言いたいのかというと(笑)、自分の無力さということも言いたいんだけど、みな誰でもが歌える有名曲、いわゆるスタンダードナンバーというものは、もう出尽くしている気がする。これ以上の新曲がいらないってことはないだろうけど、そういったスタンダードナンバーの牙城は切り崩せないような気がします。
俊太郎 住み分けでいいんじゃないの。俺はこっちがいいけど、あれもいいねっていう形で、いろんな好みの住み分けをすればいいんじゃないかな。
DiVaの演奏で『百三歳になったアトム』を朗読する谷川俊太郎氏
DVD『詩人谷川俊太郎』(紀伊国屋書店刊)より
――――でも音楽にはものすごい力があると思いますよ。紀伊国屋のDVD『詩人谷川俊太郎』のエンディングは『鉄腕アトム』です。まず賢作さんが、ピアノでアニメ主題歌の『鉄腕アトム』のイントロをお弾きになる。それだけで会場の空気がガラリと変わる。で、俊太郎さんが作品『百三歳になったアトム』を朗読されてから、賢作さんの伴奏で照れながらアニメ主題歌『鉄腕アトム』をお歌いになる。あれは音楽がなければ、ピアノの音がなければできないんじゃないかと思いました。それに『百三歳になったアトム』は詩集『夜のミッキー・マウス』(平成十五年[二〇〇三年])所収ですが、俊太郎さんの新しい書き方、詩の世界が感じられる素晴らしい本です。自己言及的な詩法もお使いになるようになった。
賢作 これだけ俊太郎と一緒に仕事をしてると、メディアによるブランド化のようなものが起こっちゃうんですね。現代詩を音楽に乗せて歌う、朗読とインストルメンタルを織り交ぜてコンサートをするというのは、なにかありがたいものだ、オシャレなものだといった感じでレッテルを貼られてしまう(笑)。でももう少し素直というか、ありのままに受け止めてほしいですよね。インタビューを受けていても、俊太郎の詩は『生きる』以外は読んでいなかったり、僕の音楽もちゃんと聴いてもらっていないこともありますから(笑)。
俊太郎 僕も音楽をやっている女の子に、『へー、俊太郎さんって、詩も書いてるんだ』と言われたことがあるよ(笑)。
――――俊太郎さんは、CD-ROMで全詩集を出されていますね。あれは紙では出版しないということですか。
俊太郎 そうです。僕は嵩高い本がイヤなんです。造本としても、詩は軽い本がいいんです。
――――じゃあもし俊太郎さんがお亡くなりになった後に、全集を出すっていう話になったらどうなさるんですか(笑)。
俊太郎 それは賢作にまかせます。出したきゃ出せばいい(笑)。でもできればクラウドに上げておいてほしいですね。
――――著作権が守れませんよ(笑)。
俊太郎 そこが問題なんだな。お金が欲しいわけじゃないけど、そういうことをすると必ず悪用する人が出るからね。どうやって課金するか、あるいは権利を全面的に放棄するか、そこのところは難しい問題だね(笑)。
■解釈について■
――――でも確かに紙にすると、ものすごい量になってしまうくらい、俊太郎さんは詩を書いておられる。賢作さんも働き者という点では俊太郎さんと同じですよね。今、どのくらいコンサートを開いておられますか。
賢作 二〇〇八、九年あたりは、年間二百本近いところまで行っていました。震災後は少し抑え気味になっていますので、今は百五十本くらいじゃないかな。でも月平均で、十本はコンサートとライブをやっています。
――――すごいですね。やはり量はすごく大事だと思います。極端な言い方ですが、俊太郎さんは、あれだけの質の詩を、あれだけの量書いておられるわけだから、それは有名にもなります(笑)。一冊いい詩集があるだけではダメですね。ダーッと詩集があって、その中でたまたま一篇好きな詩があって、読者は初めてその詩人の名前を覚えるわけですから。
俊太郎 ホント、そうですね。
――――ただ詩に限らず、文学界全体の知的レベルは下がりましたね。昔はよかったと言うつもりはないですし、昔も今も詩では食えないことに変わりはないんですが、現在は芥川賞作家でも原稿で食っていけないような時代です。優秀な人材が、もっとお金が儲かる文学以外のジャンルに流出している気配はあります。
俊太郎 詩の世界ではそういうことが起こっている感じがありますね。小説はちゃんと読んでいるわけではないですが、新聞広告を見ているだけでも、これはどうなっちゃってるんだろうと思うことはあります(笑)。
――――音楽のレベルは文学界よりも上がっているんじゃないですか。
賢作 演奏はスポーツですからねぇ。昔に比べれば、演奏技術は驚くほど上がっています。若い世代はものすごく上手く弾けるんですけど、音楽の深さでは、やっぱりある程度年を取っていかないといい音が出ないって面があると思います。
――――ただ悪いことばかりじゃなくて、今は現代詩を含めて、既存の縛りと言いますか、枠組みが崩れてしまった時代です。それによって、各ジャンルでベースになるものが見えやすくなっているという面があると思います。俊太郎さんの詩が魅力的なのは、いわば〝最初の一音〟があるからじゃないでしょうか。普通の散文を行切りすると、なんとなく詩的なものが芽生える。それを詩人たちは詩学とか詩法に論理化しようとするわけですが、厳密には不可能です。でも俊太郎さんの詩には、最初期から現在まで一貫して、〝最初の一音〟を鳴らそうという姿勢がある。それが俊太郎さんの詩の初々しさかもしれない。
俊太郎 それは定時制の高校を出た者の強みですよ。学歴がないからできるんだ(笑)。
――――でも一方で、世間には詩を特定の意味で捉えようという姿勢が根強いですね。俊太郎さんの詩に『かっぱ』(『ことばあそびうた』昭和四十八年[一九七三年]所収)があります。短いので全部引用すると『かっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた/かっぱなっぱかった/かっぱなっぱいっぱかった/かってきってくった』という、意味より音感を楽しむ詩です。インターネットを見ていたら、ある幼稚園でこれを園児たちに歌わせていました。一種の教育カリキュラムも書いてありました。まず楽しんで読んでみよう、次にどこで切れるのか考えてみようという順番ですね。それで最後に『正解はこれです』と書いてあった(笑)。正解はない、あるいはあってもなくてもいい詩のはずなんですが。
俊太郎 おもしろいね(笑)。
――――詩の解釈の多様性の問題でもあり、一概にそれが悪いという意味ではないんですけどね。『ぼくもういかなきゃなんない/すぐいかなきゃなんない/どこへいくのかわからないけど(中略)/ひとりでいかなきゃなんない』で始まる『さようなら』(『はだか』昭和六十三年[一九八八年]所収)という詩があります。確か紀伊国屋のDVDだったと思いますが、あれを演奏した後に、ある女性が最近子供を亡くしたので、この曲が心に沁みましたとおっしゃったというエピソードが紹介されていました。そういう辛い出来事があれば、確かに悲しみをこの詩に重ねることができると思います。でも創作者なら、実際に子供を亡くしたらはっきりそう書くでしょうから、この詩は男の子の通過儀礼的な心情を表現したものだと解釈するのが妥当だと思います。男の子はある時点で『ぼくもういかなきゃなんない』と思うわけですが、じゃあどこかに行ってしまうのかと言うと、やっぱりご飯を食べに家に帰ってくる(笑)。ただ様々に解釈可能だからこの詩には魅力があるわけで、そういった多様な解釈を禁じたら、詩の魅力は半減してしまうでしょうね。
賢作 詩を読む人の中に、解釈癖があるのは確かだと思いますね。でもあれはさみしい曲というより、素朴な歌に仕上がっていると思います。高瀬さんが歌うとすごく力づけられる感じがする。それは声の力ですね。声自体が編曲になっています。それも詩の自由な解釈の一つかな。
――――ええ、名曲だと思います。耳に残りますもの。なにかのきっかけで大ヒットしそうな曲ですよ。七月に発売されるDiVaの新譜が楽しみです。今日は長時間ありがとうございました。
(2013/03/26 了)
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