不安はいつだって日常に潜む。今現在の目の前にある。傍若無人に無頼な生活を送る時代ではない。金がすべてのようだがそれでは決して満たされない。僕は、わたしたちはどう生きるべきか、何を求めるべきなのか・・・。文学金魚新人賞佳作受賞作家、酒井聡の鮮烈なデビュー作!
by 金魚屋編集部
先生よりまともな猫
僕が大学に進学するタイミングで両親は離婚した。僕も姉も一人暮らしを始めたので家族四人は願いを叶え終えたドラゴンボールのようにばらばらになった。五人目の家族、猫のクロは母が引き取ることになった。長い受験勉強の間、ささくれた気持ちを撫で付けてくれたのは彼だった。沸き起こる複雑な感情を言葉にすることも、言葉を受け取ってくれる相手もなかった僕は、時々ふらっと部屋に立ち寄る彼をただ抱きしめた。言葉を、相互理解を必要としない彼はかけがえのない存在だった。
引っ越し以来、クロとは年に数回しか会わない、距離のある関係になった。
三歳のクロは体格に恵まれていた。我が家で過去飼っていた三匹と比べると明らかに骨格が発達していた。人間であれば格闘家やラグビー選手になっていたかもしれない。名前の通り真っ黒で、雑種なので毛並みはがさがさしている。
彼は糖尿病を患っていた。暴飲暴食が常態化していたわけではない。生まれつきインスリンをうまく生成できない体質で、いつも動物病院に指定された低糖質のキャットフードを食べているのにも関わらず完治することはなかった。毎食同じものを食べ続けることを猫がどのように捉えるのかは想像できなかったが自分に置き換えると見ているだけで息苦しくなった。当のクロは気にする様子もなく、仏頂面でそのキャットフードを噛み砕いていた。
初めて飼った猫は六年目のある朝、突然伏せって動かなくなった。風邪か何かと動物病院に連れて行くと、先天的な心臓の異常が原因であることが分かった。打つ手はなく、ガラスケースの向こう側で何かを訴えるように口角に泡を溜めながら何度も大口を開けたが鳴き声は届かなかった。声そのものが出ていないのか、ガラスケースが遮音しているのか分からなかった。獣医に質すのも違う気がした。ただ、六年間一度も見たことのなかったその烈火のような振る舞いが最後の姿としてまぶたに焼き付いた。十五年経った今でも、記憶をたぐるまでもなく思い出すことができる。その五時間後に彼女は息を引き取った。
生まれつき個体に対して割り振られた前提条件のようなものを、彼らの命を通して僕は度々思い知ることになった。そして僕自身、睡眠時間を削りながら勉強しても、何度も模範解答を読み返しても理解できない証明の記述が数学や物理の過去問に散見されることが、僕の前提条件なのだと飲み込むことができた。複雑な定理や公理が分からなくても入れる地元の国立大学に入学して、大量採用大量離職の大企業に拾ってもらってどうにか社会人になった。
年末に母の元に帰省すると、クロは妙な歩き方をしていた。右の後ろ脚を投げ出したまま、両の前脚でオールを漕ぐように這って部屋を横切っていくのを目で追った。
「ああ、糖尿病で脚が動かなくなっちゃったのよ」
その光景が日常となっている母の言葉に抑揚はなかった。
「治るの? 今だけ?」
「私もよく分からないんだけど、神経障害だか血管障害だかで、治らないみたい」
クロは糖尿病で度々入院や治療を重ねて、保険の効かない治療費が母にのしかかっていた。治療する手段が残されていないのか、追求する気にはならなかった。
糖尿病の症状の一つとしてクロは頻繁に水を飲み、用を足すためにトイレに向かった。その度にクロは三本脚でリビングルームを行ったり来たりした。低糖質のキャットフードを食べるときと変わらない仏頂面で、悲壮感をまとうわけでもなく、仕方ないだろうと背中で語った。脚が三本なら不格好であろうと三本で生活する。それ以上でも以下でもない。自分の不運を呪うでも、他人の目を気にするでもない。
「人は自殺するのに猫は自殺しない」という主旨の詩を小学生のときに書いたら、うつむいて眉間にしわを寄せた先生に「書き直しなさい」と突き返されたことがある。頭が真っ白になって、その後何を書いたのかまったく記憶にない。あれは何だったのだろうと今でも思う。間違ったことは書いていなかったはずだ。最後発表する時間に他の生徒に聞かせたくなかったのだろうか。張り出した詩を授業参観日に保護者が目にする映像を想像したのだろうか。彼は不登校気味だった僕のことを気にかけていた。電話口で度々話した。僕の良いところ、例えば姿勢が良いこと、掃除を真面目にするところ、面白い文章が書けるところを、みんなの前で褒めてくれた。それだけに、自信作に対する「書き直しなさい」には応えるものがあった。
先生が作詞作曲したクラスの歌を毎日のようにみんなで歌った。社会の授業では、例えば「日本とインドで人口密度が高いのはどちらか?」というようなテーマでグループに分かれて討論を繰り広げた。キックベースのチーム対抗リーグを先生が設計して、授業中でも切りの良いところで運動場に出て試合を重ねていった。いわゆる「面白い先生」だった。僕も六年生になる頃にはズル休みをするクセがほとんど抜けていた。
卒業式の日、卒業証書の授与を終えて教室に戻ったとき、先生は思い出を振り返りながら、目をうるませながら、生徒一人ひとりに言葉を送った。僕の番が回ってきたとき、先生は堰を切ったように涙を流した。「苦労をかけた分、思い入れもひとしおだったのね」と教室の後方で聞いていた母が後に振り返るほど、その境界線は明らかだった。
二十代後半、当時の先生と同じくらいの年齢になった今となっては、あれは劇場であったように思える。先生の頭の中にある理想像を描き出した絵画か何か。ドラマの登場人物を割り当てられていたような気さえする。すると合点がいく。「人は自殺するのに猫は自殺しない」という主旨の詩を書く生徒がいると話がややこしくなる。ストーリーの腰を折る。だから消しゴムで消されてしまったのだと思う。
現実はそんなに整っていない。三本脚で歩く猫を見ているとそう思う。ストーリー上の理由はなく糖尿病になり、脚が動かなくなる。そんなことには構っていられない。水を飲むために移動する。用を足すために移動する。暖かい電気カーペットに戻ってくる。
僕は猫と対話することはできない。思いを交換することはできない。だからこそ彼らと分かりあえたように感じる瞬間がある。東大や京大に届かなくても、一級の会社に就職できなくても、仏頂面で生きていく。それで良い。仕方ない。丸まるクロを撫で回そうと忍び寄ると、気配を察した尻尾がハタキのようにカーペットをぱたぱたと叩いた。
コラージュ
あの日の衝撃を今も引きずっている。太宰治はバス通学時間を持て余して本を手に取った凡庸な中学生の頭に思いっきりハンマーを振り下ろした。『走れメロス』に始まり、『人間失格』『斜陽』と続き、短編集にまで手を伸ばした。メロスは教科書にも載っていたが、文庫本で読み返すと別ものに映った。粗削りの彫刻のような、大胆なタッチで描かれたスケッチのような文章は力強くも、自分にも真似できるのではないかと思わせる部分があった。金太郎飴のように繰り返す毎日の中で、行き帰りのバスだけが熱気と彩りに溢れていた。何が衝撃だったかというと、僕と同じように心を打ち震わせている中学生がおそらく日本中にいるであろうこと、60年以上も前に書かれた本がその震源となっていることだった。僕は作家になりたいと思った。見ず知らずの中学生を自分の死後も揺さぶれるならこんなに愉快なことはないだろうと思った。
純文学は純斜陽産業でもあったので美大に進学した。アマチュアが投稿する小説サイトでその辺のプロよりもずっと熟達した作品をいくつも目にして、彼らをまたいで文壇に立つイメージがどうしても持てなかった。当たらない確率の方が圧倒的に高い宝くじに自分の人生をベットする勇気がなかった。
美大では主にアクリルで作品を制作した。技術不足を補うために朝5時に起きて30秒ドローイングで人体スケッチの練習を重ねた。それでも天才じみた3人の同級生との差を埋められる目処はまったく立たず、2年生のときに僕は自分の可能性を見切った。1つ下の後輩、龍之介の作品を目にしたことが決定打になった。平面絵画ながら、厚塗りのアクリルに様々な加工を施した立体作品に仕上がっていた。同級生どころか1つ下、3つ下にも僕は追いつくことができないのだろうと悟った。
15年経った今、その龍之介とオンラインで打ち合わせをしている。
「いや、こういう仕事、僕は全然良いですよ。作品制作の実験もできるし、アルバイトよりずっと良いです」
画面の向こうで彼は手のひらに収まるくらいの子ども靴に刷毛を走らせながら言った。
「このスニーカーもソールの部分には漆が定着しないじゃないですか。異素材をどう馴染ませていくかって結構面白いんですよ」
シューレース1本1本に刷毛を走らせながら彼は言う。
僕たちは子どもの靴や描いた絵、長年使い込まれた財布、動かなくなった腕時計のような「思い出の品」を預かり、アート作品に仕上げる『arOOtS(アルーツ)』というサービスを提供している。思い出をアート作品にしてルーツに打ち据える。振り返る以上の意味をそこに込めることをコンセプトにしている。
龍之介は地元の愛知に住んでいる。広いアトリエを確保しやすい地方を拠点とするアーティストは珍しくない。特に龍之介のような立体作品を制作するアーティストは都心だと作品の収納場所に困る。個展やグループ展で東京に出てくることはあるが、基本的にはこうやってリモートでやり取りしている。ミーティングの間、龍之介は何かしら作業をしている。アルーツの仕事に取り組んでいることもあれば、自分の作品を制作していることも、料理をしていることも、散歩をしていることもある。その奔放さ、気軽さを僕は気に入っていた。
15年越しに龍之介とこうやって仕事をすることになるとは思ってもみなかった。
2年生のときに絵筆を折ってから、僕は先輩に紹介してもらったデザイン事務所でバイトを始めた。授業でもバイトでもデザインを教わる機会はなかったので、図書館にこもって理論を学び、友達が関わっているイベントのロゴやフライヤーを作らせてもらって経験を積んだ。イベントにも打ち上げにも顔を出し、社交性やお酒の飲み方を学んだ。3年生も終わりに近づいた頃に僕はデザイン事務所でラフ案の作成や写真のレタッチなどデザインに関連する仕事を任せてもらえるようになった。
片や龍之介は作品の制作に打ち込んでいた。アトリエや工作工房を通りがかるときは大体見かけた。ヒゲを伸ばし、伸びた髪を引っ詰めていた。たまたま食堂で居合わせたとき、美容院の予約を取るのが苦手なのだと話していた。こういうやつが作家になるんだろうなと思った。やっかみではなく、純粋に成功してほしいなと思った。
龍之介を脇目に僕は着実にスキルを積み立てて、中堅の広告代理店に就職した。テレビCM、交通広告、ウェブ・アプリと何でもやった。営業の仕事をメインとしつつも実際にはディレクションしたし、予算の小さな案件では自分でデザインまで仕上げた。職場では頼られていつも遅くまで残っていた。コンプライアンスや過労がニュースで話題になる中で、ほどほどに仕事をする同期も少なくなかったが、彼らは1ピクセルの微調整、ほんのわずかな色調整、終了間際に思いつく大胆な構成変更の先に行き着くクリエイションの光を知らない。その光を浴びて地位を築いた先輩に誘われて飲むワインやウイスキーのうまさを知らない。
プロジェクトが落ち着いている合間は朝5時に起きて始業時間まで職場近くのカフェにこもった。食品から消費財、家具、メガネ、飲食、家電からベンチャーのITサービスまで、クライアントの業界を深く知るために学ぶことが尽きる気配はなかった。時代を席巻している先輩デザイナーたちの作品をスケッチしたり、CMを絵コンテに落として分析しているとあっという間に3時間くらい吹き飛んだ。成長することが楽しくて仕方なかった。
人生の三分の一を消化しようかというとき、つまり30歳の誕生日の足音が聞こえてきたころになって、僕はこのままで良いのだろうかと突然不安に取り憑かれた。寝る間も惜しんで勉強して、様々なプロジェクトに関わって、僕は確かに前進している。けれどどんなに前進したところで、亀がアキレスに追い越される運命にあるように、僕は寿命に追いつかれてしまう。その後何が残るのだろう。僕の関わったプロジェクトが何千万人の目に届いて、広告業界で話題になることはあっても、半年も経てば振り返られることもない。必死で浜辺を這った跡はすぐに波にさらわれて消えてしまう。60年経っても、80年経っても、おそらく100年経っても中学生の心を打ち続ける太宰治のアンニュイな表情が頭に浮かぶ。彼はのらりくらりとアキレスを躱し続けている。僕はただ頑張って、頑張ることを目的化して残りの三分の二を消化していくのだろうか。人生の延長線上に太宰治らしき影がないことに今さらながら気づいて、疲れていても眠りにつけない夜が増えた。
広告代理店で働きながら、個人のプロジェクトとしてアート作品をネット販売する事業を立ち上げた。自分の手だけで作品を紡ぎ出す道を捨てた僕はチームを必要とした。かつての同級生、先輩、後輩、仕事で関わったクリエイターをはじめ、展覧会に足を運んで提携するアーティストを広げていった。多くは30前後でそれぞれの世界観を確立していたものの、マーケティングまで頭や手が回らず、学年でも図抜けていた天才たちが制作を続けながらアルバイトで生活費を補う有り様だった。僕はできる範囲で彼らのSNS運用を支援して、代わりに通販サイトにリンクを貼ってもらった。路地やアトリエで雰囲気のある宣材写真を撮り、作品を魅せるための動画を作成して、本人ではなく代わりに僕が彼らの優れているところを語り、本来スターであるべき彼らをスターとして世の中にプレゼンテーションした。増えていった彼らのフォロワーと彼らを引き合わせるためのリアルなグループ展を毎月開いて、最終的な作品購入を後押しした。
「敷居が高く感じられる、けれども気になる存在」である現代アートを学びながら、現代アート友だちを作りながら、様々なアーティストとコミュニケーションできるオンラインサロンを主催して、有料会員が50人を超えたところで「何とかなりそうだ」と見通しをつけて広告代理店を辞め、独立した。
直後にコロナが猛威を振るったのは不幸と言えば不幸だったし、十分なリスクヘッジを怠った点では自業自得と言えた。
リアルなグループ展を開くことが難しくなり、新規顧客開拓が思うように進まなくなった。既存のファンは引き続き購入してくれたものの、作品が数万円、数十万円するため購入頻度は年に2回が良いところだった。
オンラインサロンはむしろ活気づいたものの、既存会員のコミュニケーションが盛り上がる一方で、リアルオフ会がなくなったために新規会員登録は明らかに鈍化した。
恥も外聞も捨てて古巣の広告代理店にすがり、業務委託の仕事をもらってどうにか食いつないだ。広告代理店にしても、飲食やイベント業界が広告出稿を取り下げたため進行していた案件が一度すべて吹き飛んでほうほうの体だった。入れ替わるように金回りの良くなったITの案件が台頭してくるまで生きた心地がしなかったはずで、僕は古巣が外部デザイナーに発注していた仕事を回してもらうかたちで、言ってしまえば横取りして、口に糊する日が続いた。割を食うことになったデザイナーの顔が浮かぶだけに、忍びないなんていうものではなかった。
転機となったのが龍之介だった。龍之介は工場の製造工程で生まれた不良品やフリマで投げ売られている小物、電子機器などでコラージュ作品を制作して細々と販売していた。彼がサイズアウトした息子のTシャツを漆で塗り固めて額装したものをインスタグラムに投稿したところ、「ミルクやよだれや泥の染みさえ愛おしい」とSNSで話題になり、ネットメディアまでこぞって記事にして日本中をほっこりさせた。僕はそのバイラルに必死に薪を焚べながら、龍之介と打ち合わせを重ねて新しいサービスを立ち上げた。それが『arOOtS(アルーツ)』だ。
以来、請負仕事が後を絶たなくなった。ハンカチ、靴下、手袋、コップなど持ち込まれる様々な「思い出の品」に漆を塗り、ときには金箔や黒鉛などで味つけをして、ときにはコラージュに仕上げた。僕が営業担当窓口としてメールやインスタグラムのDM、オンライン会議で要望や方向性をまとめて、龍之介が手を動かした。納品された作品は半数以上がSNSに投稿され、頻繁にバズることはなかったものの、周囲1マイルの濃いコミュニティでホットな話題になり、次の発注につながった。
すぐに2か月、3か月待ちの状況になったものの、取り扱うのが「思い出」だったため、物販と違って1日を急ぐお客さんは幸いいなかった。龍之介と僕の収入は安定した。
一方で「依頼仕事をこなすコミッションワークが彼の本意ではないのではないか」「作家として新しい表現を追求したいのではないか」「彼の可能性を僕が摘んでいるのではないか」という思いがいつも僕の頭にあった。思いながらも2年以上、彼の真意を問うことができなかった。「実はやりたくない」と言われたときに「じゃあやめよう」と応じる余裕が僕には長らくなかった。独立するタイミングを完全に間違ったかさぶたが乾かず思い切ることもできなかった。
「この仕事、もう2年も続けてきたけど、龍之介はどう思う? 作品制作に集中したいって思うことないかな?」
コロナの息苦しさがかすかに残る世界で、マスク着用や参加者の名簿管理を徹底する前提で展覧会やオフ会が許されるようになり、世界の歯車が回り始めてようやく僕が紡いだ2年越しの言葉の重みを、画面の向こうで龍之介は感じていないようだった。WWWのどこかで情報が抜け落ちてしまったのではないかと思えるほどだった。
「いや、こういう仕事、僕は全然良いですよ。作品制作の実験もできるし、アルバイトよりずっと良いです」
画面の向こうで彼は手のひらに収まるくらいの子ども靴に刷毛を走らせながら言った。こちらをちらりと見ることさえなかった。
「このスニーカーもソールの部分には漆が定着しないじゃないですか。異素材をどう馴染ませていくかって結構面白いんですよ」
刷毛の柄でこつこつとソールを叩き、初めて彼は僕の方を見た。
「汚れとか染みも、この靴が持ち主と過ごした時間も、うーん、この靴のデザイナーとかブランドの意図とかもひっくるめて、偶然できたものじゃないですか。作為と偶然を重ねていくっていうのが、天才ではない僕がコラージュ作家としてずっとすがっているテーマでもあるんです」
僕は彼の目を見る。彼は僕の目を見る。スクリーンとカメラの位置がずれているので、僕たちはオンライン会議だと原理的に目を合わせることができない。僕と彼は生涯噛み合うことなく生きていくのだろうと学生のころは予感していた。僕はいつも予感に裏切られる。展覧会に在廊するときの龍之介は「インスタいつも見てます! 本当に素敵です!」とお客さんがテンションを上げても寡黙になる。彼が饒舌に話してくれるのは、おそらく彼の言っていることを僕が理解するものと信じてくれているからだ。
「あんまり明確にビジョンがあるわけではないんですけど、アルーツってたぶん捨てられないじゃないですか。親が大事にして、子どもが社会人になって家を出るときなんかに受け継がれて、もしかしたらそのまた子ども、本人の孫の代くらいまで形見として大事にしてもらえるかもしれない。そこから先はもう、なんだろう、これ百年前の先祖が一歳のときに履いてた靴なんだぜって、小学生の子孫が友だちに自慢するような骨董品になるわけじゃないですか。思い出っていうコンテキストから解放されて、それはそれで空想を掻き立てる、妙に重みのある存在になる。そういう種を百個とか千個とか撒くのが、もしかしたら僕という現象を表現する作品になるんじゃないかという気がしています」
僕は彼の言葉をうまく飲み込めなかった。それは僕が積年の告白をしたばかりで頭がなかなか切り替えられなかったからでもあるし、彼が龍之介の話をしているのか、僕の話をしているのか、一瞬混同してしまったからでもある。
「あ、ちょっと待って。今の話ってもう一回してくれないかな? 録画したい。ごめん、アルーツの説明ページ、更新した方が良いかもって思った」
龍之介はにやりとしてまたスニーカーと刷毛に目を落とした。
「嫌ですよ。作家の考えてること全部文字にしちゃったら面白みがなくなるって、先輩がいつも言ってることじゃないですか」
彼は同じことを二度言うのを嫌がる。母校から講師の話が降って湧いたときも二つ返事する調子で「嫌です」と半分笑顔のまま流れるように断った。
ついに照れた龍之介から再現VTRは得られないまま、最後にいくつか事務的なやり取りをして通話を終えた。
ラップトップに蓋をして、目を閉じて彼の言葉を思い出す。
作家としては箸にも棒にも引っかからない凡人だった僕が、美大で、デザイン事務所で、広告代理店でかき集めた半端なスキルや人脈をコラージュのように組み合わせて、自分なりに意味らしいものを形成している。どうにか今、立っている。
いくつもの夢を簡単に諦め、古巣に泣きつき、後輩に救われて生きてきた。本当に恥の多い生涯を送ってきた。その恥を、もう少し、あと五十年投げ出さず、漆のように塗り重ねていくことでもう少し見れたものになるのではないだろうか。
来年、太宰治の享年に重なろうとしている。
(了)
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