世の中には男と女がいて、愛のあるセックスと愛のないセックスを繰り返していて、セックスは秘め事で、でも俺とあんたはそんな日常に飽き飽きしながら毎日をやり過ごしているんだから、本当にあばかれるべきなのは恥ずかしいセックスではなくて俺、それともあんたの秘密、それとも俺とあんたの何も隠すことのない関係の残酷なのか・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第四弾!。
by 寅間心閑
三十四、疲労
店長の奥さんからの電話が切れた後は、それなりに忙しかった。売り上げは大して良くないのに、客が途切れないこういう時間がたまにある。普段なら無駄な忙しさに軽く苛立っているところだが、今日はそうならない。それなりに身体は動かしていたが、頭の中ではまったく別のことを考えていたからだ。
安藤さんとトウコさんの現況について……ではない。さっき近所の小学校の教師・五十嵐先生から持ち掛けられた話を思い出し、それが実現する日を想像したりしていた。改めて思う。やはり俺はあの話に前向きだ。色々考えている時も気分は良かった。まさか教師に感謝されたことが嬉しいわけではないと思いたい。さすがにそれは不健康すぎる。でも、だったら何であの話に惹かれているんだろう――。
夕方を過ぎ、そろそろ外が暗くなり始めた頃、学生服姿の女子三人組が店に入ってきた。クスクスと笑い合い、オドオドと店内を見回し、ヒソヒソと言葉を交わす姿は可愛らしく、きっと修学旅行生なんだろうと予想できた。店内をぐるぐる廻りながら、十五分ほどアレでもないコレでもないと相談し合いながら選んだのは色違いのトートバッグ。先月入荷した正真正銘のおフランス製だ。縫製に少々難アリだから、少し背伸びをすれば買えるはず。なかなかお目が高い。
「すみません、これ、お願いします」
「はい、ありがとうございます」
でもなあ、と朝から色々あった来年三十歳のアラサー男はレジを打ちながら考える。これで終わるのも味気ないんじゃないか? と。都内にたくさんある古着屋の中から、わざわざウチを選んでくれた可愛らしい女の子たちにもう少し喜んでほしいなあ、と。忘れてはいけない。俺の本来のお客様はこの子たちだ。店長の巨乳の嫁じゃない。
「あの、お客様、当店は初めてのご利用ですか?」
唐突な店員からの質問にもかかわらず、「はい……」と三人同時に恐る恐る答えてくれた。修学旅行なんです、と一番背の高い子が答えると、他の二人も小さく頷く。
「あ、そうだったんですね。どちらからですか?」
「あの、愛知県なんですけど……」
名古屋、というキーワード以外何ひとつ浮かばなかった。残念ながら俺に愛知の話を膨らますことはできない。となると次は、年齢だ。
「皆さんは高校生……ですか?」
意外なことに笑顔が返ってきた。ん? と訝る俺に優しいお客様はすぐに理由を教えてくれる。
「私たち、中三なんですけど」
あ、と思わず声が出た古着屋の店員のマヌケ顔に、可愛らしいお客様は声を立てて笑ってくれた。
俺はそんな彼女たちに、エスニック調のアクセサリーの中から好きな物をひとつずつプレゼントした。こんなこと、初めてだ。どうしようどうしよう、と言いながら楽しそうに選んでいる姿は予想以上に眩しかった。「どうかなあ?」と目を輝かせながら、細い指にはめたのはただのオモチャの指輪だが、少なくとも今はそれ以上の価値を持っている。
「どうもありがとうございました」
そう声を合わせ、揃って頭を下げてくれた彼女たちに、俺もまた深々と頭を下げた。
妙に清々しい気持ちのまま、その後も黙々と働いた。その間、お見舞いの時間は終わったはずのナオからも、まだトウコさんといるかもしれない安藤さんからも、もちろん冴子からも、ましてや安太からも連絡はなかった。
――少なくとも今の俺は、誰の世界でも重要な人物ではないらしい。
わざとそんな風に考えてみても、そこまで嫌な気持ちにならなかったのは、きっとあの愛知から来てくれた三人組のお客様たちのおかげだ。
そういえば、と留守電を聞いてみる。昨晩残されていた安藤さんの声。ごめんなさい、すいません、すみません、と何度も謝る湿った声。まさかこの数時間後に、そこのバックヤードで店長とあんな風になってあんな声を出しているなんて……。なかなか俺の感覚では納得しかねる部分もあるが、もしかしたら彼女は、この留守電の時点でもう予想していた、いや、そうしようと決めていたのだろうか。
まあ安藤さんならありえるかな、と思っていたところだったので、その本人がおどけた仕草でドアを開け、店の中に入って来てもあまり驚かなかった。そろそろ閉店。外は夜。どうやら彼女ひとり。トウコさんはいないようだ。
「お疲れ様です」
「あれ、先輩は?」
「今日はもう帰りました」
へえ、という声に意外に思う気持ちが透けてしまったらしい。「だってすぐ会えますもん」と安藤さんは笑った。
店長、俺に続いてトウコさんともそうなるつもりなのか。そういう想いを込めて「すぐ?」と訊いてみる。
「はい。だって今日会えたんだし、これからは普通に……うん、はい」
小さな声だったが、その響きは落ち着いていた。さすが勝率十割の殺し屋だ。
「普通に……」
「はい。普通にって何か変な言い方ですよね。でも、それが一番しっくりくる、かな」
何となく、今日のうちに安藤さんとトウコさんはそうなるんじゃないかと予想していた。久々の再会というシチュエーションは最高のお膳立てに思える。でも現実はそうではなかった。ぐちょぐちょの度に名前を叫んでいる相手だからこそ、実際に会うと色々気になるのかもしれない。
「そうそう、トウコさんが感謝してましたよ」
「感謝? 俺に?」
「はい。ファミレスまで付き合ってもらってすみませんでした、って言ってました」
その経緯をわざわざ口に出す理由はひとつしかない。きっと安藤さんは確信している。バックヤードでの店長との行為を、俺に見られたと分かっている。
ふと立ち上がり、顔をしかめて深呼吸をした。今、強引にバックヤードへ連れ込み、多少乱暴をしてでも挿し込んでしまえば、ぐちょぐちょに持ち込むことができるのだろうか? 一日のうち、同じ場所で違う男と交わることは、安藤さんの奥底の部分を激しく揺さぶるかもしれない――。そうは考えてみたものの、すぐに俺自身の状態が不完全だと気付く。さっき、店長といた時に抱えていた欲望がどこにも見当たらない。もちろんバイアグラのジェネリックは持っていないし、それが効くまでの時間をどう過ごすかも考えていない。
「あの、昨日はすみませんでした」
「え?」
「私、変な時間に留守電入れちゃって……」
今朝のバックヤードのアレを見てしまったので、もう色々と訊くこともない。少し前まで今夜中華街なんて思っていたのに、これもあの可愛らしいお客様の影響なのか――。
「いや、別に大丈夫。気にしないで」
「はい、ありがとうございます。じゃあ、私、今日はこれで帰ります」
何とか自然な感じで「はい、お疲れ様です」と言えたはずだ。安藤さんは一度振り返り、「今度、中華街、お願いしますね」と微笑んだ。親指を立てて頷いてみせると、わーいと喜ぶ仕草を見せる。結局この店内では、俺のことを「先輩」と呼ぶことはなかった。
安藤さんと中華街へ行かなくなったこととは別に、腹は間違いなく減っている。そういえば昼のハンバーグ定食以来何も食べていない。だから帰り支度をしながらナオに電話をした。さすがにもう病院は出ているだろう。
「もしもし、お疲れ様。どうしたの?」
「うん。今どこだ?」
「渋谷に着いたところ」
「あれ、結構遅かったんだな」
聞けばお見舞いの後、実家へ寄っていたらしい。空腹のせいか、少し考えれば分かることが浮かばない。まずいな、と思わず口ごもった俺にナオは「ねえ、お腹空いてない?」と尋ねた。本気で中華街に行くつもりではなかったが、これも渡りに船だ。舌を噛みそうな長ったらしい名前のレストランで、一時間後に待ち合わせた。前から行きたかったメキシコ料理の店だという。アボカドやトマトを擦り潰したワカモレの味を思い出し、電話を切った後に軽く腹が鳴った。
店は渋谷の駅から恵比寿方面に数分、見るからに頑丈そうな建物の三階にあった。最上階の七階には仰々しい名前の占いサロンが入っている。
お見舞い用ということなのか、見慣れない木肌色のワンピースを着ているナオに、エレベーターの中で尋ねてみた。長袖だからユリシーズは見えない。
「ここは雑誌か何かで?」
「ああ、お店のこと?」
「うん」
「いや、前にあの人から教えてもらったの」
あの人、は以前連れて行ってもらった中野の蕎麦屋にいた彫り師、黒作務衣を着ていたノダさん、通称・鶏蜥蜴だった。もしかしたら七階の占いサロンにいるかもしれないな、と言うと嬉しそうに「惜しい。いい線いってる」と返された。最上階には鶏蜥蜴本人ではなく、彼が信頼する占い師がいるらしい。
フロアを全部使っているだけあって、店内は予想よりも広かった。照明は薄暗く、BGMはスピーディーなジャズ。メキシコ料理店というよりバーだ。ビールはテカテを頼み、塩とレモンを振って流し込んだ。空きっ腹に心地よい刺激が伝わってくる。ワカモレ以外の料理はナオに任せた。
「今日どんなだった?」
そう改めて訊かれると、なかなか答えるのが難しい。
朝から店長と同僚の痴態を覗き見し、その同僚の先輩と一緒にファミレスに行き、仕事中に店長の奥さんの長電話の相手をしたと思えば、近所の小学校の先生が訪ねてきて授業への協力を頼まれ、修学旅行で愛知から来た女子中学生三人組にはアクセサリーをプレゼントした。さすがに全部は言えないので、最後の二つだけを伝えてみる。ナオはテカテの缶の縁に付いた塩をペロっと舐めながら、「子ども好きなんだっけ?」と首を傾げた。
「いや、別に嫌いでもないけど、積極的に好きってわけでもないかな」
なるほどねえ、とまた塩を舐めるナオに父親の様子を聞いてみる。お待たせしました、とワカモレが運ばれてきた。整った顔の若い男性店員が、目の前で擦り潰してくれる。
父親は、保険が適用される期間に達するまで、入院させてもらえることになったらしい。
「それ、どういう意味だ?」
「私も詳しくは分かんないけど、なんか入っている保険が、四日間以内だとお金くれないんだって」
「ああ、分かった。保険をもらう為に少し多めに入院させてもらうのか」
「うん、五日間はいないと損するって張り切ってたけどね。本当、意味不明」
だって相当元気になってるんだよ、とナオは詰まった笑い方をした。擦り潰したばかりのワカモレは旨い。あっという間にビールが空いた。
「きっと暇なんだと思うんだけど、なんだか色々ネタを仕入れてるみたいでさ」
「ネタ?」
「そうそう。看護師さんなんかとよく話してるみたいだし」
「若くて綺麗な……」
「いや、そうでもなかったけど」
今日ナオが父親から聞かされたのは、ベテラン看護師さんの噂話。惚れっぽいというかフットワークが軽いというか、とにかくすぐに新しい男ができるタイプらしい。
「それも全部職場で調達してるんだって」
「職場って病院か?」
「そうそう。患者、患者、医者、患者、医者、みたいな感じって言ってた」
パワフルだな、と笑うとチョリソーが来た。鉄板の上で美味しそうな音をさせている。ナオは器用にナイフとフォークで一本挟むと、自分の皿へ取り分けた。
「パワフルっていうか、なんか食い荒らしてるみたいな感じしない?」
「ああ、職場の男どもをってこと?」
「そうそう。節操ないっていうか、近場ばかりで楽してるっていうかさ」
浮かんだのは勝率十割の安藤さんの綺麗な顔。そうか、俺は食い荒らされているのか。確かにそう考えられなくもない。ただ自分のことだから、というわけではないが、それは悪いことなのかと素直に思う。
「まあ、でも大体の人って近場でいってないか?」
「ん、そうかなあ?」
「同級生とか同僚とか、友達の紹介とか、兄弟の友達とかさ。近場じゃないっていうと……ほら、なんだっけ、マッチングアプリみたいな」
「まあねえ。お見合いとかもそうなのかな……」
やっぱり近場で付き合ったり、結婚したり、ぐちょぐちょしたりするのは当たり前。そう思ってチョリソーにフォークを刺すと肉汁が飛んだ。
「あのさあ」
「あ、ごめんごめん」
「いや、違う違う。考えてたんだけどさ……」
「?」
「ちょっと疲れてるんじゃないかな?」
誰の話をしているのか、まったく見当が付かない。そんな俺の顔を正面から見据えて、「きっと疲れてんのよ」とナオは真顔で宣告した。
「さっき言ってたじゃない? 小学校の先生とか、修学旅行の中学生とかさ」
俺の話だったのか、と慌てて頷く。頭では全然別のことを考えていたんだな。
「そういうのって、何ていうの? 定番っていうか、ベタっていうか……ああ、普遍的っていうのかな」
「分かりやすいってことか?」
「うん。子どもとの触れ合いとかさ、当事者は別なんだと思うけど、まあ冷静に考えたらベタじゃない?」
言っていることはちゃんと分かっている、という意味で一口食べたタコスを食べさせてやる。ナオは口にチリソースをつけたまま言葉を続けた。
「普段、そういうの好きじゃないでしょ? ベタなヤツ。なのに、そうやって寄り掛かってるのは、絶対どこか弱ってるんだと思うんだよね」
脳裏に浮かんでいるのは、今朝バックヤードで覗き見した、店長のを頬張っている安藤さんの横顔だ。それを無視しながら「じゃあ占い師にでも診てもらうかな」と軽口を叩くと、意外にもナオが乗ってきた。
「ちょっとノダさんに、信頼してるって人の名前だけ訊いてみる」
こうなると止めても無駄だ。俺は残りのタコスにかぶりつき、酸味が広がる口の中にテカテを流し込んだ。
(第34回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『助平ども』は毎月07日に更新されます。
■ 金魚屋の本 ■