人と人は、文化と文化は、言語と言語は交わり合いながら、新しいうねりを作り出してゆく。ルーマニア人能楽研究者で翻訳者でもある、ラモーナ・ツァラヌさんによる連載短編小説!
by 文学金魚編集部
僕が帰る日は唐突に決まりました。ニコライおじさんが、「アンドレイはすっかり元気になったな。次に下に降りる時に、お家に連れ行ってあげよう」と言ったんです。
僕はその時初めて、お家のことを考えました。お母さんやお爺さん、お婆さんはすごく心配してるだろうなと思った。ちょっと不思議に思われるかもしれませんが、僕はそれまでほとんどお家のことを考えなかった。自分がとても大事で貴重な経験をしていると、どこかでわかっていたんでしょうね。それにニコライおじさんが、必ず僕を家に連れて行ってくれると知っていました。だから小川の村にいる間、ぼくはすっかり村の子どもだったんです。
出発の朝、お母さんはクリスティーとお揃いのシャツを着させてくれました。家の前に出てみんなが見送ってくれた。
「元気でね、アンドレイ」
お母さんは涙ぐんでいました。
「神様があなたといっしょにありますように」
ソフィアお婆さんは僕に向かって空気に十字を切りました。
クリスティーは言葉少なでした。彼とお別れするのは本当に辛かった。
たった一人、笑顔で見送ってくれたのはマリオアラちゃんでした。
僕はなにか言わなきゃと思いながら、なにも言えなかった。結局なにも言わず、みんなときつく抱き合って、ニコライおじさんに手を引かれて家を後にしました。
教会の前を通ったので、ニコライおじさんのまねをして自分もお祈りしました。
そこでおじさんは白い布を取り出し、僕を目隠しした。
「アンドレイ、悪いな。だけどこの村への道を知る人は限られてるんだ。外の人にはあまりここに来てほしくないんだよ。だから下に降りるまで目隠しさせてくれ」
「どうして?」とは僕は聞きませんでした。半分村の子になってたんでしょうね。
ニコライおじさんは僕をおんぶしてくれました。
「しっかりつかまって」
ニコライおじさんは歩きながら話しました。
「下の世界はどんどん変わってるよね。それはそれで悪くないと思うんだけど、ここは違うんだ。おじさんたちは神様や祖先に感謝しながら、山とともに静かな暮らをしたいんだよ」
「じゃ、ヴァシーレ先生は?」
周りの音から、もう森の中に入ったことがわかりました。
「クリスティーが話したんだね。ヴァシーレ先生はちょっと特別なんだ。この村に、ある日突然一人でやって来たんだ。だけど戻らなかった。自分の知識を村で役立てたいと、村に留まってくれたんだ。先生は病気の人を助けたり、学校で教えたりしてるだろ。僕らが安心して暮らせるのは、先生のおかげでもあるんだよ」
おじさんは歩きつづけ、僕を降ろして少し休んでから、またおんぶする時に一本の縄で僕の身体と彼の身体をしっかりと縛り付けました。
「ここから急だからね。もっとしっかりつかまって」
何も見えなかったから、どんな場所だったかわかりません。腕と足を動かして、おじさんといっしょに梯子を降りてゆくような感じでした。背中にとても冷たい風を感じました。崖だったように思います。
平らな場所に出た感触で安心しました。周りは暗くなっていたようでした。足音が響きました。洞窟だったかもしれません。その後、また川の音が聞こえてきました。しばらくすると遠くから激しい水音が響いて来ました。叫びの滝で間違いないと思いました。お父さんのことを思い出して不安になりました。
山道を下りると僕は降ろされ目隠しも外されました。
「お前を見つけたのはここだよ」
おじさんは川の岩場を指さしました。身体がたまたま岩に引っかかったので、もっと下へと転落しないですんだのです。
ジュマラウ山のふもとを流れるビストリツァ川にたどり着いたころは、もうすっかり夜でした。
「アンドレイ、君のお家で間違いないかい?」
「うん、あそこだ!」
「よかった」
おじさんが言いました。村の人に見られたくないのでここでお別れでした。
「元気でな」
重く厚い手で頭をなでてくれました。おじさんの目は優しく、クリスティーの目とそっくりでした。
ニコライおじさんはビストリツァが流れる方向に歩き出しました。茶色のマントをまとったその姿がどんどん小さくなり、森の中に消えてゆきました。
僕は何度も何度も小川の村で過ごした日々を、大人たちに話したんですよ。お爺さんはちゃんと聞いてくれたけど、母親もお婆さんも信じてくれなかった。僕が無事に帰ってきたのは奇跡だと言い、いつしかみんな、僕の話を忘れてしまったんです。
気がつくと、図書室には午後のあたたかい光が差し込んでいた。窓から見える修道院の教会の塔が、公園のもみの木の上に浮かび上がっているように見えた。マリアさんはフーッと長い息をつくと、いつのまにかかけていたメガネを外した。
「すごいお話ですね。なかなか聞けないお話でした」
理解者を得たようで、僕は嬉しくなった。
「この間、仕事でまた小川の谷に行ったんですけど」
「ええっ、小川の村が見つかったんですか?」
「いや、村は見つからなかったんですが、確かにそこにあるはずなので、僕の仕事の一環として、ダム計画の再調査でまた調べたんです。でも変ですよね。見つからないのは。だから図書館で一から関連文書を調べているんです」
「そうでしたか」
マリアさんの目にいたずらっぽい光が宿った。
「失礼ですが、よくあることじゃないかと思うんですよね」
「なにがですか?」
「ほら、夢で見たことや、なにかの本で読んだ物語、過去の体験なんかが混ざりあって〝記憶〟になることって、けっこうあると思うんですよ」
「信じてくださらないんですか?」
僕はガッカリし始めていた。
「いいえ、本当の話だと思います。でも本当の話であっても、必ずしも実際に経験したことそのものではないんじゃないでしょうか」
寂しい気持ちになった。小川の村の大事な手がかりを見つけるのを手伝ってくれたマリアさんも、僕の話を信じてくれない・・・。
「記憶って、フィクションなんですよ、結局は。作り物なんです」
マリアさんはきっぱりそう言った。教室で、わかりきった理論を説明してくれる先生のような目だった。
「作り物、ですか・・・」
「たとえば子どものころに読んだ小説とかにあった村が、そのままアンドレイさんの記憶になったんじゃないかと思います」
「でも友だちのクリスティーは? ソフィアお婆さん、お母さん、ニコライおじさん、マリオアラちゃんは?」
「子どものころ、友だちはいましたか?」
僕は驚いた。
「カウンセリングですか」と苦笑した。
「いえ、失礼しました」マリアさんは口調を和らげた。
「わたしが言いたいのは、もし子どもの頃に友だちがいなかったのなら、理想の友だちを想像で作ってしまった可能性もあるんじゃないか、ということです」
想像上の友だち?
子どもの時代の友だちは、みな学校の同級生だった。自分も滑落事故に合ってから、夏休みもずっと街の家か、街に住んでいた母方の祖父母のほうで過ごしていた。ほかの子どもと遊んだ記憶はない。どうして僕がクリスティーやマリオアラちゃんという友だちを想像できるだろう・・・。
「想像上の経験だったとしても、それは別に偽物の記憶ではないですよね」
「どういう意味ですか?」
「夢の中で見たもの、想像の中で見たもの、実際に見たもの、すべてがアンドレイさんが見たものなんです。だからアンドレイさんの大切な記憶です。ご自分の思い出を大切にすべきだと思いますよ」
そうなのかな、と思った。しかしやはり小川の村が、自分の想像の産物だとは信じられなかった。
「素晴らしいお話、ありがとうございました。どうぞお元気で」
マリアさんはそう言うとノートを閉じた。
僕はその時初めて、マリアさんがまったく、一字もノートにメモを書いていないのに気づいた。
マリアさんが出て行った図書室で、しばらく僕はボーッとしていた。久しぶりに小川の村の記憶をぜんぶ呼び起こしたせいかもしれなかった。マリアさんに、あんなに一生懸命話したのに、僕の心が、あの体験が伝わらなかったという空しさでもあった。僕はなにか抜け殻のようになって図書館を出た。
外はすっかり夕ぐれだった。
現代社会とは無縁に昔の生活をしている小川の村の人々。僕は無意識的に、それを理想の生活だと思っているのだろうか? でもあのような生活をしたいと考えたことはない。それとも自分の心がひそかに望んでいるのは、あのような世界なのだろうか。
車に乗り込んでもしばらく考え続けた。
「とにかく家に帰らなきゃ」
僕は頭を振ってエンジンをかけた。図書館前の交差点で信号待ちしていると、聖イオアン修道院の教会の塔が見えた。
聖イオアン教会に寄ってから帰ろうと思った。信号が青になると左折した。修道院の門前にある駐車場は空っぽだった。教会に入ると、お祈りに来ている人が数人いた。
祭壇の前で軽く膝を折り、聖イオアンのところに向かった。膝をつき祈った。なにかを祈ったわけではない。なにも考えられなかった。しばらくはただ膝をついて祈りの姿勢になった。
僕はどこかおかしいのだろうか。上司のガヴリレッツも妻のイオアナも、それを匂わせたように思った。でもイオアナとセバスティアンは僕を必要としている。ちょっとおかしいなら正気に戻らなければなない。どうか正気でいさせてくださいと、初めて石棺に眠っている聖人にお願いした。
もう一度祭壇に向かって十字を切ってから教会を出た。
境内には夕方なのに、芝生刈りをしている修道僧のほっそりとした黒い姿以外、だれも見えなかった。もう少しだけ考えたくて、教会の前にあるベンチに腰かけた。
「そうだ、イオアナに電話しなくちゃ」
やることがあるのは嬉しかった。イオアナが電話に出ると、「これから帰るよ。それでね、僕はもう小川の村の調査は止めることにするよ」と言った。
「そう」
イオアナは素っ気なかったが、「あったかいご飯が待ってますよ」といたずらっぽく笑った。
マリアさんに心の中の小川の村を、あの極彩色で動く絵を説明し尽くしたせいかもしれない、僕はこれからは誰になにを聞かれようとも、小川の谷の話を二度としないと決めた。あの思い出は心の中にしまいこんで、二度と取り出さない。
西の空にかかっていた薄雲はオレンジ色や赤、紫などのやさしい色に染まっていた。しばらく空を見つめていると、やっと少し心が落ちついた。ベンチから立ち上がって車に向かった。
エンジンをかけると窓をいきなりノックされた。ビクッとしたが、見るとさっき草刈りをしていた修道僧だった。手を上げて携帯電話を見せた。
「忘れ物ですよ」
ウインドウを下げると修道僧が言った。金髪の髭を生やした青年だった。とても明るい笑顔だった。
「ああついうっかりしてしまって。ありがとうございます」
携帯を受け取った。彼はやさしそうな青い目をしていた。
「神様があなたといっしょにありますように」
「ありがとう」僕は車を発進させた。
やっぱり僕は普通じゃないのかな。深刻に悩んだわけではないが、思わず苦笑していた。だけど今日から、今この瞬間から僕はいつもの僕に戻るんだ。
ハッとした。
あの青い目。
まさか、と思った。
全身の毛が逆立った。
嘘だろ、あの青年は、あの目は、クリスティーじゃないか!
後ろからクラクションを鳴らされあわてて発進した。右に曲がってすぐに車を止めた。大通りなので逆走できない。車から降りて修道院に走った。境内にはもうだれもいなかった。
教会に入り神父さんを探した。
「庭で芝刈りをしていた青い目の修道僧にお会いしたいんですが」
「青い目?・・・さあこの教会にはいませんが。見間違いじゃないんですか」
ようやく出てきてくれた神父さんは怪訝な顔で言った。
「ありがとうございました」
僕はすぐにあきらめた。僕の全身の感覚が、もうここにクリスティーはいないと告げていた。
「ご自分の思い出を大切にすべきだと思いますよ」
マリアさんの声が頭に響いた。
マリア・・・マリア・・・って、マリオアラちゃんじゃないか!
どっと汗が噴き出した。クリスティーの妹のマリオアラちゃんは、今ならちょうど大学生くらいの年頃だ。
図書館へ向かって走った。全速力で走ったのに図書館はもう閉まっていた。僕は息をはずませながら閉じた門を見つめた。ここでも僕の全身の感覚が、マリオアラはもうここにいないと告げていた。
「あの二人、どうして何も話してくれなかったの?」僕は思った。
でもすぐに「会えてよかった」、と思った。
僕は空を見上げた。薄い青を残す西の空に、星が一つ大きく輝いていた。僕は遠くから小川の村のある方角を見つめ続けた。
(第04回 最終回 了)
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