社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第九回 不動産――ホテル・ユニバーシティ
大学による不動産ビジネスの続きだ。前回の大学内シェアハウスは、わたしが週一で出向く神奈川県内の広大なキャンパスから思いついた。が、そこは歴史あるマンモス大学で、都心の一等地、なんと白金あたりにもキャンパスがある。こちらもまた不景気に変わりはない。女子の短大部などもまた時代の流れからいって、そろそろアウトオブデートである。キレイなお嬢さんたちが白金あたりで短期間、花嫁修行を兼ねたキャンパスライフを過ごす、という風景がなくなるのは進化したのか、貧しくなったのか、迷うところだが。
それじゃあ大学で腰をすえて勉強するのに白金にいる必要があるか、と問われると、返答に窮するだろう。ただ、勉強することと学問することは違う。勉強は自室にこもってするから、辺鄙な場所でもかまわない。むしろその方がいい。しかし学問は、京都の昼寝という言葉もあるように、その環境や周りの気を受けて深まるものだと思う。とりわけ文学や哲学はそうだ。「こんな山を眺めながら文学ができるか。文学部を白金に移転だー!」というシュプレヒコールも聞こえてきそうだったが、文系学部の不要論まで説かれるご時世となり、こちらも存続の危機で白金・高輪どころでなくなった。
一方で政権は、オリンピックを控えて日本文化の称揚と世界へのアピールに余念がない。文系学部が不要なら、その文化を研究し、たとえば新元号を日本古来の古典から採ろうというとき、誰に相談するのか。立派な学者は一人だけ突然、現れるわけではない。育てるには長い歳月と、厚い組織や学生の層が必要だ。
天皇制が万世一系としてあるなら、それを前提として存続させるしかないように、白金にキャンパスがあるなら、それを前提として考えるしかあるまい。「それでさ、白金の方も建て替えずに、なんとかやってくしかないってー」というのを聞き、つい応えてしまった。「あんな一等地、容積率を上げてもらうとか、できないんですか」。
「容積率上げたって、それに見合う数の学生がいるわけじゃないしさー」。それはその通りだ。しかし何かが間違っている、と思った。そのときはよくわからなかったが、何かが。そういうときは、たいてい前提が違うのだ。最初に大学・学生ありき。違うだろう。最初に土地建物ありき、だ。
「なんでホテルを建てないんだろう…。」と、わたしは呟いた。白金・高輪辺りにあるべきもの。それはホテルだ、大学よりも。インバウンド需要、ジャパンを世界に、オリンピックとそれ以降。文系学部は不要などと考える政権の方針にも、これはぴったりフィットするではないか。ときの政権の方針と現存する土地建物は、なにしろ大前提としなくてはならない。政権批判をしているヒマはないのだ。やってるうちに倒産してしまうがなー。
学校経営を廃業してホテルに転業した、という極端な例として、代々木ゼミナールがある。あのときはびっくりして、いったい何の冗談かと思った。スーパーマーケットのように展開していたあちこちの分校(支店?)を廃校にするわ、模試はやめてしまうわで受験生こそびっくり仰天だろう。しかし考えてみれば少子化はわかりきっていたことで、代ゼミ経営陣だってその算盤を弾く学力はあるはずなのだった。そうすると新宿副都心地域に聳え立つ、まさに巨大ホテルのようだと称されていた代々木ゼミナール本校が、設計段階からやっぱりホテルだったのだ、と言われれば納得する。いや納得なんかしないが、そういうこともホントにあるんだね、と思うしかない。
ところでその代々木ゼミナール本校に唯一残ったのが、個人指導を中心とした医学部コースである。単価の高い、ワリに合うものだけを存続させるという、わっかりやすい話だ。医学部受験には昔から専門の予備校があって、年間の費用が1000万円以上かかるとも聞くが、わたしは常々、この医学部専門予備校のスキームとは教育よりむしろ不動産ビジネスに近い、と感じていた。なぜなら本当のところ、医学部入試はようするにただの入試なのだ。集団のクラスで授業を受けているだけでも、その上位にいれば受かる。つまりまあ、ほっといても受かる子は受かる。それがままならない、それでも医学部に入れなくてはならないというニーズに応え、あまり勉強する気のない受験生を管理してあげる。できることと言えば、ちゃんとやってきて、そこに座っていたことを証明するだけだ。これはつまりタイムカードを押すシェアオフィス経営のやり方である。
そういうわけで不動産ビジネスに向けて大きく舵を切った代々木ゼミナールは、医学部受験コースだけを残したことに矛盾は感じてないと思う。そもそも医学部受験生は地方出身者も多く、単なる下宿では(ちゃんと勉強するか、また身の回りの世話が)心配なので、先の医学部専門予備校の寮に入れたり、現役生も夏休みだけ東京に滞在して講習を受けたりする。また毎年数ヶ月にもおよぶ本番入試の時期には、あちこち地方大学を転戦することもあり、もとより医学部受験生とホテルとは切っても切れない。すなわち前回に述べたように、学生の教育を担当する組織は、その居住や生活のコストを吸い上げることができる。
と言っても、わたしが「なぜホテルを建てない…」と呟いた瞬間にイメージしていたのは、この代々木ゼミナールではない。同じ大学で、マジでこぎれいなホテルを建てちゃった早稻田大学だ。その少し前に母と、はとバスツアーで鳩山家のバラ園と白洲正子の旧邸・武相荘を見学し、いずれもなかなかよかったのだが、昼食はこの早稻田大学のホテルで、というコースだった。上等な学食、などと言うと悪口になってしまうが、なんのこのぐらい、どこの大学だってできらあ、と思ったのである。一等地に土地建物さえあれは、それで早稻田大学から担当のコンサルタントを紹介してもらえれば…。
つらつら考えるに大学とホテルとの相性は、代ゼミとホテルなんてもんじゃなく、抜群にいいのではないだろうか。今、都内には最高級ホテルが林立している。多少安く、つまり良心的な価格帯でのブランディングを目指すなら、大学という知的な匂いは財産である。先の医学部ではないが、入試の時期には受験生のニーズも見込めるし、学会など国内外からの客を案内する、というのもよい。大学とホテルの共同経営で国際会議場など設えれば、ホテルと大学の双方にとって大いにイメージアップに繋がる。
もちろん大学にとっての最大のメリットは、ホテル建設と抱き合わせで校舎の建て替え費用の融資が受けられる、ということだ。少子化を目前に斜陽産業と化すことが約束されている教育ビジネスへの融資が下りないなら、大学のブランドイメージを生かし、融資が下りやすい別のビジネスを抱き込んで相乗効果を狙うしかない。
そうやって校舎が新しく、最新式の設備を備え、なおかつ都心から動かないとなると、どうなるか。偏差値もブランドイメージもいきなり跳ね上がった、神保町の明治大学が素晴らしいモデルである。見違えるようにキレイになった明治大学には、これまた明治の学生とは思えないような垢抜けた女子が生息しはじめたのだ。とても信じられない。我々の頃は、明治と言えば…。
こういったことをやり遂げる力、ビジネスセンスが大学の評価においても一役買う、ということはあるかと思う。しかしホテルはそれだけじゃない。非日常空間であり、海外を含めた様々な人たちとの出会いや交流の場としてイメージされる。京都の昼寝が必要な学問にとって、そのような接触は本質的に重要である。その場を用意している、というパフォーマンスは、イメージアップだけでなく、様々な場面での信用や説得力を増すだろう。
長い人生の一時期の形態である学生、受験生という存在にとっても、もしかすると大学自体、ある非日常的なホテルのようなものかもしれない。そう思えるほどに、考えれば考えるほど、大学とホテルという取り合わせは深く響き合う。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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