社会は激変しつつある。2020年に向けて不動産は、通貨は、株価は、雇用はどうなってゆくのか。そして文学は昔も今も、世界の変容を捉えるものだ。文学者だからこそ感知する。現代社会を生きるための人々の営みについて。人のサガを、そのオモシロさもカナシさも露わにするための「投資術」を漲る好奇心で、全身で試みるのだ。
小原眞紀子
第十回 オプションⅠ―任意追加の友人
半年に一度と決め、6月と12月に会う友人がいる。一人は銀行を定年退職した歳上の男性、もう一人は自分のしたい仕事をしながら収入は投資で得ている男性で、わたしより若い。こういう付き合いって、ほかではないな、と思う。半年に一度と決めて会うというのもないし、そう決めたのに理由があるわけでもなく、またそれを律儀に守りあっているというのも、これまで経験がない。
思えば、友人というのはたいてい何かの組織で出会っている。知り合うべく圧力がかけられているというか、組織の紹介によって疑いなく付き合いはじめるというか。つまりわたしたちはそれほど自由に友人を選んでいるわけではない。そしてそれに気づいているからこそ、組織から離れると、たいていの付き合いは途絶える。それでも繋がっている人だけが、生涯の友人となる可能性がある。
わたしのこの二人の友人も、ある組織で知り合ったことにはなる。ただそれは一過性の集合で、メンバーが顔を合わせる機会はただ一度きりであった。名刺を交換したわたしたちは、メールをやり取りして三人で会うことを決め、それから半年に一度の再会を決めた。場所は今のところ溝の口で、安くていいお店がある。そこで出された水ナスが美味しくて、わたしは昨年ひと夏、スーパーで水ナスを見つけては食べ続けた。チーズのおせんべいも電子レンジでよく作る。
定期的な再会の約束はよそで一度だけ交わしたことがあるが、その場かぎりと誰もが危惧し、その通りになった。この二人とは、そうならなかった。たぶん、いろんな意味で覚悟が違う場に居合わせたからだろう。わたしたちが出会ったのはオプションを学ぶセミナーのミートアップだ。立食のテーブルのひとつに、わたしたちはたまたま集まり、言葉を交わす機会を得た。
オプションとは、株式投資から派生した高度な投資手法で、素人には敷居が高いものとされている。しかしながら高度というのは「より抽象的な」という意味で、投資の難しさとしてより高度かどうかはわからない。そもそも低レベルの投資、といったものが存在するのか。稼げさえすれば投資に甲乙はなく、どんな投資も技術を磨いた者が勝ち続けるので、それなりに高度にならざるを得ないだろう。
わたしたちが参加したセミナーは、初心者でも扱えるようにオプションをごく限定して取り扱うものだった。一般には、オプションは危険なものという認識がまかり通っている。オプションとは一種の「保険」である。たとえば日経先物のラージを売買するとき、損失に対して「保険」をかけたいと思ったら、オプションをちょっと買う。先物もオプションも限月があって、期限が来るとオプションの価値はゼロになる。つまり掛け捨ての保険だ。
保険なのに危険とは、これいかに。オプションを売る、という行為をすれば、誰もが保険屋さんになれる。売った瞬間、保険料としてのオプション料をもらえるわけだ。しかし火災や死亡が発生したら、保険金を払わなくてはならない。暴落に備えるオプションを売って、ほんとに暴落したら、莫大な保険金を払う、すなわち高額でその株式を買い取ることになる。したがって危険だというわけだ。
オプショントレーダーは、日経先物と切り離し、あるいは日経先物の方をリスクヘッジとみなして、オプションを売買することで利益を得る。ここで投資は抽象化されて、数学的な思考と確率のゲームになるのだ。何々を作っている何々社の株式、どこそこにある不動産、といった現実的価値とは異なる、オプションというものの価値が独自に変動する。変動の幅は、そのとき日経先物が実際に動いた価格から影響されるもの(本質的価値)、それと限月までの期間(時間的価値)の二つの要素で決まる。オプション価格は、この二つの要素のマトリックスで見てとれるわけだ。
二人の友人のうちのTさんは、もともとオプショントレーダーである。株式投資を知り尽くしてオプションへ移行したのかと思いきや、オプションしかやったことがなく、オプションしか知らないという稀有な人だ。以前、ちょっとしたウェブセミナーでオプションのやり方を学び、面白いと思って自身で研究を重ねている。関心を深めたのは、数学的だからだろう。儲かればいいというものの、投資の対象との相性というものはある。確実にあるし、かなり微妙かつ繊細なものだと思う。商品先物でも、金や石油、銅はいいけれど、大豆とかコーンとか食べ物はダメ、という投資家もいる。一晩で300万円も稼ぐような女性だが。
そんなTさんが、なぜ初心者向けのオプションセミナーに参加していたかというと、リスクヘッジになる新しい手法のヒントを求めて、であった。Tさんの研究の主眼は、いかにリスクを減らすかにある。オプションは売ればその瞬間に収入にはなるし、買っておけば莫大な利益が転がり込む可能性を秘めている。初心者向けセミナーは、このオプション買いを宝クジとみなしたやり方に過ぎなかった。プロとしてそれに飽きたらなければ、逆に転んだときのリスクが最大の問題だ。
著名なオプショントレーダーの中には、米国株のオプションのみを扱い、万一のときは高値で買う羽目になった米国株をそのまま所有し、値が戻るまで配当や優待を楽しむ、という剛毅な人もいる。常に上がり続ける米国株、という前提だが。Tさんの思想はもっと緻密であり、その緻密さとギャンブラーの素質を兼ね備えているのが興味深く、オプショントレーダーならではだと思う。株式投資家やFXトレーダーは存外、ギャンブラーではないものだ。
もう一人の友人、Mさんはメガバンクを退職された後は、奥様とヨーロッパ旅行を楽しまれるなど悠々自適だが、自身に合った投資法でさらに豊かな、またおそらくはちょっぴり刺激のある生活を求め、飽くなき探求の日々である。ギャンブラーであるTさんも、本業は採算無視で人々に癒しを与えるというボランティア精神に満ち、お金そのものに執着はないタイプだ。Mさんもまた投資で大儲けしたいという様子はなく、その辺で三人とも気が合うのかもしれない。
お金自体にはあまり興味のない三人が、投資のセミナーで出会い、セミナーが終了してなお、これといった目的もなく、定期的に顔を合わせる。目的がないというか、まだ見えないから続くのかもしれない。勉強会などそれらしい名目があれば、その内容以外に興味が逸れれば出る理由を失う。ただ自分の関心の向かう先を友に報告し、見守り合うだけの集まり、というのは貴重な気がする。観想、という概念があるけれど、半年に一度、友のあり様を見ることで、自身への理解を深める。目的はそれに尽きるかもしれない。
さて二人がなぜあのとき、あのオプションセミナーにいたのか、わたしは以上のように理解しているのだけれど、わたし自身がなぜオプションに関心を持ったか、今でもまた取り組みたいと思う理由は何なのか。次回はその経緯から。
小原眞紀子
* 『詩人のための投資術』は毎月月末に更新されます。
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