〝よし、その売れていない、秘法を使った旅のプランに、僕たちが最初の顧客になってやろうじゃないか。僕は何でも初めてが好きなんだ。初めてを求めるとき、僕は誰よりもカッコよくなれる・・・〟この旅はわたしたちをどこに連れていってくれるのか。青山YURI子の新しい小説の旅、第二弾!
by 青山YURI子
机が並べられていた。もうすっかり用意がされていたようだった。彼らはもう何日も前から僕たちが来るのを分かっていたように迎え入れた。淡々と出迎えた。僕をBの席へと案内し、彼女をC席へと導いた。そこには他にも数多くの外国人がいた。もし彼らを〝外国人〟と呼んでもいい場合だけれども。明確にはコラージュの国には、外国人は僕たち以外にはいないはずだ。しかし、モンゴルとベネズエラと韓国の人が住んでいるため様々な体格・特徴の容姿の人がいるはずなのだけど、どうして彼らは僕たちがよそ者であると一目で分かったのだろう。何の説明もなく、この部屋まで誘導された。考えてみれば、この三つの国がまとまった国では、モンゴル、ベネズエラ、韓国いずれの血もない僕たちは、彼らからしてみれば一目瞭然で異質な人間なのかもしれない。もしくは彼らは外国人でなく旅行者、迷い込んできたものたちをただここに集めているだけかもしれない。なぜ外国人が集められている、と思ったのだろう。
時間が経ち分かったことには、この空間にいる人の雰囲気には共通したものがあり、それはモンゴル語、スペイン語、韓国語とも言えないこの国の人間たちが話す言葉を解さないことだった。コラージュの土地の人間はそれらの言葉を一単語ずつ、またはある言い回しを複数混ぜて話しており、一曲の中で歌のメロディが変わるように、一つのフレーズの中に確かに違う土地由来の、高原の民の言葉、ラテンの歌う踊るメロディ、韓国語の律儀さのニュアンスが一つのフレーズの中で同時に提示されていた。
僕たちは、コラージュの人間とはいつも英語で会話してきた。通常の多くの旅行と同じだ。なぜだかどの国の人々も英語が話せた。そして昼間に見た『ハイキング専用道』という看板も、僕らが違和感なく読んだということは、英語だったはずだ。
今朝ホテルで聞いた話によると、一つのコラージュの国の中では土地によって、例えば2の国では、2の国の言葉にモンゴル訛り、スペイン訛り、韓国訛りが存在するので、共通語である全く別の〝英語〟もあるということらしい。しかし、なぜ英語? と訊ねたけれど、ただ「共通語は英語に決まってるじゃないですか」と、どの人に聞いてもそう答えるばかり。こちらが間抜けな質問をしていると強調するとぼけた顔で、返事をされるばかりだった。「英語は初めから共通言語として、頭のいい人が発明しました」「エスペラントみたいに?」僕は聞いた。「エスペラントってなんですか?」ホテル支配人の彼は言った。「英語の英は大英帝国の英を意味することを知っていますか?」と訊ねたが、「大英帝国なんて言葉を聞いたこともないし、ましてやそんな〝国〟など知らない。私たちの世界には。この土地があるだけだ。〝国〟など神話の話だよ。」と繰り返すばかりだった。
ということは、この空間にいるのは、この地域の訛りを理解しにくい、2の国のなかでも遠くの土地の人々なのだろう。きっと、韓国族が多く住んでいる街なので、韓国訛りが強いのかもしれない。韓国訛りが60パーセントほど、モンゴル訛りが32パーセント、スペイン訛りが8パーセントくらいだろうか。コラージュの国では、こうして訛りが明確に分量化されている。後でアンヘラがコラージュの国ガイドアプリを開いて調べたことだが。
知らない土地に来てこんな時間に試験を受けるということ。昼間には愛を語り、夜にテストを受けるということ。僕らはそのギャップに打ちのめされ、眠たいのも相成って部屋に通されそれに従ったのと同じように、坂を下ってきたのと同じように、ただ彼らの言い分、指示を聞くことがホテルへに帰れる道なのだと思えてきていた。直接の命の危険は差し迫ってはいぬものの、一寸の気の緩みも容赦しないいかにも東アジア的な緊密した空気の中、僕らは震えていた。もう既にこの空間へ来て2、3日、いや、2、3週間経っているのではないか、と思うような人間もいた。取り乱してはいないものの精神的な疲労で衰弱し、諦めた様子を全身に浮かべている者が多くいた。
と、ご飯が運ばれてきた。韓国の宮廷料理だった。とても豪奢な食事だ。僕たちは、ここで飢えはしないということだ。
用意されたご飯をみなが食べ終わると、テストが始まった。もう午後21時を回っていたと思う。ここでは夜21時が夕飯の時間だという。テストの時間割が配られた。初めの時間は数学だった。代数計算やなんとか式の問いを解いた。僕は理系だったが、彼女が心配になった。豪華な宮廷料理の後、試験の間は試験官が常時見回っていたので、僕たちは会話をすることが出来ず、これはなんらかの真剣な試験であることは確かだった。鉛筆の音が電子音のように鳴っていたが、学生の頃のような追いかけ合ったり駆けていく筆音ではなく、みな一様に足並みをそろえた、大海の上の一様の小波のように、少し書いては休止し、また書き始め、硬い筆音をムードミュージックのように奏でていた。そんな楽な様子で僕は試験を受けているけれど、なぜここでこんなことをしているのだろう、でもここからでなければいけない、でもまず試験を受けろという、この家から出るための、外に出るための試験だ、という。でもなんのために? そして、もしここから出ることが出来なかったら? と考えた。しかし筆音以上に大きな足音で押し寄せる眠気や疲労に、押し流されるように、しっかりと地に足のつく杭になる考えを浮かばせることは出来なかった。試験を解きながら、なにかピントの合うここから抜け出す方法を考えようと思っても、すぐに流されまともな考えはどれも上手に形をとらない。
試験中にはいろんなことが気になるものだ。アンヘラの様子も気になった。すぐ後ろからは、近くて強い鉛筆の音は何も聞こえてこなかった。眠っているのかもしれない、けれど、何かあったのではないかとも思った。確かめる術はない。部屋はとても暗かった。なにしろ電気のついていない空間に、それぞれの卓上ライトでテストを解いていたのだ。後ろを振り向きたかったが、ちょっとした身動きも許されない空気があった。軍服を着た試験官の男がぐるぐると並べられた机の間、前後を見回っている。どこまでもアジア的に、ちょっとした気の緩みも許されないのだ。体にちょっとした弾を撃ち込むような軍隊的な視線の使い方をする。噂に聞いていた〝東アジアの学校試験〟体験だった。しかし、もしかしたらこれもこういう経験を味わうための観光プログラムなのか。この緊張体験はエンターテイメントなのか? 僕は頭がぐるぐるとしてきて、だんだんと自分一人だけの想像の世界の中にいる気がした。一人一台与えられた机の上の、小型ライトに照らされて、自室で課題に向かうように試験を受けていた。テストを解いていると、視野の中で、自分の周囲には、ただ机の隅が見えるのみだった。この肌色の大地がずっと続いている気がする。それが何台分もあって、人が座って、まったく同じものを解いているということが不思議に思われる。一部屋の中に自分が何人も複製されたように感じる。もちろん、僕は男だし、◯◯国人だし、だけどそれよりも人という単位の方が優位にそこにあり、人が17人ほどいるということ、机が20台ほどあるということ、みな鉛筆をもっているということ、試験を解いているということが大切だ。同じ時間と空気を感じている17人ものドッペンゲルガーと時を分かちあっているような奇妙さを感じた。
……コラージュのマテリアルにされている。今、この空間には17人の同じ人間が必要で、僕は印刷され複製され切り取られ17人になって試験を受けている。…
…コラージュでは、同じイメージを複製して一つの背景の上に用意することが可能だが、ヤドカリ女は僕までもコラージュの材料として彼女の作品の中へと取り込んだのか?……
僕の疲労はこの時、頂点に達した。まぶたを閉じた。
次にぼんやりと顔を上げると、壁の上の方には、歴代のミスコンの優勝者の写真が、歴代の国家主席のように厳粛な額に入り国旗とともに飾られているのが、闇の中で目に入った。それがミスコン優秀者の写真だと試験官から聞いたのだ。あの冷たい表情をしていた試験官は、実際にしゃべるとなんとなくラテンの親密さがあった。目を閉じて開くと、厳格さが親密さに変わっていたようだった。さすが韓国とベネズエラの混じった人だ。「そう、質問することは大事だよ、チーコ(青年よ)」と言って僕の肩に手を置く試験官。「なんでも質問しなさい」「でも、振り向いたら減点だよムチャーチョ(若者よ)」と釘をさした。「この国では質問することが礼儀なんだ。なんでもわからないことは尋ねること」聞いていないのにそんなことも言った、試験中なのに。「試験以外のことでもいいんですか?」「シー、クラーロ(もちろん)」
この国ではどの学校も、教室に「ミス ベネズエラ・コリア・モンゴル」の写真が飾られているという。今年はベネズエラ系の血が強い女が獲ったのか、南米系の美女だった。2の国は、女性の美を重んじる国のようだ。しかしその美の基準というのが、美醜の絶妙に混じり合った美、だというではないか。光と影の絶妙なハーモニー。たしかに優勝した女たちの顔には、整った顔の女は内面の醜さを光らせており、魔女のようなかぎ鼻の女には世にも美しい瞳がついていたりした。
男尊主義からではなく純粋に美を権力として持ち上げ、崇拝、信仰しているらしい。この国の首席は、男でも女でも〝美しい〟(何度も言うが美醜の美)容姿を持ったものから選ばれる。だからこの国でのミスコンは政治に近づくための大きな一歩でもある。優勝はしなくともその順位を経歴として扱うことが出来るのだ。
では、僕たちのテストはどのような基準で採点がされるのだろう。純粋に出来の良さだけではないのだろうか。テストを開始するまで写真は撮られなかったし、テストを解くのは暗闇の中だったから、問題を解く姿の美しさでもないようだけど…。でも、もしジョルジュ・ド・ラ・トゥーユの絵のような美しさを競わせたものだったら…?
(第19回 了)
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* 『コラージュの国』は毎月15日にアップされます。
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