鶴山裕司さんの文芸批評『東洋学ノススメ』シリーズの中から、『原点が存在する-『伊勢物語』論』をアップします。『東洋学のススメ』は古典だけでなく、現代作家、哲学者、写真家などを論じ、日本文化を多角的に検討する評論シリーズです。(文・石川良策)
by 鶴山裕司
三十歳の頃、転職のために面接試験を受けた。IT企業だった。幸い合格したが、文学出版の編集者だった僕の履歴が記憶に残ったようで、入社の打ち合わせのために会社を訪問した際に、「ひとりぼっちで無人島流されるとして、一冊本を持ってゆくとしたら、あなたはどんな本を選びますか?」と担当の方に聞かれた。深い意図はなく、四方山話のついでである。本好きの方だったのだ。
こういった話は学生の頃にしたような気もするが、IT企業でそんな質問をされるとは予想していなかった。ただこれからお世話になる方である。それなりに真面目に考え、うにゃむにゃと理屈をこねて何かの本をあげた。が、タイトルは忘れてしまった。答えるには答えたが、とりあえずの回答だったのだ。それ以来なんとなくこの質問が心に引っかかった。物書きである自分への、個人的な問いかけとしてである。
分厚い本を持ってゆくのは一つの選択肢だろう。『源氏物語』『失われた時を求めて』『特性のない男』『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』など、うんざりするほど長い物語はたくさんある。しかし読み終えてから、もう一回二回と読み返すだろうか。まず読まないと思う。畑を耕し魚釣りをして、食料確保を優先させるだろう。
では詩集はどうだろう。僕は詩人だから、詩の素晴らしさを人より少しだけ知っている。「お前の愛するものは残る/そのほかは滓だ」といった詩行がふっと頭に浮かんだりする。詩の垂直的な断言は悲しみであれ怒りであれ、混乱した僕の心を貫き慰めてくれる。ただ西脇順三郎や吉岡実、エズラ・パウンドやウイリアム・ブレイクの詩集を無人島に持っていって何度も読むかというと、やはり読まないだろう。小説より拾い読みする回数が増える程度だと思う。
一冊だけ持ってゆく本と言われれば、まず名著を思い浮かべてしまう。ただ何度も読み直して飽きない本となると、名著というだけでは足りない。感想を言いたくてもまわりに誰もいないのだ。また本の感想というものは、簡単に言えば自己と本の著者の思想の対立から生じる。大勢の人間に囲まれた社会に生きていれば読後感、つまり自他意識の対立は自己と他者を相対化して捉えるための有効な方法である。しかし無人島で強烈な他者意識が表現された本を読むと、かえって孤独が際立って狂い出しそうになるような気がする。
無人島にたった一人で一冊の本というのは、ある意味僕の人間としての尊厳を試す問いだと思う。太古の人類がしていたように僕は様々な道具を作るだろう。日々のささやかな楽しみも見出すに違いない。僕の最高の楽しみは書くことだから、頭の中で書き、そうしたければ木であれ石であれ、書ける土台に墨などを使って書くはずだ。ささやかでも〝創造〟を行っている限り僕は人間の尊厳を失わずにいられる。そういった僕に必要なのは決して自我意識と対立せず、むしろ自我意識を無限の想像界(創造界)へと誘ってくれるような本だ。つまり誰が書いたかわからない本がいい。
著者がはっきりしない本は古代に書かれた古典が多い。ただ僕は日本人で一神教徒でもないので『聖書』や『コーラン』は選ばない。『古事記』や『日本書紀』という神話史書、『万葉集』や『古今和歌集』といった詞華集もなにか違う。僕は厳しい現実とは違う生を、艶めかしく煌びやかで、それでいてうんと俗で具体的手触りを持つ別の生を希求するだろう。それは物語の形を取るはずだ。その一方で究極的な精神の救済である詩の絶唱を手放さないと思う。そういった創造の触媒になるような日本の古典はあるのだろうか。ある。『伊勢物語』である。
長いこと物書きをやっていると、楽しく読書することはほぼなくなる。読書は書くことを前提とした一種の仕事になる。ただここ数年楽しみのために『伊勢物語』の文庫本を持ち歩き、電車の中などで何度も読み返した。本文だけなら百ページに満たない薄い本だ。快楽のために読み耽ったが結局書いてしまうのだから物書きは因果なものだ。しかし何度も読むうちに確信したことがある。『伊勢物語』が日本文学の原点である。
むかし、男、うひかうぶりして、平城の京、春日の里にしるよしして、狩に往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男、かいまみてけり。おもほへず、古里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける。
春日野の若紫のすり衣
しのぶのみだれかぎり知られず
となむ、おいづきていひやりける。
ついでおもしろきことともや思ひけむ、
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに
みだれそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。むかし人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
(『伊勢物語』「初段」)
【現代語訳】
昔、男が元服し、奈良の都(平城京)、春日の里に所領があったので、狩りに出かけた。その里に、とても艶めかしい姉妹が住んでいた。この男、隙見した。意外なことに、鄙びた里には不釣り合いなほど美しい姉妹だったので、心が乱れてしまった。男は着ていた狩衣の裾を切り取って、歌を書き贈った。その男は、信夫摺りの狩衣を着ていた。
春日野の若紫で染めた衣の
信夫摺り模様のように私の心も千々に乱れるのです
というふうに、大人ぶって言い寄ったのだった。
これは鄙の美女を面白いことだと思ったのだろう、
陸奥の信夫もぢ摺り模様のように誰ゆえに
乱れはじめてしまった私の心だとお思いですか
という源融の歌を踏まえたのである。昔の人は、こんな激しい情をこめた雅を為した。
『伊勢物語』は「むかし、男」または「むかし」で始まる。全一二五段から構成され、短いものだと三行、長くても四〇〇字詰め原稿用紙二枚程度である。あらゆる古典と同様、『伊勢物語』初段には様々な情報が詰まっている。
まず主人公の「昔男」が生きたのは平安時代初期で、旧都平城京の春日の里に所領を持つ貴族である。男の出自や幼年時代は語られていない。元服(成人)し、美しい姉妹を隙見して歌を贈ったシーンから始まる。当時女性が男に姿を見られることは、縁(男女関係)を結ぶのを許したのとほぼ同義だった。男は着ていた狩衣の裾を切り取って歌を書いた。信夫摺り――もじり乱れた模様の狩衣だったので、それに引っかけて「貴女(方)を見て私の心は信夫摺りのように千々に乱れるのです」と言い寄った。姉妹いずれかを得ようとしたのだ。「若紫」は若い女性を指し、信夫摺りの原料となる紫草をも踏まえているので高度に技巧的な歌である。
ただ若き日の男は「おいづきて」、つまり背伸びしている。男が詠んだ歌は源融の本歌取りだった。融の歌がよく知られていた時代の話ということになる。また姉妹は男の所領に住む鄙の女たちである。領主の貴人に見初められた姉妹に選択肢はほとんどなかったと言える。まだ少年だった男は拒絶される可能性の低い女(たち)に言い寄ったのだった。『伊勢物語』は昔男の最初の色事から始まる。姉妹の若紫の初々しさは昔男のそれでもある。ただ筆者は男の行為を「かくいちはやきみやびをなむしける」――「こんな激しい情をこめた雅を為した」と誉め称えている。『伊勢』は昔男の〝色好み〟の一代記である。
この昔男は言うまでもなく在原業平である。正確には業平だと考えられてきた。父は平城天皇の第一皇子阿保親王で母は桓武天皇の皇女伊都内親王。男系の万世一系である天皇家では、順位は低いが皇位継承権を持つ貴人だ。しかし平城天皇はその名の通り平城京にこだわり、平安京に遷都した桓武天皇の意志を継ぐ弟の嵯峨天皇と争って敗れた。薬子の変である。これにより平城天皇と阿保親王は政権中枢から陥落した。嵯峨天皇の皇統を擁する藤原北家に権力が移ったこともあり、父の阿保親王は業平を含む息子たちを臣籍降下させた。「在原」姓を名乗る臣下にしたのである。皇族が多いと財政負担が増すので臣籍降下はしばしば行われてきた。政治的に微妙な立場の皇族の場合、子息らに累が及ぶのを防ぐ措置でもあった。
業平は在五中将とも呼ばれ、それゆえ『伊勢』は『在五中将日記(物語)』という別名を持つ。業平が在原氏の五男で最高官位が右近衛中将だったからだ。ただ中将は官位としてはそれほど高くない。業平は血筋は尊いが典型的な冷や飯食いの貴族だった。また『伊勢』は業平一人の著作ではない。業平晩年(八八〇年没)に原型が作られ、『古今和歌集』(九〇五年)が成立し『源氏物語』(一〇〇〇年頃)が書かれるまでの百年ほどの間に、複数の筆者の手で増補改訂されたと考えられている。西暦八五〇年から九五〇年くらいの間である。『源氏物語』ではすでに古典として語られている。
『伊勢』に後代の手が入っていることはすでに初段に明らかである。融は業平より三歳年下なので、元服したばかりの業平が融を本歌としたのはあり得ない。ともに『古今集』に採られた歌なので類歌を元に作られた話だろう。ただ後世の人が単に歴史に無知だったからだとは言えない。
融は嵯峨天皇皇子で嵯峨源氏融流初代である。業平と同じく臣籍降下したが仁明、文徳、清和、陽成、光孝、宇多六代の天皇に仕え、人臣としての最高位である左大臣にまで登りつめた。陽成天皇譲位の際には臣籍であるにも関わらず、「近々ノ皇胤ヲ尋ネラルレバ、融ラモ侍ルハ」と主張したと『大鏡』にある。帝位をうかがえる地位にいた人なのだ。『伊勢』「初段」の融と業平の長幼の逆転には左大臣と中将という身分差が投影されている。左大臣源融と比べれば中将業平はほとんどなにものでもない。
また融は政治家としての業績よりも、豪奢な六条河原院を営んだ風流人として知られる。陸奥国塩竃を模した庭園を造り、難波の海から汐水を運ばせて海の魚を泳がせ、塩焼を楽しんだのだという。いささか常軌を逸した風狂ぶりだった。融の死後、継嗣の昇が河原院を相続し、昇から宇多上皇に献上されて仙洞御所になった。ただ仙洞御所には融の幽霊が出るという噂があった。『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に上皇の前に融の幽霊が現れ、「自分の家なので住んでいますが、上皇がおいでになるので気詰まりです」と言ったとある。上皇が「昇から献上された私の御所だ。礼儀をわきまえよ」と一喝すると融の幽霊はかき消えたのだという。天皇家は至高で無謬なので当然の結末ではある。
ただこの伝承は融が左大臣職に満足する人でなかったという当時の人々の評価を反映している。実際融に政治の実権があったわけではなく、下位の右大臣藤原基経が握っていた。融の奇矯なまでの風狂は政治的鬱屈を晴らすためのものでもあったわけだ。融の現世的執着が幽鬼となって現れるほと強いものだったという噂は長く残り、それが室町初期になって世阿弥作の能楽『融』を生んでいる。また融の六条河原院は当時の文人たちが集うサロンだった。
このサロンに業平、それに兄の行平がいた。社会的官位は比べものにならないが、ともに藤原北家が支配する現世に不満を抱えた人たちである。官位の低い業平の方がより自由に行動し発言できたとも言える。当時の人々は融と在原家の精神的結びつきを理解しており、それも長く語り継がれた。『伊勢』「初段」の業平と融の歌の並列は偶然ではなく、二人の精神的紐帯を前提とした後代の創作である。
現代的視線で言えば『伊勢』がどのように成立していったのかは大きな問題である。実際『伊勢』の最古層はどれで、後代の人たちがどのように増補改訂していったのかというテキストクリティックが行われている。それにより『伊勢』の年代的構成はかなりの程度明らかになってもいる。しかし――これはすべての古典文学に言えることだが――学術的成果を重視し過ぎるとテキスト本来の膨らみが失われてしまう。
『伊勢』が千年以上にわたって創作者のインスピレーションの源であり続けた理由は、このテキストが人々の意識と無意識のはざまから生み出されたことにある。歌であれ随筆、物語であれ、それを成立させるのは人間の強い意志(思想)である。強固な意志がなければ抽象文字作品は読者に衝撃を与えられない。ただ『伊勢』は特殊な面を持っている。誰かが『原・伊勢』を書き始めたのは間違いない。しかしそれは百年弱の間に様々な人たちによって相対化され増殖していった。人間の強い自我意識が無私の抽象レベルにまで昇華されている。
むかし、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、京にはあらじ、東のかたに住むべき国求めに、とてゆきけり。(中略)
なほゆきて、武蔵の国と下総の国との中に、いとおひきなる河あり。それを角田河といふ。その河のほとりにむれゐて、「思ひやれば、かぎりなく、遠くもきにけるかな」と、わびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、しろき鳥の嘴と脚とあかき、鴫のおほきさなる、水のうへに遊びつつ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、
名にそおはばいざこと問はむ都鳥
わが思ふ人は在りやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。
(同「第九段」)
【現代語訳】
昔、男がいた。その男は、我が身を不要のものと思って、京都ではなく、東に住むべき国を求めようと、旅立っていった。(中略)
なお旅を続けると、武蔵と下総の国との間に、とても大きな川があった。それを隅田川といった。その川のほとりに皆で座って、「思えば、限りなく、遠くまできたものですね」と、寂しがっていると、渡し守が、「早く舟に乗れ。日が暮れてしまう」と言うので、乗って川を渡ろうとしたのだが、どの人ももの悲しく、京に残した人を思わぬはなかった。そんな折り、白い鳥で嘴と脚の赤い、鴫ほどの大きさのが、水の上に遊びながら魚を食べていた。京では見ない鳥で、誰も名を知らない。渡し守に問うと、「これが都鳥」だと言うのを聞いて、
その名の通りの鳥ならぜひ問うてみたいものだ都鳥よ
私の愛する人は都で無事に暮らしているのだろうか
と男が詠んだので、舟の中の人たちは皆涙した。
『伊勢』「第九段」は「業平東下り」として知られる。多くの文人に愛誦され尾形光琳を始めとする画家たちが絵に描いた。最も愛された画題の一つだった。江戸は政治の中枢だったが幕末に至るまで京と大坂が文化・経済の中心であり続けた。文化は基本的に西から東へと伝播したのだ。しかし松尾芭蕉や光琳のように江戸に新天地を求めざるを得ない西の人もいた。彼らにとって東下りは都落ちでもあった。業平東下りが愛された由縁である。ただ多くの文人墨客が業平東下りを愛した理由はそれだけではない。
それまでの段章から推測すれば、業平東下りの理由を具体的に説明できないことはない。ただ「第九段」だけを読めば「身を要なきものに思ひなして」という理由しか書かれていない。そして文人墨客が最も惹き付けられたは、言うまでもなくこの「身を要なきものに思ひなして=我が身を不要のものと思って」という短い言葉だった。
優れた芸術家たちは文化が豊かな社会の上澄みに過ぎないことを知っている。芸術家としての覚悟は「身を要なきものに思ひな」すことから始まると言ってよい。社会が安定していれば芸術家は思いがけぬ栄達をとげることができる。しかし乱れればそんなものは一瞬で吹き飛ぶ。だが衣食住が優先され生き延びることが最重要になったとしても、人間が人間である限り、ささやかな楽しみが、芸術が社会から失われることはない。そして芸術家はどんな状況でも強い信念をもって作品を作り、自己と他者の精神を少しだけ豊かにする。そのような芸術家の原点に「要なきもの」業平がいる。
業平没して二十年ほど後に編纂された歴史書『日本三代実録』(九〇一年)に、「業平 体貌閑麗、放縦にして拘はらず、ほぼ才学無し、よく倭歌を作る」という記述があるのはよく知られている。『三代実録』の編者には後に政敵となって鋭く対立する藤原時平、菅原道真がいるが、政権中枢にいた人々の業平評価が低かったことがわかる。当時官人として出世するには漢籍の知識が不可欠だったので、「ほぼ才学無し」は業平が漢学嫌いだったことを示している。俗な言葉で言えば「業平は美丈夫だったが自由奔放に振る舞い、学問(漢学)はほとんど無く、女を口説く和歌ばかりがうまかった」ということになる。
しかしこの政権中枢から疎まれ東国に都落ちしても和歌だけは詠み続けた昔男を人々は愛した。もう少し正確に言えば、社会的功利主義の埒外にいる芸術家として業平を造形していった。業平は至高の愛に触れることのできる貴人だった。
むかし、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗みいでて、いと暗きにきけり。芥川といふ川を率ていきければ、草のうへに置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。ゆくさきおほく、夜もふけにければ、鬼あるところとも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女おば奥におし入れて、男、弓、胡籙を負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。あなやといひけれど、神鳴るさわぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率てこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉か何ぞと人の問ひしとき
露とこたへて消えなましものを
これは二條の后の、いとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下臈にて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて后のただにおはしける時とや。
(同「第六段」)
【現代語訳】
昔、男がいた。手の届かない女を、何年もの間求婚し続けたが、ようやく盗み出して、とても暗い所まで来た。芥川という川に沿って行くと、草の上に置いた露を、女が「あれはなに」と男に問うた。行き先は遠く、夜も更けたので、鬼の棲む所とも知らず、雷さえ激しく鳴り、雨もしどどに降ってきたので、あばらやの蔵に、女を奥の方に押し入れて、男は、弓、胡籙を背負って、戸口に立った。もう夜が明けるだろうと思いつついたところ、鬼が女を一口に食ってしまった。あっと言ったのだが、雷が鳴る音で男には聞こえなかった。ようやく夜が明けるので、見ると、連れてきた女がいない。地団駄を踏んで泣いたがもはやどうにもならない。
白玉かあれはなにと女が問うたとき
露と答えて自分も消えてしまえばよかったものを
これは二條の后(清和天皇后)の高子が、いとこの女御の元に、宮仕えする格好でいらしたのを、姿形がすばらしく美しかったので、業平が盗んで背負って出たのを、ご兄弟の堀河の大臣・藤原基経、長男国経の大納言が、まだ身分が低く宮中に参内なさる途中で、ひどく泣く人があるのを聞きつけて、留めてお取り返しになったのである。それをこのように鬼の仕業と言うのだ。まだとても若く后が普通の身分でいらした時のことであるとか。
「第六段」は恐らく現実に生じ、人々の噂になった業平と藤原高子の恋愛を下敷きに作られた話である。高子は藤原冬嗣の長男長良の娘。清和天皇の女御となり陽成天皇を生んで皇太后となった。『源氏物語』にその機微が描かれているように、当時の男の権力者にとって女の子は〝掌中の珠〟だった。天皇家を至高とする平安貴族社会では男の身分は出自によって自ずから決まってしまう。しかし女の子は違った。天皇の女御となり男の子を産めば国母となることができた。それにより父や兄弟は人臣としての栄達を遂げたのである。
業平は高子を、つまりは祖父平城天皇と父阿保親王を権力中枢から追いやった藤原北家の掌中の珠を盗んだ。しかも現世的権勢によってではなく、和歌によって姫の心を盗んだのだった。だから「女のえ得まじかりけるを」には手の届かない女という意味だけでなく、手を出してはいけない女という含みがある。
もちろん業平が高子を背負って盗み出した――駆け落ちしたというのはいくらなんでもあり得ない。「白玉か何ぞと人の問ひしとき」の歌も業平作ではない。またこの話は在原家と藤原北家の確執を背景にしているがそれがテーマではない。現実政治は業平と高子の愛を抑圧し、いやがおうでも高める装置としてある。高子は草の露すら目にしたことのない深窓の令嬢である。業平は許されざる恋であるゆえ、男の性急で暴力的な行動力で姫を屋敷から連れ出し夜道を走った。姫をあばらやの蔵の奥に隠し武装して戸口に立ったのである。愛のためにたった一人で世界と戦おうとしたのだ。しかし人智を超えた魑魅魍魎の鬼が姫を食ってしまった。
この話を読む者は和歌の後に置かれた「これは二條の后の」以降の文章に違和を感じるだろう。鬼に食われたという怪異の謎解きが為されているからである。現実には高子は藤原基経・国経兄弟によって取り返されたのであり、まんまと業平に姫を盗まれたスキャンダルを覆い隠す隠すためにそれを鬼の仕業だと言ったのだと説明されている。このセンテンスは現代では本文が成立した後に、後の人が付け加えた「後人注」(「勘物」とも言う)だと考えられている。業平と高子が相思相愛なら姫が「いみじう泣く」のはおかしいのだが、基経・国経側からすれば、姫が不安と恐怖で泣いていなければ取り戻す大義が立たない。本文と後人注の筆者が違う傍証である。
ただ本居宣長らの幕末国学者の考証が始まるまで、『伊勢』がその成立過程にまで遡って論じられたことはなかった。読者はいわゆる本文と後人注を一体のものとして読んでいたのだった。しかし特に第六段の断絶はわかりやすい。同一筆者による謎解きか、違う筆者の後人注かは別として、読者は物語が異なる審級に移行したことを感受したはずである。簡単に言えばそれは〝神話から現実世界への移行〟である。そしてこのような断絶が、後の創作者にとっては最も重要なインスピレーションの一つになった。
わたしたちは鎌倉時代くらいまでを日本の古代と捉えがちである。民族学的に言えば確かにそうだろう。柳田国男が指摘したように庶民の生活実態を探れるのは室町時代が下限である。鎌倉以前の庶民は粗末な道具しか使っておらず、残っているのは貴人の道具や寺社に納められた品物ばかりだ。しかし言語作品は異なる。『古事記』(七一二年)と『日本書紀』(七二〇年)の史書によって神話世界は言語化された。『万葉集』(七五九年頃)は人間世界の諸相を描いた最初の詞華集である。これら最古の書と比べれば『古今和歌集』(九〇五年)は理知の書だ。古代的神話性はすでに失われている。
正岡子規は『再び歌よみに与ふる書』で「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれありそうろう。(中略)古今集という書を取りて第一枚を開くと直に「(年の内に春はきにけりひととせを)去年とやいはん今年とやいはん」(在原元方、業平の孫にあたる)という歌が出て来る実に呆れ返った無趣味の歌にこれありそうろう」と紀貫之と『古今集』を激しく批判した。
『古今集』は最初の勅撰和歌集で可能な限り歌の作者を特定し、初めて春夏秋冬や恋歌、雑歌の部立てを設けた詞華集である。『古今集』が特定した和歌と歌人がその後の勅撰集の基礎となり、その部立てが和歌はもちろん俳句の基盤になったのは言うまでもない。貫之らの撰者によって世界が分節整理されたからこそ『古今集』は後代に大きな影響を与えた。しかし元方の「去年とやいはん今年とやいはん」の歌は理詰めだ。子規は神話性を失った理知主義の嚆矢として、そのような歌を撰んだ貫之と『古今集』を批判したのだった。
しかし『古今集』に先立ついわゆる六歌仙時代は様子が異なる。六歌仙もまた『古今集』「序」(「仮名序」「真名序」)で整理・定義された概念であり、『万葉』時代から『古今集』編纂までの間に現れた優れた歌人たちを指す。業平や小野小町がその代表だ。彼らは「いにしへのことをも、うたの心をもしれる人」と『古今集』序にある。神話時代と理知主義時代の中間に登場した歌人たちということだ。実際業平や小町の人生の詳細はわかっていない。歌人として名高いが業平は四十首ほど、小町は二十首弱しか確実な作品が残っていないのである。和歌の質の高さと伝記的事実の不足が様々な業平・小町伝説を生んでいる。
神話が神話であるためには大勢の人々の意識と無意識が積み重なるように紡がれ、気付いた時には〝すでにそこに動かしようもなくある〟形で顕現していなければならない。口伝えで伝承された神話を文字にまとめた編者の名前はわかっていても、神話自体は無署名でなければならないのだ。『伊勢』は日本古典文学最後の神話的書物である。また『伊勢』は実在した業平とその和歌に基づいて作られた物語だという意味で、小説文学の祖型でもある。
小説という概念は明治維新以降のものだが、その本質は古代から変わっていない。小説は基本的に現世の苦悩と矛盾を描く芸術である。ただ論理でも倫理でも決して解消できない現実問題をぐるぐると巡っているだけでは不十分だ。何らかの形で現世を超える高次審級に作品を引き上げなければならない。あるいは観念から現実世界への飛躍が必要である。それは時代が下り現代に近づくにつれて難しくなる。しかし優れた小説には観念と現実世界との往還が必須だ。『伊勢』ではそれが、ほとんど露骨な形で起こっている。
昔男は鬼の棲む神話世界に生きている。しかしこの神話世界は残酷で無味乾燥な現実世界と地続きだ。神話が現実世界、つまり小説へと変貌している。『伊勢』のテキストが持っている膨らみをそのまま受け取ればそうなる。この構造はほとんど神話中の人物であるかのように美しく聡明な貴公子が、じょじょに人間臭く愚かで矛盾に満ちた現実世界に下りてくる『源氏物語』に正確に受け継がれている。
鶴山裕司(後編に続く)
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* 『原点が存在する-『伊勢物語』論』(後編)は7月末に掲載されます。
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