最近になってちょこちょこ能舞台を見ている。人によって違うだろうが、僕は年を取るにつれて日本の伝統芸能、伝統芸術が気になって来るタイプのようだ。始めは短歌・俳句への興味だったのだが、それがじょじょに能楽にまで広がり始めている。といっても本当にド素人の初心者である。でもまあ玄人には玄人にしか感じ取れない機微があり、初心者には初心者しか気づかない事柄があるかもしれない。あんまり怖がっていてもしょうがない。十年後にはもうちょっとまともな事を書けるのを祈念して、最初の一歩を踏み出してみよう。
先日野村万作先生主催の狂言単独舞台を観た。能の合間に狂言は上演されるので、もちろん狂言鑑賞は初めてではない。ただ狂言だけの舞台を観たことはなかった。これが面白かった。というか、ちょっとショックだった。能の合間に狂言が上演される時には気づかなかったが、狂言はこんなに簡素だったのかと改めて思った。もちろん当日の演目の性格も関係しているだろう。しかし狂言単独公演を観て能と狂言の違い、両者の有機的な関係がなんとなく腑に落ちたように思った。
能の中でも夢幻能には幽鬼が出てくる。現世での無念や晴れることのない怨念をかきくどくように語る。最後にお坊さんが念仏を唱え、成仏するのが一連の流れである。ただ幽鬼は全然成仏していない。比喩的な言い方になってしまうが、能舞台が始まると再び怨念を抱えた元の幽鬼に戻り、飽くことなく無念を語るのである。無間地獄のような苦しみが繰り返されるわけだ。成仏などかりそめの結末に過ぎないと誰もが感じる。
僕はこの夢幻能の構造を、なんとなく禅の精神(思想)で説明できるのではないかと考えていた。禅は鎌倉時代に本格的に流入し、室町になるとそれまでの密教に代わって日本人の精神基盤になってゆく。平安時代の仏教譚を読んだり仏画などを見たりすればわかるように、密教全盛時代の人々は、濃厚な夢想空間の中で釈迦の来迎などをまざまざと目にしていた(もちろん共同幻想ですが)。それが平家時代から変わってくる。ほんの少し前まで栄華を極めていた公達たちの無残な最後は、ありのままの現実を裸眼で見つめるような禅の、無の精神を人々に植え付ける大きな契機になった。
能楽は平家滅亡から二百年以上あと、『平家物語』が成立してから百年近くあとになって成立した芸術である。鎌倉期の禅の隆盛を経ているわけだから、当然影響を受けている。実際世阿弥の娘婿・金春禅竹が、禅に造詣が深かったことはよく知られている。僕は幽鬼が本質的に成仏していないという能の構造は、現世の無常を見つめる禅的な思想がバックボーンになっているのではないかと考えたのだった。浄土など幻ということだ。
しかしそう単純ではないようだ。能は密教的だと言わざるを得ない。祝祭的な謡や囃子、華麗な衣装と優雅な舞は、肉感的なほど生々しい夢想空間を現出させている。確かに〝夢幻〟能なのだ。もちろん底流には禅的無常観がある。だがそれは〝舞台芸術〟という面では比重が小さい。能は〝舞う〟という言い方をする。まったくお恥ずかしい話だが、やっとそれが腑に落ちた。ストーリー展開は大事だが骨組みに過ぎない。能では言葉以上に舞を中心とした謡や囃子の方が重要である。
能が終わると狂言が始まる。たいてい面をつけず、役者が「これはこの辺りに住まひ致す者でござる」と名乗りをあげる。装束も簡素である。しかし能の合間に、つまり間狂言として上演される狂言を見ていると狂言はとても華やかだ。能の茫漠とした舞台空間から、一気に現世に引き戻されたような心地がする。パッと地に足が着いたような心地よさと晴れやかさがある。内容も単純で言葉も比較的聞き取りやすい。ただ能と狂言の華やかさは質が違う。
能の祝祭的なまでの華やかさに比べれば、狂言は言ってみればずっと地味だ。しかし狂言に華を感じるのは、登場人物たちの心が派手だからである。その心の派手を際立たせるために、謡や囃子が最小限度に切り詰められているのではないかと思う。能が視覚的な華の芸術であるとすれば、狂言は心を泡立たせる言葉の芸術ではないか。もちろんそれは能と同様に美しい所作の能役者の力によるわけだが、言葉によって観る人の心の中に華が生じていくようだ。
能と狂言が組み合わされて上演され続けて来たのには、もちろん理由がある。ストーリーから言えば能の物語は貧しい。たいていは似たような怨念物語だ。結末もほとんど同じである。それに比べると狂言の物語展開は豊穣だ。狡い、賢い、愚かな者が次々に登場して来る。途中でキャラクターを交換してしまう曲もある。人間の心変わりの素早さ、あっけなさが遺憾なく表現されている。能は物語としては貧しいが舞は華麗であり、狂言は視覚的には地味だが舞台で繰り広げられる人の心は、物語はとても華やかなのだ。
狂言には太郎冠者が頻繁に登場する。太郎冠者が登場しただけで一つの世界が舞台上に生まれる。この人が現世に混乱と笑いをもたらすことを観客は皆知っている。一つの世界観を背負った人物なのだ。その世界観は現世の儚さ、人の心の移り変わりの儚さを、意表を突く機知で力強く表現する。あまりにもあっからかんとしてあからさまなので、観る者はそこに無常に通じる儚さがあることに気が付かない。しかし太郎冠者の道化ぶりは、能の幽鬼が抱える無常観とどこかで通じている。凸と凹のように、観る者の中でそれが無意識的に合体するのだと思う。
考えてみれば能楽が成立したのは室町前期の南北朝時代である。『平家物語』と比較すると『太平記』は驚くほど散文的なので禅の思想の影響が強いように思っていたが、南北朝時代の精神はどうやら違うようだ。奇妙な言い方になるが無常の華が色鮮やかに咲いている。能と狂言はその表裏のようなものだ。この二つは舞台芸術としてはもちろん、文学者にとってもインスピレーションの宝庫だと思う。『牛盗人』で万作先生演じるコワモテの藤吾三郎が突然ワッと泣くのを観て、ああなるほどそういうことか、と思ったのだった。
鶴山裕司
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