写真はジャック・ハルペンさん、三浦教授と、教授のウーロン缶コレクション(千差万別日本製のウーロン缶、圧巻!)の前でのセルフィーです。
スズメヶ丘*のすべらない大会は予定通り午後3時すぎ、教授の地下室で始まった。通常の”広い家”の3倍はあるのではないだろうか。周囲はのどかな住宅街である。教授はミミズとともに暮らしているようだ。(一番スペースのとらない生き物ではないだろうか。)
玄関に入って正面の螺旋階段を下り、部屋には電気屋のディスプレイにしか置かれていないような超・大型テレビが二つ、大量のDVDの詰まったボックスが約8つ。(のち、春遍さんが漁っていらっしゃった。)、そして私が夜10時までその正体が掴めず、おぞましく感じていた大型ミミズに適した極度に平たく、横に長い小型水槽が…約100つ。壁に沿って並べられている。中に可視できる生き物が入っているわけではないが、しかし教授(私の隣席を取っていらした。)の目を盗み、中に入っている冷凍パックのようなものを観察してみると、確かに”ペット……”というような記述がある。これが何か気になる方は、最後までぜひ読んでくださればと思う。
スズメが丘駅から鳥の大群のように移動してきた一行が各席に配置されたのは3時半すぎ、一人の来客の方が食べ物を用意してくださり、中心には焼きそばやサンドイッチ、アンチョビのせクラッカーなどの軽食から乾燥マンゴー、大量のあられが並ぶ。
出席者の席は、三浦先生の座長席から時計回りに石丸さん、篠原さん、大澤さん、Aさん、井上さん、熊谷さん、新山さん、中村さん、岩下さん、蛭川さん、Qさん、春遍さん、小原さん、私(青山)の15名、春遍雀来(ハルペン・ジャック 正式には『来』は旧字体を使う)さんが中途参加されたため、同時在室は最大で14名。
この開始時14名のうち、すべらない話を知らない人が6名。三浦先生はラベンダー色の髪の穂を揺らされながら、それを見てニヤリとされた。
地下室とはどんなところ(ラテン帰りの私にはワインセラーしか思い浮かばなかった…)と思っていたが、ともかくは日本一般家庭風の温かい(しかしどうにも一般的規模ではない)居間で一安心、ピクニック風の敷物が大きく三枚(これで部屋の広さを推し量っていただきたい)広げられ、次々と軽食・スナックが並べられていくのであった。
イントロダクションとして三浦先生の軽いお話。飼い猫が死に、49日経っていないので喪に服しているご友人が今日来られなかったお話。
しかしこういうものは回っていくほど面白くなっていくもので、遠心力同様、ぐるんぐるん振り回される話題はたいてい後半に出るとのこと。
(遠慮なしに)イシマルーの石丸さんから回ることとなった。すべらない大会の司会(を回すのは)は三浦教授。彼は日本の音楽業界を憂いてか、下を向いてうつむいていた。「僕でいいのかなあ…」(石丸さん)「彼でいいのかなあ…。一番すべりそうな人だなあ…。まあ、いいや。」(三浦教授)と会は幕を開けた。
「何回か回る覚悟でお願いします」三浦先生が付け足す…。
期待しないで聞いてほしい話。「あ、僕からもう一例。」と三浦教授。
東京大学で論理学者であられる三浦教授は最近(おそらく)この豪邸の片隅で爪を切っていて、電話が鳴った。取っていつもの通り議論に花を咲かせていたら、流血してしまった。顔に傷までつけてしまった。爪切りの電話は要注意。
「こんなような話で。」出席者聞き入る…。
ーーここからは一周目の各出席者のすべらない、もしくはすべってもいい話を紹介します。ーー
石丸さんは40年のキャリアある音楽家。アイルランドで同性結婚をされながら長い間活動されており、最近ではそのご活動がドキュメンタリーにもなっているようだ。: “Yximalloo”(2014) (彼はアイルランドにはトラウマがあり、もう帰りたくはないらしい…)と日本でn回目のご肺炎をご経験された石丸ーさんの話。
63から見れば、現代は退化の一方である。10年間全くと言っていいほどいい音楽が出ていない。90年代はまだ良かった。60年代が一番良かった。とてもいい芸術が生れていた。ウオウだかサオウだか知らないけれど、それを使わなくなったんじゃないか。2000年代は大ダメだ。一本の精子からみな競争を勝ち抜いてここまできた。一本の精子から生き残り…今日まで生を受けているのに、なぜ発展性がないのだろう。なぜだ。なぜなのだろう。本当に、なぜなんだろう………。なぜだ。
次は○○で編集者をやっておられる○○さん。オカルト担当。
父が5年くらい前に亡くなった。仏壇のお供えものをするのに何がいいかという話になったのだが、父のかわいがっていた飼い猫の好きだったカレーでもそなえようとすると、母が「だめ!おなかに悪いものはだめ。お父さん胃ガンだったから!」と言った。
その時○○さんは思ったそうだ。
死んでからも肉体に束縛されるのか…
「それは確率と実感の問題だね」と三浦先生。
始まりから大変難しいお話をされ、テンパった私はメモを取り忘れたのでした。
次は△△で編集者をしておられる△△さん。
編集長が完全にあっちがわの人間で…と口を開く。
彼の上司、編集長はある日窓の外にUFOを見、手がパスモになってしまった。改札に手をかざすだけで通り抜けられてしまう。本当の話だという。それで実際に見に行ってみたら、確かに本当にその時は通れていた。いわく、チップを宇宙人に埋め込まれたという。
真っ白いうんちが出た、という。
人体実験をされている、という。
ついに2、3週間前、手がパスモになってしまった。
三浦先生「(手をかざしてパスモにして)やりたくなると思ってというのが、もうやられてるんじゃないか。」
お次は某地方大学のA先生。
いわく、「首の皮一枚になった経験がある」。
30代半ばでついに就職が決まったが、それまでは今の時代大学の職を得ることは容易ではなかった。今まで何も言わなかった親までもがぶつぶつ呟くようになった。そんな時、ネットでB大学の求人を見つける。「これは自分の取るべきポストだ!(平静を装い当時の興奮をお話されるA先生)」と直感した。応募した。面接へ向かった。
面接後、もう後がないと思ってたら、とんでもないことが起こった。
血が出た。
(2、3日。)
二周目のお話をここに混ぜると、
A先生は数年前ハンガリーの女性と日本旅行を堪能されたそうである。メッセージでやり取りし、共に旅行し、そして…
「これ、危ないやつよ」と女性探偵であられる井上さんのつっこみが入る。
その女性の画像を私(レポーター)は見てないが、周囲から歓声が上がり、会の本来の目的の意思確認を出席者の男性陣は期待していたことだろう。
「それはニューカム問題」(三浦先生のつっこみが入る。)日常のささいなことが哲学の大きな問題になるそうだ。「面接後のストレス性の出血も、それ。」だそう。
井上さん。女性だけの便利屋さんの会社をしていた。普段は女性探偵としても働いている。(二周目にはものすごい話を聞いたが、それは読者を焦らせてふふふとするため伏せておく。お楽しみ会なので、お楽しみは参加者の権利であろう…。これを後で見てその場に居合わせた方が思い出してくださったら、いい。文字数により全てを晒せず残念だ。)
私は実はこの女性とお話できることをすべらない大会に出席する前から楽しみにしていた。篠原さんからのお話の流れに続き、井上さんの元には”宇宙人に狙われているから警備をしてくれ”、という依頼もよく来るらしい。
社員が交代で部屋に駐在し文字通り警備をする。部屋の中だけでなく、車も狙われている、という。何も見えないものと戦っているふりを一生懸命しながら、長時間車の周りをパトロール。
警備していると、警備をしている方が警官に怪しまれる。最後には「今日もまた車のチェック?」と必ず地域の警察と顔なじみになる。それもまた愉快。
大丈夫だよ、って依頼者に言う。彼女たちの不安を消してあげることが仕事でもあるのだ。
おそるおそる「龍を見たことありますか?」と依頼者は女社長に尋ねる。
「や、私はまだないですねー」井上さんは答える。
この、宇宙人いなかったよ、ってとこまで説得するのがこの仕事の肝である。そのために様々な工夫をする。女の人はまだいいが時々、三浦先生みたいな頭のいい男性客がくる。この場合は言わずもがな厄介な受注である。
そのほか、電話相談だけで100万使う客。探偵事務所に対し、入れ替わりが激しいのでそれではモーニング娘。じゃないんじゃないのか、という電話相談。
「腐るほどお金があって、自分で働いてない人が多い。」と言う。
「選択シが増えるほど不幸になる」と三浦先生。
『絶対に出なくていい鈴木さん』という客があり、ほぼ日課のようにしてかけてくるので、ついには彼女のお金が心配になり、切らせる工夫をするようになった。
「あと3秒でお金がかかるよ」カウントダウンを始める。
「ア!今の話ね、ピンときた。カウントダウンがポイントなんだ。」と『偏態パズル(https://gold-fish-press.com/archives/46301)』の作者。
「カウントダウンのCD持ってる。『カンスト』。上(上階)にある。エロトランスだが、5、4、3とかいって寸止めする。
寸止めでいじめられるから、ついにきたなと思って切る。」
終わり。
お隣、黒いショールを身にまとい「素敵なお声ねぇ」と小原眞紀子さんに言わせしめた、ドイツの黒い森のような、男性のようなお声の熊谷さん。全身黒いご衣装に包まれ、男性陣を視覚聴覚セットで惹きつけられながらお話を始める。ゆったりと、夜の波が押して引くように話される…(そしてこの間、この声にか私は油断してアンチョビクラッカーにはまってしまい、メモを取り忘れてしまった。)
いわば、彼女は井上さんの探偵事務所で働かれていたことがあるのだが、声があまりにも素敵なので、彼女に変われ、という客がいる。何度も何度も、毎日電話をかけてくるのに、一向に事務所に出向いてこない客に、彼女を出したらすぐに現れたそうである。半年間、一年間、四年間現れなかったのに。声の魅力、おそるべし!
秋田大学で精神科医をしていらっしゃる新山さん。
今回は下ネタと聞いてはるばる秋田からきたのです、と新山さん。(これを最後まで繰り返されていらっしゃった!)とてもキャラのおありになられる先生だが、肌は雪のように白く(定番の言い方です。)、お姿は東北の民話の挿絵になっていそうな…(と想像させてしまうほど)広く高く大きくいらっしゃる。お隣の小原さんに「私たち九州の人間とは違う(ほど色が白い)」(父方が九州に縁があります。)と一緒にされてしまう始末。
三浦先生は当初すべらない<下ネタ>大会というものを企画されていたそうで、それに合わせて吟味を重ねた上、適切なメンバーを集められていたよう。中では彼はその筆頭で、優勝候補であったそう。
「残念だなぁ。。。」
パラフィリアというのは異常性欲、というお話を始められる。
イタチとかイタコの相談があるという話。(私はこの数日前に青森のイタコを扱った海外の映像作品を見ていて、とても興味深く聞いていました。が、メモを取りわすれてしまいよく思い出せません!)
病院の外来がどうしてあんなにも長く続くかという話。5分10分で終わらせてしまう患者に対して、2時間ほどかかる厄介な患者がおり、そしてその患者というのがだいたい同じタイプの用件で来院されるそうだ。
「自分を精神的に苦しめた上司に対して診断書を書いてほしい!」という依頼。うつ病だという診断書を書いてほしいのだそう。どうしても欲しい。それが本当ならともかく、その症状が見られない患者もいる。
「性同一性障害の方が、やっぱり違うので戻りたいということがある。」と三浦先生。
本当は自分は女じゃなかった。本当は自分は男じゃなかった。やっぱり女だった、やっぱり男だった。「医者はそれに答えなきゃいけないみたい。」
お次は風貌から、この出席者のうちのどなたが画家さんか分かる、品よく髪を後ろに流された中村先生。
「初めは性的なこと、っていうお題を、ということだったのですが」丁寧に話始められる。
「あんまり自分の性について話しても仕方ないので、ただのすべらない大会になり良かったです。でも少し性に関係するお話を。若い頃の話。」
18ほどの時、絵描きを目指して東京で浪人していた。今でもあるすいどーばた美術学院。
1年目入ったやつらは、上級生に連れられ、みんなで鹿島山ヒュッテへ旅行に行くことが例年の決まりだ。そこは東京芸大の登山用のヒュッテで、芸大の人が申請すれば何人でもいける。ちなみに僕は愛知県芸大に進んでいて、東京芸大に対してのコンプレックスが未だにあるのですが。(私(レポーター)は美大受験を多少経験しているので、県芸の難しさをよく理解しています。(多摩美・武蔵美よりかなり難易な印象。)初めての油絵科(のちに空間演出デザイン志望に変えたのですが)の授業に行ったところ、県芸院生が先生でした。奈良美智も県芸ですし…。予備校でまだ覚えているのは、電車に乗っている時もお祭りに行く時にもさぼらず目を養うために人々と光の関係、などを観察しろという……。デッサンでは練り消しの代わりに食パンを使っていたのも衝撃だった。)ヒュッテでは登山口で絵を書くのが慣例となっている。山小屋の周りにはトイレが一つしかない。女性もいる。さらには雑魚寝。大がしたくなっちゃう。救いはトイレが凍っていて臭くないこと。自分の大を見られたくない、と我慢する。それゆえ登山口のトイレではみんなする。
みんな座って、穴掘ってでもする。
素人だから穴掘りになれていない。(「素人は穴を掘ることを知らない」という意味だそう。穴を掘らないと、汚いことになる。それを避けるために前進しているうちに物陰からすっかり出てしまって衆人環視のもとに…という体験談が芸能人のトークにあったらしい。)
でも、する。
教授もこの時、穴を掘ったそうである。
そしたらなんと、目の前に女性が。
¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡女の子が!!!!!!!!!どうしよう!!!!!!!!!!!!!!
座った。なにも言えなかった。とにかくなあんにも言えなかった。じいっと息を殺してた。
こっちも出そうなんだけど音が出るから彼女が終わるまでの時間、…我慢。
ついにいなくなった。
教授も後に続いたそうだ。
夜のコンパの時、その子がいたけど喋れなかった。お互い沈黙。…
…三浦「それうらやましいなあ。」皆さんの相づちがかかる。「この人、うんこの専門家だから!」
女の子は穴掘ってた。やっぱ、したくない。
「私は偶然の、そういう経験がないから。」とまた三浦先生。
「スカトロジーが嫌い。大嫌い。」と画家の中村先生。三浦先生がそういう話すると毎回彼が嫌がるぐらいだそうである。
「そういう人のとこになんでそんな幸運が舞い込んでくるのか。」と教授。
岩下先生は国語学者。(心なしか私の高校時代の化学の先生に似ていらっしゃいます。上下、全身淡いセピア/p>
スカトロ(ではないけれど…中村先生、ごめんなさい!)に飛んだ後に幽霊話が続く。(これはWマサキさんが強烈なオカルト話を提供された流れです。)
ある時、ご研究か何かのご用事で、同僚と一緒に台湾のホテルに泊まった。
すると深夜にピン、ポンとなる。
聞きまちがいか、と思う。
ピン
ポン
ポン
ピ。
………
お二人で顔を見合わせた。
あとでネットで調べたところ、
そのホテルは心霊スポットだったそう。
専業主婦であられるQさんのお話。みなさんの食べ物を配分してくださっていました。Qさんが今日のプラートス全てを作ってきてくださったのでしょうか。特にアンチョビ乗せのクラッカーが好みでした。ありがとうございます!!!
1:彼女はある時期、カルト活動しかしていなかったそうである。
ある時、属していたワールドメイトがサイゾーを訴えた。
サイゾーの完全勝利だった。
目が覚めた。
その後、ワールドメイトに対しての抗議活動をした。
(サイゾーの記者様と共通のお知り合いがいるそう。)
ブログも立てて人気を頂いた。
2:最近の個人的なネタ。
センター試験を受けた。子供たちは大変だな、と痛切に感じた。
必要なのは社会科だけだったけど、全教科受けた。
現実には2回言ってくれる英語会話はない。これは現実ではない。
「これから生きていく為の方が大変だよ」と言ってあげたい。
これでめげたり、元気をなくしたりしないでほしいと思った。
三浦「私も学生時代、カルト教団に入ってた。(えええ!と周囲のざわめきと驚歎!)
『大山ねずの命神示教会』」
一同 えーーーーーーっ。
三浦「そうです。」
中村「俺は『真光文明教団』に入っていたんだけど…」
私はこの時、隣席の小原眞紀子さんに「なぜオウムには若い信者が多かったのか。まだ親・子供の問題、人生の苦労を味わわないうちから(事実、平成生まれの私&周囲は学生時代、宗教に入ろうなんて考え微塵もなかった!パーティが楽しい時期です。)、宗教にすがろうとしたのはなぜだったのか」と無知な質問をさせてもらいました。「だから父子愛を求めてよ」と私の編集長。
「教祖に対して全幅の信頼を委ねることで、父子愛を埋め合わせている。絶対的な父を求めているのよ。母子家庭や父親との距離があった若い子たちが多かったはず…。」と小原先生とその隣のQ様(は激しく頷かれ、)おっしゃっていた…。
蛭川さん。とてもお綺麗で品のある女性。(このような線の細いまとめ方をするファッションは日本ならではと思う私。実は駅からの道のくで少しお話をし、お互いに三浦教授のゼミ生だと思っていたのでした。)後で聞くと、今はジャズシンガーもされているそう。素敵!!!
もともとは文学研究をやろうと思ったけど、今は専業主婦をしている。
文学にはまったのが中学生の時。図書館に通っていた。文鳥を飼っていた。少し変わった子供で、放課後帰っても、文鳥の観察か、本を読むことにしか興味がなかった。
大学院では、芥川研究をしていた。
こんな考え方や自我のあり方があるのか、と衝撃を受け、大阪芸術大学で三浦先生が集中講義をされた際に受講されたことが今日この会にまで辿りつくきっかけとなった…
…ところで、わたしはユリゲラーに会いました。
と蛭川さん。
いうに、一度、直接ユリゲラー(スプーンを曲げる超能力師。一時期日本のバラエティ番組でも活躍。)と対面したことがあるそうだ。
ご主人と一緒に、英国心霊協会に入っていた。
好奇心から直接メール送ってみたら、返事が来た。
「遊びにきてもいいよ!」
彼はロンドン郊外の辺鄙な所に住んでいた。
車を出してくれるという青年二人と四人で家を出発した。
豪邸で、お庭に鳥居。
向こうの人はみなフレンドリーで、彼も例に漏れず。腕を広げて陽気に迎えてくれ、挨拶のハグや頬キスをして部屋に通されると、紅茶やお菓子が出てきた。
お話も落ち着いたころ、頼んでもいないのに、「一緒に写真を撮ろう」と言われる。
青年二人は何度も来ているようで、「あれが始まるよ」と言う。
ユリゲラーに呼ばれご夫婦でキッチンに入っていくと、彼は戸棚からスプーンを取り出した。
少し擦ったあと、テーブルに置く。
「じっと見ているように」
じっと見ていた。
触っている時は曲がらない。
目で確認できる速度では曲がらない。
しかし、確実に曲がった。目の前で曲がった。
曲がったのが分かるまで、数分かかった。
「映像で撮って早送りすると、確認できるはず」と本人は言う。
しかし映像を撮る余裕など与えられなかった。
こちらが言うまでもなく、スプーンにサインをしてプレゼントしてくれたので持って帰った。
今でも東京にある。…
カム、カムと言われて、台所に入ったのも束の間、不意打ちだったので、持っていったものを曲げてもらったら良かったね、と後で夫と話した。突然すぎて言える隙もなかった。
三浦「種明かしはもちろんなしね?」
「ユリゲラーをテレビで見てた世代、何人いる?」6名ほど。現在50歳以上の間で流行った。
まきこさん「やったよ!」
石丸さん「曲がったよ。使ってるうちに。」
小原さん「UFOの話かカルト集団の話かどっちがいい?」
文学金魚編集委員、大学の創作学科で教えられる小原眞紀子さんはある時期、家庭教師もやっておられた。単価の高い家にしか行かないようだ。
一風変わったお宅に当たることが多くなるとのこと。
「色んな家庭がありまして、確かに小説のネタになるようなお家が結構ありました。」と小原さん。
彼女の言うには、ネタになるようなお家は港区×フェラーリ×一人暮らし、そして世田谷区×ベントレー、田園調布×ベンツ×家庭持ちの組み合わせが多いそうだ。話し相手を求め、カウンセリング兼ねて母親が話しかけてくる。
入試直前。
お母さんが青ざめた顔で、息子の様子がおかしい、という。
もともと職の細い子、アイスクリームしか食べない。でも医者に禁じられている。
男の先生が中古のおもちゃをたくさん持っている。
ガタガタ震えて怯えている。
サレジオに入れたいから、と言う。
「それはオウム真理教だよ。」と小原さんは確信されていた。
絶対に、絶対に怪しい……と。
アイスクリーム食べちゃだめ、って確かに教えに書いてある。
贅沢でリッチで幸せな気分になるものは、教祖しか食べちゃだめ。上にあがったら一緒に楽しむこともあるかもしれないが。
女の先生になつく男の子、男の先生になつく男の子、両方いる。
お父さんも医者なのに、子供を助けようとしない。
宗教でも結局人間が作ったものでしょ?と逃げてる。
教祖を玄関のマットにして踏んで入ってみてください、って言えば?と言ったけど無駄だった…。
これが現実なのか、日常に潜んでいるとは、面白くも怖いお話。
辞書学者が到着。足を立ててスペイン人みたいな座り方。
(途中寝ちゃう。寝転がってる。)
(私、休憩しに上階へ)
(部屋へ戻ると、時計の8時ほどの位置へ潜り込んで、三浦教授の天体系の絵のついたDVDを漁っていた…)春遍雀来さんのお話。
春遍さんは若い頃敬虔なユダヤ教徒であり、アメリカ在住時にも神学校に通っていた。17歳の頃のことだが、宗教観が180度変わる出来事があった。この級友に出された問題「神は、自分が持ち上げられない石を作ることができるか?」(イエスでもノーでも、神は全能ではないことになってしまうそう。)を考えてから、信仰を無くすことになった。
これに対する定番の解決として「論理的に不可能なことができないからといって全能でないことにはならない。全能を否定するには、論理的に可能なことで、神にできないことを挙げなければならない」というのがあるらしい。
「でもなんで神は絶対的に論理に従わなければならないんですか。」と春遍さん。
「宗教哲学で手強いのは悪の存在。
なんでも知っててなんでも出来て、絶対的に善である。でもどうして飢えに苦しむ子供や、自然災害があるのか。なぜ善である神はそれを無くすことができないのか。それが強力な反論だった。
ダビはそれについて言っている。…(メモを取れませんでした。すみません。ご興味のある方は三浦先生にコンタクトを取っていただくか、授業に潜っていただければと思います…。
(のちに先生にお尋ねしたところ、「『全能』だけではなく『全知』『全善』を神の属性とすると、『悪の存在』は神の存在を否定する証拠になる。」という補足をいただきました。)
「神は志を与えた。
善と悪の選択を人間の意志にまかせた。
人間の自由意志を試すものだ。あった方がいい。
でも、どうして災害などがあるのか。」
(蛇足ですが、私は昨日ブニュエル監督の「ロビンソークルーソー」を見ましてこのような問答、モノローグがあったようななかったような。彼は谷で信仰を失くします。)
「自然災害はどうなるか。
(三浦補足:戦争や犯罪のような道徳的悪であれば人間の自由意思を試すという神の御心によって説明できるが、病気や災害のような自然悪は、無意味に人々を苦しめるだけであり、全知全能全善の神がいるとしたら不合理。)
道徳的な罪や悪に対しては、人間に意志を与えてる。
その話は僕を神から離れさせるきっかけになった。
17歳の時。」
「学術的に大きな問題があって、『Who is a Jew?』問題という。(春遍さんは”文化的にユダヤ人”だそうです)
ユダヤ人だと特典がある。イスラエルの国籍がとりやすかったり。
イスラエルにはロシアの移民が多く、国で1番多く使われている言語になるくらいだ。場所によってはロシア語しか通じない。」
三浦先生の、旅行に行った時の話。(エジプト、ルクソールへ…。何の目的でか気になる……。)
「鳩か鶏を選ぶときにみんな鶏を選んでた。(みなせっかくエジプトにいるんだから鳩を選ぶべき!)」
「日本の人は旅行の仕方を知らない」と春遍さん。
「せっかく鳩があるのに!」と三浦先生。
「僕は食べたよ。」と三浦先生。
「エジプト人は冗談が好き。」と春遍さん。
娘と息子が一緒にいたが、アラブ人に何匹のラクダと交換しますか?と言われた。
「僕はそんなことのある旅が好きだ。」
Aさん「ポーランドは論理学が盛ん。
通い詰めてた。
なぜポーランドで論理学が盛んなのか。
旧共産圏で、哲学がなかった。文系の学問だから。
論理学は一応理系なので、出来たらしい。
タルスキー ウカシェビッチ
ワルシャワ大学はうりにしてる。
とてもかっこいい。
一般人は誰こいつ!?という感じ。
政治状況があってこうなった、と感動。」
私はこの小話が好きでした。
三浦「1945年の東京大空襲とほぼ同時に敵国ポーランドのクラトウスキーの位相幾何学の本が翻訳出版されたのを知ってる。そのほかにも1942年シンガポール陥落の年に敵国イギリスのラッセルの『数理哲学序説』が翻訳出版されたりしていて、よくぞ当局が許可したなと思う。戦争中のイメージと全く違うからね」
春遍さん
「決まりに興味がある。
日本人のきまりの精神について。
神からふってくるわけじゃない。
十戒みたい。
決まりが優先。融通が聞かない。
日本のプールが嫌い。
この前もプールに行ったら、僕の足が線の上にのっかってた。ちょうど。
ビーーーーッと笛を鳴らされた。
なぜ決まりがあるのか。
果たして今の状況に適応するのか…」
13輪車に乗るジャックさん。(考案はもちろん本人)
ハルペンさんのご経歴や辞書プロジェクト、一輪車やケーナのことなどはこちら。(多分、見ないと損です。)→ www.kanji.org
2、1.5、0.5輪車をこれまでに作られたジャックさん。0輪を現在考案中とのこと。
ー春遍さん補足ー
実は春遍さんはただの一輪車愛好家でなく、日本で一輪車を普及させた張本人。(国際一輪車連盟 unicycling.org も立ち上げられた。日本一輪車協会からは、一輪車に乗ったことのない理事たちに『外人』だからという理由で追い出されてしまった…。1993年には「万里の長城一輪車マラソン大会」を開催。当時も現在もあるメーカーの一輪車を買うと春遍さんの「誰でも乗れる一輪車の本」が付いてくる。これは多分、うちにもあった。私は特に熟読していたと思う…。)で、私は当時(90年代に子供だった)春遍チルドレンの一人として、多くの子供達同様、小学校の昼休みには列に並び(低学年用6台、高学年用6台)、懸命に一輪車を練習していた。当時の憧れはテレビ東京のTVチャンピオンという番組内で行われていた一輪車版サスケのような大会で、あそこに挑戦することが目標だった。私が技(ジャンプや平均台上を通る、など。)を習得したころにはその番組は無くなっていて大変残念だった。
一輪車の味が忘れられなかった私は渡西後、大学に受かり一段落した時期にバルセロナで一輪車を探した。かの地ではもちろん一般的に普及しておらず、ラバル地区(初めての観光では行かない方がいい。)とゴシック地区の怪しい路地突き当たりのサーカス店を中心に探し回ったあげくにようやく見つけて購入したのはいいものの、品が古すぎて、何度交換してもらっても翌日には必ずパンクする。二店舗別々のお店でもそうだった。
ようやくパンクしないサーカス用の極端に輪の小さいものを注文してもらい、引き取った。当時ビラドマート通り(Carrer de Viladomat)とマジョルカ通り(Carrer de Mallorca)の交差地、ロカフォルト駅(Rocafort)から少し北に行った所に住んでおり、歩くよりも早いし、コンパクトなので道に止めておく必要がいらず、盗難の心配がないので(サドルだけでも持ち帰られてしまう。)グランビア通りを東へ、一直線に一輪車に乗って大学(Plaça de la universitatー『大学広場』駅)に通うことにした。グランビア大通り(Gran via de les corts catalanes)は、バルセロナに行ったことのある方はご存知だと思うが、歩道・自転車道が広く整備されており、一輪車に乗っていくにはとても快適。授業の帰りには、そのままモンジュイックの丘(Plaça d’Espanyaー『スペイン広場』駅にある。)まで行ったことも数え切れない。モンジュイックのカタルーニャ国立博物館(”国立”という所がポイント!)前には、街が一望できるカフェがあり、そこで私は本を読み始めたり、いつか何か書けたらいいなあ、という思いを膨らませていった。夢を見られるような気持ちの良い場所だから。
このようないきさつもあり、私は一輪車の父に直接お目にかかれたことに大変興奮した。それに春遍さんはスペイン語圏に住んだことがないのにスペイン語が話せ、少しスペイン語で会話をした。(春遍さんの言語チャートでは上から6番目。)
春遍雀来さんの言語チャート(英)
ここに春遍さんが喋られる言語がまとめられている。全部で15カ国語。上から得意な順に並べられている。http://www.kanji.org/kanji/jack/language/lanchart.htm 6番目のスペイン語で会話をしたが、とても流暢に喋られる。このチャート内のラディーノのという、スペイン語にヘブライ語、アラマイ語の要素が足されたという言語が個人的に気になる。話したい(笑)よくよく見ると、聞いたことのない言語が並ぶ。…Interlingua…Papiamento……
バルセロナ地図。(一輪車通学路)
中国で一輪車に乗るジャックさん。(この会では、空港でチェックインし空いた時間に椅子に荷物を置き一輪車で一周していたら財布とパスポートが盗まれてしまった話がありました。)
もう一つ、私はこのすべらない会の少し前まで、田澤耕先生の『<辞書屋>列伝』を読んでいた。(著者の田澤耕先生は、初めて日本語ーカタルーニャ語辞典を作られた方。バルセロナではよく新聞の記事になっていて、有名人。この方が新聞に載るたび、3人ほどの違う人から連絡が来ます。「ユリーコ!Tazawaという人物を知っているか?」この方の影響もあり、私はおばあさんになるまでに、カタルーニャ語で小説を書くことが人生の目標の一つなのです…。)ちなみに大学の授業は”スペイン語音韻論”のような授業でない限り全てカタルーニャ語(事務手続きも含め。)だが、スペイン語でレポートを提出したり、プレゼンしたりすることが可能。私は入学試験(Selectividadといいます。この合格資格があると何度でも国公立大学に入れる(おそらく一生使える?)魔法のカード(資格)です。)を全てスペイン語で受けたので、語彙力などから課題提出時にはスペイン語を使用していた。一度このFacultad de Filología(文献学部。英・西・カタルーニャ・仏・独・アラビア・ヘブライ語などの言語から一つ選び、関連する中世の文献、文学作品を学ぶ学部。私は英語を選び、シェイクスピアの『夏の夜の夢』などを読んでいました。この学部には例外的に英語の授業も多くあります。)で、カタルーニャ語でラテン語(必修)の授業を受けることになった。とても興味深い経験だったが、課題は全てラテン語の得意な中国系カタラン人のロンドンという女の子に手伝って(ほとんどやって)もらった!
ところでこの<辞書屋>の中に春遍さんが含まれていないことは大変不思議だが、この辞書の話題に関連して、どなたかから『諸橋轍次』という漢字の研究者、諸橋が編んだ『大漢和辞典』の話が出た。なんと1917年の諸橋の中国留学から企画は始まり、2000年に完結したらしい。(出典:Wikipedia笑 130年かかったとすべらない会の会話では記憶していますが、3月4日のことなので三浦先生の記憶力をお借りできない限りはよく思い出せません。)少しサグラダファミリアみたいだ。
現存するスペイン語辞典で最高の質だと評される『スペイン語用法辞典』(私の知り合いの間、専門家の間でも、スペイン王立アカデミー(RAE)公式のスペイン語辞書(DRAE)より評価が高い。)の編者であるマリア・モリネールは、一介の主婦だったけれど情熱で長年辞書を編み続けた人物。(『<辞書屋>列伝』の中には家族とこの苦難を共有したエピソードがある。夫が膨れた話も。春遍さんのホームページにも、『辞書を編む苦悩(と楽しさ)を共に分かち合った家族』としてご家族の紹介があった。)辞書編集当時、フランコ政権下、女性が働くのに公式に夫からの許可書を提出することが必要だった(!)という逸話が『<辞書屋>列伝』には載っている。
このような話の流れで、私の『チ』の発音が一般日本人とは違うという話になった。内にこもったような音、とのこと。単に外国暮らしの影響などではなく、私は今回の参加者の中で一番若く、これから変化していくだろうと言われている未来の日本語の『チ』の発音に近いということ。(面白い!)
最後に私も流れに沿って(といってもすでに半数の出席者はおらず)ゴースト系の話をした。
まず17歳の頃、交換留学プログラムでスペイン派遣を予定していたのだが、9月になってもビザが降りない。後で分かったことには、地中海特有のリズム感ゆえ直前まで受け入れ先の学校が決まっておらず焦ったプログラム職員が仮の存在しない学校で申請したそうだ。私の手元には9月半ば、ビザ却下のお手紙が大使館からやって来た。高校に一年留学し、そのまま現地の大学進学を目論んでいた私は、周りの大人の勧め(後から分かったことにはもちろん諦める方向へ持っていくため)でビザ却下の理由を占い師に見てもらうことになった。
まず一目見て(私の顔より大きな水晶が両脇に!)、留学に耐えられる子ではないという診断が神から降りる。「ビザが下りないということは、そういうことです…」日本文化で育ち、夏には肝試し、お正月にはおみくじを引いて育った私は、特別な信仰はないものの絶対的に目に見えぬ存在を否定していたわけではない。どこかで信じていた部分もあったかもしれない。それゆえ力強く(留学に耐えうるよう)見せるために、占い師の魔女様に会う前は身だしなみをトイレで整えたことを覚えている!
さらに嫌だったことには、一旦状況を落ち着かせるためにか同じ正規留学経験を持つ母親までもが彼女に同調し、私は精神的に耐えられないだろう。行ったら取り返しのつかないことになる、ということに賛同していたこと。自分を直接よく知っているはずの母親が、目の前の私よりも魔女側へ一瞬で翻ったショックは大きく、そのまま私は水面下で一人着々留学準備を進めることとなった。唯一寄り添って応援してくれた大人は、当時武蔵野美術大学の油絵科にいらした名前はご存知ないけれども、大きな岩を描く授業担当の先生だった。後期は毎日スタバに通いスペイン語を勉強していたのだが、呼び出され事情を話すと、大きく背中を押してくれ、今がある。
心の支えはその教授お一人だった私も、スペインに着いてからは周りの素晴らしい人々に出会い、他人までもがすれ違い様に愛情をくれ、それにこまめに返していくうちに立派な愛に変わり、土地との信頼関係が出来ていった。
しかしただ一つ、不穏な影が心をかすめることがあった。(あの水晶とともに……。)
それはあの占い師。スペインで私は何かひどい出来事、そう、事件や事故のようなこと(テロでも指していたのだろうか?)に遭遇するかもしれないということだ。一度も海外経験のない彼女の言うには、西洋は差別がひどいので私はまず精神的にじくじくとやられていくだろう…ということだったが…。その兆しは一先ずバルセロナではなさそうだ。しかし、いつかやってくるのだろうか…?慣れてきたころに?
当時バルセロナから約一時間のマレズマ地方でカタルーニャの家族の家に居候させてもらっていた。(高校時代の留学予定先のお家。)そこはトイレの5個ある(うちバス付きが3つ)、とても綺麗な地中海の望めるお家だったが、ある夜、家族が、今日はバルセロナまで出るので帰るのは夜中になるという。私は嫌だった。とても。というのもそこら中にどこかの蚤の市で買った陶器やらアフリカの銅像やらアンティークものがあり、石壁はひんやりと冷たく、4階まで吹き抜けの家はとにかく夜には広すぎた。こんな夜には、いつかあの占い師の言っていた何ものかがやってくるかもしれない…。といてもたってもいられず部屋から一歩も出ずに就寝した。
翌日、「昨日は何を食べた?」というので、「キッチンへは降りませんでした」と言うと、「それはいけない!」とすぐにボカディージョとカフェを用意してくれ、一体何が昨夜あったのか聞かせてくれ、という。その午後は日曜日でご近所の皆も集まっていた。
私は一連の出来事を全て話した。占い師に留学を反対され、未だに彼女の顔が浮かぶこと。日本では見えない存在が時には人間の意思を左右すること、など。彼らは、吹き抜け4階の家中いっぱいになるほどまでに大笑いした。みな、ワインが入っていたけれど、言葉を選べば、本当に下品に、下品に大笑いした。
「お化けって、どんなお化け?」と言う。一人が階段で演出して見せて「こんな風に手を大きく左右に振るお化け(フランコさながらの動作!)か?」と言う。「違う、こういうのだ」と私が二つのしなだれた手を胸の前に用意してみせると、「それは君みたいに可愛らしいお化けだ。問題にならない。」と言う。あまりも老若男女全員が笑い転げてくれた衝撃が大きく、私の中にはその日からお化けは一切いなくなりました。同時に見えないものへの恐れもなくなって最強になった気分だったので、これは留学して良かったことの一つだと自分では思っています。
余談ですが、これからそういう時にはここに相談するんだ、と後日、キャリアカウンセラーの名刺を貰ったのだった……。
会はこの後も明け方6時まで蛭川さん(JAZZシンガーでもあり、長らく文学研究をされていた方であり、とても麗しい女性。)、井上さん(女探偵であられるので、いざという時には技の準備はあったはず……!こちらも目の色のとても綺麗であられる女性でした。)という二人の女性と教授はすべらない会を続けていたよう。どんなすべらない、あるいはすべってもよいお話がでたのか。
私は終電に間に合うよう、夜10時に春遍雀来さんと失礼し、駅に向かったのだが、恐れていた通りに道に迷い、スズメが丘には謎の案内板(極めてオフィシャルなものに見える)が立てかけられており、駅は前方にあったはずなのに、右に曲がるように指示。迷ったあげく、「でもここには右と書いてあるし…」と私、「この標識は信じられると思う」と春遍さん。一旦はこの看板を信じ右に曲がった私たちだったが、すぐに勘のよい春遍さんが気付いてくださり、引き返して無事に駅まで着くことができた。標識の先は線路、線路に沿って歩くと行き止まり、そしてまた右へ、その後はまた元の標識の位置に戻るはずでした。何だったのでしょうか。
その途中、私は「あの道なんだったんでしょう」と言っていたら、春遍さんが私の言う意味を解せない様子。「いえ、あの道のことです」「さっきの道です」と言っても、さっぱりなご様子。しばらく経って、「ああ!ミチ」と春遍さん。どうやら、私のチの発音が未来人のもので、語音に敏感な彼の耳には『道』と認識されなかった模様。「私未来から来たのかもしれませんね」と冗談めくと、「本当に未来人かもしれない!!!」と大興奮の春遍さん。とても愉快な帰路だった。夜空には満月が浮かんでいた…。月までET のように一輪車で漕いでゆける気がした……。
実際駅までの道に少し迷い、池袋まで予定よりも長くかかり、家に帰られたのはほとんどメトロ終電だった。(「今帰りたい?それとも終電に間に合えばいい?」という教授の言葉に惑わされなくて、良かった!)
ちなみに私が今回の会、すべらない<オカルト>会となったもので一番怖かったのは、すれ違い様に三浦先生に伺った、高校時代に通い詰めていたカラオケの鏡張りのトイレ個室は、やはり盗撮だったかもしれないということ。ある本にもまとめられているようでした。(教授宅には通常カメラが仕掛けられているらしい…)駅近くで女子高生の溜まり場だったので、¡さもありなん!です。
すべらない<オカルト>会のMVSは、篠原正樹さんのお供え物のお話と、私の幽霊が地中海でふっとんだ話でした。
追加のMVSとして、中村先生のロッカーの中に彼女の等身大彫刻を隠していたお話を挙げられていました。
「ペット」(『ドライペット』の文字も三浦邸では”乾いた愛玩用生物”とよめなくもない。)とあった奇妙な(これも普通の形ではありませんでした。)水槽は、乾燥剤が入っていたらしい。(地下室は油断していると浸水がありうる。)私は帰るまでには完全に、ミミズより微小な生き物、(あくまでも愛玩・飼育用)微生物か何かだと思っていたのでした。
終わり。
*(初めの三文字、教授のプライバシーのため変えています。)
青山YURI子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■