〝よし、その売れていない、秘法を使った旅のプランに、僕たちが最初の顧客になってやろうじゃないか。僕は何でも初めてが好きなんだ。初めてを求めるとき、僕は誰よりもカッコよくなれる・・・〟この旅はわたしたちをどこに連れていってくれるのか。青山YURI子の新しい小説の旅、第二弾!
by 青山YURI子
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アルツールは5月、女の子と出会った。
アルツールの好みは、叫び声がきれいな子。町の広場で、サンデゥラー!とか、マルぅぅぅぅぅク!とか、友達の名前が呼ばれるのを聞くと、例外なく背中がぞくぞくしてくる。背骨の階段をコツコツと快感の駆け上る音を聞く。胸が高鳴り、彼はそれを掴んで宙へと投げたくなる。ヘンリー!とか、硬質な呼び方も、足首をひねりそうなほどぐらっとくるし、あいざっくぅ~なんて媚びたのもいい。
でも一番は、彼の名、アルツぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅルを楽しげな期待感を込めて、男の子みたいに太い振動を喉にかき鳴らし、呼んでもらえること。シャイザー!とか、シッ(Shit)というちょっと投げやりな叫びもいい。
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その日、僕が後を付けていると思ったその女の子は、そんな声がもっと僕を誘うとは知らずに、ワァ~~~~~~~~~~~~ッツ?!と30メートルほども先から僕の方を振り向いて叫んだ!僕は、せっかく彼女が忘れて行った地図帳を届けてあげようとしただけだった。彼女は、バーのメニュー立ての中に、一緒にこの薄い町の地図帳、しかし市販のもので幾らかは代価を支払ったものだ、を挟んだまま席を立ってしまった。地図にお金を払うセンスを持った女の顔を見てみたくなった。彼女がバーを出ていった後に先ほどまで大きく広げていたその地図を手に持って、彼女を追いかけた。
彼女は怒りの叫びをドッジボールのように僕に当てる目的で、僕を外野に追いやるために、強く飛ばしてきた。そのボールは、僕の胸を打った。
だから結局、彼女を追いかけた風になってしまった。ウェイイイイ(Wait)と大きく手を振りながら彼女の方へと向かっていき、観念した彼女が立ちすくんでいるその場所、半径1メートルの領域の境界線をちょうど右足で踏みながら、言葉を続けた。
「ヘイ!さっきバーの、太った男の後ろの席にいたよね?地図、忘れたよ」
地図のサンドされた、きれいに日焼けした右手を差し出した。もう左手では、彼女と握手する準備をしていた。
彼女は地図を渡されて、再び叫び声を上げた。G-O-S-H!センキュー。「キュー」の上にはにかんだ笑顔を畳んでのせながら、目に力を入れて少し上目使いになった。彼女の目は、僕の目の輪郭をなぞった。ヨシ!と僕は思った。僕の目の形はちょっと人に自慢できるものだった。角がなく、どこに始点を定めて輪郭を追っていっても、引かからずきれいに平たい楕円形をなぞることができる。目頭と目尻の細く急な周りを、ツール・ド・フランスの選手の曲がりを目で追う気持ち良さがあるのだ。彼女の目の玉も迂回して元の位置に戻った後、今度は僕の灰色の目玉と彼女の緑色の目玉がちょうど向かい合うように体を直した。僕は、顔の角度を少し下げて、灰色の目の盤が緑色の盤にちょうど平行になるようにした。このままお互いの目の距離を近づけて、目と目でキスをするのなら、眼球の頂点と頂点とが触れ合って、塵の山から出てきたサファイア、苔色の湖に浮かんだ月とが混じり合う。僕たちは、その二つの色の混ざった、透き通ったカリブ海のグリーンの水に浮いていた。
その時までには既に、お互いの恋は始まっていた。近くのカフェに入って、一時間後にはその夏を共に過ごすことを約束していた。「この夏は何するの?この夏は何するの?」「パパの別荘に学部の仲間と行くわ。でもあなたのためにもちろん、取りやめることが、今は可能よ。(ウインク)」静かに残りのコーヒーを胃に納め、彼女と僕のアパートに行った。旅行雑誌をソファ兼僕のベッドの上で眺め、彼女に初めてのキスをして、次の日旅行会社に行くことに決めた。
アンヘラはその日、レモン色のワンピースを着ていて、両側の髪を生え際からねじって後ろに止めていた。額の両端の上方には、退化した角の跡のように、なんとなく盛り上がった波があって、さらに上の方へと余った髪が打ち寄せていた。彼女は、柔らかく波打った栗色の毛をしている。
これで、夏の予定が埋まると思ったら、嬉しかった。友人のフェランは6年も付き合ってる子と、彼女の実家のあるアイルランドに行くらしいし、親友のエルミツイもずっと気に入っている上司の奥さんと地中海のフォルメンテーラ島に、彼女と彼女の5歳になる息子と行くみたいだ。その女を一度僕たちのパーティに連れてきたことがある。僕はまた今年も男たちだけでこの町で飲んだり、騒いだりしてはプールで泳ぐんだって思ってた。友人の連れてくる女の子は、誰一人好きになれなかった。みんな始めから、僕の寂しさを分かってて優しくする。日本人のスギウラだって、今年はスウェーデンの長身の女の子を連れている。僕は優しく、今年は一人身同士、一緒に青春のアメリカにでも行こうか、と誘ったのに、あいつ、迷惑そうな顔してゴメンと謝ってきた。ほんと、いまいましい奴め。俺が何かあいつを困らせることをしたかのように、ぐるりと頭を回して、言葉を選んで断ってきた。でもいい、やつは今ごろ彼女と北方で寒い思いをしているさ。
さっそく僕は、アンヘラと旅行代理店に入って行った。もう何度もネットでお世話になっているBC-Dreamsの支店だ。僕は飛行機の窓から見る濃い夜と月の色で作られたこの旅行会社のロゴが好きだった。ジャーマンウイングズだって何度乗ったことか。全部このサイトから俺のゴールドカードで購入したんだ。まさか落ちるとはね。その前月、バルセロナを経由してマジョルカに行ったんだ。スペインの客たちはさぞかし飛行機の中で祈祷の言葉を口にしただろう。ドイツ人のオペラ歌手もいたし、人ごとじゃないよな。僕の十違う姉もオペラ歌手で、リセウ劇場にここの旅客機で出張に行って、たんまり金をもらった上でさらに節約してたな。たった1時間半の飛行時間だものね!パスポートをホームステイ先に忘れて取りに戻った高校生のためには、町のあらゆる人が協力して空港まで送り届けたらしいから!彼は結局その一機にギリギリで乗り込むことになったんだ。飛行機中の人が間に合った少年に向けて拍手を送ったそうだ。そして3、2、1を数えて空へ。僕は身体中の細胞に追悼の意を宿し、今この―機のことを考える。天で彼らに祝福あれ。スペインのエル・ペリオディコ紙の「それでも僕たちは飛行機に乗る」と書かれたあるジャーナリストの見出しには心を打たれた。コメント欄にも乗り物に罪を着せない言葉が目立った。そう、『それでも僕たちは飛行機を信用し、航海に出なければならない』
僕はドイツに隣接した国のどれかの出身だが、あえてそれは明かさないことにしよう。で、僕はやっと同国の、アンヘラを見つけたんだ。でも、同じ国と言ったって、彼女の地方と僕の地方は昔は別々の国で、何度も戦ってきた歴史を持つ。1つの国は、何百年もの間に、離れてくっついて、人によって切り取られ、また貼り付けられて出来ている。1つの国の中には今だって、見えないいくつもの国が擬態を使った昆虫のように隠れて、息を潜ませているんだ。僕にはその息使い、嘆息、荒い過去の鼻息、注意を引きつけるよう指をパチパチ鳴らす音、隠された世界で奏でられる陽気な鼻歌が聞こえる。僕が北だとすれば彼女は南、南の中の南、の南の中、さらに南、その中ではちょっと南東の方の出身だった。国境近くで、彼女は隣接する国とパスポートに記される国と、二つの言語と文化から伸びてきた生だった。
「これが僕と彼女で行く初めての旅行なんですよ」はりきって、僕は尋ねた。「僕は彼女と、他の誰も経験したことのない、オリジナルな旅をしたいんです」アンヘラの視線は僕の頬に注がれている。「それには、とっておきのプランが私どもにはありますよ」抹茶色のシャツを来た男は言った。おーい、あれを持って来てくれ、と部下に指示を出す。
すると、部下とは名ばかりの、年増の女がカルトン紙のような硬い質の、かっちりとした女性用スーツを身に着けて現れた。手には聖書のような分厚い本を持っていた。分厚いのは手に持つ本だけでなく、彼女のカルボン酸たっぷりの肉だった。しかしこの彼女のスーツは、この肉の厚さによって、ぱつぱつになってはいなかった。はち切れんばかりの着衣を期待して、もう一度遠目から彼女の全体を眺める。しかし着用しているスーツは、その肉の微細な隆起やセルライトのくぼみの形までは明らかにしない。布地は厚く、硬く、しっかりとしていた。夏用の生地なのだが、布の間に型くずれを防ぐための厚紙が入れっぱなしになっているのじゃないかと思った。しかも厚紙の変わりに鉄板でも入っているんじゃないだろうか。それとも、少し余裕を持って新調してあるのか?とにもかくにも、彼女は肉厚であるのに-あるはずなのに、スーツはそれを完全に守っていた。まるでヤドカリのようだった。肉の詰まったヤドカリ、それに彼女の指は、ヤドカリの爪ほどにほっそりとしている。握手をするのもはばかられる、繊細な指先。
彼女はその指をクリップのように使って、「コラージュの国」特集と書かれたチラシをおそるおそる僕たちの額の前にかざした。彼女の顔は、チラシの後ろに完全に隠れていた。その時、あのヤドカリはどんな顔をしていたのだろう。チラシの裏でもチラリと舐めて僕たちをからかっていただろうか。アイツはきっとそういう奴だ。肉の裏で、肉の仮面を被り、客を油断させどこかへと誘う。彼女は肉を恥じてはいないし、気にしてもいない。肉の中で平穏に暮らし、それを盾に思い切ったことがなんでもやれるのだ、というような風貌をしている。
しかし僕はあいつの手業に乗った。よし、その売れていない、秘法を使った旅のプランに、僕たちが最初の顧客になってやろうじゃないか。僕は何でも初めてが好きなんだ。初めてを求めるとき、僕は誰よりもカッコよくなれる。今は彼女の気持ちをぐんと引き寄せておかなきゃいけない時期なんだから、特に「初めて」の力が必要 なんだ!「初めて」に祈願する。どうか、僕たちを遠くの、遠くの、誰も行ったことのない町へと連れてってくれますように!
Image: Chasing the dragon (c) Matthew Cusick
僕たちは、旅行を制作する。「旅・作成手順」と見出しに書かれた、どこか電化製品のスタートアップ手順が記されたような簡素な書類を渡された。B3はあるその用紙には、またもやいかにも誰にも知られたくないみたいに、もったいつけて薄文字で、説明が印字されている。人間味のない語り口で、ミシン針が布を縫っていく音を聞き続けるような説明は続く。
僕は説明書を両手で持ち、左腕を平行に浮かして輪っかを作ると、おいで、と彼女の顔を覘いて微笑みで合図し、下からそこへくぐらせた。プールの水面から浮かび上ってくるように、彼女の頭は水面下を静かに近付いてきて、パッと現れた。それから首を一ミリ単位でおそるおそる伸ばしながら、顎を僕の方へ向け、顔の主軸を左上がりの斜めにして、説明書の中身を覘いた。
僕たち二人が見たものは、このような文字だった。
ナサイ シナサイ キニシナサイ マゼナサイ ハガシナサイ ヌギナサイ オヨギナサイ ステナサイ シサイ シナサイ マチサイ ハナシナサイ ステナサイ カワイイ イキナサイ キキナサイ オドリナサイ ヨミナサイ ハキナサイ ヨゴシナサイ コエナサイ サイ サイ サイ シナサイ ステナサイ マワリナサイ ナサイ ナサイ ナサイ
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All images courtesy of Matthew Cusick and Pavel Zoubok Gallery
(第01回 了)
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* 『コラージュの国』は毎月15日にアップされます。
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