誌面構成は変わっていない。いわゆる文芸誌という枠組みで、芸能人や映画人のエッセイ、インタビュー、また漫画などを掲載する。従来の文芸誌でもそういうページはあったが、何らかの文学的な文脈、すなわちエクスキューズが存在していた。それがなく、むしろサブカルページが前面に出ているところが特徴である。
そのような誌面には、もちろん一つの疑問が浮かぶ。この読者層は、どういったものになるのだろうか。芸能人についての記事、映画人についての記事、あるいは漫画を見たいなら、そういう雑誌は別にある。それらに埋もれても異和感がないような雰囲気の小説を集めた雑誌もまた、いろいろある。とはいえ状況の変容からか、この雑誌の印象が、手にとる側にとって変化してきた気もする。
以前には、それは文学の衰退そのものに見え、その穴を埋めるため、弱体化した文学の文脈とジャーナリズムとしての勢いを補完するためのサブカル路線であると思われた。それは文学プロパーの他誌でも見られることで、そこにどの程度のエクスキューズを加えるかが多少のスタンスの差異であるだけだった。
その点について、Papyrus の思い切りのよさはこれまでも突出していたわけだが、どういうわけかこのところ、こちらの方がまともなのかもしれないという気がしはじめている。まともというのは雑誌にとってどういうことかというと、現実世界を正しく映していることに他ならない。もちろんグローバルな世界像全体とまでいかなくても、文芸誌なら文学の現実的な世界像であればよい。
文学の現実、その世界像というのは、いわゆる文壇とか、さらに書籍の売り上げという話では必ずしもない。どちらかというと売り上げの方は多少、重要な何かを反映していると思うが、要するに文学と呼ばれる何事かをめぐる人の精神のあり様、その現実が現在の文学の世界像ということだ。
そして、それじゃ文学と呼ばれる何事かというのは何かといえば、まさに世界をどう捉えるか、世界像の構築へのアプローチそのものなのだ。だからこそ文学の現実的な世界像を捉え、呈示することは、グローバルな世界像全体に大いに寄与するはずだ。逆に言えば、そうでない文学的な世界観などというものは、すなわち文壇的世界観といった瑣末なものに過ぎない。
Papyrus に掲載されている芸能人のエッセイが、そのそれぞれが従来の文学プロパーのテキストより優れているとか、読むに値するとか、そういうわけではない。ただ、我々の現在の内面における文学、世界像を捉えようとする意思をもしそう呼ぶなら、文学プロパーの文脈に必要以上に囲い込まれたそれとははっきり乖離がある。
芸能人のエッセイが乖離を埋めるのではないが、それが普通に、混然と、理由もなくそこにあるという姿は確かに、現在の世界にいくらか接近している。文学プロパーのものであれ、芸能人の思いのたけをプロデュースしたものであれ、今や我々読者はそこに世界を読みとれると期待はしていない。ただ、我々の内なる文学へのアプローチに、より障害にならない世界像の映しを見ようとするだけだ。
谷輪洋一
■ Papyrus ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■