日常的な周りの人との会話で、日本人が抱くヨーロッパのイメージと自分の持っているヨーロッパのイメージの間に、かなりのズレがあることに気付かされる。この間知り合いに実家から届いたチョコレートをプレゼントした時、相手はそのチョコがドイツ産のものだと気付き、少し驚いた口調で「でもご出身はルーマニアで間違いないですよね?」と私に尋ねた。相手はやはりドイツ産のチョコレートに一瞬惑わされたようだ。
確かに人にお土産を差し上げる時、普通は自分の出身地のものをプレゼントするのが常識だ。出身地のお土産ではない場合、その旨を伝えるべきだ。また相手側の立場から考えてみれば、ヨーロッパを訪れた日本人が、例えば中国産のお土産を差し出したら、確かに驚くだろう。
しかしヨーロッパの国の場合、この常識が本当に当てはまるのだろうか?とつい自問自答してしまった。ヨーロッパのどこに行っても、大体同じ商品を売っているし、みんな日常的に輸入製品を使っている。これは喜ぶべきことか、嘆くべきことかなのかと考える前に、一つの現象として認める必要がある。この現象は、ヨーロッパの国々が共有しているある種の一体感を示しているのだ。欧州連合(EU)に加盟している国々の間では、商品の流通や人の移動が当たり前のものになっているのが現状である。
勿論ローカルな製品はあるし、価格の安さを重視して、または自分が住んでいる地域を応援するために商品を意識的に選ぶ人がいる。隣の国に良質で価格の安い商品がある場合、国境の近くに住んでいる人は隣の国にお買い物に行ったりするのも当然になっている。ルクセンブルクの人はドイツのスーパーが好きで、そしてトリーア・ザールブルク郡に住んでいるドイツ人は、ルクセンブルクのガソリンスタンドを好んだりするのが、今思い浮かんだその一例だ。
同じように、隣の国で働く人もいる。仕事の都合での越境、または他国への移住も普通になっている。このような現状の中では、仕事や日常生活のあらゆる場面で他国の人を相手にする機会が多い。母国語以外にもう一つの言語が話せるのが当たり前のようになっており、その他の言語もできることが望ましいと見なされる。余談だが、EUのどこでも専門的にヨーロッパの言語を勉強する人がいて、彼らにとっては、ブリュッセルやストラスブールなどにある欧州連合の主要機関で働くことが理想的な出世街道だと一般的に思われている。
また比較的小さく、経済的に弱い国の人々は特に多言語習得に力を入れている。ルーマニアもその一例だが、ギリシャやエストニアなどの国に行くと、どのお店でも英語は通じるし、道に迷った観光客はきれいな英語で案内される。このような周辺部にある国の人々にとっては、外国語が話せないと、みんな(と書いて、周りの大国と読む)の会話に参加できないという現実があるのだ。
しかし商品の流通、人の移動、言葉の壁を取り除く努力よりも、ヨーロッパの統一したイメージを後ろから支えているのはインターネットである。仕事のためにも娯楽のたにも、みんなインターネットを使っている。その過程で、良くも悪くも英語を使うことになるし、当人は意識していなくても、みんな同じ情報を目にしている。ニュースだったり、エンターテインメントだったり、各地域特有の情報よりも、ヨーロッパ中の人々が共有している情報の方が圧倒的に多い。
ヨーロッパはひとつの大陸であり、そこで共存している人たちは色々な形でずっと交流してきたので、昔からお互いの文化に影響を与え合っている。しかしインターネットが可能にしている現在のような交流は先例のないもので、その先に何があるのかまだ分からない。ただ「ヨーロッパ」という概念がどの方向へ向っているのかはなんとなく推測できる。
とは言っても、これほど統一した雰囲気を発揮しているヨーロッパは、私の幻想に過ぎないかもしれない。ドイツやイタリアなどの人と話すと、彼らが持つヨーロッパのイメージが自分のとはまた違うものだと気付く。
EUでも国家的アイデンティティの強い国の人と、アイデンティティが少し希薄な人がいる。小さい国の人にとって、EUに一括りにされるのは都合がいい。そのため自分たちは「ヨーロッパ人」だという意識があるし、それを強く主張しがちである。国家的アイデンティティの強い国の人はそれとは対照的に、ヨーロッパ人であるという意識が低いかもしれない。これもまた別に嘆くことではなく、みんながそれぞれ別の幻想を見ながら生きていることを示しているだけのことである。
他国に関して幻想を抱くといえば、「ジャポニスム」という現象が思い浮かぶ。ヨーロッパの人々は長い間日本に関してある種の理想を抱き、それが特に絵画で表現された。日本の浮世絵に最初に出会った19世紀のヨーロッパの画家たちは強い衝撃を受け、浮世絵の画風を真似たり、日本のことを夢見て、その夢を描いたりした。結果として、幻想の中にしか存在しない日本のイメージが生れた。ジャポニスムの大流行が治まってから一世紀も経った現在でも、ヨーロッパ人の元に届くのはアニメやドラマといった映像文化で、その映像が伝える日本のイメージは根強い人気がある。
日本に来て、忍者や芸者にはなかなか会えないと悟ったヨーロッパの人は、パリに行って初めて歩道で犬の糞を踏んでしまった日本人と同じぐらい幻滅するだろう。(結構知られていると思うが、ヨーロッパ中でパリほど歩道の汚い街はない。)
結局のところ、私たちはみんなお互いに対して幻想を抱いている。そうである限り、お互いに関する見たいことしか見えないのだ。それは幻想やイメージを頼りにしている私たちの知力の限界点を示している一方、「団体」、「国家」、「社会」といった、何を指しているかよく分からない概念の不合理をも暗示している。よく考えれば個人である私たちの交流相手はあくまで個の「人間」であり、団体や国家ではない。みんなが幻想に惚れやすい時代だからこそ、唯一無二である人間同士の交流の大切さを、改めて意識する必要があるだろう。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■