高校の頃、けっこう早い段階からブカレストの大学に進学すると決めていた。大学で何を勉強したいかは未だによく分からなかったのだが、場所だけは決まっていた。ブカレストのことをもっと知りたいという気持ちが子どもの時の思い出と重なったせいもあろうが、あの都市に不思議な引力を感じていた。ブカレストの名所を舞台にした好きな小説の影響で、あの町の霊がなぜか蝶々の形となって、夢に出ることもあった。あの蝶々をどうしても捕まえたくて、それで頭がいっぱいになっていた。ブカレストには、私を魅惑する「何か」があった。それがどのようなものなのか、自分であの町に住んでみるより他に、知る術がないと確信していた。
自分のその決心をずっと聞いていた両親は、はいはい分かった分かったと言って、放っておいてくれた。それで入学試験に受かって、外国語学部の日本語別科に入ることも決定になっていた時点で、「え?あんたブカレストに行くの?」、「だから、ずっと前から決まっていたじゃないか」というようなやり取りに立ち向かいながら、住む所を探し始めた。
大学に入学できたことで、ブカレストという存在へ一歩近付けたような気がした。と言うより、それはあの町に対する自分の初勝利だった。その勝利のおかげで新しく身についた自信と夢をいっぱい抱えて、ブカレストへ引っ越した。
新しい家は大学広場のすぐ近くにあった2LDKのアパートだった。大家はPさんという65歳の女性で、私に一部屋を貸してくれると言って、一緒に住まわせた。いきなり知らない人と同居するのは少し抵抗があったが、場所的に大学に通うには非常に便利だったし、家賃も安かった。またPさんが私の分まで料理を作ってくれるという約束が、何よりうちの両親を安心させた。一見メリットばかりで、あまりぶつぶつ言わずに、Pさんとの同居生活を始めた。
Pさんが長年一人で住んでいたそのアパートは少し古びた雰囲気だったが、子どもの頃に見たブカレストのことを思い出させてくれる物たちに囲まれて暮らせるのが嬉しかった。そこに温かい懐かしさを感じていた。アパートに置かれていた物だけではなく、10階建てのその建物自体が古かった。1977年の地震に無事に耐えた建物よ、とPさんがよく自慢そうに言っていた。
地震がよく発生する地方に近いブカレストでは、年2回ぐらいの頻度で震度2~3の地震が起こる。1977年3月4日には震度7の地震が発生し、ブカレストは大きな被害を受けた。古い建物や戦後次々と建てられた高いビルが倒れてしまい、命を失った者は1300人を越えていた。ルーマニアでは20世紀に入ってから一番大きい自然災害だった。
革命以前のブカレストを知っているPさんの話は生々しいディテールが多く、それを手がかりにしてあの頃のブカレストの風景を想像してみた。その風景がまるで自分の目の前で広がっていく感覚だった。Pさんは昔のことを物語るのがとても好きで、また上手かった。戦後のルーマニア社会が繁栄期を迎えた70年代では、若者はどのような洋服を着ていたか、どのような歌を歌っていたか、何をして遊んでいたか、あの時代のアイドルたちなどについて、細かいことまで色々語ってくれた。また、ルーマニアが国際通貨基金への対外債務を完全に支払う努力を始め、社会全体が厳しい貧しさを経験した80年代のことについても詳しく聞かせてもらった。話ながらPさんはよく涙を流していた。そのような苦労を知らずに育った自分は、ただただPさんの話を聞いて、あの頃のことを想像することしかできなかった。
こんなふうに描くと、私と大家のPさんの関係は親しかったように見えるかもしれない。実際は私は大学や部活にあたる活動のことで忙しく、毎日帰りが遅かった。Pさんもお買い物に出かけたり、知り合いや親戚を訪ねたりして、出かけることが多かったので、ゆっくりお話をする機会が多かったわけではない。時々日曜日に、教会のミサへ一緒に行くようにした。Pさんは大いに喜んでいた。ミサの後、パンと居間に飾るための花を買って、一緒に家に帰った。そして、日曜日の午後は決まって、お茶を飲みながら、昔の話をした。
スタヴロポレオス教会
私にとってはもう過ぎ去ってしまった昔話だった。しかしPさんには自分の現在を形作った事柄であり、完全に過去の話ではなかった。Pさんが話していると、現在形と過去形が妙に混交してしまうことがあった。「昔」の話が「今」の話に聞こえてしまうのだ。最初、それはブカレスト方言の特徴だと思っていた。ルーマニアにも各地域の方言がある。ブカレスト周辺の人の話し方はかなり特殊で、例えば、動詞の現在形と過去形を気ままに差し替えてしまうことがある。一気にたくさん喋りたい時は、動詞の過去形の長さが邪魔になるので、全て省略になるのである。私は、Pさんの話し方の特徴、つまり過去と現在の境目が曖昧になるところがけっこう好きだった。そのおかげでブカレストという都市の昔の姿は、自分の手が届くほど身近に感じられた。
しかしある時から、Pさんの話し方が気になり始めた。日常会話を通常の声より大きく話す一方、時々は声をとても小さくして私に話していたのだった。一緒に住み始めてから2~3週間後、その理由を明かしてくれた。隣に住んでいた人は盗み聞きをする癖があったらしい。「だから大事な話は、小さい声でね」とPさんは言った。大事な話って何だろう、と私は考えてみた。その言葉の意味はよく分からなかったのだが、「出かけるとき、鍵を忘れないように」、「ご飯食べてね」というような会話のことではないような気がした。同じ理由で、Pさんの知り合い(ほとんどは同年代の女性たち)が遊びに来ると、居間のテレビを最高音量にしたまま、二人でキッチンに閉じこもって、おしゃべりをしていた。そして、私を一番戸惑わせたのは、電話で話す時は、記号のような言葉を使うことだった。ある日、たまたま一緒に出かけていた時、その記号のことを説明してくれた。電話の話が誰かに聴かれてしまう可能性があったらしい。「誰ですか、その者は?」と聞くと、Pさんは私の頭を撫でながら、「あなたは子どもだから、分からなくていい」というようなことを言って、話題を変えた。
しばらくは、何のことかしらと思いながら、あまり気にしないようにしたのだが、心の中で「まさか」という思いが芽生えた。これもよく聞いていた話だが、1989年以前のルーマニア社会で人の生活を圧迫していたのは、貧しさよりも、恐怖だった。「セクリタテア」という組織があった。反体制運動の発生を防ぐため、政治的な不満や社会主義に属さない考え方を声にする人を捕まえるのが、その組織の役割だった。町のレストラン、カフェ、映画館などには盗聴器が設置され、秘密警察が人の会話を聴いたりすることもあった。また、特に知識人の場合、その人の生活が完全に監視されることもあった。少しでも疑いがかかると、取調べを受けることになる。有罪になると拷問による洗脳や牢獄へ送られるおそれがあった。無罪でも見せしめとして罰せられることもしばしばあったそうだ。セクリタテアのような組織の存在は、チャウシェスク政権の狂気をよく示している。
80年代の半ばに生まれて、大学生になるまでの人生を自由な社会で過ごしてきた私には、その全てが自分に関係のない遠い昔の話だった。しかしPさんのような人は長年の間その恐怖を感じながら暮らしてきたのだった。「監視される」ことが日常になっていたので、1989年の政治革命によりその状態から解放されても、自由を容易に信じることが出来ない人たちが大勢いた。社会が自由になったとしても、その自由を疑いながら、独裁的な政権が戻ってこないかを日々恐れ続けていたのである。
国民の館
Pさんもこのような「過去の虜」ではないかと、心配し始めた。その時点まであんなに面白く感じていた現在と過去の混交が、突然不気味に思えた。それで、話してみた。「もう大丈夫ですよ。今は誰もPさんの話を聞きませんよ。その時代は終わったんだから」。今は本当に誰も他人のことを気にするなんかしないから。(このあたりのことは、20歳未満の私の現代社会に対するニヒルな不満で、心中で言い加えただけだった)。この言葉を聞いたPさんは、また声を小さくして私に言った。「そんなことを言っちゃダメよ。危ないから。あなたは何も知らないね。何も変わっていないよ。あれは変わるものじゃないから」。
少しずつPさんに感じていた違和感の本質に気づき始めた私は、しばらくはどうしたらいいか戸惑った。当時ですら政治革命から15年も経っていた。もう昔のルーマニアとは違うということを、Pさんに理解させる方法はないだろうか。それとも、もしかすると、本当かしら? 革命後でも、それ以前と全く同じ連中が政権を握っているという意見も確かに時々聞えた。
これは自分の力を遥かに超える状況かもしれないと感じ始めた。両親に話してみても、気にしないようにしなさいと言われただけで、あまり相談に乗ってくれなかった。彼らは安全に住める場所や食べる物さえあれば、充分だった。しかし自分はかなり悩んでいた。昼間に「今」を生きる人に囲まれて過ごしていたのに、毎晩「過去」の影が漂う家に帰ること、つまり毎日現在と過去の間を往来することが、次第に神経に負担をかけ始めたのだった。そばにいる人なのに、いつの間にか遠い存在になったPさんとの接し方も徐々に変わってしまい、話が通じなくなってしまった。無力感に圧倒されそうな感覚だった。
Pさんは少し特殊な例なのかもしれない。革命以前の社会を大人として生きてきた人々の精神が、恐怖と自由のなさによってひどく傷つけられたのは、間違いない。しかしまた社会主義を経験した人は、現在の自由社会に生きても、かなり不自由であることを痛感しているようだった。ルーマニア人の場合、世代間にはただのジェネレーションギャップがあるのではない。過去の影響がどの程度に現在に及ぶかは人によって違うだろうが、80年頃以降生まれの人とそれ以前に生まれた人は、それぞれ違う現実を目にしてきたのである。
大学1年が終わった日、Pさんのアパートから引っ越した。町の中心から少し離れた所でマンションを借りて、同じ大学に通っていた一つ年下の友達と一緒に新しい生活を始めた。待望の自由な学生生活が始まろうとしたにも関わらず、Pさんのことを思う度に、心はとても重かった。自分の無力さに悟ったと同時に、もう一つ認めなければならないことがあった。ブカレストには自分の想像も及ばなかった側面があったのだ。そして当時の私は、それと向き合うために必要だったものを何一つも持っていなかった。あの都市に始めて負けていたのだった。
ラモーナ ツァラヌ
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■