偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 『かえで亭』体験は美沙子体験の四ヶ月ほど後のことであるが、この両者によって蔦崎公一は遅まきながら開眼し、小学校カンチョー戦争以来続いた「体質進化」の原点に位置する純愛パートナー・香坂美穂との間には、これまでにない超絶の光景が繰り広げられうるはず、という推論が自然な成行として生活を導きはじめたのである。ただ一つ疑念が残っていて、これだけ食ワサレ体質を思い知った今となって考えると、中学高校時代の女子の「引継ぎ」連携といい、香坂美穂転校後の手紙、そして再会といい、もしかしたら自分の体質ゆえなどではなく、ある一貫した外部的意図が自分を集団ストーカー的に包囲し操作しているのではなかったか、という疑念がそれであった。偶然の一致の裏には何か必然の仕掛けがあるはずだという想定こそ重ね重ね科学的に見て健全ではあろう。しかし連携パターンを大きく外れた純粋偶然遭遇としか思われない体験の数々思い返すにつけ、いやそれでも、
〔蔦崎公一の醜貌巨体の日々一挙手一投足を華奢で無邪気な特定・不特定の女性たちがさりげなく実は日々虎視眈々タイミング狙いつつ時には示し合わせて、あるいは個々別々に包囲している〕
……という光景、散発的ながら常時待機モードの大光景は、ほとんど芸術的、絵画的、宗教的ですらあり、この想念を聞かされ想像させられたおろち史研究家の幾人が興奮のあまり脳内射精に果てて中毒的枝葉探究の微細尖端にはまり込んだことであろうか。街の要所要所、淑女による蔦崎包囲網。この想像上の光景にのみ魅せられておろち哲学の道を選んだ学者の数も百や二百にはとどまるまい。
現在ではほぼ否定されているこの「淑女製蔦崎包囲網仮説」は、それでもまだ真である可能性は残っているのであって(少なくともおろち都市空間論の専門家の大方はこの仮説を捨てていない)、その大光景が真であれ偽であれ灯台下暗し・本人にのみ価値未定の食ワサレ体質を必ずしも快く感じていない自分の不徹底さを自覚し打破し、中途半端な現在を振り払うための大ステップとなるはずだったのである、蔦崎本人にとっては。「さあ運命に嫐られるままには卒業だ今こそこっちから自覚をもって乗り出すときだ、嬲りに出るときだ、かくして蔦崎はかえで亭体験の翌週の日曜日、最愛の恋人香坂美穂に向かって「オシッコを飲ませてくれないかな……」と素直な科白を素直な唐突さで居酒屋風焼鳥料理店『藩』から出た直後発したのであった。この科白を発するまでに蔦崎は、毎夜ベッドの中で美穂のあんなのやこんなのを食する光景を思い描き、美穂のあらゆる排出物を「ミホエキス」と名づけ、できる、できる、たべたい、ミホエキス摂り入れたいとイメージトレーニングを繰り返していたのである。
「食べやすいように食べたい」!
「食べにくいなりに食べたい」!
「食べねばならないとおりに食べたい」!
「食べさせられるべく食べたい」!
「食べられたいくらいに食べたい」!
「食べそびれかねないかのように食べきりたい」!
「食べそこねがちかのように食べつくしたい」!
「食べきれなさそうなら食べつぶしたい」!
「食べられつつあるがごとく食べつづけたい」!
イメトレにイメトレを重ね、食する寸前を脳裡に描いただけで胃袋が喜びに沸き立ち、下半身の毛穴という毛穴が励起勃起するところまで達し、これでよしと踏み出したのだった。
■ 「判断ミスを言い訳にすることはできない……」
言い訳は言うまい、というのは最も傲慢な言い訳である。
蔦崎は結局何もわかっていなかったのだ。
蔦崎と香坂美穂とは、蔦崎の唇の端から美穂の小便が全て零れ落ちて美穂が美しい目元をゆがめた日を最後に(と書ければ劇的なのだが実際は最後から五番目に)、二度と会っていない。蔦崎にとって痛恨なのは、美穂の小便を飲みきれなかった事もさることながら、愛と喜びに溢れて飲み始めたことは事実であるにもかかわらず、事実以上に嫌悪感が蔦崎の喉を制してしまったかのような印象を美穂に与えてしまったことだった。不当だ、不当すぎる……。しかも本当に不当かどうか、蔦崎自身に確信が持てないのがまた痛かった。飲み始めに、嘔吐感を得てしまったことは事実なのだ。くしゃみに妨げられさえしなければ本当に完飲できたのか、蔦崎は不確定の自己疑心暗鬼状態に中吊りにされてしまったのである。不当だと偶然を呪うべきなのか、自分を呪うべきなのかわからぬこの辛さ。そう、美穂エキスにかりに本物の生理的嫌悪を覚えて吐き出してしまったという確信を得て自己嫌悪の奈落に心ゆくまで転落できたのであれば、弁明の必要もなく、潔く諦められただろう。だがいかんせん、クシャミという非本質的要因によって攪乱されたとの言い訳がなまじ使えるがための、蔦崎の未練がましい自己正当化的「対美穂執着」がPTSD的に全身浸透してしまったのである。
というか「それ以前の問題と言えよう!」
蔦崎公一を博士論文のテーマとした某おろち学徒によるストレートな一節である。
そう、弁明などもともと成り立たなかったのだ。蔦崎は香坂美穂から心底絶望される運命にあった。
というのも、最近のおろち自然人類学の進展が香坂美穂レベルの周縁的人物にも分析のメスを入れつつあるからであるが、コンピュータ・シミュレーションの全結果が示すところでは、美穂が相当高度な腸過敏傾向にあり、蔦崎的真剣さで「ウンコ……」と頼まれようものならMS哲学的感情移入的即決でプレイ成立と相成ったであろうが、まず間違いなく、美穂尻からの排出物は緊張度に比例して痙攣直腸と狭窄肛門からのハイパー液状さらには泡状さらには霧状物質をきわめたであろうことがわかっているのである。
つまり、オシッコの場合と大差ない、いやむしろ粘度の高さのぶん、より惨い酷い呼吸器的・消化器的・神経的結果となったに相違ないのである。むしろ、蔦崎が小便によって退場できたのは公一・美穂両者の別れ際の傷を矮小化した超ラッキーな顛末だったと言わねばならない。
すべての元凶は、蔦崎公一が、ウンコといえば当然バナナ状のモノを出してもらえると決めてかかっていたことである。
何の根拠もなくである。
自分だって最初に中宮淑子に立ち聞きされたのは典型的ブリブリ下痢であり、淑子との別れがまたブリブリ下痢に彩られたドラマだったにもかかわらずである。あの痛い経験にもかかわらずである。そこまで体でわかっていながら、章改まるや香坂美穂との純愛を勝手に健常バナナ良質便に置き換えて疑わなかったのである。もっぱら食べやすさランクSプラスプラスのハイパーバナナ便でイメトレしまくっていたのだから、本番でどうなったかはコンピュータ・シミュレーションの必要すらない。決めつけイメトレが裏目に出て、ぶっつけ本番より酷いことに……現実のあのオシッコ破局をはるかに上回る崇高な大醜態が演じられ公一・美穂両者を情緒的悲壮奈落へ叩き落としたことだろう。
蔦崎的独白「最初ッから自信を持ってウンコに挑戦していれば、決してあんな醜態を演じずにすんだはずである」は全くの思い違いだったのである。
「そもそもトレーニングなどという心構えを作ってしまうこと自体が、破局を予告していたに違いない」という自覚によっても寸毫も救えない、どうしようもない思い違いだったのである。
言い訳をめぐる言い訳、自覚をめぐる自覚ほど救いがたいものはないのだから。
■ 基本は「黙嘲」「黙憫」そして「黙狽」各々約三分の一ずつといった標準反応だったようだ。事前に二百回朗誦練習をしたというデイヴィド・ブラヘニーがアクセント怪しくもそこそこ澱みない日本語で諳んじとおした全文は次の通り(両角θ執筆「世紀末末は尻フェチ雑誌が開く/閉じる」(『文藝』1998年冬季号)より)。
いま、私の手もとに三和出版の『お尻倶楽部ジュニア』最新号(VOL.5)がある。ぱらぱらとめくっていって、あるかな、あるかな、あった! 78~81頁に。あ~よかった。なくなってなかった、このコーナー。まだ続いていた。
てわけでさあて。お仕着せ世紀末ムードのどさくさに紛れて、変態改めクイアと呼ばれ始めたサブカルチャー部門。伝統的に二大メジャー倒錯だった同性愛とSMについては今さら数え上げるまでもないとして、新進フェティシズム系専門誌の多彩なことにぎやかなこと。
神保町や歌舞伎町に出かけずとも、今やどこの駅前の本屋さんでも、あらゆる分野のマニア誌を立ち読みすることができる。コスプレ専門誌としては『DIVA制服コレクション』(晋遊舎)や『コスチュームスペルマ』(さーくる社)。おむつマニアのためには『おむつマガジン』(墨田書院)。痴漢専門誌とくれば『おさわり倶楽部』(三和出版)。マザコン専門誌は『甘えん坊倶楽部』(三和出版)。レズビアン鑑賞なら『レズビアン&マゾヒズム』(笠倉出版社)。パンストフェチには『パンストHOUSE』。医療プレイなら『カルテ通信』(三和出版)。ロリータ専門は『CANDY POT』(さーくる社)。パンチラがタマラナけりゃ『日本ミニスカ倶楽部』(コアマガジン)。おしっこマニアのためには『聖水クラブ』(英和出版社)。年増好みはもちろん『熟女秘宝館』(ユニ報創)。ハイヒール以外用がなければ『脚フェチマニア』(三和出版)。スリム専門なら『スレンダー王国』(さーくる社)。絶頂時の女の顔だけ見たいあなたには『FACE[フェイス]』(東京三世社)。あらゆる分岐嗜好の枝の枝にまで応じて専門誌が供給されている。しかもそれぞれに毎月万単位の愛読者がついてるってんだから。世の中正直になってきたもんだなあ。勃起挿入一極集中に硬直した反動的バイアグラ・ブームなんてどこ吹く風だよ。よーしよし。
かくも細分化しつつあるマニア出版界において、さて、圧倒的隆盛を誇っているのが「尻フェチ系」なので。『お尻倶楽部ジュニア』の本家『お尻倶楽部』は平成5年1月創刊以来VOL.35を数えている。その他、尻フェチ誌はよく見かけるものだけでもざっと『サロンdeヒップ』(ユニ報創)『熱熱お尻美人』(東京三世社)『お尻マニア』(司書房)『HIP PRESS』『えっちなお尻』『恥ずかしいお尻』(三和出版)『お尻大好きっ!』(晋遊舎)『AF倶楽部』(太陽書房)『アナルジャック』(ラン出版)『アナルエンジェル』(スポーツアイ)『TEEN’Sアナルラブ』(オデッセウス出版)『BACKフェチ』(日正堂)『エネマニア』(イデア企画)『ドキドキアナル塾』(吐夢書房)『Baby Face』(明文社)……月刊隔月刊季刊不定期さまざまなサイクルで入れ替わり書店一角を占めるこれらに加え、『淑女お尻写真館』(一水社)『お尻プレイ写真館』(英和出版社)『美少女排泄日記』(三和出版)といったムックも多々臨時出版されているのだから、何十万ひょっとしたら何百万という尻フェチ層の厚みが知れるというものだろう。「おしりの耽美と快楽」「温もりいっぱいのアヌスを貴方に」「私たちはお尻しか感じません」といった背表紙のフレーズも、個別に見るとつまらぬようでも全部まとめて眺めればこの熱迫、超文学的ですらある。お尻部門は、今や「部分フェチ」界の最大メジャー領域としてその全貌を顕わしつつあるのだ。
投稿手記や投稿イラスト、パートナー求むメッセージ、ビデオ紹介、尻フェチ文化考察対談や連載小説まで内容豊富だが、主体は投稿写真と企画写真。上半身のみオフィスレディ制服着用のロリ系美女がデスクの端にしゃがんで、尻尾状に反り返った罅割れ真っ茶色を突き出しニッコリ微笑んでいるかと思えば、次の頁にはピンホールカメラで盗撮されたとおぼしき、髪掻き上げながら洋式便器に座る直前のヒップ接写がコマ割りで並んでいる。田舎娘っぽい全裸女が出産スタイル大股開きにリキみあまって真っ赤な直腸粘膜押し出しているドめくれ脱肛写真の向かいでは、浴室で絡み合った二人の全裸女が胸から脚から顔から全身に互いの大便をなすりつけ、黄土色まみれに悶えている。ほつれ髪の女が男の毛むくじゃらの肛門に口寄せて焦茶色のバナナ便をキャッチしている十頁あとには、牛乳浣腸された桃尻から噴き出る山吹色一直線を別の女が黒髪のてっぺんにかぶっている。……
これ以上詳細は語るまい。そうなのである。タイトルは「お尻」「アナル」でも、その実質はほとんどスカトロ誌なのだ。スカトロ専門誌の歴史はさほど古くない。昭和56年暮れに創刊された画期的なビニ本『THE・ウンコ』(北見書房)のブレイクを受けて、群雄新社の『スカトピア』がマニアのサロンとして一時代を築いたのが最初。黎明期のあれらはまるで戦地に赴く号令のように「ウンコ」「スカトロ」をタイトルに謳っており、専門店でのみ入手できる真正マニア誌だった(『スカトピア』の艶黒装丁懐かしや)。平成のいま、昭和期末の先人の努力により市民権得たスカトロマニアはさらにポピュラーな「お尻マニア」との融合を図り、カモフラージュというわけでもあるまいが一層明朗自然な浸透・認知を画策しつつあるかのようだ。
シカシ何ダッテ、といれ盗撮? うんこヲ浴ビル? 全身ニヌル? 食ウ? 下品ナ。低劣ナ。世モ末ダ。無修整拡大接写からー写真満載ノ悪書ガ何種類モ、小学生ガ見ルふぁみこん攻略本ノ隣ニ堂々ト並ベラレテイルトイウノカ。嘆カワシイ。ケシカラン。そう声を荒げるのは簡単です。でも小学生といえば思い出して下さい、私たちみんな、子どもの頃はウンコ大好きだったじゃありませんか。ウンコとかオナラとかオシッコとかヘソノゴマとか、事あるごとに口走って笑ってませんでした? それがいつしか言葉と対象とが分離し、世界は肌触りを失い、四角い制度の惰性に飼い馴らされて、不定形の流動を怖れ忌み嫌うよう洗脳されてきたのではなかったか。漫然たる価値観への反省、埋もれた意識の発掘こそ文学の任務だとすれば、文学者がもはや避けて通れぬ必須テーマこそ「ウンコ」なのでは。人の排便を至近距離で注視なんかしたくない、触りたくも語りたくもないし食ってみたいとも思わないという文学者がいたら、まず信用しない方がいいかもしれませんね、とりわけこの世紀末。虚心に認識せねばならないのは、臭気芬々たる尻フェチ雑誌を何万ものインテリ読者が毎月購読し続けているという文化的事実なのですから。[定理:真の文学者・哲学者は、少なくともお尻フェチでなければならない。]
いや、世紀末なんてもちろんほんとはどうでもいいけれど、もし世紀末の退嬰なるものをどうしても実感しなきゃならんとしたら、バブル崩壊死体ブーム少年殺人青酸烏龍茶、どれも「ウンコ」にゃかなわない感じがしませんか。本当の世紀末を開きそして閉じるのは、所詮互いに孤立し理解もままならぬ個々人末端の括約筋から地下へ溶け合う唯一共通のエントロピー、体の内であり外でもある黄金物質しかないのでは。「わかったわかった、世紀末なんてもういいよう」と、既成概念に引導を渡す「世紀末末」の匂いもそこから漂ってくるはずです。
であるから当然、こんな声が聞こえてはこないだろうか。お尻とスカトロは別物だ。巷のお尻雑誌は邪道だ。純粋なお尻マニアの聖域を守れ。そういう声。元をただせば好みの問題ですから。「ウンコはどーしてもヤだ」てのはそりゃ、文学者ならぬ一般市民には許されていい選択肢でしょう。だから確かに、排泄物は一切載せないクリーンな尻フェチ誌も出ている。私がいま手にしている『お尻倶楽部ジュニア』がそれなのでした。
フェラ、顔射、バイブ挿入など余計な写真が混在しつつも、基本はあくまで女の素尻、パンツ尻、肛門、尻ボクロ、吹出物、尻毛。接写、接写、接写。内容物ぬき。サビ抜きの寿司を食ってるみたいな味気なさではありますが、行くとこまで行っちゃった『お尻倶楽部』流ウンゲロ路線との棲み分けを実現したすがすがしさは認めなくちゃなりません。
いや、認めなきゃどころじゃない、感動ものの頁すら含まれておるのであって。『お尻倶楽部ジュニア』に連載の「素人透けパンツハンティング」。さっき私が「あ~よかった。まだ続いていた」と安堵したコーナーです。これには正直感動。ズボンの上から透けて見える下着ラインを求めて、街ゆく女性を背後から無断で撮影しまくるってだけの代物なのですが。全員長ズボンってのがなんだかフカい。そういう写真が毎号十枚前後載っているわけなんですね、コレが。
透けパンツといってもそりゃ、ジーパンやデニム地の普通のズボンだから、そんな透けて見えるわけはない。はっきり言ってただの後ろ姿写真だ。いや、それでもじっと目を凝らしていると下着ラインがぼおっと浮いてくるような気がしないでもないかな。そういやおととい行った世田谷美術館のジェームズ・タレル展に「ブラインド・サイト」って作品があったっけ。鑑賞者は曲がりくねった暗い通路を手探りで入って椅子に座り、真闇の空間をじっと見つめよと指示される。十数分後、視界中央にぼおっと白い模様が見えてくる。この光は何か。刺激を遮断されると、人はどんな微小な刺激をも拡大し感受しようとするらしい。現われた模様は、神経内の刺激を外部刺激へ変換して、知覚者自らが作り出した光なのだ。それに似てると思いましたよ、この「素人透けパンツハンティング」は。
しかもVOL.5のは、前号までと違って上体かがめたりしゃがみかけたりと僅かでもエロチックな瞬間を捉えた写真は一枚もなし。全員普通に直立歩行中。このストイシズムには敬服するしかない。
だから、透けパンなんかほんとはどうでもいいのだ。布尻の質感そのままを日常風景込みで観賞できる、その境地へ開眼せよってのがこのコーナーなんだねきっと。どぎつい脱糞塗糞芸術はもうご苦労さん。もっと日常慣れた、しかもミニスカでも水着でもない露出度ゼロのズボン尻、いや人体一般に回帰しよう。感じ直せ。想い直せ。世界全体をお尻化しよう。幸いなるかな汎尻主義。
だからこれは。この感覚は。行き着くとこまで行った後の、新規巻き直された妙に新鮮なこの日常感覚は。これはきっと、よくわからないけど、おお。「世紀末」なるお手軽フレーズが唯一真摯に伝えようとしていたステージ循環というか、甦り感・再出発感なんじゃあるまいか? そおぅか。ふうむ。「死体」や「殺人」にはこういう高度な自己回収メカニズムは内蔵されちゃおるまい。やっぱりお尻って、深けぇーのだなあと。お尻&スカトロフェチならではの世紀末、百年食物連鎖をさてこそ閉じ上げ……
……いや。理屈の足掻きはそのくらいにしとこうよ。別にそんな。だってお尻って、理屈抜きに面白いん、だもん。
「……、…………」
デイヴィド・ブラヘニーの起伏大きな朗誦・朗読二重音声を聞きながら桑田康介も他の塾生とともにビデオ画面をじっと見つめていたが、夜のラッシュ時ほぼ立錐の隙なき満員が「アブナイ外人」の周りのみ半人ぶんぐるっとあけて黙殺ひしめいている中、ブラヘニーの背後三人目くらいに立っている三十代前半とみえるカマキリ顔の眼鏡男がふと眉間をしかめ、横目で左右を探り見ているのが映ったので康介は「おや」と思った。ちょうど朗唱中盤、「私たちみんな、子どもの頃はウンコ大好きだったじゃありませんか。ウンコとかオナラとかオシッコとかヘソノゴマとか、事あるごとに……」のあたりである。しかめ面が次々と乗客に伝染し始めたのだ。
あとでブラヘニーと、現場撮影を務めた中学理科教師・稲室憲正の説明したところによると、強烈な屁の臭いが車内に満ちたのだという。ビデオ画面には捕捉されていないが、ブスッ、という放屁音も明瞭に聞き取れたという。どこからかという屁元は聴覚的にも嗅覚的にも全くわからなかったことから「いやあ、プロの仕業だと思いましたね……」
しかもそのチーズの腐ったような臭いたるや尋常ではなく、意図的な準備のしるしが窺われたという。ブラヘニーは、自分はただ言葉を発しているだけで決して屁元ではないことの証明のため何かできないかと気もそぞろしどろもどろの朗誦を続けなければならなかった。
ネオクソゲリラに対して外部から旧クソゲリラが仕掛けられたのである!
二種のパフォーマンスを結びつけて融合させようとした悪戯的微妙の挙は、あきらかに金妙塾のクソゲリラの突発的偽装を見破っている乗客の仕業に相違なく、すわ、タイプψか! と稲室は瞬間色めき立ちながらも、この淫靡さというか微温的半端ぶりは却ってタダゴトではない、もし尾行でもされているのなら危ない。原点にて狼狽えまくっていたブラヘニーとふたりで降車してからもこの微細な危機感は正しいとの確信を頷きあったのだという。例の怪尻ゾロやその模倣犯らきわどいパフォーマンスが塾外でなされている物騒な時勢でもあり、朗読再現とビデオ吟味のあと全員で討議がなされた。
「ふむ、そういえば……」
「そう。『覗き日誌』の件です。しばらく『覗き日誌』第一巻が行方不明になって鮮渋堂でこの少年によって発見されるという奇妙なことがあったばかりでしょう。なにか見えない悪意ある圧がかかっているような。ね。ここは少し自粛した方がいいのではないでしょうか」
クソゲリラパフォーマンスは、ほとぼりがさめるまで中止ということに決定した。いずれにしても乗客の反応パターンの分析と理論化に十分なだけのサンプルは収集し終えていたのである。この不穏な「兆候」を機に、ただリニアに累積的パフォーマンスを展開する方針は再考して、塾長格深筋忠征に伍する「スカトロ道の達人」を招き塾活動のブレイクスルーを図るのがよかろうとの案が全員一致を得た。しかし具体的な人選や方法については未定のままだった。
(第30回 了)
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* 『偏態パズル』は毎月16日と29日に更新されます。
■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■