星隆弘さんの『en-taxi (エンタクシー) 第34巻 2011年冬号』の時評をアップしました。星さんには『en-tax』のほかに演劇批評も担当していただいています。お会いしたことはないんですが、金魚さん(齋藤都代表)好みの原理主義的な思考回路をお持ちの方です。
演劇にはいろいろの形式があるけれども、演劇なるものの必要条件となれば、「俳優」と「観客」のふたつの要素に限られます。音楽、舞台装置、台本までもが演劇行為の副産物にすぎません。舞台も、カーテンも、照明機材も、観客席も、チケットも――なにもかも削ぎ落として、最後に残った俳優と観客の間でやりとりされるもの、それを演劇と呼ぶのです。
星さんの「演劇批評とは」の一節ですが、演劇を最小限度の要素にまで分解してその原理を考察しようとしておられるようです。このような原理的な思考はとても大事だと思います。ファウンデーションを踏まえなければ、あらゆる表現は弱いものになってしまうのではないかと思われるからです。
芸術は出たとこ勝負です。傑作を作った人がそのジャンルでのいわゆる「勝者」です。しかし徒手空拳で傑作を生み出すのは難しい。また、たまさか一つ傑作を作ったとしても、作品を発表し続けるうちに、作家が抱える思想や感性の底の浅さが浮き彫りになるのは珍しいことではありません。
「寡作でも考え抜いている著者を探してきなさい」というのが金魚さんの執筆者集めの方針ですが、それは原理的思考は遠回りのようで、行き詰まっている状況を打破するための近道であるという金魚屋の大方針でもあります。
でもまあ、演劇や映画のジャンルはちょいといい加減で胡散臭いですよね(笑)。演劇・映画人が引き起こす極めて世俗的な人間関係も含めてこれらのジャンルは魅力的であります。この業界は一筋縄じゃいかない。特に一度限りの公演の連続である演劇界はとても捉えにくい。演劇界では毎年優れた脚本に与えられる『岸田国士戯曲賞』がありますが、「脚本だけクローズアップしてど~するよ」と考えている演劇人は多いんじゃないかと思います。
言葉を使うけど意味はそれほど重要じゃない。肉体表現だけど言葉なしじゃ成立しにくい。じゃ演劇ってなんなのさって問えば、演劇人はきっと「見に来ればわかる」と言うんでしょうね。でもそれがまた胡散臭かったりして(笑)。