・ 特集「芝居と戯曲と作家たち」
福田和也「三一致と古典主義――三島由紀夫と三谷幸喜―― ③」
扇田昭彦「『前向きのマゾヒズム』の男たち――つかこうへいの劇世界」
青山真治「エーガからブタイへ 2011」
前田司郎「三島由紀夫の話からは大分逸れますが」
松本尚久「歌舞伎役者の仕事とは何か――北條秀司の『建礼門院』」
en−taxiという雑誌は、金魚屋斉藤女史の言うように、同人誌的――縦に統率されているというよりは水平に並んだ雰囲気の雑誌で、その中で特集を組むというのは、水平的なコラムを縄で括ったようなものなのだろうか。雑然、とした印象だ。書き手は作家二人(青山・前田)に批評家三人(福田・扇田・松本)。演劇的に言うなら、観客三人。
手元のバックナンバーで確認するかぎりでは、各特集には責任編集の立場にある坪内祐三・福田和也のどちらかがコラムを一本担当し、特集に一応の縦糸を通しているようで、今回は福田の連作批評から「芝居と戯曲と作家たち」という大きなテーマを抜き出して縦糸にしている。おもしろいのは、芝居と戯曲を並べているところだ。「すでに書かれてしまった言葉としての戯曲……明日の芝居の舞台裏……」特集のタイトルページにもこう書かれている。つまり戯曲は台本、芝居は上演。戯曲は完了、芝居は未完。戯曲は社会から材料を借り、芝居は社会になにかを突きつける。この二つのフェーズと作家との有機的なつながりを捉える批評眼が、本特集の提起するところだろう。
扇田、青山、前田の三人は、その点、片手落ちと言わざるを得ない。青山は映画と演劇の作法の違いを論じているが、「いかに芝居をさせるか」に終始している。前田は大衆迎合主義か芸術至上主義かの葛藤を吐露するが、苦悩の種はまず台本制作の現場を脱していない。扇田のつかこうへい論は惜しい。舞台に表現された「負け犬たち」の「空洞感」に社会の諸相を透かし見る、そのきざはしに立っているのに、見開き一枚では紙幅が足りない。
福田に始まる本特集の縦糸の先は、松本の批評にダイレクトに通じていると言っていいだろう。ちょうど特集を挟み込むかたちで、二人の論点は妙に響き合っている。偶然なのか、ともに劇作家・北條秀司の作品を取り上げてもいる。
福田が取り上げるのは『松川事件』という法廷劇。昭和24年8月に起こった鉄道転覆事件を題材にしている。当の事件は、裁判の有罪判決の不公正を巡って作家や知識人が猛烈に批判し、実際に法廷にも立ち、ついに昭和38年に被告人全員が無罪を勝ち取った。北條の『松川事件』は初演が昭和34年の2月、つまり現在進行中の裁判に対する批判の一形態ということになるだろう。福田はこの戯曲に法廷劇最高峰の迫力とドキュメンタリー性を認めるが、しかしドキュメンタリーであるために「報告、発表ではあっても予言ではあり得ない」と評する。
松本は平成7年11月上演の歌舞伎『建礼門院』を取り上げる。『建礼門院』は平家物語の最終巻「灌頂巻」を題材にした作品だが、歌舞伎らしくない散文的なしゃべり方を随所に採用し、従来のストーリーにも改訂が加えてある。平家物語のパロディとしての、北條の意図だ。松本は、「あり得たかもしれなかった歴史」を「荒唐無稽な真実」として提示し、複眼的に時代の真実を捉える歌舞伎流「ものの見方」を平成時代に導入したと、北條のラディカルな仕事を評価している。
演劇のジャーナリズム。同一作者の作品に対して評価を二分にしているのはこの点だろう。事件の整理・報道に徹するか、報道されてこなかった裏側をえぐるか。福田と松本、二人の観客が演劇の社会的な意義を後者に見ているのは明らかだ。ジャーナリズムのメディアは他にいくらもあるのだ。演劇よりもはるかに手軽で速いものが。だから演劇は、陳腐だが、「人間を描け」。ところが、演劇制作現場は、そんなスローガンに関心を払っているわけではないことを、皮肉にも本特集が示してしまっている。同人的持ち寄り合いの隙間に生まれた、en−taxi的現象と言えるのではないだろうか。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■