偏った態度なのか、はたまた単なる変態か(笑)。男と女の性別も、恋愛も、セックスも、人間が排出するアノ匂いと音と光景で語られ、ひしめき合い、混じり合うアレに人間の存在は分解され、混沌の中からパズルのように何かが生み出されるまったく新しいタイプの物語。
論理学者にして気鋭の小説家、三浦俊彦による待望の新連載小説!。
by 三浦俊彦
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■ 金妙塾ポスト句会はむしろ、即興創作というより体験談・目撃談の方が主となっていたようだ。
ある総合雑誌編集者から聞いた話です。その語り手の雑誌とは別の文芸誌で――誌名は伏せておきましょう、90年代の主な文芸誌のバックナンバーを調べてみてください――AV監督バクシーシ山下にエッセイの依頼がいったわけです。まあ当時の文芸誌としては珍しい種類の書き手ですわな。で、AV撮影現場の人間模様を描いたエッセイ原稿を担当が受け取ったんですが、その中に「女優のウンコを食って」という表現が出ていたと。原稿を見た編集長Q氏は顔しかめるどころの騒ぎではなく「ちょっとこれ……」担当編集者Z氏に「ボツだよ。誰か代りの執筆者探してきて」。担当Z氏は「しかしこれちゃんとエッセイになってるじゃないですか」と抗弁。「しかしいくらなんでもね……」山下への原稿依頼を認めた時点でいかなる表現を覚悟せねばならなかったかを甘く見ていた編集長Q氏は「しかしいくらなんでもだネ……」Q氏の文芸コードの中に「ウンコを食う」という平凡な単語列がなぜか含まれていなかったわけですね。「とにかく書き換えを求めてくれないかな……」
結局、要求に応じたバクシーシ山下は「女優の小便を浴びて」という表現へ変更し、エッセイは掲載に至ったのです。
「ウンコを食う」は断固ダメ「小便を浴びる」はかろうじてOKと。ここに協会事務局基準が端的に見える思いがして私は声をあげて笑ったのですが、「おいおい話はこれからだってば」語り手は私の笑いを制して、「件の担当Z氏からその話を聞いていた僕は、その直後ある集まりで編集長Q氏と話す機会があったんでちょっとそのことを聞いてみたんだな。『バクシーシの原稿に注文をつけられたそうですね』って。そしたらQ氏一瞬口ごもったあと『だってねェ、女性器の名称をモロに書いたりね、そういうのはね……』ここで初めて面白え、と思ったんだ僕は。ここでも隠すか、と。雑誌掲載という公の基準だけじゃなくて私的会話のレベルにおいてすら隠すかと。どんだけ憚られるタイプの話題なんですかと。たかが「ウンコを食う」てのが……ってね」
ひさびさに二度笑える話でしたよ、これは。小便に続いて今度は女性器に身代わりさせましたか。うーん……ウンコってありふれた物質のくせにつくづく偉大なんだなあ!
■ 金妙塾ポスト句会議事録に発言者の記録はないが、2ちゃんねるの「身近な女性の排泄目撃談」スレに盗作が投稿されている。
こないだ彼女とドライブに行った帰りに高速で渋滞にはまってしまった。突然彼女がトイレに行きたいと言い出したけど、路肩に停められる状態じゃないしPAまではまだまだだし……て事で携帯トイレを渡したんだけど、大の方らしい。付き合って一年とはいえ俺にうん○してるとこなんて見せられないらしくまっ青な顔して我慢してた。腿とか、手の甲まで鳥肌が立ってるのが痛々しかった。そのうち「ぷぅぅ」とか「ぷすぅぅぅ」とか屁をこきはじめて、いよいよ我慢も限界に達した模様。いちいちものすごい生ゴミみたいな。そのうち目にしみるクレゾール臭みたいな。ほんっとマジきったない臭いの屁だったので、いや、きったないというより悲惨な不吉な臭いだったので、これ以上我慢してもしなくてもモウ同じではと思いつつ、彼女はあくまで毅然と我慢の模様。でもいよいよ覚悟を決めて窓を開けた彼女は「音聞かないで、臭いかがないで」とか言いながら後部座席に移る余力もなく助手席で「んんんん~」と力むと「ぶッ」という乾いた轟音の後に「ブリブチブリブチッ」と地響きをたてながら携帯トイレの中に。ほんとブリブチごとにクルマ揺れましたわ。車内は屁だけのときよりまたワンランク濃い臭いになったけど、なんか急に、美味しそうな臭いになったというか。今までのひたすらネガティブな毒屁臭が濃厚ななんというかニラギョーザ臭?溶岩焼きで車エビを焼いた臭?あらゆるおいしい食べ物臭?にすーっと洗い流されていって。なんか感動的だった。屁だけ嗅いでた時点ではこの女の腸の中って腐ってんのか爛れてんのかと幻滅しかけていた矢先だっただけに、ホンモノが良い香りだったのは感動ですたホント。彼女もこれはハッキリ感じたらしく「あ~あ、我慢なんかしなきゃよかったなあ~」とぼやいていた。しかも同じせりふを五回も。ちなみにさっき「簡易トイレ」と言ったのは2リットルペットボトルのことです。どういう姿勢で彼女が排泄したかは想像にお任せしましょう。モヒトツちなみに、蓋はパニクってた彼女が飛ばしちゃって、フィットするのがありませんでした。一時間以上車の中に美味しい臭いを撒き散らし続けて彼女の名誉挽回は十分でしたとさ。
盗作というよりアレンジと言うべきなのだろう。金妙塾ポスト句会におけるオリジナル談を記憶する出席者によると、「彼女」というのは話者自身の彼女ではなく正しくは「先輩の彼女」であり、「付き合って一年とはいえ俺にうん○してるとこなんて見せられないらしく」というのは正しくは「後で聞いたところでは先輩と付き合って一年とはいえ一度もそんな音も臭いも知られたことがないらしく」というのが史実である。したがって、状況はドライブではなく、所用のついでに「先輩」から仰せつかって「先輩」の待つウィークリーマンションに彼女を送り届ける途中の出来事だったという。とくにおろち志向を持たなかった話者であるが、この事件からほどなくして話者は「先輩」と別れた「彼女」と付き合うようになったことが判明している。おろち特有の〈情緒上書き機能〉を鮮やかに示した事例と言えよう。
モヒトツちなみに的ノリで言い添えると、ここに登場する後悔女性と、次に登場する健気女性とが同一人物であることが現在おろち学会の調査により定説化している。こちらは、2ちゃんの「屁こき女最高!!」スレに盗用された。偶然か必然か「溶岩焼き」という共通項に感動せねばなるまい。
702 :名無しさん@ベンキー :03/06/23 07:30
この前、ある溶岩焼きの店に行った。そこのトイレは男女共用で個室が一つと小便用のが一つあるだけ。トイレにけっこう綺麗な女性が小走りに入っていった。もしやと思い、俺も入った。共用トイレだからやましいことはない。<つづく>
703 :名無しさん@ベンキー :03/06/23 07:39
個室に入った彼女はいきなり水を流し始めた。そしたら、いきなり『ブブーッ、ブゥ~~、ブッ、ブブーッ、プゥ~~』と大音量の破裂音が立て続けに十回以上。ガン、ガン、ガンとレバーを手で叩くように押している必死音も。水の音なんてぜんぜん効き目がなくオナラは聞こえまくりだった。甲高いのと地響き系と交互に。ミはひとかけらも出てないことがはっきりわかる乾いたブブーッ、ブゥ~~、ブッ、ブブーッ、プゥウウ~~ッ等々々だった。ただオナラをするためにだけトイレに走ったんだと思うと超萌えた<終>
ただしこの投稿については、金妙塾の関係者および活動とは因果関係は存在しないようである。
ちなみに、同様のモチーフが、この少し前、「オナラ音が聴こえるトイレビデオ」スレにも登場している。
89 :名無しさん@ベンキー :03/01/22 03:05
久々に盗撮ビデオ借りてみたら、あったよ。
電波飛ばしての盗撮にしてはノイズ少なくて、30代と思われるひっつめ髪の、昭和の「主婦」を絵に描いたような女性が「ぷう」ってやってたよ。
オバサン7割のビデオだから本物だと思う。
その主婦はしゃがんですぐその脱力屁一発こいただけで、オシッコ一滴も出さずにすぐ出てったんで、わざわざ屁こきにトイレに来たんだ、と思うと萌えた。
投稿者が同一人物かどうかは未調査だが、かりに同一人物だとしても、5ヶ月遅れの溶岩焼きオナラ投稿は実録レポであることが判明しているので、「焼き直し」ではない。二次元での萌え経験を三次元で追体験しおおせる呼び寄せ体質の高揚感(同一人物説)、屁だけを目的としたトイレ使用のアピール度(別人説)、そのいずれかを検証した天然資料としてなにげに貴重である。
念のため読者におろち文化理解達成度テストとして問うてみたいのだが、この二つの投稿が「金妙塾プレ句会」で語られたとしたら、どちらの方がより高い得点を得たであろうか?
……そのとおり。正解である。判定理由は明白だろう。固体なら質量、液体なら流速、そして気体なら風圧に、エピソードのクオリティが正比例するというのがおろち芸術論の原則ではあるが、まれに反比例することもあるのだ。「わざわざトイレに」の情緒を深めるのは、その切迫性が希薄に思われる度合いに比例するのだからである。
――人みな、少しでも心地よくなろうと陰に陽に努力する。陰であればあるほどそれ、この世の底知れぬ悲哀源。【印南哲治語録より】
■「街の少女たち」を布教対象と決めたのは、ガングロギャルの群れの中でもひときわ目立った、それぞれ青髪と橙髪をとげとげに尖らせ黒い顔にきらきら金銀粒々をつけた二少女のあまりに奇異な格好に見とれ、声をかけたときだった。とはいってもそのきっかけは、交差点で信号待ちしていたとき脇の交番前で談笑していた二人の意外に澄んだ瞳にふと惹かれる気がして好奇心を内心口実に近寄っていって「なかなかだねーえ。これだけ目立ってると楽しすぎちゃって大変でしょー」と尋ねてみたにすぎない。そのときの少女たちの答えは、声をそろえて、つまり真実味たっぷりの非作為的速やかさをもって「ナンパのこと言ってんの?」意外と立ち話が弾んでしまったのだった。「ふふふ。されなーい。こんなかっこしてると」「これでひかないコンジョーある男なんていないー」「ていうか、ひかせるため」「これ、虫寄せと違うの。虫除けなの」「彼氏に操立てるためなの」「こういうかっこしてると気取らなくても純潔守れるから」
これを聞いて印南は感動し、震え、たちまち勃起した。世間知らずの印南哲治とて世に言うガングロゴングロヤマンバのたぐいが「目立ちたい」と並んで「魔除け」と称しうるモチーフをもって黒々と素顔を覆い隠すことがままあることは聞き知っていた。魔除けすなわち「風俗スカウト男の勧誘にかからないため」という動機だが、一見けなげなその理由も、スカウト男を近づけると簡単にその口車に乗っちゃいそうなア・タ・シ、という内面人一倍のナルシス的危うさの裏返しにしかすぎぬと印南はファッションの一様軽薄ぶりをせせら笑う一助としか捉えていなかったのだが、そう、世間知らずのオッサンの例に漏れず印南も、奇異なファッションを纏った女はみなイケイケのビッチだという偏見に囚われていたのだったが、なんとこの少女たちは魔除けではなく虫除けだというではないか! かたぎのイケメンナンパ男ですら許容範囲外だという! なんという潔癖さ、ビッチどころか! この少し後に流布した用語を使えば、「ビッチ→淑女」的イメージ急変に興奮した印南は一種「ツンデレ萌え」に痺れていたと言えるだろうが、ともあれ股間のテントを上着裾で隠して棒立ちになっているうちにも二人のヤマンバ少女、「いっとくけどブサイクを黒く塗ってごまかしてるわけじゃないから」「あたしたち、はっきり言ってカワイイから」「ビボーってだけでナンパしてくるやつって馬鹿男が多いからー」「ぜったい近寄らせないのー」追い討ちの可愛い声が浴びせられ、印南はカウパー腺液をズキンズキンとパンツに染み込ませながら二人の顔黒少女に即おろちプレイを申し込んだのである。
「えーっ」おろちのコンセプトを聞くと少女二人はあからさまな「引き」を示した。そもそも印南自身のおろち派への覚醒経緯が複雑であっただけに、少女の本気反応はむしろ好感を抱かせた。その拒絶意思表示のあっさりさこそまた純潔の証明として作用し印南の衝動は火をつけられながらも、二人にはさよなら~と去られてしまい、「うーむ……」
ただでさえ目標があからさまに否定しているナンパ意図を披瀝するのに最終目的まで開陳する馬鹿はいまい、今どきのナンパは四十一歳の身には難しいなと反省し、翌日夕方同じ交差点近くで、前日の魔除け少女に比べやや押さえ気味のガングロ少女ふたりがヒマそうに歩いているそばへ寄っていって、黙って花柄便箋を示したのである。「これ、どう? 興味ある?」便箋には「orochi気合」とボールペンで殴り書きしてある。簡単ながらこのローマ字の「解読」に集中させることにより、気まぐれな少女らの関心をまず通俗的に惹きつける。少女らは「なに、オロチ、って?」と訊いてくる。印南はここで、「なんだ、おろちも知らないの? 君らテレビ見てる?」と投げかける。少女らが顔を見合わせて「えー、見てるけどー」というのに「おろちも知らないんじゃ話にならないや。じゃあまたね、勉強してきてねー」と行きかける。少女らはまず間違いなく「何なに、おろちって。おじさん、教えて教えて」と追いすがってくる。なにやら教師風情のオジンにトレンドの知識において負けたのではJKの沽券に関わる。「いいよー、めんどくさいよー」などオジンはひとしきり渋ってみせてから「仕方ないなあ、そんなにいうなら、まあ」これで商談成立である。この方法で成功を重ね、そのうちに必ずしもパツキン日焼け系でないスッピンルーズソックス派を対象とするようにもなったのである。
誘いに乗せたあとの印南の段取りは、呆れるほどの正攻法だった。ここにも定型を努めて脱したあまり無防備なメタ定型へのこだわりがくすぶっているのが見て取れる。印南自身としては完全に型の呪縛から脱して新境地の不定形へと漂っているつもりであったためその無自覚が新たな大衆的枠組みにはまってしまっており、その定型ぶりとおろち文化の非定型性とのズレが認識できていなかったところに印南哲治的破局の萌芽があったと言えるだろうか。定型ぶりは「体を売らない」新しい形態の援助交際というあからさまなコンセプトに表われていて、彼女たちにセックスの害悪、セックスレスプレイの美徳、快便のための健康食品などを講義しながら【都立高二年・浜宿麻衣子の数学ノートより。なぜか少女たちは決まって学校のノートに印南の談話を書きとめている。命ぜられた形跡はないにもかかわらず】、一回五枚で「おろちプレイ」を繰り返したのである。テレクラを利用することもあれば、交差点で直接声をかけることもあった。
〈おろちプレイ〉は、少女たちの官能と好奇心を印南の予想を遥かに上回る浸透力で刺激した。第一の理由は、当時すでに、「変態おやじブーム」が全国の繁華街で密かなブームになっていたことが挙げられるだろう。横浜・戸塚や大宮に出没した「1000円おじさん」がその代表である。ある年のGWのナイスポは次のように報じている(他紙の記事を参照しつつやや記述変更)。
ある女子高生に聞いた話では、「この前、友だちの女のコ二人が、駅前でナンパしてきたオヤジとカラオケ行ったらしいの。そのオヤジ、二人がモーニング娘。の歌を歌うと手を叩いて喜んでたって、二人とも大ウケ。で、二人が調子に乗ってパンチラしたり、ブラジャーを見せたりしたら、そのオヤジが『1000円あげるから』と言って制服の上から胸やお尻をさわってきたって言ってた」。オヤジはさらに2000円ずつ上乗せして制服の上着を脱ぐように要求。ブラジャーの上から胸を揉んだり、スカートの中に手を入れてパンティーの上から股間を撫で回すなど、わいせつ行為はエスカレートしていったという。……そのウワサは、クチコミで他の女子高生にも広がって……1000円札を50枚から100枚も持ち歩いてちらつかせていたため、地元では「1000円おじさん」と呼ばれる有名人だったという。……それにしても「1000円ちょうだい」と自分から声をかける女子高生もいるというから困ったものである。自称「さわらせ屋」である。……1000円おじさんに限らず、サラリーマンらに女子高生が声をかけ、一分1000円で街頭で制服の上から胸を揉ませたりしている。……不況の影響で援助交際の相場はいま一万円ないし二万円に急落していると言われる。エンジョで思うように稼げなくなった女子高生らは、1000円で体をさわらせるという〝ソフト売春〟で客引きし、上客と見るや高額な援助交際を持ちかけてくるのだ。
このようなソフト援助交際的下地があったからこそ「おろち」もすんなり受け入れられたというか、おさわり系正統ソフト売春に飽きた少女たちの好奇心を励ますハード・ソフト売春の新風として、隠れトレンド的受容をされたのが「おろち」であったと言えよう。なにしろおろちプレイなら肌だろうが着衣だろうが一切接触ナシでも成立するので、心の踏ん切りさえつけば汚れ度ゼロ、ラクの極致と言えるのだ。
第二の受容理由は、「気合」というキーワードである。例の「orochi気合」という呪文には、「おろちきあい」→「おろ付き合い」→「おら付き合い」→「おらと付き合え」というサブリミナルメッセージが含まれており、そのうわべ朴訥な攻め姿勢が少女の警戒心を解いていたとの最近の研究もあるが、それよりも「気合」という語自体が重要だったのであろう。十代の少女たちが自らの冒険的遊びのノリを仲間内で表現しあう最適語が「気合」であることは三十年来変化しない定常現象であるが、排便時の息み、とりわけ他人の視線に抗しつつの産出が「気合」のエッセンスとなることに気づくのに時間はかからなかった。というよりも、ほんのちょっとの啓蒙的誘導の一言で足りた。おりから「トイレ盗撮」がひとときテレビや週刊誌で報道されて少女らの好奇心70%警戒心15%猜疑心10%敵愾心3%恐怖心2%を刺激していたこともあり、お尻系プレイは比較的入りやすい風潮にあったのである。
印南のおろちプレイを経験した女子高生の証言を聞いてみよう。【私立女子高二年・脇阪尚美と藤井範子の電話会話盗聴録音記録。売春の快楽って何? お金? いやいや、買春おじさんの悲哀感がたまらないのよね。ひとのあはれ……。援交する自分のあはれさへの反省がないところももの悲しい……。もの悲しいもの同士で、ああ、でももの悲しくない「ヘンな」おじさんにまたに出くわすと、なんかこう、悟りが開けちゃったっていうか、ええとね……たしかこんな……】
ん? 出なくっても心配することないよ。僕のワザにかかれば一ヶ月の便秘だって治っちゃうよ。ほら、つぼをこうやって押すわけさ。便意中枢のツボだからね。もうしばらくしたら出て出て止まらなくなるよー。
どうせなら入れられるより自分が入れたほうがかっこいいだろ。これからはそういう時代だよ。男も女も平等に出す時代。入れなきゃいけないとか入れさせなきゃいけないとか、勃たなきゃ情けないとか勃たせきゃ恥ずかしいとか、自意識まみれのセックスってのは文明病と言ってもいいね。いや、自意識も本物ならいいよ、実際はウソッコの自意識だからね、空気読み過ぎた惰性的自意識。だってそうだろ。文化とかたしなみとかあげくは愛の証拠とかにリトマス試験紙的に使われるようになってきてしまっているからさ、本能を置き去りにしたところで。欺瞞中の欺瞞だよね。
ホントは一晩じゅう彼女の脇に顔埋めてじっとしていたいってときに、密室のたしなみだってんで、無理してエッチしたりしてたもんな、俺も若い頃は。バカなことにエネルギーロスしたと思うよ。まったく。
男は女が望んでいると思っている。女は男が望んでいると思っている。誰一人心底望んでもいないまま、「相手が望んでいるから」という思い込みで、空虚な誤解で、自然でない自然がどんどん上塗りされていくんだ。
テンノーセーとかってなんかそれじゃないかい。
日の丸君が代をみてごらん。誰も本心では愛してないのに、まあ日の丸のデザインは美学的客観的に必然性があるから愛してる人も多いと思うよ、うん、日の丸はいいね、いいと思うよ俺も、世界で一番すぐれた旗かもしれんとすら思うよ、けど君だか御前だか国家ごっこ遊びに関しちゃねえ。ニッポンニッポンじゃないでしょっつの、文化も伝統も体育会じゃないでしょっつの。ほんとにみんなこれでいいと思ってると思うかい?
少女たちはたいてい学校で、慕っていた教師が入学式や卒業式で旗と歌に異論を唱えて首になったり校長と対立したりして不遇な目に遭ったのを目の当たりにした経験があるので、印南のこのテ平凡といえば平凡な説教が妙に染み入ったのである。印南哲治は「おろちおじさん」と呼ばれて「1000円おじさん」をすっかり時代遅れにし、少女たちは「おろちおじさん」→「おろちいおじさん」→「おいちいおじさん」→「おいしいおじさん」と文脈ごと気分ごとに呼び変え習わして、おろち文化はこのときすでにおいしい援助交際の筆頭にのし上がっていたのである。
〈おろち〉という言葉が印南によってか、あるいは少女の誰かによってか、いつから使われ始めたのかについて、確たる記録はない。orochi気合という印南の筆跡入り花柄便箋が何枚か現存しているが、印南の性格からして言葉そのものが印南の創意とは考えにくい。ウンコを「大蛇」と呼ぶ試みは、調査の限り、最も古くは1995年刊『おしりの秘密』(OL委員会選抜『痔主隊』著 ,飛鳥新社)に遡る。多くの女性が自らの痔体験を記すにあたって、問題の指示句がすべて「大蛇」と表記されることが凡例にあるが、発音は明記されていない。これを「おろち」と読むのだとすれば、『おしりの秘密』がおろち文化史上最初の第一次資料ということになるが、清水ちなみをはじめとする執筆陣の中に、後のおろち史に些少でも寄与した人物がいないのは不思議である。
(第13回 了)
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■ 三浦俊彦さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■