批評や創作の現場で、言葉にひそむ真理と物語構造を解き明かしてきた小原眞紀子。単に物語を楽しむ読者とは違う「創作者ならではの読み」を提示し、表現のヒントをひもとく。取り上げるのは、まさに創作の副読本(サブテキスト)となる古今東西の作品。必ずしも名作ばかりではないかもしれない、だからこその書き手を刺激する厳選レビュー。ページをめくり、創作のヒントを掴もう。あなたの物語に、新たな発想のスパイスを添えて。
by 金魚屋編集部
この連載は、創作者のための副読本を紹介する。文学史をなぞる読書案内でも、作品を読むように読者に薦める書評でもなくて、ここで扱うのは、かつて読んだ小説の創作者にとっての本質、また無意識の底に居座り続け、何十年たっても消えないディテールでもある。それはふとした瞬間に蘇ってくる——その残り方にこそ、小説というものの正体、そして創作の肥やしにすべきものが潜んでいる。作品の評価や作家研究は目的ではない。あくまで書く人間の血肉になる部分を抜き出してみせる。それが「サブテキスト」たる所以だ。
まずは大学生の頃に読み、以来ずっと記憶に焼きついたまま離れない一冊、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグの『オートバイ』(白水Uブックス、生田耕作訳)。この作家についてそれ以上、深追いしたことはない。フランスのシュルレアリスムの周縁にいた作家であることも、この作品が一九六八年の映画「あの胸にもういちど」(マリアンヌ・フェイスフルとアラン・ドロン主演)の原作になったことも、後になって知った程度のことでしかない。マンディアルグという固有名詞も、二十世紀フランス文学の中での位置づけも、この際どうでもいい。この小説は、ただ一人の女がオートバイに乗って失踪していく、その運動そのものとして記憶に刻まれている。そしてそれこそが創作者にとって取り出す価値のある部分だと思う。
人妻である主人公は夫のもとを離れ、隣国に暮らす愛人のもとへ向かうため、早朝、誰にも告げずにオートバイにまたがる。彼女は道中、革のジャケットに身を包み、猛烈なスピードで街道を駆け抜けながら、夫との倦怠に満ちた結婚生活や、愛人との情事の記憶を、目まぐるしく回想する。現在の疾走と、過去の回想や幻想とが交錯しながら進んでいく構成で、時折その意識は現実を離れ、官能的な幻想の領域にまで踏み込んでいく。そして最終的に彼女がたどり着く先には、破滅的ともいえる結末が待ち構えている。粗筋だけを取り出せば、不倫の果ての悲劇という、ある意味で古典的な枠組みの物語だ。
だが今、この「夫を捨てて愛人のもとへ走る」という設定そのものは、ほとんど印象に残っていない。不倫というコード、あるいは女の人生の選択としてのドラマ——そうした社会的な文脈はこの小説にとって、言ってしまえば単なる口実、走り出すための理由づけにすぎない。仮にこの設定が「夫を捨てて実家に帰る」でも「夫を捨てて一人で旅に出る」でも、記憶の中のイメージはさほど変わらなかっただろう。

記憶に残っているのは、そんな筋書きの是非ではなく、ただひたすらオートバイで世界を切り裂いていく、その移動の感覚そのものだ。風を受け、道路の起伏を感じ、速度が上がるごとに周囲の景色が引き延ばされ、歪んでいく。マンディアルグの筆は、その一瞬一瞬の身体感覚を執拗なまでに描写し尽くす。目的地に着くことよりも、着くまでのその過程、まさに移動という運動のエネルギーそのものが、ページを埋め尽くしている。ストーリーの帰結を追うための読書ではなく、一行一行がそのまま速度の体験になっているテキストなのだ。この小説が創作者に与えるのは、小説というものの本質が「物語」や「意味」である以前に、まず空間を切り裂くように進んでいく運動、そのエネルギーそのものだということだ。
もう一つ、この小説がこれほどまでに印象深いのは、愛人のもとへ走るという行為そのものよりも、若い女性の身体とオートバイという機械が結びついたときに発生する性的な感覚の強さゆえである。革のジャケット、エンジンの振動、太腿でまたぐ鋼の車体——そこにあるのは、社会的な逸脱の物語が持つ艶やかさではなく、もっと直接的で、もっと生々しいものである。この小説に惹きつけられる磁力の正体は、愛人だとか不倫だとか、そういう人間関係の綾にあるのではない。女とオートバイ、その二つの結びつきそのものにある。
だからこそ、この小説のタイトルは『愛人』でも『不倫』でもなく、『オートバイ』なのだ。彼女と機械との結びつきは、最終的には彼女と愛人との結びつきよりも強い。そしてそのことを証明しているのは、彼女の社会的な逸脱行為についての作者の解説や弁明ではなく、まさに小説そのもの——延々と続くオートバイ疾走の描写の分量と密度、その圧倒的な比重である。作者は多くを語らずとも、書くという行為の配分によって、この物語の本当の主題を突きつける。
創作者に与えられるものはこれである。物語の「口実」——なぜ彼女は走るのか、その社会的・道徳的な理由づけ——は、実のところそれほど重要ではない。読者の身体に食い込んでくるのは、口実の合理性ではなく、書き手がどこに筆を割き、何を執拗に描き続けるか、そのエネルギー配分そのものだ。何を語るかよりも、何にページを費やすか。『オートバイ』という一冊の小説は、そのことを雄弁に、またほとんど無言のうちに伝えてくる。
時代背景も、文学史上の意義もほとんど意識しないまま、それでもオートバイに乗る女のイメージだけを何十年も引きずり続けてきたという事実が、この小説の証明といえる。物語の口実は忘れられても、書き手が力を注いだ運動のエネルギーは、我々の身体に刻まれて消えないのだ。
小原眞紀子
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