
小説はうねうねと時間軸を前後させ重層化させながら進む。元厚生事務次官宅襲撃事件を起こした小泉に強く惹かれたのは平成二十年(二〇〇八年)のこと。母親の施設入所のために帰省して小泉と大伴教師の事件を思い出したのは九年(一九九七年)である。その間に私は原一男監督のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』を見てショックを受けてもいる。昭和四十四年(一九六九年)、皇居一般参賀の際に昭和天皇に向けてパチンコ玉を発射して逮捕された奥崎謙三のその後を追ったドキュメンタリーだ。
終戦直後の日本軍のニューギニア残留部隊で二名の兵士が処刑された。私刑である。奥崎はニューギニアに派兵されていたがこの事件に関わっていない。しかし終戦から三十七年も経った昭和五十七年(八二年)に処刑に関わった元上官らを訪ね暴力を振るって真相を告白させる様子がフィルムに収められている。映画のラストで「奥崎候補(兵庫一区)が短銃発砲 上官の息子 胸に重症」「息子でもよかった」という新聞記事が映し出される。当時奥崎は兵庫一区から衆議院選挙に立候補していた。その選挙中に元上官の自宅を訪ね応対に出た息子を改造拳銃で撃ったのだった。
元厚生事務次官宅襲撃事件の小泉も『ゆきゆきて、神軍』の奥崎も事件当事者を罰したわけではない。元厚生事務次官は愛犬を殺していないし元上官の息子は私刑事件と無関係だ。主観的に憎悪を増幅させて関係者を殺傷した彼らは狂気に囚われていたのだと言えないことはない。しかしその端緒に彼らの人生を狂わせた事件がある。
私にとって最も身近で興味を惹かれるのは芝原殴打事件である。もちろん芝原は大伴教師を襲っていない。殴打事件がその後の芝原の人生に影響を与えたのかどうかもわからない。しかし私は多くの人が時の経過とともに忘れてしまう事件がある人たちにとっては決定的な傷になり、思いがけない結果を生むことに気づいてしまった。ランダムに思い起こされた小泉や奥崎らの事件は芝原殴打事件に収斂し、その謎は解かれなければならない。
十九年前、大阪の中尾松泉堂で『奥の細道』の自筆本を見たのち、南下して母を見舞ったが、その折、弟に大伴教師の消息を教育委員会に問い合わせてもらったことがあった。大伴は定年退職して、実家のある新宮市三輪崎で健在であることが分かった。
三輪崎は国道42号沿いの海辺の町で、新宮と那智のほぼ中間に位置する。国道42号と平行してJR紀勢本線が走っていて、鉄道の駅もある。私と妻は新宮に一泊する予定だから、那智参詣の行き帰りに三輪崎を通ることになる。
急に黙り込んだ私を変に思ったのか、ん? という顔で妻がふり向いた。私は苦しまぎれに、それまで摑まっていた考えとは別のことを口にしていた。
「那智に吉田秀和の墓があるらしいんだ。彼のお父さんは新宮の出身で、先祖の墓はもともと新宮市内にあったらしいが、その後、那智に移された。吉田秀和は、先に亡くなったドイツ人の奥さんのバルバラさんを那智に葬った。そして、本人の遺骨も鎌倉から運ばれて、那智の墓に納められたという記事を読んだことがある。今、そのことを思い出してね」
私は、これまで芝原くんのことを一度も妻に話したことはない。
謎を解く機会とも言えないような巡り合わせが訪れる。平成二十九年(二〇一七年)に施設に入所していた母親が亡くなった。葬儀の後、妻が「折角の機会ですから、熊野にお詣りしない? お母さんの霊をお慰めするの」と言った。本宮大社、速玉大社、那智大社の三箇所に詣でる三熊野詣である。私は大伴教師の家が熊野詣のルート上にあることに気づいた。が、大伴に会ってみたいとは言えない。芝原殴打事件への私の興味はあまりにもとりとめがない。私の一瞬の沈黙に不審の目を向けた妻に、思いつきで音楽評論家の吉田秀和の墓が那智にあると話していた。私と妻は熊野詣の合間に吉田秀和の墓にも詣でることにする。芝原殴打事件を思い出してから十九年後のことである。
翌朝、私たちは出発した。富田川沿いに走る国道311に入って、一路本宮をめざす。311号と中辺路はほぼ重なっている。途中、滝尻、近露、継桜、伏拝などの王子に立ち寄りながら正午近くに本宮に着いた。晴れた空に風花が舞っている。おそらく、本宮を囲む果無山脈や玉置山の上空から吹き寄せられて来るのだろう。本宮大社は小高い丘の上にあるが、かつて熊野川の中州にあった。今より数倍の規模だったが、明治二十二年の大洪水で流され、現在地に移された。私たちは、杉の巨木の中の長い石段をのぼって本殿にお詣りしたあと、歩いて旧社地・大斎原を訪ねた。苔むした石垣だけが残る芝生に蔽われたがらんとした空間だが、それだけにかえって清浄感が漂う。しかし、日本一の高さと称する鉄筋コンクリートの大鳥居は余計だという気がする。
「昔来た時は、こんなものはなかったよ」
と私は妻に言った。
優れた小説には必ず小説の無意識とでも呼ぶべき小説記述がある。三熊野詣の地名列挙、細かな道案内などが「いかなる因果にて」の最も重要な小説記述である。私は時間軸を前後させながらとりとめもなく小泉の元厚生事務次官宅襲撃事件、『ゆきゆきて、神軍』の奥崎、そして芝原殴打事件を思い浮かべ興味を惹かれて来た。そのダッチロールするような精神の軌跡が三熊野詣に出かけた際の旅路の記述に反映されている。またそれは辻原登という作家にとって本質的な小説記述でもある。
小説は原則として現実世界を描く言語表現である。どうしようもなく錯綜し混乱する人間関係の歪みを表現する。辻原さんは現実に忠実だ。地を這うような現実世界の人間を描き出す。その一方で高い観念的希求を抱えている。それは多くの場合〝道に迷うこと〟で表現される。芥川賞受賞の出世作『村の名前』からそうだった。『村の名前』で主人公は中国の桃源県桃花源村で道に迷う。この世に桃源郷などありはしない。しかし道に迷うことで少しだけ現実を超えることができる。
私と妻は三熊野詣をしながら吉田秀和の墓を探すが見つからない。しかし私は大伴教師の住所を知っている。ある種の終着点、墓探しもまたダッチロールする。「三輪崎に・・・・・・」/思わず私は、考え詰めていたことを口走った。/「中学の時の恩師がいるんだ」/「あら、初耳」/「数学の先生でね」/「数学は苦手なんじゃなかった?」/「あの頃はそうでもなかったんだよ。でも、その先生のおかげで苦手になった」/「いま、おいくつになるのかしら?」/「たぶん、七十九か八十・・・・・・」/「ご健在?」/「さあ、分からない」/「お訪ねしてみたら、苦手な先生」。私はあっさりと、しかしなんの目論みもなく大伴教師の家の玄関に立っていた。
その時、私の口をついて彼の名前が出た。
「芝原慎吾くんのことを覚えてます?」
しかし、大伴は全く記憶していない、私は密かに落胆した。
庭に人の気配がして、私はガラス戸のほうをふり向いた。芝生の植わった池のほとりを十三、四の美少女が大きな声で、
「シロ、シロ!」
と呼びながら横切って行く。シロはたぶん犬の名前だろう。あの頃の芝原くんや私と同じ年頃の孫娘がいるようだ。
結局、私はしばらく大伴とにこやかに談笑しただけで、「不知火」(和歌山特産の高級蜜柑)を六個持たされて辞去することになる。暴力教師の大伴が充ち足りた晩年を送っていること、それを確認しただけで訪問は終わった。もちろん、それ以外のことは起こりようがない。
帰り際、私が玄関で靴を履いていると、大伴が背後から、
「あんた、ほんまは何しに来たんや? 手みやげの一つも持たんと・・・・・・」
と小声で言った。
私は、あの教室で、大伴が芝原くんの耳元に何事かを告げていた場景をまざまざと思い出した。
私は苦笑してごまかし、頭を下げて足早に玄関から遠ざかり、門をくぐった。
「あんた、ほんまは何しに来たんや? 手みやげの一つも持たんと」という大伴の言葉が小説のクライマックスでありすべての謎を解く鍵であるのは言うまでもない。人は未必の故意で他者を傷つける。どんな場合でも社会性を求める。自分の正義を他者に押しつける。様々な解釈が可能だ。しかしどの解釈も謎を解き明かしながら言語的説明を拒んでいる。直感理解できるが論理的に表現できない。ただその言葉は時間を溯る。出来事の端緒に発せられ、時に忘れられ、時に決定的な傷を人に与える。小説でしか書けないこの世のものでありながらこの世を超えた言葉である。
携帯が鳴った。佐藤春夫記念館の女性からだった。
「吉田秀和先生のお墓、分かりました。那智の川関というところで、バイパスのトンネルのすぐ近くです。お寺は天与寺というそうですが、いまは無住寺になっているとのことです」
私と妻は再びバイパスに乗って、那智に引き返し、那智の浜と熊野灘を望む、低木と雑草に蔽われた山の斜面にある吉田秀和の墓に詣でて、帰路についた。
私たちは新宮の速玉神社境内にある佐藤春夫記念館を訪ねた際に女性館員に吉田秀和の墓の場所を訊ねたが、分からなかった。が、大伴教師の家を訪ねた後に墓所がわかったという電話がかかってくる。
私と妻の三熊野詣――吉田秀和の墓に参るための旅は本筋に戻った。大伴教師宅訪問は観念だったということである。このわずかな現実遊離はあくまで現実に即して語られる。熟練作家の高度に作為的で、しかし無造作に無作為に書かれたとしか読めない作品である。
(了/20枚)
鶴山裕司
*『鶴山裕司の小説について考える文芸誌時評』は不定期連載です。
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