三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
店に入ると、もう俺以外のメンバーは揃っていた。全部で六人。「主賓のお出ましだ」と言ってくれたが、もう既に飲み始めている。そういう俺も道すがら、缶ビールを二本空けたからお互い様だ。マスターの新しい門出を祝って、というオオシマさんの音頭で乾杯。それを待たずして、周りから予想どおりの声をかけられる。
「水くさいじゃないの、黙ってやめちゃうなんて」
「まあ、まだ若いんだからさ、しっかり充電しておこう」
「そうそう、で、また店出してくれよ」
予想していたとはいえ鬱陶しい。店を閉めた日、明け方の商店街で考えていた場面とまったく同じだ。適当な言葉、適当な相槌、適当な空気。そして俺は「すいません、すいません」と苦笑いをしながらビールを飲む。
「でも、料理は旨かったよな」
「そうそう、煮込みは絶品だった」
「刺身の盛り付けも綺麗でな」
「馬鹿、当たり前だろ、プロがやってんだからさ」
みんなオオシマさんと同じくらいの歳だろうか。楽しそうだ。やっぱり店を潰した男の顔は、酒の肴にぴったりらしい。ジョッキを空けると、すぐに誰かがお代わりを勧めてくれる。もうオオシマさん以外の名前は思い出せない。
「でさ、これからどうすんのよ」
「また店やるんだろ?」
「次は大丈夫だよ、腕はいいんだから」
――じゃあ、なんでおまえら来なくなったんだよ。
そんな怒りを込めて「いや、まだ何も決めてないんです」と微笑む。ジョッキが空く。まだビールでいい? と訊かれ、日本酒を頼んだ。じゃあ瓶でもらうか、と場が盛り上がる。俺は日本酒が嫌いだ。飲み始めた頃から苦手だった。理由はひとつ。すぐに酔っ払うからだ。だから日本酒を頼んだ。
「結局、どのくらい続いたんだ?」
「二年半じゃねえか」
代わりにオオシマさんが答える。今日、俺はほとんど喋っていない。日本酒が来た。一口目はマスターからだぜ、と注がれる。枡の中のコップから溢れた酒が、その枡からも溢れそうになる。ほらほらほらほら、と勧められるがまま酒を啜る。不味い。すぐにでも酔いそうだ。

日本酒を飲み始めてから、やっと話題が変わった。
「お前んちの坊主、もう中学だろ?」
「もう二年だよ、二年」
「反抗期か?」
「そこまでひどくはねえけど、何考えてるかさっぱり分からんな」
「うちなんか女の子だからさ」
「そりゃ大変だ」
そんな中年男の雑談を肴に飲む日本酒はことさらに不味かった。そして、よく酔えた。気付けば御開きの時間だった。
「じゃあマスター、次に店やる時もこの商店街でやるんだぞ」
「そうだよ、みんな待ってんだから」
「ほら、最後に締めてくれよ、一言、な、一言」
弛緩しきった酔っ払いの視線に囲まれ、俺は苛立った。
――おまえら、他人事だと思って気楽なもんだな。
本当はそう言ってやりたかった。そんな腹の中も知らずに、みんな「さあ、締めてくれよ」と笑っている。畜生。俺は怒りに任せて泣いた。
「おい、マスター、どうした」
「お前、男が簡単に泣くなよ」
「大丈夫か、なあ」
大粒の涙がテーブルに落ち、こぼれた日本酒と混じり合った。肩をさするオオシマさんが「まだ若いんだから、やり直せるだろう。な?」と何度も繰り返している。抗議の涙は予想以上に備蓄されていたらしく、結局五分以上も泣き続ける羽目になった。
どうやって店を出てきたかは覚えていないが、気付けば家の近くを歩いていた。上着のポケットを触って、鍵と財布があることを確かめる。スマホは持ってこなかったので時間が分からない。
不思議なもので無理だと思うと琴絵の声が聞きたくなる。もう一週間は会っていない。今日の顛末を話したら、あいつは優しくしてくれるだろう。すぐに家まで来て、この頬に残る涙の跡を、ゆっくりと時間をかけ舐めてくれるはずだ。
早く家に帰って電話をしたい。そんな欲求が突き上げる。仕事の途中だろうと、誰かと遊んでいる最中だろうと、きっとあいつは部屋に来てくれる。そういう女だ。小走りをして早く帰ろう、そして電話をしよう。一瞬、そう思った。間違いない。ただ、やはり俺は酔いきれていなかった。胸の奥底には、どこかひんやりとした部分が残っている。ふと閃く。その冷たさを想像すれば、どうにか琴絵を拒絶できるだろう。拒絶しなければ、きっとまずいことになる。
胸の奥のひんやりを正確に想像するため、遊歩道のベンチへ腰を降ろす。足元に溜まっている枯葉を踏むとパリパリと音がした。あいつを拒絶したい理由ははっきりしている。これ以上、悪くなりたくない。それだけだ。今一瞬でも憩えば、俺はここに留まってしまうだろう。

ダメだ。俺は抜け出したいんだ。だからこの不快感を紛らすような茶番は避けた方がいい。完全に抜け出すその時までは、不快感にまみれて生きるべきだ。安っぽい休憩は命取りだぞ。枯葉をバリバリと踏みながら、そう何度も自分に言い聞かせた。
大きく息を吐きながら立ち上がり、家路をよろよろと辿る。帰ったらすぐに寝よう。あいつに電話なんかかけずに眠るんだ。そんな決意を胸に歩くうち、不思議と酔いは醒めてきた。ようやく秋の寒さがしみる。これでいい。しばらくはこの寒さに震え続けなければいけない。半端に暖をとれば、俺はここに居ついてしまうのだから。
敷きっぱなしの布団の上で、また予定のない一日が始まった。電話をかけない、という昨晩の決意はどうにか守られたようだが、枕元には飲みかけの缶ビール。遊歩道のベンチに座った後、たしかコンビニへ行ったような、と記憶をさかのぼり始めたが途中でやめた。
気も抜けてぬるくなったビールに口をつける。不味い。水を飲むために起き上がった。足元には昨日から充電しっ放しのスマホ。多分あいつからの着信かメールが入っている。そう予想したが、意外にも琴絵からの連絡はなかった。その代わり、というべきなのか稲垣さんからの着信があり、留守電が残っていた。明日にでもかけ直すよ、という短いメッセージを聞きながら枕元のビールを飲み干す。不味いと分かっていて飲むとあまり不味くない。儀式のように歯だけはちゃんと磨き、稲垣さんにかけ直す。まだ眠っていたらしく、受話器の向こうからは「うーん」と呻き声が洩れてきた。
「すいません、起こしちゃいました……よね?」
「うーん……、あ、お前か」
「すいません、またかけ直しますよ」
「いや、大丈夫。大丈夫なんだけど、ちょっと待っててくれ」
無機質な保留音。この曲、なんだっけな。いつか琴絵に曲名を教えてもらったはずだ。あいつは昔ピアノを習っていたらしい。金持ちだったのか? と訊くと、真剣な顔で「なんで過去形なの?」と言われた。その場はどうにかごまかしたが、自分でもよく分からなかった。何故俺はあいつを「今現在、金持ちではない」と思ったのだろう。そう思う根拠は何もない。あいつの過去なんて、高校を卒業して群馬から上京してきたという話しか知らない。いや、そもそも俺自身が知ろうとしないだけだ。
それとは正反対に、あいつは俺についてよく知っている。別に隠す必要などない俺は何でも喋るからだ。小学校の時の担任の名前、お袋の兄弟の人数、イトコたちの現在の職業。それだけではない。初めて万引きして捕まったスーパーの名前まで、あいつは自分のことのように知っている。
曲名の思い出せない保留音を聞きながら考えても答えは出なかったが、俺はあいつの「金持ちではない」部分だけを見てきたのかもしれないと思った。どこかへ外出した時、部屋の中で寛いでいる時、夜中に求め合う時、いつでも琴絵はどこか貧しい。金銭的に云々、ではない。「貧しい」というより「乏しい」のかもしれない。でも、俺はあいつと今も付き合っている。家族のことや過去のことを何ひとつ尋ねる気がないのに、だ。もしかしたら、その乏しさにこそ俺は惹かれているのだろうか?
唐突に保留音が切れた。
「悪い、待たせたな」
「いや、こちらこそすいません」
「……、と、何だっけ?」
「いや、留守電が入ってたんで」
「あ、そうだったそうだった」
かいつまめば稲垣さんの話は仕事の紹介だった。詳しく聞いてないんだけど、と言いながら教えてくれた内容は「独居老人に食事を作る」というものだった。店に来る客からの話らしい。
「料理がうまい人はいないかって聞かれてさ、お前が浮かんだもんでな」
「いや、ありがとうございます」
「まだ、仕事決まってないのか?」
「はい、すいません」
飲食関係は気が進まないと打ち明けてはいないが、稲垣さんの方から水を向けてくれた。
「やっぱり飲食はイヤか?」
「えっと、イヤっていうか……」
「分かるよ、何となくだけどな。俺も今の店が潰れたら、すぐには飲食って考えられないからさ」
稲垣さんも同じ感覚だと分かり、少し気が楽になった。独居老人の食事係。介護のようなものだろうか。それとも金持ちなのだろうか。どっちにしても、他人と触れ合う時間は必要最低限で済みそうだし、もしそうならば魅力的な話だと思う。
けれども俺は丁重に断った。これ以上稲垣さんを頼ることに対しての遠慮と抵抗。それが理由だ。
「そうか。でもな」
「はい」
「悪いけど、話だけでも聞いてみてくんないかな」
「え?」
「いや、一応話を持ってきてくれたのが常連さんでさ、簡単には断りづらいんだよ」
「……」
「本人が直接断るんだったら、向こうも納得するだろうからさ」
それならば、という感じで引き受けたが、渋々の口調とは裏腹に内心嬉しかった。たしかにこれ以上稲垣さんには頼りたくないが、背に腹は代えられないというのも事実だ。これ以上カップラーメンとスナック菓子の生活を続けたくはない。身体より先に、心が病んでしまう。
お礼を言って電話を切ると、ようやく一歩踏み出した気がして少しだけ楽になった。もう一度歯を磨いてみる。さっきよりも歯磨き粉の味が濃く感じられる。よし、今日は引越し以来放置している段ボール箱から物を出そう。
生まれ変われそうな感覚は、頭の中の埃も片付けてくれたらしく、あの無機質な保留音の曲名も思い出せた。たしかあれは「くるみ割り人形」という曲だ。

(第05回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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