三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
「しんきち」を出た後は寄り道せずにまっすぐ家へ戻り、二日ぶりに布団の上に寝転がった。ずいぶん長く出かけていたような気分だけど、まだ時刻は昼の二時。身体はそれなりに疲れていたが、頭の中がざわついているせいでなかなか眠れない。本当は銭湯に行ってさっぱりしたかったが、オープンは三時半。こういう時に風呂ナシは不便で困る。
結局あの後レモンサワーを二杯飲んだ。なんだか顔色悪いわね、とユキジおばちゃんは心配をしてくれた。熱でもあるんじゃないの? と訊かれたが、まさかついさっき店が潰れたとも言えず適当にごまかした。帰りがけ「次来た時はだし巻き用意しとくからね」と言ってくれたおばちゃんに、「ありがとう」と微笑もうとしたがうまく笑えなかった。疲れているから、だけではない。実は少しこみ上げるものがあった。どうやら俺が求めているものは短めの社交辞令らしい。
ドアが開く音がした。目が覚めたことで眠っていたんだと分かる。来たのは琴絵だろう。時間を確認すると七時半。夜だ。具合大丈夫なのお? というあいつの声が不快だったのは、寝起きだからではない。京都に行けなかった分、せめてひとりになりたかった。
「ご飯まだでしょ? 何か作る? それともどっかへ食べに行く?」
「あのさ、ちょっと風呂行ってきていいかな」
「あ、そっか。お風呂、ないんだもんね」初めて気付いたように笑う。
「うん」
「そうだ、私の家で入れば?」
違う。確かに風呂には入りたいが、それ以上にひとりになりたいんだ。
「いや、銭湯行くよ」
「いいじゃない、家に来れば」
「ほら、コトの家、店に近すぎるからさ」
出来るだけ悲しそうな表情でそう言うと、琴絵は「ごめん」と謝った。ここで待っててもいい? という問いかけに、曖昧な返事をしながら家を出る。やはり欲しいのは短めの社交辞令だ。俺はねっとりとした鬱陶しさから一刻も早く逃げたかった。ちょっと前だったらまた手を上げていたかもしれない。シャツ一枚だとさすがに寒かったが上着を取りに部屋へ戻る気はなかった。これ以上話しかけられたら、俺は色々と抑えられないだろう。

もう十月だ。風が冷たい。
本当だったらそろそろ京都に着く頃だったんだな。そう思いながらぼんやりと歩く。あと少しで今年も終わる。ふと、まだ親に閉店の報告をしていないことを思い出して気持ちが重くなった。銭湯までの道のりは意外と遠い。
三、
次の日から仕事を探さなければいけなかった。いや、その前に自分ができることを考えなければならなかった。普通に考えれば、また飲食店勤務というのが順当な線だと思う。しかし、どこか気分が乗らない。一度自分の店を持ったというプライドなのか、それともその店を潰したという卑屈さなのか、なぜか素直に飲食店勤務を受け入れられない自分がいる。
稲垣さんに相談すれば、多分どこかの店を紹介してもらえるだろう。それこそ彼の店で、週に何回かでも雇ってもらえるかもしれない。
「でもなあ……」
自分でも聞き取れないような小さな声が出た。どうも積極的にはなれない。結局、何もしないまま五日間が過ぎた。琴絵もあの日以来家に来ることはない。電話やメールのやり取りだけなら苛立たず普通に対応できる。
結局、何もしないまま五日間が過ぎた。琴絵もあの日以来家に来ることはない。電話やメールのやり取りだけなら苛立たず普通に対応できる。
「おはよう。元気?」
「うん、まあまあ」
「ちゃんと食べなきゃダメだよ」
「分かった。サンキュー」
そんな他愛のないやり取りにすぎなかったが、機械的にそれをこなす気分はそんなに悪くはない。
こんな調子なら、いっそ京都でもどこでも行ってしまおうか。一日のうち何度かそんな誘惑に駆られるが、それを実行に移すために必要な何かはすっかり消えてしまっていた。あの日、俺を品川駅のホームまで導いた何か。
その正体など知りたくもなかったが、何故あれだけ漲っていたものが消えてしまったのかは興味がある。今となっては脳裏に浮かぶ鴨川の風景や、スタート地点から離れていくあの感覚でさえも、直接気持ちを焚きつけることはない。間に一枚、薄い透明の膜がある。そして、その膜を張っているのは自分自身だ。この進展のない日々に、俺は少しずつ慣れてきている。きっとこんな調子で五年間、旅を忘れていたんだろう。
敷きっぱなしの布団に身体を横たえ、段ボール箱から引っ張り出した本や雑誌を読み返しながら、スナック菓子やカップラーメンを腹に詰め込む日々が続く。やらなければ、と思いながらもまだ荷物を出していないので、狭い部屋の中は段ボール箱だらけだ。それだけではない。スマホは充電器に繋いだままだし、ゴミは玄関へ押しやったまま。部屋から出るのは共同トイレを使う時だけで、ここ数日は銭湯にも行っていない。どんどんヒトとしての機能が低下している。
一度、明け方に大きめの地震があった。震度四。ドスンという一発目の衝撃で縦揺れだと分かった。背中に伝わる衝撃。眠りに落ちて間もないタイミングだったので、すぐに目が覚めた。スマホの警報はその後だ。窓ガラスはビリビリと震え、重ねてあった段ボール箱が足元に崩れてくる。揺れは一分ほど続き、そのうち両隣の住人がドアを開ける音も聞こえてきた。でも、俺は布団の上で身体を動かさなかった。怖かったわけではない。その逆だ。別にこのままどうかなるのなら、それもそれでいいかと思えた。まだ揺れが収まらない中、再び目を閉じた。死をも畏れぬ、なんて立派な心境ではない。ただ、生に鈍感なだけだ。
その日の夜、親から電話がかかってきた。スマホの画面に映る「実家」という文字。もちろん出る気はなかった。そのくせ、残された伝言はすぐに聞いてみた。
「今朝の地震、大丈夫でしたか? そっちも結構大きかったみたいなので心配してます。では、また」
どこか他人行儀な親父の声。「そっちも」ということは、静岡もかなり揺れたのだろう。本当は俺の方から電話をするべきじゃないか、と落ち込んだ。やはりなるべく早く、本当のことを伝えておかないと。そうは思うが、結局次の仕事が決まってからの方がいいやと先延ばしにしてしまう。親に心配をかけたくないから、なんて大嘘は恥ずかしくてもう使えない。すべて姑息でつまらない見栄のせいだ。俺にはちゃんと分かっている。
家にある食糧も底をつきそうになった頃、その電話はかかってきた。店をやっていたせいで、見覚えのない着信番号に出るのは平気だ。もしもし、という野太い声。その一言だけでオオシマさんだと分かった。
「おいおい、店、どうしちゃったんだよ、もしかしてやめたのか?」
「あ、はあ」
「そうか……。いやな、ずっと開けてないからおかしいとは思ってたんだけどよ、今さっき店の前を通ったら看板が外れてたから驚いてさ」
おそらく新しく入る人が改装を始めたのだろう。そういえば、この間の電話で稲垣さんから聞かされた気がする。
「もうあれか? 新しい仕事をやってんのか?」
「いや、まだ、ちょっと探していて……」
「なるほどな。まあ今の御時世、すぐには決まらんか」
オオシマさんは同じ商店街の喫茶店のマスターだ。もう五十歳を超えているが、筋肉質な体つきのせいか若く見える。ここ最近は御無沙汰だったが、開店当初はよく顔を出してくれた。彼のおかげで、それまで接点がなかった商店街の人たちとも知り合えた。
「じゃあ、まだ職探し中ってわけだな」
「そうですね」
「だったら明日、ちょっと顔出してくれよ」
「え?」
「少し遅れちゃったけどさ、送別会をやろう。明日、夜は大丈夫だろ?」
何度か断ったものの、最後は押し切られてしまった。あの人はそういう人だ。他の連中にも声かけとくからよ、と電話は切れた。店をやめたからといって、人間関係までやめられるわけではないと改めて思い知る。気は重かったが、まあ仕方がない。大人の責任だと思って顔を出そう。だったら明日のための準備をしなければ、と重い身体を起こす。もう銭湯が開いている時間だ。
さすがに一週間とまではいかないが、風呂に入るのは久しぶりだ。ついでにスーパーへ寄って食糧を買ってこよう。財布の中には五千円札が一枚。もちろん銀行にも金は入っているが、そろそろ真剣に仕事を探さないとまずい。銭湯までの少し長い道のり。俺はずっと新しい仕事について考えようとしていたが、結局金の計算しかできなかった。

銭湯で久しぶりに自分の顔を見る。鏡はまだ段ボール箱の中だし、共同トイレの鏡は割れていて使い物にならない。俺は久々に自分と対面した。湯船に浸かってさっぱりしたはずなのに、鏡の中の俺は無精ひげのせいか老け込んでいた。買ったばかりのカミソリの刃を顎にあてる。一枚刃が五十円、二枚刃は倍の百円。もちろん一枚刃にした。今の俺は戦時体制。贅沢は敵だ。プラ製の椅子に腰かけて数分、慣れないながら何とか剃れた。でもおかしい。ひげは消えたのに鏡の中の俺は老け込んだままだった。
帰りに寄ったスーパーでは色々迷ったが、結局またカップラーメンを選んだ。まだちゃんと料理を作る気にはなれない。あとスナック菓子をいくつかカゴに入れたら、もう欲しい物はなかった。両方とも嵩張るので袋は二つ必要になったが、その重さは笑えるほど軽かった。
(第04回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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