三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
いつの間にか包丁が入ったバッグを手繰り寄せ、抱きかかえるようにして眠っていた。つまらない夢を見たのはそのせいだろう。夢というのか、記憶というのか、俺は昔からその境目が曖昧だ。記憶をたどりつつ眠りに落ちて気付けば夢の中にいたり、夢が終わって元ネタとなった記憶を探りながら目を覚ましたり、その二つはなだらかな地続きになっている。今だって途中からこれは夢だと見破り、ところでいつの記憶だったっけと考えながら起きた。
深夜の川沿い、サーフパンツを履いて隣に座っている好きでもない女を必死に口説いている俺――。
本当、つまらない夢だ。無論全てを体験したわけではないが、ところどころ覚えがある。確かなのはそれが旅先、つまりあの店を始める前の記憶だということ。改めて計算するまでもなく、ずいぶんと旅をしていない。店をオープンしてからは確実に、その直前だってコロナ騒動の中で開店準備を進めていたから、そんな時間は作れなかった。いざこうなってみれば、その余裕のなさが命取りだったようにも思える。
学生の頃は暇があれば旅行ばかりしていた。「通過しただけ」も数えれば四十七都道府県は制覇している。俺にとっての旅は国内旅行だ。働くようになってから何度か海外にも行ってみたが、期待値以上の面白さは味わえなかった。初めはその理由が分からなかったが、経験を重ねるうちに見えてきたことがある。俺が旅をするうえで最も重要なのは目的地へ到着することではなく、住み慣れた現在地から徐々に離れていく時のワクワクする感覚らしい。だから飛行機で何時間か眠っていれば到着してしまう旅はどこか物足りなかった。
もちろん飛行機から降りればそこには未知の世界が広がっているし、特に言葉も存在も完全には理解されない海外なら、全てを脱ぎ捨てられると思う。百パーセントに近いレベルで日常から解放されるだろう。もしかしたら、と窮屈な姿勢で寝転がりながらふと思う。
――もしかしたら、俺はそこまで解放されたくないのかもしれない。
高水準の解放によって得られる高品質な自由をきっと俺は持て余す。いくら高価なおもちゃでも、遊び方が分からなければただのガラクタだ。
それよりも俺は「兆し」が欲しい。全てを脱ぎ捨てられそうな兆し。日常から解放されそうな兆し。そして、今より自由になれそうな兆し。その兆しの真っ只中にいる時が一番ワクワクする。こうして考えているだけでも興奮してしまう。そろそろ起きてみようかな。そして久しぶりに旅へ出てみよう。
どこへ? と考え始めて間もなく、謎がひとつ解けた。最後に旅をしたのは六、七年前、目的地は九州で、福岡、佐賀、長崎の順に巡った。その初日、福岡・中洲の屋台で呑み過ぎた俺は、朝になるまで、いや、朝になっても鼻と舌にピアスをした金髪の女をホテルに誘っていた。その記憶がさっきのつまらない夢に活かされたに違いない。
こうしてひとつ謎が解けると、残りもドミノ式に判明し始める。あのサーフパンツの出どころは高校一年の夏、北海道を目指した時だ。青森から乗った船で同じく一人旅をしていた大学生と意気投合し、誘われるがまま小樽の海水浴場へ行った。用意のない俺は、彼からサーフパンツを借りて海の中へ。後で同級生から、それはナンパだとからかわれた。あんな経験もつまらない夢に欠かせないピースだ。

そんな答え合わせは楽しく、窮屈な姿勢も隣の部屋のテレビの音も大して気にならない。あとは起き上がって旅に出るだけ。そんな状態を楽しみながら、「実は店を畳んだのは旅に出るため」なんて嘯いてみる。こんな言葉、両親に伝えたらどんな顔をするだろう。さすがに両親は無理だとしても、一度は誰かにぶつけてみたい――。
馬鹿げた野望を膨らましていると、今度は京都の鴨川で野宿をした時の景色がよぎる。間違いなくつまらない夢に反映されていた景色。あれは調理師学校時代だ。川沿いには同じように金のない連中がたくさんいた。俺は粋がって何本も缶ビールを飲んで何度も吐いた、文字どおりの苦い記憶。次の日から老舗の安いゲストハウスに泊まり、どこの国か分からない人と、どこの国か分からない言葉で喋っていた。ブロークン・ボディー・ランゲージ。俺は人見知りだが、旅の途中ならば平気で知らない人と関われる。
さあ、今度こそ本当に起き上がろう。このまま横たわっていても睡魔は来てくれないだろうし、何より俺にはこの家に、この街に、この東京にいる理由がない。身体はまだ疲れているが、この狭い玄関よりも電車の中で寝た方が快適だろう。よいしょ、といよいよ起き上がる。
何に乗って行こうか? 金ならない。新幹線、特急は無理。いや、それ以前にどこへ行こうか? まあいい。時間だけはたっぷりある。各駅停車でゆっくり東京を離れよう。好きな曲「マイ・フェイバリット・シングス」を口ずさみながら、一日分の下着とシャツをリュックに詰め込む。きっとこれでは足りないけれど問題ない。現地調達すればいい。店は潰したがカードはまだ活きている。服も着替えず、顔も洗わず、ただ旅立つだけ。もう今からこんなにワクワクしている。今日の夜、俺はどこか遠い土地で身体を横たえているだろう。さあ、用意は出来た。とりあえずこの家を出よう。
二、
線路に沿って陽光が伸びている。平日の昼前、品川駅のホームはそれなりに混んでいた。数分前に決めた行き先はとりあえず京都。「マイ・フェイバリット・シングス」につられたかもしれない。あくまでもとりあえず。だから途中で降りても通り過ぎても構わない。決まっているのは、東京を離れることだけだ。
次の電車まであと十分。迷わず缶ビールを買った。味はよく分からなかったが、いい具合に胃を刺激してくれる。これから八時間後、少なくとも午後九時前には京都に到着しているだろう。しつこいようだが、あくまでもとりあえず。今の俺に目的地などない。いつ戻るかも決めていない。もしかしたらしばらくは戻らないかもしれない。
昨今、京都を訪れる外国人旅行客がかなり多いのは知っている。乏しい予算で今夜の宿を確保できるだろうか。別に駄目なら駄目でいい。鴨川で野宿している自分を想像してみたが悪くない。ビールがやっと旨くなってきた。俺はこのホームにいる誰よりも自由だと、大声で叫んで報せてやりたい。あの頃の若さはないが、今はどれだけビールを飲んでも吐かないだろう。年を取るのも悪くない。三十代になった俺はホームの片隅でビールを飲み、旅に出なかった数年間を取り戻そうとしている。
気付けばアナウンスが流れていた。そろそろ電車がホームに入ってくる。俺はゆっくりとビールを飲み干した。そして一応メールを確認しておこうとポケットからスマホを取り出す。その動きがまずかった。

どうして今メールを確認しようなんて思ったんだろう。急ぎの用件なんて来るはずがないのに、なぜ俺はスマホをチェックしてしまったんだろう。不用意にそんなことをしなければ、気付かずに済んだのに……。
もちろんどこかのタイミングで気付くだろうが、車中ならば諦めも勢いもついたはずだ。でも俺はここ品川駅のホームで気付いてしまった。最悪だ。いつの間にかスマホには、十件以上の着信履歴が残っていた。
きっと全部琴絵からだろう――。案の定その予想は当たり、迷った挙句、俺はベンチに座って電車を見送った。乗るはずだった車体が目の前を走り過ぎて行く。陽光の上を滑り出した東海道線。少しずつ小さくなるその姿を見ながら俺は迷った。短時間に十回以上も電話をかけてくる女は放っておいた方がいいのか? 難問だ。しかし悠長に迷っている暇などない。電話はすぐにかかってきた。
「……もしもし」
「どこよ」
「……」
「どこなのよ」
苛立ちが溢れた琴絵の声は、まだ京都方面に向いていた俺の心を一瞬で引き戻した。
「ちょっと、聞いてるの?」
「ああ、どうした?」
「どうしたって、なんで電話に出ないのよ」
電話の向こうの琴絵が浮かぶ。顔色の失せたあの表情。俺をなじる時の顔だ。どうにかこの場を凌ぐには嘘しかない。精巧でなくてもいい。雑な造りで構わないから、ずっと根気よくつき続けることが大事だ。
「ちょっと酔っ払ったみたいでさ」
「え?」
「店、最後だっただろ。なんだか寝れなくてさ」
「……」
「もう少し酔いを醒ましたら帰るよ」
「で、今どこなの?」
段々琴絵が落ち着いてきている。でも、このまま会話を続けるのも危険だ。怒っていた分と同じだけ落ち込む。それがいつものパターンだ。何度も何度も謝ったり、自分の欠点を幾つもあげつらったりして、結果「死なせて」とか「死ぬ」とか言い出す。俺には分かっている。数え切れないほど、そんな姿を見てきた。
「今、これどこだろうな」口元を掌で覆い、周りの音を遮る。「多分大きな公園だと思うけど」
「公園?」
「うん、ベンチで寝てたから、公園じゃないかな」
「どこの公園よ」
「いや、分かんないけど、まあ大丈夫だよ、怪我もしてないし」
不承不承ではあったが、琴絵はどうにか納得したようだった。
「怪我って、何言ってんのよ」
軽く笑っている。ここが引き際だ。ここで電話を切らないと、必ずこの女は落ち込んで「死なせて」と言い出す。
「ちょっとトイレで吐いてくるよ」
「え? 気持ち悪いの?」
「そりゃ飲んだからな」
精巧でなくてもいい。嘘はつき通すことが大事だ。そんな目論見は正しかったらしい。あいつはまだ何か言いたそうだったが、「帰ったら連絡してね」と電話は切れた。
ホームに取り残された俺はベンチに深く腰掛け直す。何とか凌げた。でも旅は中止だ。激しい憤りも、微かな苛立ちもない。ただただ虚しいだけだ。
とりあえず立ち上がろう。このまま座っていても仕方ない。目の前には次の電車が来るだけだ。乗れない電車など見たくもない。よいしょ、と声を出し立ち上がる。形勢逆転。今、このホームにいる誰よりも俺は不自由だ。
役目を失った軽いリュックを背負い、階段に向かって歩き出した男の姿は、滑稽なほど萎れているに違いない。
(第01回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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