わたしは「おひとりさまカフェ」に通う孤独な日々を送りながら、自宅でリボーンドール(精巧な赤ちゃん人形)のレンタル事業を営んでいる。赤ちゃんを持てなかった過去、出張先で客死した恋人、人間の代わりに人形に語りかける日々、そして偽名で人形を持ち逃げした女性客・・・。人形に救いを求める人々との交流を通じ、主人公は人と人とのつながりへの渇望と孤独との折り合い方を静かに問い直していく。
金魚屋新人賞佳作作家・菅原美架のデビュー作!
by 金魚屋編集部
ある種の憂鬱を含んだ初夏の生温かい風が鼻孔をくすぐり、それはやがてかたちのはっきりしない重苦しい塊になって私の胸の奥を支配しはじめる。ここ最近急速に都市開発が進められてきた駅前一帯は、土曜日の夕方ともなると多くの人々が集い、新しくオープンした商業施設や大通り、広場を埋め尽くす。巨大なコンクリートの壁はアスファルトの照り返しを受けて熱量を増し、通りを行きかう人々のざわめきの中に無機質なエネルギーを放出していく。私はいつもそのまぶしさに目がくらみそうになり、にぎやかな喧噪に耳をふさぎたくなる。だけど、それなのに私はよくここにやってくる。ここは多くの人にとってはとても温かで、心が沸き立つような場所だ。だから私はこうしてきょうも街に出る。ここに身を委ねたいから。
この街は私が一人暮らしを始めた三十年ほど前とはすっかり様変わりしてしまった。若い世帯向けの洒落たマンションが立ち並び、衣食住のニーズを備えた大型ショッピングセンターが競うようにオープンし、のきなみIT関連、グロース企業が増え、若くて優秀な人材とその家族が数多く移り住んできた。土曜日の夕方や日曜日には、赤ちゃんを連れた若い家族がまるでその幸せぶりをアピールするかのように集まってくる。顔が小さく育ちのよさそうな夫と流行のファッションに身を包んだ今風で美しい妻、そして羽二重もちのような肌をした白くて愛くるしい赤ちゃんが一セットだ。誰もこの覇気のない中年女に目を留める人などいない。私は商業施設のフロアに備えられた休憩用のベンチかトイレの場所を示す矢印のようなものだ。間違って彼らの視界に入ってしまってもありふれた風景として情報処理されるだけだ。私はただそこにいて、彼らに不快感を与えたり怪しまれたりしない程度に視線を向けてその幸せの中身を想像しながら観察する。
「家族」「絆」「大切な人」、テレビやSNSや雑誌やあちらこちらから迫ってくるこのワードは私をいつも少し落ち着かない気分にさせる。でもきっとそれはたいていの人に備わっているデフォルトなのだろう。多くの人は皆、家族や友人とあたりまえにひもづいている。
食品フロアを歩いていると少し空腹を感じたので駅裏にあるいつものカフェに向かった。私はこのカフェが気に入っていた。
「おひとりさまカフェ」
店の扉を開く前に、大きなブラックボードに記された注意事項にいつものように立ち止まって目を通す。
【ここはおひとりで過ごしていただくカフェです。
お二人、あるいはそれ以上でのご入店を固くお断りいたします。
待ち合わせもご遠慮ください。
もしも店内で偶然お知り合いに遭遇したとしても、決して声を出さず、軽く目礼だけでご挨拶を済ませていただけますようお願いいたします。
その方がどんなに仲良しでも、十年ぶりの再会でも、お世話になった目上の方でも、命の恩人でも、です。
規約に違反された場合は直ちに退室していただき、今後も永久的にご入店禁止といたします。
さぁ、おひとりの時間を心ゆくまでお楽しみくださいませ。】
だから私はいつもここでは堂々とひとりだ。ここにはいろいろな「ひとり」がやってくる。皆原因も経過も結果もさまざまだ。
店内は群青色のブロック壁に固く閉ざされていていつもほの暗かった。ドーム様の高い天井に備えられたいくつかの明かり取りからわずかな太陽光が差し込むと、外の世界とこちら側との境界を感じて、まるで大きな力で匿われているかのような安堵を覚える。席数は二十ほどあって、それぞれのブースがアンティークなダイヤガラス入りの木製パーティションや、わずかにシルエットが映し出されるくらいの布地が張られたスチールの衝立で区切られていて銘々が個室のような空間につくられている。ある席はライティングデスクに美しいステンドグラスのランプが置かれていたり、ある席はマホガニー色の一人机に飴色の布のランプシェードとロッキングチェアが、またある席はコーヒーテーブルにゆったりとした一人掛けソファの組み合わせにどこか遠い国の中世のお城の写真が飾られていたり、それぞれが異なった世界観になっていてまたしょっちゅう模様替えをするものだから何度訪れても飽きることはない。メニューはパンケーキもあるしプリンアラモードもあるしスパゲッティナポリタンもあるしステーキがメインのプレートもある。特別美味しくはないけれどまずくもない。そしてそこにはいつも静かな、今まで聴いたことのないどこか遠い国の音楽が耳をすませるとやっと聞こえてくるようなボリュームで流れている。皆ここではひとり静かに本を読んだり、食事をしたり、ただそこに“居る”という行為を楽しんだりしている。
注文したオムライスとパセリの浮かんだコンソメスープを食べ終えて、コーヒーに砂糖とミルクを入れた時、私は家に置いてきた赤ちゃんのことを突然思い出して急に落ち着かなくなってきた。こんなにゆっくりしている場合ではないのだった。私はコーヒーには口をつけず、慌ててカフェを出た。途中のドラッグストアで乳糖不耐症用の粉ミルクを三缶買い、プラタナス並木のトンネルを潜り抜けるようにして急ぎ足で家に戻った。

玄関ドアを開けると部屋はしんとしていた。昨晩スーパーのお惣菜売り場で買ってきたホウレンソウとベーコンのキッシュが入っていたプラスチックトレーが、ふたを開けたままのダストボックスから甘く腐敗しかけた臭いを放っている。どこの家にも、その家族が作り出す匂いが家庭の数だけ存在する。幸せな食卓の匂いもあれば、暗い秘密の匂いもある。私の赤ちゃんたちも、見知らぬ家庭に派遣されて帰って来た時、いつもさまざまな匂いをまとって帰ってくる。その多くは古い宝箱を開けた時のような、少し悲しいひなたの匂いだ。
赤ちゃんたちと他愛のない言葉を交わしながら、私はマグカップでミルクをつくる。少し濃いめにした方が美味しいのだ。粉っぽくて適度な甘みと塩み、そしてミルク特有の生臭ささがあり、私は赤ちゃんたちの顔を眺めながらそれを自分の口に運ぶ。それからベビーベッドで目を開けたまま眠っているサエ子を抱き上げてひざに乗せる。まだ首が座っていないから優しく頭をささえて左ひじを枕替わりにしてあげると、気持ちがよいのか少しだけほほ笑んだ。私も同じようにほほ笑む。サエ子の口の中に人差し指を突っ込むと、小さくて柔らかい舌の存在をひんやりと感じる。いたずらで右頬をビンタしてみても泣き出すことはない。唐突に頬を張ったのに驚きも泣きもしない赤ちゃんに私は少しイライラし、それからやがて後悔する。
「サエ子、ごめんね。そろそろアンジェリーナとサクラ子が帰ってくると思うわ。いっしょにお出迎えしようね」
サエ子は特にアンジェリーナと仲がいいから、離れていた1週間は寂しかったのではないかと思う。けれど明日になればまたすぐにアンジェリーナは別のママさんのところに一週間お泊りに行くことになっているのでほんの一夜の再会だ。このサエ子にもたまには指名が入ればいいのだが、彼女は生まれつき髪の毛が傷んでいるから好かれないのかもしれない。まるで老婆のような硬くてキシキシした髪質をしている。
玄関のチャイムがリリンと鳴った。サエ子を抱いたままドアを開けようとした瞬間、日ごろ契約している宅配便の配達員の声ではなく、聞き覚えのない中年女性の声がドア越しに耳に入ってきたので私は身構えた。
「すみません。ちょっとごめんなさい。お願いします、開けてくれる?」
ドアの向こうの女性は取っ手に手をかけて力任せに押したり引いたりし始めたので、私は慌ててサエ子をなるべく遠くに放り投げて少しだけドアを開けた。そこには見知らぬ女が立っていた。私と同じくらいの年齢だろうか。どこからかここまで走ってきたのだろうか、肩で息をしている。
「あの、どちらさまですか? ご近所に迷惑になります、そんな大声で。どんなご用件でしょう?」
「ごめんなさいね、突然。ここレンタル赤ちゃんを扱っているところよね?」
長い顔と年齢にそぐわない少女のような細くて高い声、全く真意の読み取れない満面の笑顔が私を不快な気持ちにさせる。
「ええ、そうですけれど」
とりあえず私はそう答えた。
「やっぱりね。あのね、赤ちゃんを貸してほしいのよ」
そう言いながら女は半ば強引にドアの隙間からからだをねじ込んできた。レンタルの会員登録や赤ちゃんの閲覧、申し込み、支払い、発送から返却までのすべての工程はネット上に開設しているホームページで完結するようになっている。それなのに、彼女はなぜ直接ここを訪ねてきたのだろうと私はいぶかしく思った。
「私ね、パソコンやスマホで注文したり支払いとかするのがすごく嫌いなのよ。アンダーバーとか半角英数字とかパスワードだとかややこやしいじゃない? 前に一度ね、カラーボックスをひとつショッピングサイトで注文したことがあるのよ。ホームセンターで買っても持って帰ることができないじゃない? あんな重いもの。玄関まで届くならそっちの方がいいでしょう? そうしたらね、驚いたことに百個届いたことがあったのよ、カラーボックスがよ。一と入れたつもりだったのに百と入れたんじゃないかと思うのよ、私」
私は百個のカラーボックスに囲まれて途方にくれている彼女を想像した。
「それにね、お借りする赤ちゃんも直接見て触って決めたいの。だからこうしてサロンにお訪ねしたんです」
サロンと名乗るのも気恥ずかしいような古い集合住宅のこの一室を、気を使ったつもりなのだろうか彼女はあえて「サロン」と言った。しかしなるほど、と私は思った。会員は今、全国に百二十人ほどいるが、彼女のように同じ地域に住んでいるなら、なかには直接訪問してみようと考える人がいたとしても不思議はないのかもしれない。それよりも、ネットを介さずに受け渡しができたら、サイトの管理会社に支払う手数料も、いつもこちらが負担している往復の送料も必要なくなるからそれがまるまる儲けになる。
「そうですか、そういうことでしたらどうぞ」
私はそう言って足元にスリッパを置き、彼女が靴を脱ぎ始めたすきに急いでさっき放り投げたサエ子を抱き上げ、頬についた綿ぼこりをはらった。廊下に倒れていたサエ子はまるで壊れた人形のように手足がばらばらの方向に向き、ガラス玉のような瞳にはなんの感情も宿ってはいなかった。

赤ちゃんを並べている北向きの「展示室」と呼んでいる八畳間に案内した瞬間、彼女は奇声を上げた。
「まあぁぁぁぁ! 素晴らしいわ、怖いわ。なんてかわいらしいんでしょう」
この部屋には今、十体のリボーンドールが出番待ちをしている。先日は、テレビドラマで源頼朝と政子の間に生まれた赤ん坊大姫役に赤ちゃんをレンタルしたいというテレビ局からの依頼があったので、ここにいるマリ子を派遣した。政子役の女優がおくるみにくるまれた大姫を抱いてあやし、そこに頼朝がやってきてのぞき込んでほほ笑むという場面で、視聴者には赤ん坊の頭がちらっと見えるだけで顔は写さないということだったからマリ子にしたのだ。マリ子は髪の毛がまだ生えていなくていつもまぶたを閉じて眠っている。このコにあまり人気がないのは、たぶん寝顔が寝顔に見えないからだろう。死んでいるように見えるのだ。呼びかけてもゆすっても、とても目を開けそうに思えないほど表情が固定されている。しかも手足はシリコンだが胴体は中に綿が詰められた布だ。購入した値段が安かったせいもあるが、こんなのはただの人形ではないか、とすぐに見抜かれてしまう。稼ぎが悪くやっかいもののマリ子は、そのうちフリマサイトで格安で販売して新しい赤ちゃんを迎えるための資金にしようと考えていた。
「抱っこしてみます?」
私はまだ首が座っていない生後一か月ほどの新生児ハンナに視線を向け、彼女の反応を見ながら左腕で小さなメロンくらいに重たい頭を慎重に支え、右手でサイズの合わないおむつで膨れ上がったふにゃりとしたお尻を包み込みながら抱き上げた。しかし彼女はそれをすぐに受け取るかと思えばそうではなく、まるで会ってはいけなかった人物と対峙したかのように体を硬直させ、何かに耐えているみたいに唇を固く結んだ。それからやっと気を取り直したように大きく息を吸い込んで恐る恐る両手を伸ばしてきた。
「ほら、よく見てください。ビロードのような肌の下にうっすらと血管が走っているでしょう。きれいな血液が流れているのよ、わかるでしょう? 小さな小川のように流れているのが」
彼女は私の言葉に素直にしたがうように眉間にしわを寄せながらハンナの透明な素肌に目を凝らした。
「そうだわ。この間、自分で自分の頬をひっかいてできてしまったキズがあるんだけれどそろそろ治りかけてきたようね」
水蜜桃にできたみずみずしい切れ目のような箇所を見つけると、彼女は中指の先をそっとのせてそれを確かめるようにおそるおそるなぞり始めた。
「みんないいコなんですよ」
私はハンナの頬のキズをなで続けている女の顔を見つめながらそう言った。
そう、このコたちは皆全員ひとり残らず私の所有物だ。さからわないし、いつまでも赤ちゃんでいてくれる。私をたよっているし、それにきっと私の幸せも願ってくれている。私はいつもながら、しばし来客の存在をわすれて完璧な弾力と水分を保持した赤ちゃんの肌の美しさに見とれてしまう。私たちはしばらくの間言葉を失ったまま同じ時間を共有した。赤ちゃんたちのかすかな寝息に耳を澄ませ、額を湿らせるキラキラした汗を見つめ、鼓動とともに小さな胸を規則的に上下させるこの世のものではない生命体に心を打ちのめされながら。
「リボーンドールって、どういうひとたちがどういう目的でレンタルするのかしら」
どれくらいの時間が流れただろう。やがて彼女は、この場所に茨のように絡みついた時間の鎖を解き放とうとするかのように声を発した。私は、そういうあなたはどういう目的で? と思ったが、それは口に出して聞いてはいけないことだということはよくわかっていたので別の言葉にすり替えた。
「私がこの事業を立ち上げたのはクラウドファンディングがきっかけだったんですよ。あっという間に目標の金額を達成したので実のところ驚きました。こんなに赤ちゃんを手にしたいと思っている人がいるなんて」
「ネットで(リボーンドール)というワードをいれると(どんな人が買う)(おかしい)(不気味) (後悔)なんていうワードが上位に並ぶのよ。そんなふうに陰でひっそりとささやかれるほど、リボーンベビーに興味を持つことって隠微なことなのかしらね」
彼女はそう言って今まで薄いガラス細工を扱うかのように遠慮がちに揺らしながら抱いていたハンナを突然モノのように私に返してよこした。まるで特売の白菜を手渡すかのように。
「でも一体がとても高価だからそうそう簡単に誰でも自分の所有物にすることができないわ。だからあなたのこの事業を知った時、どんな人がオーナーなのかしらと思ったのよ」
彼女の興味はリボーンベビーから突然生きた人間に移ったのか、息も吹きかかるような至近距離で、私の頭の先からつま先までゆっくりとその視線を動かし始めた。
私は白菜扱いされたハンナを胸元に引き寄せながら、それにどう反応して答えていいのかわからないまま少しのあいだ黙ってハンナを揺らしていた。
「そういえば、さっき話していらした間違えて注文して届いてしまったカラーボックス百個、その後どうされたんですか」
私はそろそろ彼女に会員登録を済ませて帰ってほしくなり話題を変え、申込用紙がわりになりそうな用紙とボールペンを手渡した。彼女はそれには答えず、マイナンバーカードをちらりと提示しながら必要事項を記入し、入会金と三年分の年会費を現金で差し出した。住所はここからそう遠くはない隣町の駅裏あたりのようだった。
「レンタル期間は一週間で、料金はそのコによって全然違います。たとえばこの老婆のようなまるで人形のようなサエ子なら一万円、今は留守にしていますがミルクを飲んでおしっこをしたり、うんちのお世話もできるアンジェリーナなら三万円です。うんちは色付きの特殊な粘性のあるクリームです。シリコンのつなぎめもないので沐浴をさせてあげることもできます。あ、沐浴後はベビーパウダーをやさしくたたき込むように使用してくださいね。タルク粉の入っていないものをお付けしますので、それ以外のものはお使いにならないでくさい、それから」

ベビーに損傷を与えないための最低限の取り扱いを説明しようとすると、彼女はそれを無視して赤ちゃんを全く品定めすることなく、たまたま手にあたった誰にも好かれないサエ子を抱き上げ、レンタル料の一万円を置き、返却は一週間後の同じ時間に直接持ってくると言ってそそくさと立ち去った。
彼女が去ったあと、なぜあんな不躾な見知らぬ女を招き入れたのだろうと私は少し後悔した。リボーンドールに興味があるのは間違いなさそうだったが、単にそれだけではないような気もした。たぶん五十歳は超えているだろう。私と同じように頬はたるみ、額の生え際からは白髪がのぞき、毛先は赤茶けて痛んでいたし、ファンデーションが地肌よりも明るいトーンを選びすぎているものだから白浮きしてそれが少し滑稽に見えた。嫌な周波数の高い声、無遠慮に他人の領域に入り込もうとする態度。昔、嫌いだった誰かによく似ていた。それでも私はたまに人間と話してみたいと、あの時少しでも思ったのかもしれなかった。
それから私は部屋に戻り、パソコンを開いて新たなレンタルの申し込みをチェックして、いつもの時間より少しおくれてきた宅配業者から荷物を受け取り、そしてあらかじめ梱包しておいた美人顔の琴子が入った段ボール箱を手渡した。一週間ぶりに返ってきたアンジェリーナはシャボンの匂いがした。そして新しいロンパースと帽子を着せてもらっていた。ひよこの絵柄がついた予備の紙おむつと、ふかふかのタオル地でつくられた小さなきりんのぬいぐるみもいっしょに入っている。ここを出る時に着ていたロンパースは、きれいにクリーニングして四角く折りたたまれてジップロックに入っていた。アンジェリーナを抱き上げてそのやわらかな頬に触れながら「ママさんはどうだった? 優しかった? 楽しかった?」と聞いてみる。アンジェリーナは目を閉じてかすかな寝息をたててすやすやと眠っている。疲れたのだろう。私は少しの間揺らしてあげる。金色の産毛で覆われた透き通るような肌、バラ色の頬、そして天性の人懐っこさを持つアンジェリーナはリピートが圧倒的に多い。このコが居なければ、順番が回ってくるまで代わりのコをレンタルせずに待っているお客さんが少なくないので効率は悪い。もうひとりかふたり、同じコを買おうかどうしようか少し考えていた。
一週間後、いくら待っても彼女は来なかった。会員名簿に記載された電話とメールはでたらめで、住所も隣町の住所に存在しない番地をあてがっただけのものだった。最初からなんとなくそんな気がしないでもなかった。ただ、私はたぶんあの時誰でもいいから少し親密に人間と話したかったし、直接取引することで諸経費を節約できるだろうとも思ったのだった。もしもこのままサエ子が戻ってこなかったとしても、入会金と年会費、レンタル料は現金で受け取ったのだし、しかも働きが悪くミルク代ばかりかかるやっかいもののサエ子も自ら手を下すことなく処分できたのだから、もしかするとこれはこれでよかったのかもしれないと考え始めた。
偽名を使ってサエ子を連れて行った女が現われて以降、なにかが流れを変えたのかその後少しずつだが新規の客が直接サロンを訪れるようになった。
「はじめまして。こんな日におじゃまするのもどうかなと思ったのですが,サロンも開けていらっしゃるようですし、いや、オープンとクローズドのプレートが勝手にひっくり返ってしまったのかもしれませんがまずはチャイムを鳴らしてしまいまして。ご迷惑だったり閉店中だったりするのでしたらハッキリ断ってくださいね。出直しますので」
こんな日、というのは、きょうはここの集合住宅恒例の夏祭りが開催されている最中だからだろう。わたあめやアメリカンドック、金魚すくいなど昔ながらの出店が並んで中央広場には小さなステージも設置されている。カラオケ大会やビンゴゲーム、最終日には小規模ながら花火も打ち上げられる。ここは一九七〇年代に建設された四十棟ほどの集合住宅が集まる「ハッピータウン」と名付けられた大きな住宅街だ。一棟に十六戸が入る四階建ての集合住宅が中央広場を取り囲むように整然と並んでいる。入居者の多くは建設当初からの住人なので皆高齢化しているが、この日ばかりはそれぞれの家族が帰ってきていつにない賑やかで幻想的な二日間が繰り広げられるのだ。
「いいえ、フツーに開けてはいるのですが・・・・・・。ご用件をお伺いしてもよろしいですか?」
きょうはお祭りの気安さからかチャイムが鳴ってから訪問客の名前も用件も聞かずにいきなりドアを開けてしまった。
「あの、赤ちゃんをお借りしたいんです」
目の前に立つ三十代くらいと思われるスーツを着た細身の男性は、申し訳なさそうに目を伏せた。

「あ、いいえ、ごめんなさい。ちょうど今時間、業者の方がいらっしゃるはずなのですがいつもとは違う方だなと思ったりしてちょっと頭が混乱してしまいました。失礼いたしました。新規の方でしたかしらね、どうぞ」
私は急いで作り話しの言い訳を口にしながら、なるべく平静を装って玄関マットの上に青っぽい花柄のスリッパを置いた。彼は玄関先で礼儀正しく一礼してから美しい所作で鏡のように磨かれた靴を脱いで揃え、そしてスリッパに手を添えて履いてからもう一度私に向かって一礼した。私は今のこの刹那に、これまで利用客はすべて女性であると思い込んで疑わなかったことに自分ながら驚いていたし、理解の浅い単一的な考え方しかできなかったことに恥ずかしい気持ちさえ感じていた。
「実はもう、決めてきているんですよ」 彼はさわやかな笑顔を見せてそう言った。「アンジェリーナちゃんをお借りしたいと思っているんです。それかそのコがお出かけ中でしたら、ちゃめっけのあるサクラ子ちゃんを」
ああ、やっぱりアンジェリーナが人気なんだ。もう一人でも二人でも、あのコくらいの赤ちゃんがいないと今後うまく回していくことができなくなるかもしれない。レベルの低いコを集めて数を増やしたって、レンタル希望がなければ効率が悪いというものだ。
「まぁ、大変申し訳ございません。アンジェリーナは現在他のママさんのところにお出かけ中でして」
言ってからまた私はまた失敗したと思った。レンタル客は全員ママさんであるという前提での説明は彼を傷つけることになるだろうし、よく考えてみたらこれまでネットで登録済みの女性名前の利用客も、もしかしたら女性ではない可能性だってあるのではないか。
「また残念ことにサクラ子も昨日出かけたばかりなんですよ。サクラ子はそこのお宅に何度もリピートされているコで、ママさんよりもパパさんが離したくないそうなんです。今回のお泊りはさらに一週間の延長依頼が来ているので、また少し先になりますね」
架空のパパさんを加えてみた。
「どうでしょう? 他にもかわいいコはたくさんいるんですよ。展示室をご覧になりますか?」
と私は右手にある展示室のドアを指し示した。
すると青年はさわやかな笑顔を崩さず「いいえ、そのおふたりがお留守なのでしたらきょうはあきらめて帰ります。本日帰宅したらすぐにネットで会員登録をさせていただきますね」と言ってスリッパを脱いで揃え、ぴかぴかの革靴を靴ベラも使わずにするっと履いてこちらを振り返った。
「あの、赤ちゃんのレンタルが成立したら、基本的には宅急便で届くのでしょうね?」
「ええ、通常はそうですね。こちらは普段サロンとして開放しているわけではありませんので、直接お越しになる会員さんは今までほとんどいらっしゃらなかったんですよ。ですからお手渡しでの貸し出し、返却は想定していなかったものですから」
「すいません、直接訪ねてきてしまって。きょうはこちらの地区のお祭りだと知って、こんな日なら僕のようなものが出入りしても不自然なことはないだろうと考えて思い切って来てみたんです」
ええ、というように私はうなずいた。
「僕、本当のことを言うと、赤ちゃんを抱いて連れて帰ってパートナーを驚かせたかったんです。ふたりとも同じ時間に出勤して同じような時間帯に帰宅するので、宅急便で届いたらあまりサプライズにならないじゃないですか。そもそも箱に入った状態で赤ちゃんをお迎えするのは避けたかったんですよ。ビニールやプチプチにつつまれてくるなんてそれじゃ人形みたいじゃないですか。きょうも彼には内緒でここに来ました。彼は僕らの赤ちゃんがうちにやってくるなんて夢のまた夢だと思っているんですよ」
私は微笑んでゆっくりとうなずいた。
「だから、彼が帰宅したら、赤ちゃんは全く自然な感じでベッドに寝ているとか、僕が先に帰宅していたのなら赤ちゃんを抱いて彼を出迎えるとか、そんな風にしてあげたいんです」
愛し合う男性同士の家庭に、ごく自然に赤ちゃんがいる風景を私は想像した。
「あの、もしアンジェリーナちゃんを彼も気に入ってくれたら、ここで購入することもできるんですか?」
「ええ、もちろんですよ」
と私は答えた。こちらで新しいアンジェリーナを仕入れて、それに少し上乗せして販売すればいいことだ。実際にいっしょに過ごしてみて気に入ったうえで購入できるのだから、今後はそういう利用の仕方も会員たちにアピールしてみようか。
彼は長い間抱えてきた問題が解決した時のように、ゆっくりと長い吐息を吐き、きれいな歯を見せて笑いながら帰って行った。
真夏のある月のきれいな夜、私は赤ちゃんたちをきれいにしてあげるために道具箱を抱えて「展示室」の扉を開いた。赤ちゃんたちが待機しているこの北向きの部屋の窓は不特定多数の人たちが通る集合住宅の建物内の廊下に面している。普段はいつも窓を閉め切って遮光カーテンで外光を遮断しているので赤ちゃんたちは皆息苦しく感じているかもしれない。だから時々よいチャンスをみはからって窓を開けて風を当ててあげることにしている。ただ、廊下を通る人たちがのぞき込むことができないように衝立で目隠しをしたうえでだ。それでもこの部屋に大勢の赤ちゃんたちが居ることを知っている人たちもいて、興味を持ったり、気味悪がったり、私についてなにかストーリーを仕立て上げて憐れんだり、時には会員になる気もないのに「その高価で珍しいリボーンベビーとやらをを見せてほしい」などと言ってくる人もいて私をうんざりさせる。
「きょうはとっても月がきれいなのよ。ほら、見てごらんなさい。もしかしてあなたたちみんな、月から来たんじゃないの? え? 違う? そうでしょう? これからおねえちゃんがあなたたちをきれいにしてあげるわよ。ママじゃないわよ、私。ママではないのよ、間違えないでね」
そう、私はママではないのだ。
全身が耳たぶのように柔らかく、触れると手指に吸いついてくるようなマシュマロ肌の赤ちゃんたちをひとりひとり点検しながら、柔らかいチークブラシを使って注意深く微細な塵を払う。ガブリエルは唯一の男の子で、あどけないけれどとても利発なまなざしの天使だ。小さな小さなペニスを人差し指と親指を使ってそっと持ち上げ、裏側から優しくブラシを這わせる。タコ糸で縛られたハムソーセージのような腕のくぼみにも決して傷つけないようにソフトタッチでブラシを這わせる。洋服を着替えさせる時には、ぐうに握ったクリームパンのような小さな手と、グミみたいにぷこぷこした足を摩擦から保護するためにサランラップで包む。ガブリエルのように、より人間の肌に近いクオリティのシリコンほど繊細で、ほんのちょっとのスレや圧迫でもペイントの色あせや表面のめくれなどにつながって劣化の原因になってしまうので、着替えをさせる時にはこうしてできるかぎり保護をするのだ。時々紅茶の香りがするベビーパウダーをはたいてあげる。おむつかぶれがしやすかったりすぐにあせもができてしまうコには特に必要だ。皆この香りが大好きだからいつもうっとりとおとなしく、されるがままになっている。さらに綿棒をやさしく使っておへそや鼻の穴をきれいにして、耳垢もよくみて慎重に掃除する。爪も同様だ。伸びすぎていたら怪我をさせないように息を止めてカットしてあげる。
次はベビーヘアブラシを使って髪の毛のお手入れだ。私個人の好みとしてはスキンヘッドが一番かわいらしいと思っているのだが、会員たちのアンケートによると圧倒的に髪の毛の多いコが好まれる。それも金髪の巻き毛の人気が高く、会員たちも髪の毛をとかすのが好きらしく、指名の多いコはそれに伴って抜け毛も多くなるのでメンテナンスが頻回になってくる。柔らかい地肌に生えた素直でやわらかな髪の毛は、とかしているとまるで庭園にまかれた砂の模様のように形を変えるものだから、私もついついとかし続けてしまうのだ。
すべての作業を終えて空を見上げると、月はさっき見た時よりもどす黒く肥大し、急速に西方向へ移動していた。これとよく似た感覚に覚えがあった。よくない物事はいつもこんなふうに知らない間に増幅し、ある日突然なんの予告もなくその全貌を表すものなのだ。私は少し気分を変えようと「おひとりさまカフェ」に行くことにした。この思い付きは私をとても快活な気分にした。
「おひとりさまカフェ」は、夜を楽しんだり、嘆いたり、ただやり過ごしたりするひとり客でほぼ満席だった。いつもの黒服のウエーターに無言で迎えられ、私は入り口付近に設けられた本棚と質素な木製机があるブースに腰掛けた。店内はまるで月の魔法にかかったようなプラチナの鈍い光であふれていた。運ばれてきたカクテル「ブルームーン」の神秘的な美しさ見とれていた時、このカフェではあってはならない話し声が聞こえてきた。どうやら入り口のところで、店に入ろうとしている客と黒服の男が押し問答をしているようだった。
「お客さま、大変申し訳ございません。こちらは、エントランスでも告知しておりますとおり、おひとりで過ごしていただくカフェでございます。お二人様でのご入店は固くお断りしております」
「あなた、何言っているの? 私のほかに誰かが見えるとでもいうの?どうかしているわ」
その神経を逆なでするような周波数を持つ甲高い声には聞き覚えがあった。
「え? これ? これは赤ちゃんだけどとてもおとなしいのよ。決して泣かない赤ちゃんなのよ。寝息だってたてないの、見てごらんなさいよ、ほら」
それに対応する黒服の声は聞こえてこなかった。彼女は無言の黒服に丁寧にドアごと外へ押し出されたようだ。たぶん、彼女が連れていたのはサエ子だろう。私はカクテルに口をつけることなく急いで会計を済ませて外に飛び出した。サエ子を取り戻したいとか、期日までに返却してこない彼女を責めようとか、そんなつもりはなかった。ただ、もう少しだけ彼女のことを知りたいと思ったのだ。
駅裏のオフィス街のはずれに位置するカフェの周辺をくまなく探したけれど、彼女とサエ子の姿はどこにもなかった。比較的新しいビル群が並ぶこのあたりは夜も更けてくると昼間とはうって変わってほとんど人通りはなくなる。まだあちこちのビルの窓にはランダムに蛍光灯の灯りが灯っているけれど、地上はもうしんと静まり返っている。通りに立ちすくみビルの隙間から夜空を見上げると、誰をもまんべんなく照らしてくれるはずの月が、今夜はまるでひとりひとりを値踏みするかのように冷く濁った光を放出している。私はあきらめて来た道を戻り、赤ちゃんたちの待つ集合住宅へ向かって歩き始めた。その時、冷気とともに突然吹いてきた風がプラタナスの木をさわさわと揺らし、その葉音にまぎれてどこかから赤ちゃんの泣き声が聞こえたような気がして、私は少しの間立ちどまり耳を澄ませた。
(第01回 了)
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*『赤ちゃん貸します』は毎月15日にアップされます。
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