〝出来事〟はどうしようもなく、取り返しようもなく起こる。しかし緻密に分析していけば、それは〝偶然〟ではなく〝必然〟だったと考えることができる。だが本当にそうだろうか。〝出来事〟は〝偶然〟も必然〟も超えた決定的衝撃なのではあるまいか――〝「必然」と「偶然」、「此岸」と「彼岸」とが交わるパラドキシカルな時空〟ではないのか。自らの内に原罪を抱え、文学と哲学に救済を求める作家の新評論連載!
by 金魚屋編集部
⒉―⑶ 〝邂逅〟は、「一期一会」である。
「一期一会」とは「ただ一度きり、これっきりの出逢い」である。もちろん〝邂逅〟はいくたびもくり返される。同じひとの場合もあれば、同じ場所もある。異なる場所で、同じ時を共にする場合も、あるいは時を越えて、同じ場所を共にする場合もある(※)。だが時というフレームにしたがわざるをえない出来事にあっては、どんな〝邂逅〟も例外なく「これっきり」しか生じず、二度とふたたび訪れることはない。このことは一方向かつ不可逆に流れる時の本性において、必然である。
※げんみつに言えば、異なる者どうしがまったく同じ時、もしくは場所にあることはできない。もし可能だとしたら、それは「異なる者」でない、または「同じ」時や場所ではないという意味で。このことは、場所については比較的理解されやすいが、時については議論の余地があるだろう。これは、同じ「いま」をわたしたちは共有でき(てい)るのかという問いに置きかえられるが、誰もそれを疑わないのはなぜか。答えるのは容易ではない。
もっとも世の中には「時は流れない」とか、「そもそも時は実在しない」と主張する者もいて、筆者も条件付きでそれに賛同するひとりではあるが、出来事のもつ不可逆性とこれっきり性は事実として否定できない。ある出来事がくり返される。それは同型ではあっても、同一の出来事ではない。出来事である以上、それは唯一無二のもの、「これっきり」でしかありえない。そこに理由はない。それが時というものだ、というほかない。この「そうでしかありえない」ことと「理由を欠いている」こと、二つの意味で出来事は必然と偶然に片足ずつ踏み入れているといえる。
「出逢う」というそのことは、すべての出来事がそうであるように、数えられない他の可能的あるいは潜在的出逢いを拒みはしない。この人と出逢っているのに気づかなかったり、同じ人とふたたび(一から)出逢い直すこともある。いずれにしてもその出逢いが、その出逢いでなくてはならない必然的な理由など、ありはしない。どんな出来事も不可逆な時というフレームの内でしか起きえない、という意味では必然であるにしても、出来事そのものがはらむ「偶然性」は出来事の本性に根ざしたもので、これと区別されなくてはならない。
ラ・メトリイは人間そのものを日々に生え出る茸に喩へてゐる。人間は偶然に地球の表面の何處か一點へ投げ出されたものである。如何にして投げ出されたか、何故に投げ出されたかは知る由もない。ただ生まれ出でて死んで行くのである。人生の味も美しさもそこにある。もしも我々が永久に死ぬことなく生きてゐるとしたら、どんなに飽き飽きしてしまふであらう。生れたかと思ふと死んで行く崩落性暫有性に人生の一切の價値がかかつてゐるのである。
(『全集』第五巻「をりにふれて」より「秋の味覚」)
「生れたかと思ふと死んで行く崩落性暫有性」、つまり世の儚さに「人生の一切の價値」をかけると語る九鬼にニヒリズムを読む人はすくなくないが、肝心なのは人生が「これっきり」のものとして「投げ出され」てある、そこに「味も美しさもある」という考え方にある。「無」という深淵の上に〝原始偶然〟が咲かせた花、それが人生だとかれは言っているのだ。九鬼が影響を受けたとおぼしいハイデガーとは異なる、かれならではの考え方がここに窺える。〝原始偶然〟の生み出した「これっきり」の美――かれの人生観も芸術論も、すべてこの考えを離れては成立しない。
すべてのひとは一人一人顔が異なり一本一本指紋が異なる。色・形・大きさ……あらゆる個体差がある。けれどどんな差異であっても原理上、それらを比較し相対化するモノさしがあり、秤皿がある。だから「個体」と識別できもするわけだ。
これに対して「これっきり」とは、「唯一無二」ということである。「唯一無二」とは、それを相対化し値をはかるモノさしも秤皿も存在しないという意味だ。それはただ当のそのものにおいてしか、その時と場所でしか視ることも聴くことも、また窺い知ることもできない何かである。「人生の一切の價値がかかつてゐる」のは、その何かである。
けれどそうでありながら、当の何かについて、ともあれこのように語ってしまっている。あるいは、語れていると思っている。そう思わなくては、「当の何か」の意味を当人ですら理解できないことになろうから。この信任なくしては、ことばというもの自体が瓦解するだろう。「これっきり」である何かを「これっきり」のままに表現し、概念化し、ひとに伝えることができる。この信任は、ことばというものが、ただことばだけが、〝誤配〟や〝恐慌〟の可能性を越えて勝ちえた前提条件であって、どんな宗教も貨幣も、この信任度においておよばない。
そんなことばの特性の一端を、九鬼はそれが孕む「時間の重層性」に見出している。
ひととせに一たび來ます君まてば宿かす人もあらじとぞ思ふ
一年間が一首の中に入ってゐる。
いにしへの舊き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり
永い過去の年月が流れてゐる。
見れど飽かぬ吉野の河のとこなめの絶ゆることなくまた還り見む
未來への展望が限りなく開かれてゐる。
橘やいつの野中のほととぎす
橘の匂ひを現に嗅いでゐる瞬間に嘗て同じ匂ひを嗅ぎながらほととぎすを聞いた瞬間が蘇って來てゐる。過去が再び現在として全く同じ姿で蘇つてゐる。全く同じ二つの現在、無限の深みを有った現在がそこにある。時間が囘歸性を帶びて繰り返されてゐると言つてもよいし、永遠の今が現に存在してゐると言つてもよいであらう。[中略] 汽車の擦れ違ふ一瞬間の敍述に數頁を割いてゐる小説は必ずしも珍しくない。
時間の重層性は殆ど文學の生命と言つてもいい位である。
(『全集』第四巻「文學の形而上学」)
「時間の重層性」とは、互いに異なる時と時との〝邂逅〟である。そこに「これっきり」性が「永遠の今」へと転ぶ契機がある。それを可能にしているのがことばである。「永遠の今」は、ことばによってうつしとられ、そこに時を折り重ねながら「いま」伝え継がれていくのだから。とは言え、ことばは時のシミュラークルというばかりではない。それがつむがれ、繙かれる時もまた「いま」である。つむぎ手と読み手の〝邂逅〟がそこにある。それをも含めて「時間の重層性」とかれは呼んだ。そしてそのことを「無限の深みを有った現在」と言ったのである。
現在に位置を占めるならば、この現在は現在のままで無限の過去と無限の未來を有つてゐるとも言へるし、また無數の現在の同一者であるとも言へる。現在は無限の深みを有った永遠の今である、時間とは畢竟するに無限の現在または永遠の今にほかならない。
(同)
時間を円環とみなした場合、つまり回帰する時間のことをを九鬼はこう表現したのだが、ことばによって初めて見出された「いま」のこのありかたを九鬼は〝現在のまま〟と〝無數の現在の同一者〟の二重性として表現した。これををかみ砕いていえば、こうなるだろう。
――「いま」はつねにすでに端的な「いま」でしかない。にもかかわらずそれは、未来からなったり過去になったり(時制変化)するようにみえる。いっぽう未来と過去のどれを切り取ってみても、その時点はやっぱり「いま」しかない。「いま」の端的性と遍在性をめぐるこの二重のありかたは、今日なお時間と呼ばれるものの核心的位置を占めながらも、〝永遠の〟謎であることに変わりはない、と。
⒉―⑷ 現実というおどろき
もうひとつ、九鬼が着目するのは「現実」「現実化」ということである。
人と人、時と時、ことばとことばが出逢うとき、「偶然」と「必然」もまた出逢っている。その底には両者を包み込むようなさらなる偶然、すなわち〝原始偶然〟が横たわっている。この水準では、すべてはただただ「ある」、それだけだ。もはやそれ以上底が「ない」、いわば最終底としてのこの水準を九鬼は次のように表現する。
偶然はシェークスピアのいうがごとく「底が無い」。ヘーゲルのいうがごとく「理由を有たない」。偶然においては無が深く有を侵している。
(「問題」二七一頁)
すでに⒈―⑷ 偶然性と現実性でみたように、この水準に至ったとき、そこには大きな驚きがある。その驚きは、この現実が存在するという偶然への驚きにほかならない。
我々は最後に原始偶然にぶつかって大きく驚くのである。この大きい驚きは遂にどうしても消すことのできないものである。[中略] ともかくも我々は現実の世界が存在するという偶然の事実そのものに驚きを感じないではいられないのである。そこには何等か超感性的なものの深淵が開かれている。我々の脚下に開かれている。そして満身に戦慄を感じて、その深淵に飛び込んで行くのが、形而上学としての哲学である。[中略] 現実の世界の偶然性に対して驚くこと、驚いて心臓に動悸を打たせることが、終始一貫して、哲学思索の原動力でなければならないと考えるのである。
(「驚き」一九〇~一九一頁)
「現実」とは「唯一無二」なものでしかありえない。なぜなら「現実」でないものとは、たんに「無」でしかないからである。もちろん一般的に「現実」と対になるのは「可能」や「空想」といった様相概念である。しかし九鬼のいう「現実」とは、「可能」や「空想」をも呑み込んだ世界の最終底である。それは、その裏側に「無」がべったりと貼り付いた「ある」のことである。だから「底が無い(九鬼)」。
私が強調している「現実(性)」については、そもそも「現実化」「実現」「(現実性の)出現」といったことは生じない。「現実性」「実現」というのは、「現実でないものが現実になる」ことではなくて(それはそもそも不可能)、あくまで「現前化」「顕在化」にすぎないと私は考える。つまり、「可能性が現実になる」という考え方を私は認めず、それは実は「現実において、潜在的なものが顕在的になる」ことなのだと考える。潜在的なものも顕在的なものも「現実」であることに変わりはなく、「現実でないものが現実になる」ということは、「無から有が誕生する」ことに等しい。「無から有の創造(あるいはその逆)」を認める限りにおいて、「現実でないものが現実になる」ことを認めることはできるが、それは「可能性」が「現実性」に変わることではないことだけは確かである。なぜならば、それでは、「無」が可能性としては「ある」ことになってしまうからである。「無」は、可能性という仕方でさえ「ない」のでなければならない。
(入不二基義「現実性の問題」一四三頁、注(12))

入不二がいう「現実性」とは、このような「ある」の自己運動そのもの、あるいは力そのものに相当する(と筆者は解する)。「ある」は、どのようなありかたであっても「ある」こと以外の何ものでもなく、「ある」限りにおいて「現実」なのだから。そしてその「現実」とは、入不二の言い方を借りれば「遍在する力」であり、一なるものすなわち「全一性」として「ある」。これを、あたかも同じ一なるものの異なるペルソナのように、「ある」=「神」、「現実」=「聖霊(息吹・呼吸)」になぞらえてみれば、多少ともイメージしやすいだろうか。この三位一体論でいえば、残る「キリスト」に相当すると思われるのが、これから述べる「現実化」である。
その前に、「現実」における〝邂逅〟の位置付けをはっきりさせておこう。「現実」の上で展開する時と場所――そこに〝邂逅〟は「なる」。「これっきり」である〝邂逅〟をもたらす「現実」は「全一」であるがゆえ、差異をはかる秤皿はありえない。差異というからには、比較対照が可能な相対化された秤皿が前提されていなくてはならないが、「現実」にあっては、秤皿はそれ自身にしかないから。「現実」に肩を並べうるものはなく、したがって差異もまた存在しない。このような「現実」によってもたらされるゆえ、〝邂逅〟は時の渦中にありながらも、それに回収されることはない。〝邂逅〟がしばしば絶対の相貌を――〝永遠の相〟を――まとうのはそのためである。ひとはこれを形容して「一期一会」と呼んできた。「偶然」のさなかに絶対(の必然)がある。九鬼的に言うなら、それは「積極的な矛盾」であろう。
以上のように理解して大過ないとしたら、このような「現実性」に対して、その中からいきなり根拠もなく立ち上がる「現実化」は異例、かつ異次元な突出であるかに思われる。
なぜそう思えるのだろうか。
先に引用した入不二の述べるとおり、「現実において、潜在的なものが顕在的になる」と考えれば筋が通るのはたしかで、「可能性が現実になる」という考え方はとうぜん退けられる。「全一」的な「現実性」にあって、可能性といった様相は「潰れ(入不二)」るほかないからである。また、
「無」は、可能性という仕方でさえ「ない」のでなければならない。
(同)
という見解も正しくその通りであると考える。「無」の「なさ」は、「可能性」のような様相概念など「無―化」するほどに徹底した「ない」でなくてはならないからだ。
九鬼はこう言っている。
或るものに関する無は他のものの有を意味している。斯くして無は有の中に解消されてしまうかの如くである。然しながら有の概念はそれだけ独立に成立し得るものではない。有とは無でないことである。有の概念は無の概念との相関に於てのみ成立し得るものである。有は無を完全に解消しきることはできない。それならば有は無に包越されているものであろうか。有を包越するような無を思惟することができるであろうか。包むとか包まれるとかいう表象の仕方をする限りは既に無を化して有にしてしまっているのではあるまいか。有の於てある無なる場所という概念が厳密には既に無ではなくして有に化し去られているように、有を包む無なる体という概念も既に無ではなくして有に化されてしまっているのではあるまいか。
(「私見」一三〇―一三一頁)
さらに九鬼は、「無」には小乗的無と大乗的無があるという。前者は「ある」に取り込まれ概念化された(=有化された)「無」であり、後者はそこからどこまでも取りこぼされ続ける、けっして届きえぬ「無」である。
こうして「現実でないものが現実になる」とは、「無から有の創造(あるいはその逆)」にひとしいゆえに斥けられるべきであって、この点で九鬼と入不二の見解は一致する。
筆者もこれに異論はない。
ところがそうだとすると、次なる難問が離れがたく生じる。そもそもものごとの「変化」とは何であるのか、という問いである。これがどうしても解せないのである。
あるものを語り、あるものを思惟することは必然でなければならぬ。というのもあるものはあるのであり、
あらぬものはあらぬからである。
あるものは不生不滅であること。
なぜなら、それは(ひとつの)総体としてあり、不動で終わりなきものであるから。
それはあったことなく、あるだろうこともない、それは全体としてあるもの、一つのもの、連続するものとして今あるのだから。
かくして、それは全くあるか、全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。
(強調原文、廣川洋一「ソクラテス以前の哲学者」第二部 ソクラテス以前の哲学者著作断片六 パルメニデス)
「ある(存在)」という無辺の土俵の上で「ある(存在者)」が生じたり(=なる)、そうでなくなったりする(=なく・なる)こと――「なる」ということ。それを、わたしたちはくり返し目撃し観測もしている。そして、それを「変化」とか「動き」などと呼んでいる。いいかえれば、不変不易なものと生滅するものとが同時にあるということ、まずこれが肝心で、そのうち生滅するものを「ある」とか「ない」と呼びならわしている。しかしこの「生滅」とは、何だろうか。およそ何であろうと、ひとたび「ある」ものが「なく・なる」などということがありえようか。「なく・なる」とは何か。「ある」の外に置かれる、ということだ。そうだとしても、「ある」の外に「ない」という何ものかが「ある」わけではないだろう。「ない」はあくまでも「ない」というしかないではないか。逆に「ない」から「ある」についても同様のことがいえる。いったい生成変化とはどこにあるのか――それがパルメニデスの問いである。
「現実化」もこれと同根といえる。それまで「なかった」ものが「ある」に「なる」、そしてげんに「ある」ものが「なく・なる」という意味において。これは、「神」がその子を人間の歴史にただ一度きり事実として介入し、三位一体をなさしめるようなありえないことと言うほかないだろう。
問題のポイントは「なる」にある。
まったき「ない」から「ある」へ、「ある」からまったき「ない」へと「なる」――このありえない径庭を架橋する理路などないというのが、さきほどの結論だった。
だが「なる」において、「ない」から「ある」へ、「ある」から「ない」への「変化(移行と言っても、ジャンプと言ってもいい)」がありえないとすれば、わたしたちはパルメニデス的世界から一歩も出られないか、あるいは仏説に言われるように「本不生(本来生じない)」ということにならざるをえない。
生成変化について、このような障壁に逢着するとしたら、「現実化」について「現実において、潜在的なものが顕在的になる」と考えた場合であっても、同様の課題が残るのではないだろうか。潜在から顕在へ「なる」という意味で。
いっぽう、そんな行きづまりを嘲うかのように、「現実」ではこのありえない架橋あるいは越境が、ごくあたりまえになされているようにみえる。
したがって問題にされるべき真の突出点は「変化」「現実化」というより、それらの呼び水としての「なる」にあるというほかない。
いったい「なる」とは何か(※)。
※この問題は本稿で扱う範囲を超えるので、いったん筆者の宿題としておきたいが、考えを進めるにあたっての手がかりを一つ挙げておくと、私見では「瞬間」という概念にあるとみている。ありえない〝ワープ〟が「瞬間」の中に折り込まれているということだが、これは別の機会に論じたい。また、さらなる深化を続ける入不二哲学の今後の展開を注視したい。
ひとまず「なる」を突出点としてみたとき、それはいつ、どこにでも、根拠なくうがたれる。何が何に「なる」か、いつからいつへ、どこからどこへ「なる」かは、まさしく賽を振るにひとしい。出来事は「なる」という突出点がうがたれてはじめて、遍在する「現実性」という大海から「百年目に海面に首を出したら、浮木に一つしかない穴の所から首を出した」盲亀のように浮かび上がる。いつ、どこにでも。ただし、浮上するのはつねに「いま」である。だからこその「出来事」なのでもある。
「なる」の本性は「偶然」そのものである。たんなる「必然」も「偶然」もともに包み込むような最終底としての「偶然性」である(〝原始偶然〟)。この「現実化」において様相は「潰れる(入不二)」。あるいは、様相は様相のまま横断的に包み込まれている。
遍在し潜在する「現実性」にあって、「現実化」は誰にとっても不意に、たまさか与えられる出来事、あるいは純粋な贈りものであって、それこそ「偶然」のたまものと言われるべきだろう。なぜならくり返すが、このとき「偶然」の底は「ない」。もしくは、その裏側にべったりと貼り付いた「無が深く有を侵している(九鬼)」からだ。
九鬼の〝原始偶然〟が位置づけられるのは、この次元である。「偶然性」のもっとも要といえる横断性があらわになる契機、「なる」がもたらす出来事、これこそが〝邂逅〟なのである。
「運命」を〝邂逅〟の一形態に数えたい理由もここにある。
それは一見すると、わたしたちがよりよい生を見出すために、〝邂逅(出逢い)〟を物語化しようとこころみて失敗したものであるようにもみえる。「運命」に抗おうが好きなように生きようが、まさに当のその行為が「運命」に寄与するだけにすぎない。それは後付けの物語にしかならない。そのひとにとって出来事の占める意味や価値が「運命」の濃度を決め、それに応じて「偶然」と「必然」の調合配分が決まることになる。
「たまたまそうなると決まっていた」
「偶然に身を委ねるようはじめから定められていた」
といった塩梅で、「偶然」と「必然」は対立項でも何でもなく、調合し味付けるための世界解釈という料理の出汁とスパイスなのである。
けれどもときとして、そのひとの生死を左右するほどにインパクトの大きい出来事が起きることがある。どんな物語にも収めることができず、ただ茫然自失するしかないような出逢いがある。そのひとが正対しているのは「現実」の圧倒的な大きさと力、その絶対性である。その前では「偶然」も「必然」もへったくれもない(入不二〝様相の潰れ〟)。とはいえ「現実」は、その裏側に「無」をべったり貼りつけながら、出来事として「現実化」しうる妙なる有であると考えてみれば、そこには必ず〝原始偶然〟が与っている。「現実化」それ自体は、どのような理由もない純粋な力そのものだからである。
要するに、勝義の運命概念は情熱的自覚をもって自己を偶然性の中に沈没し、それによって自己を原本的に活かすごときものでなければならぬ。そうして運命としての偶然は回帰的形而上的時間の永遠の現在として会得されることも稀れではない。
(「問題」二五六頁)
「かくあらざるをえない」因果的必然、かたや「かくありたい」「かくあろう」とする自由意志。およそ相容れないカテゴリーどうしが、いま・ここという場で横断的に出遭うことから生じる「現実化」とその力、そしてそんな力にはからずも翻弄される人間の悲喜劇、それが「運命」である。その根底に「偶然性」を見出したのは、まことに九鬼の慧眼であった。
⒉―⑸〝永遠の現在の鼓動〟
こうして「偶然性」は「ある」と「ない」とを両睨みしながら、たんなる様相(必然性/偶然性、可能性/現実性)をはみ出しあるいは包み込み、出来事を「現実化」して、わたしたちをあらたな出逢いへ、そして絶えざる変容へと誘う。わたしたちをつねに翻弄して止まない力とはたらき、それが「偶然性」である。
ところが一方、その渦中にある者、翻弄される者の側が、からめ手からなしうる自己表現がある。それは九鬼が「原始偶然は形而上的遊戯の賽の目の一つである」と言った、その「形而上的遊戯」である。〝たわむれ〟である。この文人哲学者が文芸や端唄や小唄の世界に没入せずにいられなかったのも、あの「いきの構造」を書かずにいられなかったのも、ここに理由がある。出来事とひとつになって、ひとつ処にとどまることなく執心することもなく、ただ一心不乱にたわむれること。それは「偶然性」と手を取り合って演じる究極の舞いでありうるだろう。
私は少年の時に夏の朝、鎌倉八幡宮の庭の蓮の花の開く音をきいたことがあった。秋の夕、玉川の河原で月見草の花の開く音に耳を傾けたこともあった。夢のやうな昔の夢のやうな思出でしかない。ほのかな音への憧憬は今の私からも去らない。私は今は偶然性の誕生の音を聞かうとしてゐる。「ピシャリ」とも「ポックリ」とも「ヒョッコリ」とも「ヒョット」とも聞こえる。「フット」と聞こえる時もある。「不圖」といふのはそこから出たのかも知れない。
(『全集』第五巻「音と匂――偶然性の音と可能性の匂――」)
九鬼はここで、感性的なものにひたすら惑溺しているようにみえるが、それをつうじて「そこには何等か超感性的なものの深淵が開かれている」のを凝っと視ているのである。
匂も私のあくがれの一つだ。私は告白するが、青年時代にはほのかな白粉の匂に不可抗的な魅惑を感じた。巴里にゐた頃は女の香水ではゲルランのラール・ブルー(青い時)やランヴァンのケルク・フラール(若干の花)が好きだった。[中略] 今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そして私は秋になつてしめやかな日に庭の木犀の匂を書齋の窓で嗅ぐのを好むやうになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりももつと遠いところへ。そこではまだ可能が可能のままであつたところへ。
(同)
「かくあろう」とする自由意志は、「かくあらざるをえない」必然の世界ともはや拮抗するでもなく、諦念とともに受け容れるでもなく、しずかに世界をたわむれ、その中で自らをあるがままに解き放つ。それは老成した子どもの魂の舞うがごとくである。舞っているそのせつなには、「永遠の現在の鼓動」(「問題」二三一頁)が脈打っている。「さうすると私は遠い遠いところへ運ばれてしまふ。私が生まれたよりももつと遠いところへ」。ひょっとしたら、わたしたちが至りうる自由の最終形がそこにあるのかもしれない。なぜならそこでは、肉体や精神といった不自由で不完全な代物などとではなく、「ある」というそのことの自由とひとつでありうるからである。
萩野篤人
(第06回 最終回 了)
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*『九鬼周造と「偶然性」をめぐって』は23日にアップされます。
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