怪談専門誌の幽だが、連載として今回は、円城塔訳 アーネスト・フェノロサ&エズラ・パウンド著「スマ・ゲンジ ほか二篇」が掲載されている。見たときは多少の衝撃を禁じ得なかった。そうか源氏物語にも霊とかって出てくるもんな、するってえと源氏物語ってのは怪談だったんか、と。それを言うならシェイクスピアもそうだ。幽霊はイギリスが本場だし。

 

 ただ、もちろん怪談というニュアンスは、聞き手を怖がらせることを目的とする、というものだ。ゲンジもシェイクスピアも怪談だ、という言い方はつまらない屁理屈だけれども、では怖がらせる目的なしに、幽霊は何しに現れたのか、思い返してみるのは一興だろう。

 

 ゲンジで最も有名な幽霊は、須磨で光源氏の夢枕に立つ父、桐壺院だ。シェイクスピアでも呼応するものがあって、ハムレットも父王の幽霊に逢う。父の幽霊というのは、だいたいちっとも怖くはない。何か意義のあることを知らせるために、わざわざ現れるのである。桐壺院にいたっては、亡くなってからまで何やら忙しがっている有様だ。須磨はゲンジのクライマックスなのに、ちょっとアンチ・クライマックスな雰囲気を醸す。

 

 それはたぶん紫式部という著者が、意外や幽霊話や生霊騒ぎなど、たいてい眉ツバだと思っていたフシがあって、その表れと思える。すなわち桐壺院の幽霊はホンモノではあるけれど、それは今でいうところの集団的な、あるいは光源氏自身の無意識の姿を変えたものである、とも。千年前に、すでに。

 

 そういう意識があって、なおかつ聞き手を怖がらせる目的でなしに幽霊を登場させるというのは、相当の必然的な文脈がなくてはならない。(いわゆる怪談は後先なしに、とにかく幽霊の登場ありきで語られる。文脈も必然性もなく、いきなり現れる。だから怖い。理詰めで現れるホラーというのは存在するし、これはこれでめっちゃ怖いけれど、なんでそれが聞き手の前に現れたのか、は説明なしの災厄である。)

 

 それでも要所に幽霊が出てくるのは、やはりそれが彼岸への扉だからだ。文学は結局、彼岸への扉を探すものなので、そこへいたる意志がまったくないものは世間話である。世間話の合間に、前触れもなくひょいと顔を出す怪談も怖く、同時に魅力的なのも、彼岸への扉は偏在するからだろう。

 

 連載には翻訳に付随して、パウンドやフェノロサにとっての「能」についても解説があり、なかなか面白い。文化的誤解があるのは確かだが、彼らが能の「幽玄」に見ようとしたものは存外、現代にいたるまで我々が見ようとしてきたものの本質と一であって、それを露わにするかもしれない。

 

 そうなのだ。幽の「幽」は幽霊の「幽」であると同時に、幽玄の「幽」でもある。そして上田敏が象徴主義を「幽玄」と論じた「幽」である。洋の東西でそれぞれ彼岸を見ようとしたとき、現世に現れてかろうじて捉えられるものの様子が「幽」だ。神ならぬ身には「幽」としてしか現れてくれぬのだろう、父の帝や王ですら。帝や王だから伝えるべきことがあり、忙しい中、登場してくれたものと見える。だからここに、この連載があるのは正しい。

長岡しおり

 

 

 

 

■ フェノロサとパウンドの本 ■

 

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