No.020_01

 

 

 スチャヴァ県の田舎を走る各駅停車の車窓から、遠く彼方に並ぶ、山と山の麓まで広がる緑の野原が見える。外の眩しい景色に見とれて、わぁ~いと声を出してはしゃぐ4歳ぐらいの私は、一人の兵士の膝の上に座っている。膝の上から落ちないように、彼は私をしっかりと捕まえている。前の席には軍服姿の私の父親が座っている。スチャヴァ市から30キロくらい離れている村にある陸軍基地の補給倉庫の管理を担当している父親は、心配そうに仕事関連の資料を見比べている。倉庫に保管されている物の数と渡された資料に出ている数が合わないという、世界中の管理人が見る悪夢に悩まされているようだ。自分で確認を行うため至急に基地へ向うことになり、私の面倒を部下の兵士に頼んで一緒に連れて行ってくれた。

 

 兵士は上司の仕事や心配事に付き合うより私の面倒を見るほうがずっと嬉しくて、外の景色について色々説明してくれた。

 

 「ねえねえ、あれは何という花なの?」

 

 ゆっくり走る電車の車窓から野原を彩る花々が見えていた。種類によって花の名前が違うということを知ったばかりの頃だったから、初めて見る花の名前が知りたかった。

 

 「ああ、あれか?あれはね。赤花というんだ。」と彼が答えた。

 「赤花か。なるほど。」赤い花だから、赤花という名前が相応しそうに聞えた。

 「あれは?」

 「どれ?」

 「あそこの青い花。」

 「ああ。あれは…やっぱり青花だね。」

 「ふむむ」

 今回の答えが何となく怪く聞え、彼の目を見てみた。ずるそうな微笑が宿っている目だった。

 「じゃあ、あの黄色い花は?」

 「ああ、黄色花だね、もちろん。」

 「?!」

 

 このお兄さんはやっぱり私をバカにしているじゃないか?もう一度彼を見たら、兵士は笑い出した。彼は私のそんなの納得できないよ!というような、怒った顔を楽しんでいるようだった。

 

 「野原の花の名前は誰にも分からないよ。どうでもいいものだからさ」

 

 幼稚園の先生は全ての花にちゃんと名前があると教えてくれたので、花の名前を知らないこのお兄さんに呆れていた。大人ってどうしようもないね、と自分なりの結論を出して、また外の景色を見ることにした。

 

 当時の私には大人に見えた兵士は、19歳そこそこの若者だった。顔も名前も覚えていないが、今でも広い野原に花を見るたびに、花の名前を知らなかった彼のことを思い出す。

 

 父親の仕事の関係で、子どもの頃は時折基地に行く機会があった。訓練場、事務所、倉庫、兵舎や食堂の建物のほかに野菜畑があって、訓練や当番の時間が終わると、兵士たちは畑仕事をしたりしていた。当時はまだ徴兵制度の時代で、18歳で成人になった男性はみんな兵役に就く義務があった。兵役の期間は一般的に2年間で、大学に進学した人たちは1年半で済んだ。この義務は極当たり前のものとして、若者たちと彼らの家族に昔から受け継がれていた。「国のため」だから、ほとんどの人は抵抗せず決まりに従った。その上、みんなの意識の奥底に、兵役は大人で逞しい男性になるために、必要不可欠な経験だという考え方もあったかもしれない。

 

 しかしこのような考え方は、徴兵制度を支えていた表向きの言い訳にすぎなかった。毎日の訓練、当番や、それ以外の諸々の仕事が終わって少しでもあいている時間ができた兵士と話してみると、彼らはみんな家に帰りたい、家族や恋人に会いたいとしか話さなかった。当番中に彼らが無意識的に口ずさむ歌も、お正月などに開かれた宴会でみんなで大声で歌う歌も全て、兵役期間が終わって彼らが解放される時をめぐる歌だった。

 

 兵士たちを励ますために、うちの父親も彼らと並んでよくこのような歌を歌っていた。仕事の時は上司として厳しかっただろうが、勤務時間以外でも兵士たちと一緒に過ごす時間が多く、若者たちと仲が良かった。父親はそもそも気さくな人で、家庭には仕事関係のこと、またはその雰囲気を一切持ち込まなかった。仕事の影響がかすかに現れるのは、家族旅行の観光スポット選びの時くらいだった。父が選ぶ観光スポットのほとんどは旧跡で、霊廟や第一次、第二次世界大戦の戦場だった場所などだった。

 

 ブカレストのカロル公園にある、無名戦士の墓へ一度連れて行ってくれたことがある。第一次世界大戦の戦場で亡くなった、名前を知られていない一人の兵隊の遺骨が葬られている場所である。このような無名戦士の墓は世界各国にあり、平和への祈りとして建てられているのだという父親の話が子供の心に深く印象に残った。大人になってからもカロル公園へ行くたびに、白い大理石でできた無名戦士の墓の前で足をとめるようにした。現在世界中で起こっている紛争を天から見ているあなたは何を思っているのだろうと、毎回心の中で名前を知られていない彼に話しかけてみた。

 

No.020_02

 

 2004年にルーマニアが北大西洋条約機構(NATO)に加盟してから、国の防衛機関の在り方が改変された。まず徴兵制度が廃止された。軍隊に入りたい人のみが応募し、リクルートされるようになった。軍隊の専門性を増やすために実行された変更であり、以前とは違って現在の兵隊は防衛省の職員として給料をもらうことになった。もう一つの大きな変化は、NATO軍が活動している紛争地域に、ルーマニアの部隊も派遣されるようになったことだった。

 

 以前、徴兵制度によって整備されていた軍隊は、もしも国が紛争に巻き込まれるようになった場合のため、つまり「念のため」の軍事力であり、実際に紛争地域で活動することはなかった。しかし現在はアフガニスタンなどで、ルーマニアから派遣された部隊が活動している。もちろん兵隊の参加は任意で、戦場に行きたい人のみが派遣される。給料もそれなりに高いし、命がけの冒険である。国際的軍事の枠組みで活躍するのが刺激的だという兵士もおり、応募する人は少なくない。

 

 国の兵隊がアフガニスタンへ派遣されるようになってから、二回もスチャヴァ県出身の兵隊が戦場で命を失くした。二人のリクルートを担当したのはうちの父親だった。父親の仕事は兵士が戦死するたびに、遺族に会って兵隊が亡くなった際の事情を説明することだった。彼らはいわゆる国の名誉を守るために亡くなったので、葬儀は軍隊によって開催された。二人の兵隊は国民の英雄と宣言され、弔砲で送られた。儀礼を尽した葬儀には、少しでも遺族の慰めになれればいいという想いが込められている。

 

 このような葬儀に参加した後の父親の顔を思い出す。しばらくは無口で、何を考えているか誰にも言わない。「国の名誉のために亡くなった」という社会的栄誉があり、それは残された家族の慰めにならないという事実があり、危険を承知の上で本人が自らの意志で戦場に行ったという経緯がある。様々な事情がぶつかり合う中で戸惑う人間の顔だった。

 

 定年退職してから改めて就職し、現在は別の仕事をしている父親は、昔の部下と今でも連絡を取ったりしている。みんなは苦労をした兵役の時の思い出を懐かしそうに語っているが、あの時に戻りたいと思う人は一人もいない。

ラモーナ ツァラヌ

 

 

 

 

A28 地球の歩き方 ブルガリア ルーマニア 2015~2016 NATO―変貌する地域安全保障 (岩波新書)

 

 

 

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